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悠理にとって、学校生活はささやかな平穏を味わえるひととき。友人とのくだらない会話、退屈な授業も……それらは家庭環境からの慢性的な憂鬱感を束の間でも忘れさせてくれる。
だが、巻町との逢瀬が予定された隔週水曜日はそうもいかない。午前中からそわそわとして落ち着かなかった。
友人達には、巻町との関係もこの心境も打ち明けず、ひた隠しにし続けている。母と密になっている事実など、理解を得られるはずがない。打ちあけた処で蔑みの目を向けられたり、築いてきた親しい仲も崩れ落ちてしまうのが普通の反応だろう。云える訳がなかった。
故に誰にも相談することが出来ぬまま、幼い頃からずっと重苦しい闇を背負い込んでいる。そんな悠理にとっては教室で無邪気に戯れあったり、たわいもない話をして笑う少年らを見ると、羨ましくて仕方がなかった。自分のような〈禁忌〉に触れることもなく有り触れた日常を送っているであろう彼らには憧れさえ抱く。
自分だって、叶うならごく普通の家庭環境に生まれ、平凡な両親に愛され暮らしてみたかった……儚い夢だ、そんなことを願ったって、どうにもならないのだから。
ただ、年相応の暮らしを送り、有り触れた家族関係を築いているクラスメイト達を眺めているだけで、柔らかな心持ちにもなれるので、それでいい。共に居るだけでいくばくかの満足を得られた。あどけない友人達が微笑ましい。
けれど、巻町は悠理のかすかな癒しの時間もたやすく壊してしまう。
三時限目の途中、携帯電話が震えた。ポケットの中の振動を感じながら、掛けてきている相手はどうせ巻町だろうと思う。授業後に画面を開けば、やはり彼女だ。留守番電話が録音されている。
『こんにちは、悠理。今日は私早めに行けそうなの。二時前には着くから、早退していらっしゃいね』
悠理の日常は無遠慮に乱入され、掻き回される。巻町は悠理の学校生活については全くもって興味が無いらしい。
悠理はうんざりとしながらも学食を済ませ、校舎を後にした。何だかんだ云いながらも従ってしまう自分自身にも鬱になり、呆れてしまう。会いたくないと拒んでしまえば凡てが解決するだろう。裸身画を描かれることも無いし、淫らな感情にも陥らずに済むのに……それなのに快諾の返事を巻町に送り、花詞に向かっている現実。
結局悠理は、母親よりも父親よりも自分自身にいちばん苛立ちを覚えているのかも知れない。何故拒めないのだろう、禁忌と知りながら彼女に惹かれるのだろう。
重い足と思考をずるずると引きずり、悠理はバスに乗る。降りるのは駅前通り。逢瀬の日のお決まり〈花詞〉に寄るためだ。
降車してから歩いていると、ふと、曇る心に鮮やかな原色が刺さった。それは見慣れた町並みの中で目立つ。
花詞の向かいに建つ珈琲舖に、真っ赤なラブジャケットを着こなした少女が居るのだ。屋外席に陣取って、花詞のほうを向き座っている。
肩より上で切り揃えた髪は白金で、斜めに被ったベレー帽がよく似合っていた。驚くほどに肌は白く、その髪色と相成り、少女からは色素というものが感じられない。それ故に纏う赫が映えている。
……その少女が、端にライムの刺さったグラスに口をつけたとき、悠理と視線が重なった。
悠理は即座に睛を背ける。注視しているのがばれたら、失礼に当たると思ったからだ。何事も無かったように花詞の扉を開いて、舖内に足を踏み入った。
選ぶのはもちろん、いつもの洋菓子。巻町が悦ぶものを幾つか購い、函に包んで貰う。裸体少年と黄金豹の画は今日もフロアにて主張しており、悠理はなるべくそれを見ない風にする。店主を務める婦人は、今日は非番いようだ。
舗を出れば驚くべき展開が待ち受けていた。先程の少女が、悠理を出迎えるように花詞前の石畳に立っている。ジャケットのポケットに手を突っ込み、木底靴で佇む姿。今度は偶然ではなく、意図的に悠理と睛を交わらせてきた。
「ねぇ」
少女に声を掛けられ、悠理は怪訝さを貌に出す。
「あなたって実在していたのね、この現実世界に」
「?」
「黄金豹の皇子さま。ママが見掛けたと云うから、あたし此処で待ってみたのよ」
少女はさり気ない動きで、悠理の腕を掴み、絡めてきた。
悠理に走った感情は、戸惑い以外の何物でもない。彼女とは会ったこともなければ、言葉を交わすのもはじめてだ。待っていた、と云われる所以が分からない。
「……俺はあんたなんて、知らない」
「あたしは知っているわ」
「どうして?」
「ずっと見ていたもの」
話の真意が掴めない。オリーブ色の睛孔に見据えられ、悠理は表情を捩らせるばかりだ。思い当たる節もない。
一方、少女は自信たっぷりといった体で微笑む。
「貴方は、私の初恋の人よ」
……気狂いだ。悠理はつい苦笑を零してしまいながらも呆れた。
見知らぬ人から花詞の画の〜、と声を掛けられたことはあったが、告白を受け取ったことはこれまでに一度もない。
「離してくれ。ひとちがいだ」
悠理は腕をほどき、石畳を歩きはじめた。けれど少女は熱心な様子で訴え、引き下がらなかった。
「違うわ、人違いなんかじゃない。あたしのママも皇子さまを見たと云っていたもの、皇子さま、口にしたんでしょ。蜜色の飴玉よ。きっと貴方味わった筈だわ!」
響き渡る声を無視し、悠理は少女を振り切った。人混みに紛れれば吠える少女もざわめきに掻き消されてゆく。裏路地に入れば、スニーカーに力を込め、駆け抜ける。少年の全速力に、厚底靴の少女の足が敵うはずがない。
奇怪な少女の手掛りを掴んだのは、完全に撒いてからだった。
(あ……!)
悠理は気がつく。彼女の履いていたミニスカートの絵柄は、トランプの乱舞。スペード、ハート、ダイヤ、クラブは、先日の夜に喪服の淑女に貰ったあの飴玉の包紙に酷似している。
(なんなんだ、一体)
戸惑いを消し去れないままで悠理は帰宅し、一目散に自室へと急いだ。函の中の西洋菓子は揺れて、形を崩して居るかも知れない。けれど構っている場合では無い、それほどに急いた気分だ。
けれど、何処にも見当たらない。飴玉は学習机の片隅に置いたままだったはず。見知らぬ淑女から受け取ったものを口に含む気持ちにはなれず、ピーコートのポケットから出したきりに転がっていたのに、忽然と消えている。
確かに包装がスカートと同じ模様だったという事実を確かめたくて、悠理は辺りを探し廻った。抽斗を開けたり、寝台の下を覗いたりもしたが、影も形も無い。
「何を探しているの?」
声を掛けられ、悠理はびくりと震える。振り返ればシフォンのブラウスに、タイトスカートを履いた巻町の姿。
まさか既に、彼女が家の中にいたとは思わなかった。悠理は驚いてしまう。
「……来てるなんて知らなかった。鍵も閉まってたし」
「不用心だから鍵を掛けろって、煩く云ったのは悠理でしょ、」
「そうだけど」
開けっ放しが常の癖に、今日に限って施錠を施したらしい。
平静の悠理ならば玄関の長踵を見、彼女の存在に気付けただろうに今は飴玉のことばかり考えていて、視界に入らなかった。
「一体、どうしたって云うの、慌てた様子で」
「飴をさがしてるんだ。此処の隅に置いたんだ……珍しい包み紙で」
「ああ、あれね」
巻町は踵を返し、退室する。どうやら彼女には思い当たるものがあるらしい。悠理も従って着いていき、陽光射しこむリビングに揃って向かう。ソファには描きかけの画帳が放られ、2Bの鉛筆で何かが描写されていた。描出の対象こそが幾つかの飴玉である。
まさしく、悠理の求める例の品だ。
「モティーフにさせてもらったわ。意匠に惹かれたから」
「俺の部屋に、勝手に入らないで欲しい」
悠理は憤慨する。自室に立ち入らなければ、飴を見つけることなど出来ない。
「通りがかったら、偶然目に留っただけ。悠理の部屋、扉が開いていたから」
……巻町の云い分は本当だろうか。角卓の上に無造作に在る飴を注視しつつ、悠理は疑った。今朝家を出るとき、自室の戸は閉めていたように思う。
しかし、巻町の勝手な行動は常だ。そんなことよりも、悠理は目の前の現実に心揺らされている。
被写体と、被写体を白黒に写生し取った画帳との両方を眺めて悠理は判る、やはり包装は少女のスカートと同じ模様だ。
何故?
不可解な偶然に囚われてしまう。謎めいた迷宮に半ば、捕られたような心持ちに成った。
戸惑っていると、ソファに腰を下ろした巻町に話しかけられる。
「面白い包紙よね。舶来品かしら」
「さあ。貰い物だから解らない」
「ふぅん、随分と洒落た飴玉を下さったのね、贈り主は。貴方も必死に探していたし、これは悠理にとって特別なものなの?」
問い掛けに悠理は口をつぐんだ。言葉に詰まったのは、出自が不明瞭だからである。知らない淑女に貰い、先程出会った少女が纏っていた服の絵柄に酷似していたから気になったなんて……事情を説明すると長くなりそうで、面倒だ。単純な理由から黙した悠理だったが、巻町には違う風に解釈されてしまった。
「まあ良いわ。云いたくないのなら訊かない、悠理も年頃の男の子なんだから母親に秘密の一つ二つ、あるわよね」
彼女が気まぐれに母と称する度に、悠理は侮蔑の感情さえ覚える。母らしいことなど殆どされたことがないのに、時折こうして親の振りをしたがるなんて、愚かしい。
「悪いけど」
悠理の唇から、言葉は弾かれた。
不機嫌な表情を伴って、宣告が零れる。
「巻町さんのことを、母親だって思ったことはない。確かに貌は似てるかもしれない、でも」
「じゃあ、私は悠理にとって、なあに?」
巻町は一層可笑しそうにくすくすと嗤っている。
「私にとっての悠理は特別な存在よ」
悠理はため息を漏らした。函の中で崩れた西洋菓子のように悠理の精神は崩れる。……圧倒的だった……、巻町は何とも云えない魅力を持っている。手招きをされると、搦め捕られる選択肢しか無かった。悠理は嫌悪感から表情を歪めながらも、誘われることしか出来ない。絨毯を踏んでゆっくりと近づいた、巻町の許へ。
彼女が母で無いのなら、何なのだろうか。勾引しの淫婦か、はたまた悪女か。はじめて唇を奪われたのはいつなのか思い出せない。それほどに幼い頃から、巻町に蹂躙されていた。
「貴方によって私はうまれかわったの。貴方を産んで私は一度死に、蘇生した。目覚めた瞬間から睛に映る世界が変わったのよ、考え方も気持ちも凡てね」
抱きしめながら囁いてくる、その科白は真実だ。巻町は悠理を分娩する際、心肺停止に陥った。奇跡的に回復して今が在る。彼女の生き方が破天荒と化したのも、絵柄が大幅に変わって画壇で名を知られるようになったのもそれからだ。
悠理は巻町の腕の中に堕ちた。温かい胸元に頬を寄せる。こうしている瞬間だけは、日々常々彼女に対し渦巻いている苛立ちが、安らぎと癒しに覆い隠され塗りつぶされてしまう。交錯している複雑な思いは今だけ掻き消される。
沈んでゆく、彼女が好んで身に付けている、白蓮香の馨りのなかへ。