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窓硝子の向こうに幾つもの灯がともり、ネオンが鏤められた頃、やっと巻町は帰り支度にかかる。もう一度浴室に赴き、行為の痕を清めに行った。
その間、悠理はずっとソファに倒れ込んでいる。天井の蛍光灯を眺めながら……半ば呆然としながら。酷い脱力感と倦怠感に蝕まれていた。遊戯のあとはいつもこうだ、魂を抜かれたように成ってしまう。
身体は肉欲の発散に満足を覚えている。けれど、精神はそうはいかない。快楽と苦痛、相反する要素が逆撫でて、せめぎ合う。
胸のあたりは締めつけられたような感覚に痛み、きりきりと哭く音がする。きっと蹂躙された心が、硝子のように罅割れていく音なのだろうと悠理は認識している。今よりも幼い頃には涙さえ滲ませてしまうこともあった。気持ち良い筈なのに、苦しくてたまらないという、矛盾した心地だ。
衣服を纏うことさえ煩わしくて、身体を沈めたまま、動けない。
巻町はゆっくりとお湯を堪能している。時計の針が半周した頃、やっと湯気を伴い現れた。
「厭だわ、悠理ったらまだそんな格好で居るの」
ちらりと見て、巻町は云った。悠理が傷ついていることには気付かない。ひょっとしたら、この悪婦は気付かぬ振りをしているだけなのかもしれないが。
きっと、息子のことは被写体、そして玩具であるとしか思っていないのだろうと、悠理は憎々しくなった。寝返りをうち、ブランケットを頭から被る。せめてもの拒絶の動作を、表したつもりだ。
巻町はそんな息子の様子にも、何も云わない。化粧直しをし、すっかり元通りに装ってから、画架をたたみ、絵具を革鞄にしまう。
「じゃあ、母さんは行くわ。いつまでも裸身で居たら風邪ひくわよ」
気紛れに親めいた科白が吐き出された……悠理はブランケットの中密かに嗤う。
「次に会うのは来月よね。愉しみにしているわ」
絨毯に響く足音は小さくなり、彼方で、玄関の扉が開かれた。
閉まったあとは、合鍵で施錠される。
「…………」
彼女の気配が消えてから、悠理はやっと起き上がった。
吐き気さえも込み上げてくる。与えられた感触を凡て消し去りたく、浴場に向かうと洗浄の作業をした。丹念に丹念に、髪も、四肢も、背中も、指と指のスキ間さえも泡立てて流す。
排水溝に吸い込まれる湯は穢れているように見えた、背徳に染まった汚水だ。バスタブに腰掛け、飛沫を眺め、何とも云えぬ哀しさに囚われてしまう。
そのうちに、再び玄関が開く気配がする。
室内に来訪の物音もする。父親が帰宅したのだ。
……彼は気付いているに極まっている。母子の歪んだ関係に。
何も感じない訳がない、巻町の残り香が充満したリビング。西洋菓子を食べ終えた食器や、書き損じて棄てた画紙だけでなく、空間には異質な空気が充満していた。
普通ならば分かるはずだ、悠理と巻町が此処で何をしているか。
描く者と被写体という関係を超えている、いや、血縁に赦される一線を越えていることが。
それなのに父親は目を背け続けている。現実を見てはくれず、知らない振り。隔週水曜に限って、計ったように帰りは遅く、残業をこなしてくる。理由を付けて、帰りを遅らせる。
明らかに意図的だ。
彼は今日も惚けた様子で、のらりくらりと平静を装う。
「あいつ、元気だったか?」
風呂を出た悠理に投げ掛けてくる、彼の問い掛けはいつもと変わらぬのどかな調子。悠理は頷くのみで会話を終わらせた。換気扇の下で煙草を吸う父親の姿を横切り、自室に入る。
悠理の父は巻町と正式な契りを結んでいない。
婚姻をした記しもなければ、離婚をした証もない。身体の戯れが過ぎて、不意に悠理という存在が生じてしまったらしい。愛情などはじめから殆ど無く、二人は悠理を解して成り立っているような関係である。悠理の記憶が正しければ、父と母とが仲睦まじくしている様を見たことは全くもって無い。
奔放な巻町には育児など到底無理で、父が悠理を養育している。
名字も父方の桐沢を名乗り、この歳まで暮してきた。
父子家庭の桐沢家では、親子の食事は別々で摂る。父親は会社帰りに済ませてくるし、悠理も独りで外食に行くか、出来合いのものを請って過ごすのが常だ。
悠理は私服に着替え、グレイのピーコートを羽織り家を出る。今日は駅前のほうまで遠出して食べたい、気分転換に。
足早に通りへと出るとバスに乗った。通勤の人々で込み合う車内は満員だ。座る席などなく、悠理は吊り革を掴んで揺られる。
流れる風景を眺めながらも、憂鬱は未だ尾を引いていて、ため息を零してしまう。すると、丁度目の前に座った淑女と目が合う……漆黒の装いは喪服を思わせた。手にはレースのグローブを嵌め、頭に乗せたトーク帽からは同生地のヴェールが垂れている。
「坊や」
嗄れた声色。随分と低い声だ。
「どこかで見たお貌だね。はて、どこだったか」
悠理は表情を歪めた。
勘付かれたか、と嫌気がさす。
街角で指摘されたことは一度や二度ではない。花詞はなかなかの有名舖だ。画の中の皇子様にそっくりね、と云われる度に逃げてきた。見かけた向こうは悪意など無く、むしろ嬉しそうに話しかけて来ることが多い。しかし、悠理にとっては辛辣な棘を、突き刺されるような思いがする。
車内では逃げ場がない。悠理は視線を淑女に遣らず、夜闇を見つめ続ける。無視を極め込むことにした。
「ああ、わかった。洋菓子舖。わたしの娘が好きなんだ、あの舖のタルト・タタンが極上に美味しいと」
……しかし、淑女に遠慮する様子はない。悠理があからさまに嫌悪の表情を浮かべているにも関わらず、話しかけてくる。
「本当にそっくりだ、もしかして、画の中からお出ましかい」
「いいかげんに……」
別人だと言わなければ、この女は納得しそうもない。悠理は舌打ちを零し、淑女を睨んだ。まわりの客達も二人の様子に気付き、何事かとこちらを気にしはじめる。
「しかし、随分、悲しそうな眼をしているんだね、坊やは」
きつく云ってやろうとした瞬間にそう云われ、戸惑った。厚く口紅の塗られた淑女の唇は微笑みのかたちに成る。
「……泣くのはお止しよ。飴玉をあげるから」
淑女はハンドバッグを開けると、幾つかの飴を取り出した。その手の甲は広く、指も骨張って長い。まさに淑女の手は男性のつくりだ。
「どうぞ」
差し出され、警戒しつつも、悠理は受け取ってしまった。渡された四粒の飴を包むセロファンはトランプ柄で、それぞれハート、スペード、ダイヤ、クローバーのモティーフが乱舞している。
「何のつもりなんだ、あんたは?」
悠理が尋ねると、淑女は席を立った。長踵を履いているとはいえ、背も高い。悠理とは頭一つ違う。
「通りすがりの蜘蛛女から、おまえにプレゼントだよ」
笑みを残して淑女は降りた。悠理は何も云えず、コートに飴を仕舞いながら、その背を見送る。
自動扉が閉まると、再び車は走り出した。
一体、何者だったのか。性別さえもあやふやな、妖しい女。
蜘蛛と名乗った彼女の指には、確かに蜘蛛を象った指輪が嵌まってはいたけれど……奇妙な邂逅もすぐに有り触れた日常に塗りつぶされる。淑女が去ったあとの席にはすぐ、ほかの客が腰を下ろした。
都心に飲みこまれるバスは高層ビル群に包まれていく。硝子窓の向こう、ネオンの乱反射が鮮やかだ。