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『作者の連作・アティスシリーズの一つ。南洋の星月夜を背に、黄金豹と佇む少年の双眸は憂いているかのようにも、深い慈愛を讃えているかのようにもみえる。謎めいた儚さをもつ作品だ』
駅前通りに面して、大正建築風のモダンな建物がある。
それこそが洋菓子屋〈花詞〉で、悠理は今日も舖先でたじろぐ。中に入るのが気恥ずかしくて、マフラーでぐるぐると口許を覆った。
何しろ、舖内には悠理をモデルに描かれた絵が飾られているのである。それもふつうの肖像画ではなく、裸身で黄金豹に凭れる少年の図。豪奢な額縁の中、性器は一応隠されてはいたが、申し訳程度に淡赤い薄絹で覆われたのみだ。その際どい隠蔽し方がまた淫靡さを際立てており、豹の毛並みと少年の肌との対比も妖しく、姿はとてつもない存在感を示している。
この破廉恥な画と、自分の顔とが瓜二つであることが居合わせた客達に見透かされたらと思うと、悠理の頬は染まるばかり。けれども、いつまでも此処に佇む訳にはいかない。息をのみ、覚悟を極めて扉を開くと絵画に正面から出迎えられた。
「いらっしゃいませ」
ドアに付けられた鉛鐘が鳴って、ショーケース越しに女主人が悠理を向く。瞬間に婦人の表情は和らぎ、あら悠理くんじゃない、と親しげに声を投げ掛けてきた。花詞を営む婦人と、悠理の母親は友人づきあいが永い。その縁もあって大仰な絵画が贈られたのだ。
悠理は小さく頭を下げ、俯きがちに、並ぶ西洋菓子へと近づいた。裸身の少年画とは目も合わせたくない。
「お母様に宜しくね。たまには自分で購いにきなさいって、伝えておいてよ」
「はい。でも母は今忙しいみたいで……」
悠理の母は画壇に身を置き、絵筆を執って生活をする人間である。
肉感的な画風は若い女性にも人気で、ファッション誌の口絵等も担当する。其れらの〆切に加え、近々個展の開催も迫っていた。
とはいえ、幾らスケジュールが詰まっていても、実子の悠理の前には定期的に姿を現す。隔週水曜日、悠理の暮すマンションを訪れてきた。その際にはいつも、好物である花詞の洋菓子を用意してくれるようにと、所望するのだ。
ソテーした洋梨をはさんだキャラメルポワールと、フランボワーズ、タルト・タタン。幾つかの菓子を購い、代金を支払った。包装の函を受け取ると、悠理は逃げるように舖を出る。
逢う際に請われるのは、洋菓子だけではない。必ずといっていいほど素描をされた。画架を持ち出されることも稀にあるが、殆どの場合はラフスケッチで満足する。
悠理が彼女と積み重ねた想い出は、描く者と描かれる者という関係性ばかり。普通の母子に在るような思い出や関係性は全くと云っていいほど無かった。画家としては大成するだろうが、妻や母としての器は持ち合わせていないというのが悠理の父親による見解で、悠理もそれに同調している。
とにかく彼女は、常に何かを描いていたがる人間だった。本人もいつか自ら口にしていた『私は魚と同じなのよ、泳ぐのを止めたら溺んでしまうわ』、そんな科白を。
聳えるタワーマンションに辿り着いた。既に約束の定刻は過ぎている。母親は既に合鍵を用い、室内にいるだろう……予感は当たった。ドアノブをひねれば、扉は開いてしまう。
「巻町さん、鍵はちゃんと閉めてくれ」
何度注意しても直らない。悠理の眉間には皴が寄った。母親は入浴を愉しんでいたらしく、バスローブの姿を見せる。素足でフローリングの床を踏み、濡れた髪のまま、悠理の目の前を横切っていった。
「お風呂、使わせてもらったから」
「聞いてるのか。鍵を……」
「悠理も入ったら?」
小言を聞く気も無い彼女に、悠理は肩をすくめる。
リビングの角卓に洋菓子の函を置くと、自室に戻って鞄を放った。制服も脱ぎ捨て、浴室で汗を流す。今日は体育の授業もあって、染みついたグラウンドの匂いは丹念にシャボンで洗う。
清めた後、バスタオルだけを腰に巻いて巻町の許に向かう。
斜陽射し込む部屋の中はレディグレイと、並べられた洋菓子の香りで充ちていた。巻町はソファに腰を沈め、素描をしている。悠理がそれを覗き込めば、画紙にはキャラメルポワールと、紅茶のティーカップが形を作っていた。
「座りなさい」
有無を言わさぬいいかたは、いつものことだ。悠理は巻町が淹れた紅茶を一口含むと、従った。
身を隠すことは許されない、母親の前では素直に晒け出すことを望まれる。恥じらえば叱られることもあった。思春期をむかえてからは逆らおうとしたことも幾度となくある。
けれど結局は従ってしまう。
そんな自分を厭に思う時は多い、壮絶な自己嫌悪。タオルを絨毯に落とし、今日も凡てを披露するなんて。
それを眼前であられもなく、描かせるなんて。
若さは気紛れに熱をもたげ、悠理は身体の暴走を抑えられないこともあった。姿勢を変えれば檄が飛ぶため、震えながらも見せつける羽目になる。立位や、椅子に腰掛けての姿ならばまだましな部類で、誘惑するような仕草を取らねばならぬ時もあった。大きく太腿を開いたり、画架に向けて腰を突き出したりと、扇情的な構図を指示されるのだ。
務めるのは裸体被写体だけではない。淫靡なコスチュームを着けた女装も演じた。ガーターベルト、ストッキング、曲線を拵えるコルセット……フェミニズムな装いを強要され、巻町の手で粧し込まされ、性別を変えられる。
長髪を被せて『私の少女時代のようね』と口にする巻町は、脳の螺子が幾つかはずれているようにしか、悠理には思えない。
反応は観察され、愉しまれる。羞恥の吐息を押し殺す様だったり、シーツをぎゅっと掴み堪える様だったりを微笑われる。
隔週おきのこの戯れ、主導権はいつも巻町にあり、彼女が満足するまでは終わらない。密室が闇に覆われたあとも続けられる。そこに悠理の意志など汲まれなかった。肉感と快楽にねじ伏せて、反論の余地など挟めないようにされてしまう。
そんな奔放な行いが、善いはずがない。
悠理は与えられる悦を感じながらも、物心がついた頃から、複雑かつ重厚な罪悪感を感じ続けている。
巻町を〈母〉とは呼ばずにいるのは、せめてもの抗いだ。呼んでしまったが最後。存在する〈禁忌〉を肯定することになる気がするのだ。