残夏残像
たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
額から頬にかけて流れ落ちる汗を、乱暴に手の甲で拭う。
そのまま手を下に下ろすと、少し先にだれかが立っているのに気づいた。
ぎらついた光の中で、長い黒髪がさらりと揺れている。呆然と立ち尽くした俺に気づき、彼女が微笑をよこした。この炎天下でも熱さを感じさせない、爽やかな微笑だ。それに目が奪われた。
――ああ、そうだ。あいつはこんな風に笑うんだった。
記憶のなかの彼女と、目の前の女性の姿がぴたりと合わさった。
同時に、胸中を苦いものが覆う。複雑な感情だった。俺のほうはこの数年でずいぶん変わったはずだ。……それでも訪ねてくれるのか。少しでも、会いたいと……?
呆けていたのは一瞬だった。遠くなっていた蝉の鳴き声が、徐々に戻ってくる。
わずかにうつむくと、汗がつうっとこめかみの辺りを流れた。俺はそれを拭って舌打ちする。少し離れた位置にいる女性と目が合い、うっかり故人と重ねていた。
(くそ、疲れ抜けてねーな)
実は徹夜明けの睡眠不足だった。数時間の仮眠中、嫌な夢を見たのだ。失った恋人が出てくる夢だ。
あまりにその時間が幸福で、目覚めたときの喪失感と己への失望に打ちのめされていた。自分以外だれもいない部屋のもの悲しさに、溜息が落ちたものだった。
(そして次はこれか。はっ、まだ実は寝てんじゃねーのか俺)
髪の長い若い女性は大勢いるものだ。すらりとした体型だってありふれている。数年も経過した今になって、勘違いに動揺するとは。
未練がましい己に失笑を浴びせ、その女性の脇を抜けた。
彼女はもう他界したのだ。
都合のいい夢なんか、見てるんじゃない。
すると、女性が「無視するつもり」と、声をあげた。
「わざわざ会いに来たのに、無視するつもり? そっちが来ないから来たのよ。今が何の時期だかわかってる?」
一瞬自分に向けられた台詞かと訝った。だが、通行人はちらほらいる。俺とは無関係に発せられたものだ。
じりじりと夏の日差しに焼かれていた。駅前へ向かうと人通りの多さに気づく。
普段はスーツ姿の人間が多いのに、今日に限っては私服姿ばかりが目についた。
あれ、今日は日曜だったか?
曜日や日付の感覚が飛んでいた。
その事実を自覚すると、疲れている自分に気づかされた。けたたましい蝉の鳴き声と、灼熱の太陽効果で目眩がする。足下の浮遊感は、調子の悪さを物語っているのだろうか。世界がぐるりと回転するんじゃないかと。
(――やべ、エアコンの効いたトコ避難しないと)
道の脇に申し訳程度にできた影をギリギリなぞり、近場のコンビニへ急いだ。頭の芯から鈍い痛みが広がっていくようだ。
(ああ、そうか。盆休みの時期なんだ。……墓参りの)
知らず、口元が笑っていた。
先ほどの女性は、声までが他界した彼女ソックリだったのだ。気の強そうな口調だって似ていた。へらへらしている俺をしかり飛ばす乱暴で涙もろかった彼女を、嫌でも思い出させてくれる。
彼女の面影を探したり夢に見たのは、今がそういう時期だと無意識に反応していたせいなのか。
毎年、この時期になると街の雰囲気もどこか変わる。感覚のスイッチが切り替わるように。
(ああ)
マスカラで大きな目を際立たせた彼女は、くっきりした形の良い眉の持ち主だった。上品で真面目そうな雰囲気が漂うのに、大口を開けてよく笑うのだ。女らしい外見をいい意味で裏切る女だった。
(あいたい、なぁ)
もう一度、名前を呼んでくれないだろうか。
触れられないだろうか。
目の前に現れてはくれないだろうか。
りせ、と名前を呟いてみる。
今でもその名前は密のように口に甘く溶ける、自分にとっての『特別』だった。同時にむなしさも呼び込む名前だ。
左手にはめたままのシンプルな指輪をなぞる。結婚指輪になるはずだったそれは、鈍く太陽の光に輝いた。空の青さが皮肉めいていた。らしくない感傷にどっぷり浸りたかった。
(今は、盆なのか)
今日の予定は今朝方の修羅場で終了している。明日は久々のオフだ。この時期じゃ高いだろうけども、花と線香を買ってこようか。今から向かえば、夕方ごろには墓地へ着くはずだ。突発的だが、ついでに実家へ寄るのもいいだろう。
もう一度、今度ははっきり「りせ」と声に出す。
期待したって返事などあるはずないのに――
「なによ?」
目の前に、逆さまに浮遊した彼女がぬっと現れた。
やっぱり今は夢なのかもしれない。
数度まばたいても、消えない幻だった。
ちっとも現実味を帯びていない。頭の回転が鈍い。
ぼうっとしている俺を睨む彼女は、ふくれ面だった。先ほどの女性と同じ格好だと気づく。あれ、さっきの声はやっぱり俺宛だったのか? 混乱する。
逆さまだった彼女は音もなく地面に着地し、人差し指を突きつけてくる。
「なによ。呼んだのはそっちなのに、相変わらずぼーっとしちゃってさ。あなた、そういうところ何年経っても直ってないのね。どうせ私の声なんて聞こえないんでしょうけど」
そして小声でぶつぶつ俺の文句を並べ立てた。
だらしない格好から始まり、日常の細々した癖をあげ、軟弱でマイペースな性格をくどくどなじる。体調管理もできないのか、熱中症対策もしていないのか、真っ青な顔をしてちゃんと食べているのか、風呂に入ったのか、ちゃんと洗濯しているのか、部屋は片づけているのか……マシンガンのように次々俺を叩きのめした。
彼女が生きていたころの日常が、蘇った気がした。
そうだった。俺は、彼女に怒られるのが好きだった。
しょうがないわね、と嘆息する彼女が好きだったのだ。
手の届くところに彼女がいる。じわりじわりとその実感がわき始めたときだ。
くるりと彼女は背中を向けた。
「ねえ。いつまでも指輪、しなくていいんだからね。私、もう死んじゃったんだから。結婚できなかった恋人なんて、引きずらないでちょうだい。忘れてちょうだい。いい迷惑だわ。あなた――ひとりじゃダメな人なんだから」
きちんと世話焼いてくれる人見つけなさいよ。そのうち倒れるわよ、と続ける声は、弱々しいものだった。
自分はもう死んでいると繰り返すその台詞は、彼女自身に言い聞かせるようだった。生きていたら私がやってあげるのに。そんな声なき悔恨が聞こえた気がした。忘れていた愛おしさがあふれ出す。
「……りせ」
彼女は聞こえているのか、いないのか、背を向けたままだ。
俺はお前がいればよかった。
お前以外望んだことなんかなかった。
いいじゃないか、ひとりだって。
だれが俺なんかの面倒みてくれるってんだよ。
しかし彼女の背中が、そう口にすることを拒絶していた。彼女は停滞を許さないのだ。いつだって前を向いている人だったから。
見栄っ張りで、格好付けたがりで、強がりで、でもどこか抜けていて、弱くて脆い。そんなところに惚れていたのだ。
「お墓参りもね、来なくていいから。今まで一度しか来てくれなかったのよ。今さら来られても困るだけよ。……私が、じゃないからね。私の家族が、よ。そりゃ来てくれると嬉しいけど、今のあなた見てられないわ。今日だってそんな姿……がっかりよ。全然来ないからさ、どんな生活してるんだよこの野郎って顔見にきたってのに。もっとマシな生活してよ、馬鹿。幸せになりなさいよ!」
じゃないとちっとも安心できないんだから。
そう零した彼女の声は震えていた。
俺がなにか言うより早く、彼女の姿が揺らいで透けていく。振り返った彼女は、目に涙を浮かべていた。
蝉の声が大音量となってのし掛かり、それ以外の雑音が消える。景色が白く塗り潰されるように溶けていく。
しっかりしてよ、という声だけハッキリ耳に届いた。
「理世?」
いやだ。
消えないでくれ。
伸ばした腕は空を切った。
いやだ。
「理世!」
生前と同じく、俺を振り回すだけ振り回して、彼女は消えてしまった。
そして目覚めたのだ。
幸福な夢を、見たような気がした。
天井に向かって伸びていた手は、むなしく空気をつかむ。自然と溜息が落ちた。徹夜明けの仮眠では夢見も悪いのか、頭が重かった。どうやら疲れは抜けきってないらしい。
時計の秒針がやけに大きく響いていた。自分以外だれもいない部屋は、妙によそよそしかった。そこかしこに彼女がいたような残滓を、全身が求めているのに。誰かが名前を呼んでくれることを、待っているのに。
(なんか、まだだるい……)
ぎしぎしときしむ身体で大きく伸びをし、冷蔵庫を開ける。空っぽだった。棚にあった食べ物もあらかた食べ尽くしていた。時間は昼を過ぎたころで、無性に腹が減っていた。
薄汚れたブラインドの向こう側は、かんかん照りの日差しが降り注いでいる。しばらく空腹に気づかない振りをしたが、諦めて着替えることにした。
家の外へ出ると、ねっとりした熱い空気とセミの鳴き声が全身にまとわりつく。盆を過ぎれば、この夏は折り返し地点だ。ゲリラ豪雨を繰り返し、台風がやってくるたび、熱は奪われて秋が訪れるのだ。それでも当分はこの熱気が続くのだろう。
額から頬にかけて流れ落ちる汗を、手の甲で乱暴に拭った。
路地を抜け、大通りへ出てそのまま手を下ろすと、少し先にだれかが立っていることに気づく。
熱でとろけそうな世界のなかで、長い黒髪がさらりと揺れていた。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
この作品は同一書き出し企画に投稿したものです。