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アドバルーン

作者: 丸屋嗣也

 子供の頃のことだ。

 誰だってそうだと思うけど、本当に小さい頃の記憶なんてものはおぼろげで、断片的だったりする。たとえば、海で拾い上げたヘンテコな形の貝殻の感触だけだったり、もらった風船を見上げているほんの一瞬みたいなものだ。後になってアルバムを見返したり大人に聞いたりして、それが家族で行った海での記憶だ、とか、友達のお母さんに連れて行ってもらったときにピエロから貰った風船の記憶だ、ということを知って、その記憶を無理矢理自分の中に位置づける。

 でも、僕がこれから語ろうとしている記憶は、僕以外に誰も知らないがゆえに、どこにも位置づけることのできない思い出だ。このお話に出てくるもう一人の人が居てくれさえすれば僕の中で位置づけられた記憶となるだろうけれども、きっとあのお兄さんは二度と姿を現すことはないだろう。それに、僕自身、この思い出をあまり肚の内に収めてしまいたくはない。まるで太平洋の真ん中にぽっかり浮かぶ椰子の木一つの無人島のように、脈絡も意味もなくそこに存在してくれていればいい。そのような思い出だ。

 だからこそ、語りたくなる。これから話すのは、そういう類の思い出だ。


 僕は、その時、デパートの屋上にいた。

 なんでここにいたのかは思い出せない。今と比べれば当然視線も低い。おそらく三歳くらいの頃の記憶なのだろう。そんな子供がどうして一人でこんなところにいたのかなんていうのも思い出せるはずもない。記憶なんていうのはとにかく頼りないものだ。

 デパートの屋上といえば簡易な動物園や遊園地がある、というのは僕の父親世代の刷り込みだ。僕らが子供の頃には、もうそんなものはなかった。四角くて白い大きな箱がいくつも並び、その箱からぶうんぶうんと車のエンジンのような音が聞こえる、子供ながらにも寂しいところだった。

 そこで、僕はお兄さんと出会った。

 たぶん、二十歳くらいの人だった。ジーパンにTシャツ姿。ヒョロリとしていてぼさぼさの髪の毛を左手で掻きながら、パラソルの下の日陰にパイプいすをしつらえてその上に座っていた。

 お兄さんは僕に気づくと、あ、と声を上げた。

「おい、ここは立ち入り禁止だぞ、何してんだ親は」

 でも、この時の僕はお兄さんが何を言っているのかわからなかった。そして、このころの僕は人見知りなんかまるでしない子供だった。大人というのはいつも自分に優しい生き物だとそう思っていた。だから、僕はそのお兄さんに寄って行った。

 結果として、僕のその思い込みが裏切られることはなかった。迷惑そうな顔をしながらも、お兄さんは僕をパラソルの下へと招き入れた。

「この暑い中、熱中症にでもなられたら面倒だ」

「ねっちゅうちょう?」

「――気にするな、こっちの話だから」

 お兄さんはパラソルの縁に目をやっていた。

 その先に何があるんだろうか。僕も目を凝らしてみたものの、その正体には思いが至らなかった。

 今でもそうだけれども、僕は「なぜなぜ」が口癖の子供だった。だからだろうか、この時の僕の口をついて出たのは「なんで」だった。

「なんでお兄さんはここにいるの?」

 すると、お兄さんはつまらなそうに空を指した。その先には、赤くて丸い玉がはるか上空に浮かんで、その下から幕が下げられている――アドバルーンがあった。

「アドバルーンの保守だよ」

「ほしゅ?」

「アドバルーンが逃げ出さないように見張っているのが俺の仕事なんだよ」

「逃げ出すの? あの風船が?」

「逃げ出すわけはないけど、世の中の大人たちっていうのは疑り深いもんなんだよ」

「ふーん?」

 僕は首をかしげてバルーンを見た。緩やかな風に揺れて、屋上に繋がれているバルーンは稲穂みたいに揺れていた。

 僕は訊いた。

「楽しいの?」

「楽しいわけあるか」お兄さんはパラソルの下で寝そべった。「時給がまあまあいいからやってるけど、日がな一日これじゃあ飽きちゃうよ。本だってもう腐るほど読んだよ」

「じゃあなんで、この仕事をしているの」

「さあね」

 つまらなそうに顔を歪めたお兄さんは首を横に振って、ぼけっと空を見上げ始めた。

 お兄さんの目には何が見えていたのか、僕にはわからない。

 それからしばらくすると、お兄さんは何の前触れもなく体を起こして僕に微笑みかけた。

「――まあ、そうだよなあ。何してんだろうなあ、俺」

 そう呟くと、お兄さんはふらふらと歩きはじめ、パラソルに守られていない真っ白な夏の日差しの下に飛び出た。

 なにかある、そう直感した僕はお兄さんの後に続いた。

 つかつかと白い箱の辺りを歩いていたお兄さんは、ふいにあるところで足を止めた。そこは、アドバルーンとデパートとを繋いでいる金具がある地点だった。バルーンと建物は、D型の金具――山登りなんかで使うあの金具だ――で繋がれていた。お兄さんはそのD型の金具を手に取るや返しを外した。そのまま力いっぱいにバルーンの綱を引っ張ってその金具を建物から外した。そうして手を放すと、バルーンはするすると空に向かって飛んでいった。

 ふと、手から離れた風船の姿が頭をかすめた。

 そうしてお兄さんは、手早く他のバルーンを空に放っていった。

 僕はと言えば、ずっとその光景を見ていた。空に消えていくバルーンの姿が点になって見えなくなるまでずっと見ていた。

 そうして、最後の一つになったとき、ふいにお兄さんは僕の方に振り返った。

「なあ」

「なに?」

「俺と一緒に来ないか。このバルーンに乗ってどこかに行こうじゃないか」

「え? なんで」

「嫌になったんだ」お兄さんは云った。「こんな日差しの中、ずっと空を眺めているのに飽きたんだ。だから、今度は空から下を見下してやろうかって思ってる」

 でも、僕は答えた。

「いいよ。僕はまだ、空を見飽きてないから」

「そうか」

 お兄さんの短い返事は、なんだか寂しそうだった。

 そうしてお兄さんはD型の金具を外した。すると、お兄さんと一緒にアルトバルーンは一直線に空へと飛び立っていった。

 お兄さんを積んでいるのに、さっきまでよりもはるかに空に舞い上がるのが早い。すぐにお兄さんの姿はアドバルーンもろとも空の上を飛ぶ一つの点になってしまった。

 そうして僕は、ずっとお兄さんの行く先を目で追うばっかりだった。


 今にして思えば、まったく脈絡のない話だ。

 もしかしたら夢でも見ていたのかもしれない。

 でも、僕は時折思うのだ。

 もしあのときお兄さんと一緒に空に飛び立っていたらどうなっていたのだろう、と。

 こうやってぽっかり浮かんだ僕の思い出は、本来あるべきところから切り離されたアドバルーンみたいに、ずっと漂い続けるのだろう。アドバルーンに乗ってどこかに行ってしまった、あのお兄さんと同じく。


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