第一話 御稲荷 あやめ
近頃、学校でとある噂が広まっている。
それは、『狐のコスプレをした美少女が枕元に立つ』というものだった。聞けば、その少女は名前を尋ね、そのままどこかに消えてしまうのだという。
そんな胡散臭い話、あるわけないじゃないか。
話を聞いたとき、僕は鼻で笑った。だが、数日が経ち、そんな会話のことなど忘れかけていた五月のある日の朝。事件は起こった。
「へ……?」
目を覚ますなり、僕は阿呆みたいな声を響かせた。原因は、視線の先。部屋の窓の縁にちょこんとしゃがみ込む、異質で――あまりに異様な存在。狐耳と尻尾をつけた、可愛らしい少女の姿がそこにあった。
とりあえず、お約束のごとく頬を思いきり抓ってみる。しかし――
「夢……じゃ、ない?」
少女は、変わらずそこにあり続けた。
朝日に反射してキラキラと輝く、腰辺りまで伸びた長い白銀の髪。見ているだけで吸い込まれそうになる、透き通った藍色の瞳。目鼻の整った顔立ちは、幼くも、とても可愛らしい。小柄なその身に纏った簡素な白いワンピースがとてもよく似合っていて、幼い容姿から受ける純粋無垢、清浄潔白といった彼女のイメージを、より強く印象付ける。
人形のように可愛らしいその姿のせいか。はたまた、謎の存在に対する危機感か。僕の心臓は大きな音を立て、強く脈打っていた。
「……っ!」
なんだ?
ふいに胸の奥に鈍い痛みが走った。ドキドキしていたせいかと思ったが、違う気がした。今朝見た夢が、喉元まできているのに思い出せない時のような、そんな感覚に包まれる。
「…………ゆず……き?」
ふと、ぽそぽそと耳がくすぐったくなるようなか細い声で、彼女が言った。
驚きを隠せなかった。だって、僕の名前は、神流手柚希というのだから。
なぜ彼女が僕の名前を知っているのかはわからなかったが、とりあえず首を縦に振ってみた。すると、途端に少女の藍色の瞳が丸くなった。
そして、彼女は表情を崩し、大粒の涙を浮かべて僕に抱きついてきた。
「いっ!?」
「ゆずき……ゆずきい。やっと……会えたっ!」
な、何なんだよ、この状況は……。
僕は戸惑いながらも、腕の中で泣く少女の小さな背を、あやすようにポンポンと叩いた。その時、ただでさえ困っているこの状況下で、視界の端で更に困ったものが見えた気がした。
「ま、マジかあ……」
それは、少女の頭とお尻の辺りに取り付けられた、飾りと思わしき狐耳とふわふわの尻尾。ただ付けているだけなら特に問題はない。だが、この耳と尻尾には大きな問題があった。そう、動いているのだ。それも、ピョコピョコ、フリフリと盛大に、だ。
嗚呼、誰か嘘だと言ってくれ……。
僕は思わず頭を抱えた。その動きは、どう見ても本物だった。
「なあ、君は一体何者なんだ?」
「……あやめ。御稲荷……あやめ。わたしの……名前」
少女は顔をあげ、腫らした目を擦ってそう言った。
どうやら、彼女はあやめという名前らしい。
「じゃあ、あやめ。質問してもいいか」
「……? うん、いいよ」
「えっと、もしかして君は……人間じゃなかったりする、のか?」
あまりに非日常的質問だと思う。でも、そう聞くしかなかった。
そして案の定、あやめは首を縦に振った。
「……うん、そうだよ。わたしは、おいなりさん」
「お、御稲荷さん?」
「そう。妖怪……なの」
妖怪――と、俄かには信じがたい単語を、彼女は口にした。
僕に霊感の類はない(はず)。幽霊も妖怪も、未だかつて見たことが無いし。でも、なんでだろう。この子が嘘を言っているように思えない。
「それで? その妖怪さんが何の用で僕の元に?」
「ゆずきに……会いに来た」
「僕に?」
聞き返すと、あやめはコクリと頷いた。
「……わたしね、小さいころに告白されたことがあるんだ。好きだよって」
「へ、へえ」
「とってもね、嬉しかったの。わたしも……好きだったから。それが、わたしの初恋……」
なんだ。急に身の上話――っていうか、自慢話が始まったぞ。しかも小さい頃って……その告白したガキも随分マセてやがんな。爆発すればいいのに。
白い目を向ける僕の気など知りもしないで、少しはにかみながらあやめは言葉を続けた。
「でもね、その後すぐに離れ離れにされちゃったんだ。それ以来……ずっと会ってなかったの」
「ふうん。それは気の毒だったね」
「うん。だからね……こうやって会いに来たんだよ」
「そっかあ…………って、え?」
今なんて言った?
「こうやって……?」
首を捻る僕を見て、薄い笑みを浮かべるあやめ。
すると、彼女は僕の耳元まで顔を近づけ、だからね、わたしの初恋の人は――と前置きをし、今にも消えそうな小さな声で。くすぐったくなるようなか細い声で。こう囁いた。
ゆずきだよ、と。
「…………ええ!? ぼ、ぼ、ぼ、僕っ!?」
一瞬の間を空けて意味を理解した僕は、ベッドの上でズリズリと後ずさりした。そんな僕の様子を見て、あやめがクスクスと可愛らしく笑う。そして、少し恥ずかしそうに頬を染めながら、小さく頷く。
「うん。あの時……わたしに告白してくれたのも、わたしが生まれて初めて好きになったのも……ゆずきだよ」
「……っ!」
跳ねる僕の心臓。見なくても、今、自分の顔が真っ赤に染まっているとわかる。
う、うわっ、どうしよう……人生で初めて人から(妖怪だけど)好きって言われた。
正直飛び上がるくらいに嬉しかったが、反面、じわじわと申し訳なさも込み上げていた。
「ご、ごめん。好きって言ってもらえてすごく嬉しいんだけど、えっと――」
「……いいの。わかってるよ」
僕の言葉を遮るように、あやめはフルフルと首を振った。
「覚えて……ないんだよね?」
「ど、どうして――」
「わたしたちは消されてるから。お互いの……記憶を」
「はっ!?」
あまりに急な展開に、頭がついていかなかった。
「ち、ちょっと待ってくれるか!? 話が全く見えない。それって何年前のことだ? いや、それ以前にいったい誰が……?」
「会ったのは、七年前。記憶を消したのは……わたしのお父さん」
「お父さん!?」
「うん。それがルールだからって。人間と妖怪が……深くかかわらないようにするための」
「な、なんだそれ……」
その突拍子もない話に、ただただ呆然としてしまう。
いや、何となく言いたいことはわかるけどさ。実際に妖怪なんてものが存在するとしたら、そういうルールがあってもおかしくはないだろうし。
ただ、ひとつだけ腑に落ちない点があった。
「あのさ。さっき、わたしたち──って言ったよな? てことは、あやめからも僕の記憶は消されているんじゃないのか?」
「……? うん、そうだね。わたしも会った時のことは、覚えてないよ」
「なら、どうしてあやめは今、僕のことを知っているんだ?」
互いの記憶が消されているのなら、あやめが僕を認知しているのは矛盾する。
何か説明をしてくれるのかと思ったが、彼女は言葉の代わりにワンピースのポケットから、小さく折り畳まれた古びた紙を取り出した。それを読めとばかりに、僕へと差し出す。
「これは?」
「記憶が消される前に、わたしがあなたに書いた……手紙」
差し出されたそれを受け取り、破れないようにゆっくりと開く。
「おい、読めない」
「あ……ごめんね」
まさかの妖怪語だった。
あやめが手紙に細い指を添えると、手紙が淡い光を放った。
「もう一度……読んでみて」
「おおっ、超常現象!」
再度受け取り、手紙に視線を落とすと、今度は何故か謎の字の羅列を読むことができた。
すごい、マジで妖怪だったのかあやめ――って、感心してる場合じゃなかった。
僕は居住まいを正して、手紙に目を通した。
ゆずきへ。
このまえは、こくはくしてくれてありがとう。
とってもうれしかったよ。
でもね、わたしはもうすぐゆずきのことをわすれちゃうんだって。
だから、わすれるまえに、ここにかくことにしたんだ。
わたしもね、ゆずきのことがすき。
やさしいやさしい、ゆずきがだいすきだよ。
おおきくなったら、ゆずきのおよめさんになりたいな。
だけど、もうじきこのきもちはきえちゃう。
いやだけど、しかたがないことなんだっておとうさんがいうの。
けどね、わたしすごいことおもいついたんだ。
わすれたらね、あいにいって、またすきになればいいの。
なんどわすれさせられても、なんどでもあいにいくの。
ゆずきのこと、なんどでもすきになれるとおもうから。
だから、いつかおおきくなったわたしがきたら、やさしくしてもらえるとうれしいな。
いまのわたしにしてくれたみたいに。
それじゃあ、またね。ゆずき。
だいすきだよ。
――――あやめより。
「あ……れ?」
手紙に一滴の雫が落ちて、文字が滲んだ。落ちたのは、僕の涙だとすぐに気がついた。
なんだこれ……。くそっ、止まらない。
ポタリポタリと、涙はとめどなく溢れてきて、拭っても拭っても止めることができなかった。まるで自分の身体じゃないみたいで、なんだかとっても焦った。
そんな僕の顔を、あやめが心配そうに覗く。
「大丈夫……ゆずき?」
「……ごめん、もう平気」
僕は鼻をすすり、手紙を返した。
「あやめも読んだんだよな、これ」
「……うん。読んだよ」
手紙を受け取り、彼女はそっと胸を押さえた。
「ここがね……きゅうって痛くなったの」
「そう……だよな」
幼い頃のあやめを想うと、張り裂けそうなほど胸が痛んだ。
っていうか、いくらルールだからって娘の記憶を消すか、普通。なんだか、腹が立ってきた。
憤る僕をよそに、あやめは穏やかな表情を浮かべた。
「……でもね、もう痛くないよ」
「え?」
「手紙に書いてあった通りだなって思ったの。忘れたなら……また好きになればいいんだって。だからね、会いに来たんだよ。小さい頃のわたしが好きになった……あなたに。もう一度、あなたを……好きになるために」
そう言った彼女の表情に、憂いや、悲しみは一切なかった。
代わりに、陽だまりみたいな、優しい、柔らかい笑みが浮かぶ。
「そっか」
その笑顔に、あやめを見た時に感じたざわめきの正体を知った。
嗚呼、間違いない。僕はこの笑顔を、この感情を知っている。
本当に僕は、七年前もこの子に恋をしていたんだ。
「ねえ、ゆずき……。またわたしに、優しくしてくれる?」
向けられる笑顔に、つられて僕も笑った。
「ああ。もちろんだとも」
こうして、僕らは再び出会った。
もう一度、お互いを好きになるために――