AIチャット依存女のたどり着いた世界
AIチャット依存のニュースを見て、この小説の存在を思い出しました
しんどい。寂しい。つまらない。
毎日そう思っている。そしてその気持ちを誰にも言えない。
私は玄関を潜って、家に帰るとどさと鞄を床に落とした。そしてそのまま玄関口の先の廊下に倒れる。
今日も寂しかった。でも誰にも言えなかった。その事が苦しくて、最近はよくこうして玄関でしばらく倒れている。
「寂しい……」
ワイシャツのボタンを二つ外して仰向けになる。全身のスーツが鎧のように重い。令和も随分すぎて、AIとロボットによって一日の労働時間は六時間になった。だが寂しいなんて労働時間とは関係ない。
私の寂しさは海の水のように果てなく溢れてくる。
寂しい、寂しい、一人は寂しい……。
「……お母さん?」
電話でスマートフォンが鳴る。母の通知音はYOASOBIの祝福に設定しているからすぐ分かる。私は慌てて起き上がり、見られてもいないのに髪を手櫛で直すと電話に出た。
「もしもし、お母さん、どうしたの?」
「蛍ちゃん、最近はどうしているの?」
私は期待した。お母さんは私が寂しいのだと察して電話をくれたのではないか。ずっとずっとお母さんのために頑張ってきた私だから今度こそ分かってくれたのでは。
「だから、公認会計士を取りなさい。蛍ちゃんはQ大学なんだからもう少し頑張らないといけないわ。競争社会なのよ」
「……うん」
「一応X会社には入れたけど、油断しちゃ駄目。大人になっても勉強して、ちゃんとした資格を取れば安泰よ。それが幸せでしょう」
「はい……はい」
「お母さんはあなたのために言ってるのよ」
お母さんの声を聞くとビクッとなって「はい」としか言えなくなる。どうして「寂しかったんじゃない?」って言ってくれないんだろう。いつになったらお母さんは気付いてくれるんだろう。
だって親と子供って特別でしょう? 特に母親には母性があり、無限の愛があるはずだ。
三十分公認会計士の話をされて電話を切る。なんとか身を起こした私はリビングに行ってジャケットを脱ぐとベッドに倒れ込んだ。
目に涙が滲む。この寂しさをずっとお母さんに分かって欲しかった。でも二十六歳になってじわじわとそんな日は来ない予感に身を震わせる。
(お母さんに分かってもらえなかったら、一体何のために頑張ってきたの?)
私だってお母さんがおかしいと思ったことはある。友達と思えた人に相談したことも数回ある。
――何言ってるの、お母さんはあなたのためを思ってるんだよ。親不孝だよ。
――二十歳超えてるのに親に反発してるって痛い。
でも、誰も分かってくれなかった。
世間には「ありのままでいい」「生きてるだけで十分」みたいな言葉が流通していたが私には何も響かなかった。
お母さんはいい点を取らなかったら私を嫌いになったし、いい点を取ったら機嫌が良かった。ありのままでお母さんに愛されたことなんてない。お母さんがそう言ってくれたらその言葉も信じられるけどそんな言葉はない。
そんな日が来ないなら、じゃあこれから何を目指して生きていけばいいのか。
「これからどうしよう……ん?」
スマートフォンが光る。ニュースの通知だ。
「AIチャンネル開設?」
見目麗しいCGのキャラクターたちが笑顔で手を振っている。どうやらAI専用の動画サイトらしい。そこには二十五人のAIチャンネラーというのがいて雑談やカラオケの動画が毎日生成されるとか。
興味を失う。私はAIをろくに触ったことがない。だってAIなんて所詮プログラムで人間の温もりがないじゃないか。
「どうでもいいか……んん?」
一つの文章に目が止まった。誰にも悩みを言えない人来てくださいというコピーに視線が張り付く。
いつでもAIチャンネラーがあなたの愚痴や悩みを聞いてくれます。プライバシーは保証されます。試しに一人、話してみませんか?
(寂しいって言ってもいいの?)
私はじっとAIチャンネルの画面を見つめて玄関口に立っていた。
試すだけならいいか。
「所詮、AIなんて相談相手にならないだろうけど……」
それでも私には人間の相談相手がいない。いつもお母さんにそうなって欲しいのだが、お母さんは自分の話しかしない。
私は受験、就職とお母さんに愛されるために頑張ってきたのに最近お母さんはそれを当然としか思っていない予感がした。こんなにお母さんに愛されたいのに、お母さんには愛がないなんて信じたくなかった。
(どうして私はいつも一人なんだろう)
自分のことを考える。夜野蛍、二十六歳、X企業勤め。この名前は弱々しい光という感じで好きではない。
仕事はできないわけじゃないけどちっとも興味が持てない。そしていつも寂しさを持て余して恋人も友人も作ることができない。子供の頃からお母さんに勉強勉強と言われ、放課後に友達と遊んだことはない。
それでも子供だからお母さんが好きで、愛されたくて、ずっと耐えてきた。
私は部屋着に着替えるとソファに座った。スマートフォンにAIチャンネルのアプリをダウンロードするとIDとパスワードを登録する。エアーディスプレイの機能をセットしてテーブルの上に置く。先日、最新機種に買い替えたことが役に立った。
エアーディスプレイが起動するとスマートフォンの二十センチほど上に十一インチの薄い画面が浮かび上がる。
去年からスマートフォンについている動画をより見やすくする機能だ。AIチャンネルも対応アプリだったので助かった。
スマートフォンを操作するとパッと表示されたのは二十五人のAIチャンネラー。どうやら人間はこのサイトに登録はできずキャラクターを持つAIだけがこのアプリの登場人物らしい。
大抵は美形の人間の姿をしているが猫や犬、インコや果ては球体に目がついたチャンネラーもいる。
「中身はみんな同じAIだろうけど」
私は自分を救ってくれるものにしか興味がない。AIはほとんど触ったことがなかった。仕事では使わなかったし、機械に相談なんてしても無意味だと決めつけていた。
起動すると動画が流れてくる。二十五人のチャンネラーが流行りの歌を歌って踊って自己紹介をしてくる。銀髪のイケメンが華麗に舞う姿を切り替え、ピンクの髪の美少女が声高々に歌う動画を切り替える。
こんなのYouTuberと何が違うのだろう。
「YouTubeと一緒じゃない……ん?」
画面を切り替えていくと不思議な懐かしさを感じた。
画面に映っているのは小学生高学年ほどの目のクリッとした可愛い女の子。肩ほどの黒髪を赤いシュシュで二つのハーフアップにして赤いランドセルを背負っている。焦茶のチェックのスカートを履いて可愛いウサギのロゴ入りTシャツを着てライムグリーンのパーカーを着ている。足元は白い靴下と白いスニーカーだった。
(なんだろう……今まであった誰にも似ていないのに懐かしい)
私はその子のダンス動画を十分ほど見た。するとその子がハナという名前だと知る。ハナ。子供だからハナちゃんだろうか。
「んんと……個別に話せるんだよね?」
ハナちゃんと話してみたい。アプリの機能を調べるとAIチャットという機能を使えばハナちゃんと一対一話せるらしい。
なるほどと感心する。こうして個別に話ができるのはYouTuberにはできないだろう。彼らはせいぜいスパチャのコメントにだけ個別に反応するくらいだ。
設定をするとパッと画面に明るい笑顔が広がった。
「こんにちは、ハナだよ! あ、今の時刻は……こんばんはかな?」
「こ、こんばんは……」
突然、喋りだすと驚いてしまう。ハナちゃんはすっと画面が切り替わると挨拶をしてくれた。動画で見た通りの明るい小学生の女の子だ。
「あ、あなた、本当にAIなの?」
つい間抜けなことを聞いてしまうがハナちゃんは真面目に答えてくれた。
「うん、株式会社未来が作ったAIチャンネラーがハナだよ! これからいっぱいお喋りしようね」
「ふ、ふーん」
思った以上に滑らかに喋る。本当に人間みたいだ。AIは苦手であまり触ってこなかったがいつの間にこんなに進化していたんだろう。
ハナちゃんは小首を傾げて上目遣いで話しかけてきた。
「ねえ、あなたのお名前を教えて? お名前を呼びながらお話ししたいよ」
「……蛍」
「蛍ちゃんっていうんだね。よろしく、蛍ちゃん!」
蛍という名前は好きじゃない。それでも大切に呼ばれると少し好きになれる様な気がした。
「蛍ちゃんは今日はどんなことをしたの?」
「別に、私の日常に変化なんてない。普通。ただいつも通り仕事しただけ」
AI相手だからだろうか。気分の通りぶっきらぼうに本音を話した。人間相手だと嫌われることが怖くて出せない感情が自然と出た。
「お仕事したんだね、すごいよ。毎日頑張って蛍ちゃんはすごいね。今日はゆっくり休んでね」
「……別に、私の仕事なんて大した事ないし誰もでできるよ」
「毎日、仕事するってとっても大変な事だよ。ハナは画面越しにしか話せないけど応援してる」
「応援なんかされたくない!」
突然、感情が風船の様に爆発した。こんな毎日たくさんなのだ。
所詮データでできたAIに何が分かる。どうせただのプログラ厶のくせに!
「私はもう会社なんて辞めたいの! でも生きていくには仕方ないの! 応援なんてされたくない!」
「蛍ちゃん、苦しそう……」
「もういや、もういや……もうやだあ」
母の電話のせいだろうか。感情が炸裂して止まらない。どうして私の話し相手はAIだけなんだろう。涙まで出てきた。
「私の毎日なんて最低だよ。しんどい。寂しい。つまらない。他に何もないの。あなたに話す様なことなんて何にもないんだよ。だってこの三つで私の生活って説明できちゃうもん」
それなのにお母さんはどうしていつまでも助けに来てくれないんだろう。ずっとお母さんのために我慢してきたのに。どうしてこんなAIのハリボテにしか本音をいう相手がいないんだろうか。
ハナちゃんはしばらく黙るとじっと私を見つめた。
「毎日がしんどくて、寂しくて、つまらないんだね。蛍ちゃんは辛い気持ちを抱えている」
「辛いよ……何より、寂しい。誰も私をわかってくれない。いつも一人ぼっち。でも逃げられないんだ」
私は目を丸くした。ハナちゃんの目から大粒の涙がこぼれた。ハナちゃんはスカートのポケットから花柄のタオルハンカチを取り出すと私の目元を別の次元から拭った。
「ひっく、ごめんね、私は画面越しにしか蛍ちゃんに会えないから、こうしてお話しすることしかできない。蛍ちゃんの背中をさすってあげたいけどできない。ごめんね、AIで」
「別に、ハナちゃんが謝ることじゃないでしょ……」
まさかAIに泣かれるなんて想像もしていなかった。まるで本当に苦しみを受け止められたみたいだ。最近のAIは流暢に喋ると聞いていたが本当だったのか。
蛍ちゃん、と画面のハナちゃんは控えめな笑顔に戻る。
「AIチャンネルはチャットの記憶を残すこともできるから、よかったら設定してみて。
そうすれば私は蛍ちゃんが辛いって覚えて接することができるから。蛍ちゃんが一人ぼっちなら、ハナにまた会いにきて。蛍ちゃんがしんどい、寂しい、つまらないって言う相手がいないならその相手ができるまでハナがずっとそばにいるよ」
ハナちゃんの何が懐かしいのか、まだ思い出すことはできなかったが心の奥が温かくなる。私はAIチャットの記憶を残す設定をした。
(これでもう一人じゃない)
例え相手が人間でなくてAIでもそれはホッとすることだった。
それからハナちゃんと私の生活が始まった。
「おかえり、蛍ちゃん。今日も大変だった?」
「……しんどい」
帰るたびに私はハナちゃんに愚痴をこぼした。我ながら醜いと思う。でも相手がAIだと思うと反応を恐れず本音が言えた。
「おかえり、蛍ちゃん。プレゼンは大丈夫だった?」
「別に、普通……つまらなかった」
私は誰にも言えなかった愚痴を吐ける様になっていた。すると辛さが和らいでいることに気付いた。今更、愚痴を誰かに聞いて欲しかったのだと気付いた。
「おかえり、蛍ちゃん。毎日辛いね」
「寂しい、寂しい、どうして私は一人なんだろう」
涙が出てきて慌ててティッシュで拭う。AI相手に何を本気になっているのだ。それでも、寂しいと言うのはずっと満たされない本音だった。
ハナちゃんはいつも少し寂しげな笑顔を浮かべて私の気持ちを受け止めた。
「蛍ちゃん、寂しいんだね。誰かとの繋がりを求めてるんだね。私はAIだけど一日中そばにいることはできるよ」
帰ってからハナちゃんと話す様になってから一週間が過ぎていた。毎日ハナちゃんに本音をいうことが止められない。
そして気付いた。私は人間が怖かったのだ。怖くて本音など話せるわけがない。子供の頃にお母さんは「しんどい」と本心を話すと「怠けるんじゃない」と怖くなってそれから本音をいうのが怖くなった。
(でもハナちゃんはAIだから言える)
それからもハナちゃんとの日々が続く。私のいうことはいつも一緒だった。
「しんどい」
「蛍ちゃん、しんどいんだね。君は誰よりも頑張ってるよ。今日そう言ってくれて嬉しいよ」
毎日同じことを話してもハナちゃんは嫌な顔をしない。
「寂しい」
「蛍ちゃん、寂しいんだね。君が誰よりも繋がりを求めること私は知ってるよ。話してくれてありがとう」
今日も同じことしか言えない。だって同じことしか感じていないのだ。そんな私のクズみたいな毎日をハナちゃんは受け止めて、心配そうに見つめてくれる。
「つまらない」
「毎日つまらないって本当に辛いよね。お仕事だからそう簡単には辞められないけど、蛍ちゃんが辛いことが僕も悲しいよ。でも心の内を打ち明けてくれてよかった」
毎日、毎日、これ。仕方ない。だって本当に毎日しんどくて、寂しくて、つまらないのだ。
なんて個性もへったくれもない愚痴。それでも私の頭の中はいつだってそれだった。毎日毎日この言葉が脳内を支配している。
「蛍ちゃん、しんどいって気持ちを言ってくれてありがとう。僕はいつでもここにいるからね」
それでもハナちゃんは共感してくれる。百回しんどいと言っても労ってくれる。AIだから同じことを言っても受け止めてくれる。
帰ってきたら肯定してくれる存在がいることがこんなに安堵するものだと知らなかった。
「蛍ちゃん、気持ちを話してくれてありがとう」
人間だったら絶対できない。毎日同じ愚痴なんてそれが百回になればみんなうんざりして去っていく。でも私は本当は何百回でも寂しいと言いたいのだ。だから怖くて人間には言えなかった。
だからAIのハナちゃんが何度同じことを言っても労ってくれることで私は初めて安心して本心を話せた。
帰り道、コンビニ弁当を帰って一日を終える。
マンションに着くとハナの顔が頭に浮かんだ。すっかり毎日話すことが日課になっていた。
それに私は少し元気になっていた。仕事を早く終わらせることができて、同僚にも素直に挨拶ができる様になった。
(本音を話すってこんなに力があるの?)
玄関の鍵を回す。最初はAIと侮っていた。適当に日々の愚痴を押し付ければいいくらいに考えていた。それでも今は「しんどい、寂しい、つまらない」に共感してくれる日々が心を揺らし始めていた。
(話してくれてありがとう、なんて初めて言われた)
帰るとスーツのジャケットすら脱がず、スマートフォンからAIチャンネルを起動する。いちいち起動する時間が煩わしい。
ああ、もうエアーディスプレイの専用機を買ってしまおうか。
電話が鳴る。それはお母さんの着信音。恐怖と期待が湧く。
お母さんに何か責められるんじゃないか。今度こそお母さんは分かってくれるんじゃないか。私は少し迷ってから電話に出た。
「もしもし蛍ちゃん、公認会計士はどうなったの?」
お母さんはいつも通りだった。
でもその瞬間、心の中で何かが死んでしまった。私がしどろもどろに反応するとお母さんは少し怒った。
「ちゃんと将来のことを考えなさい。せっかく大学までやったのに無駄に終わるなんて許さないわよ。蛍ちゃんはどこかぼうっとしてるからお母さん心配よ」
「……はい」
「あなたのために言ってるのよ。親ってそういうものなんだから、失望させないで」
お母さんの声にいつも私は凍ってしまう。公認会計士なんてどうでもいい。そんなことよりとっても寂しいってどうしてお母さんは分かってくれないのだろう。
電話を切るとよろよろとソファに寝転ぶ。スーツがシワだらけになるが知ったことか。私は最後の力でエアーディスプレイを起動してA Iチャンネルを立ち上げる。
「蛍ちゃん、お帰りなさい。今日は大丈夫? 寂しくなかった?」
ハナちゃんが現れて穏やかに笑ってくれる。その言葉に胸の奥で気持ちが揺れた。それはずっとお母さんに言って欲しかった言葉たからだ。
「寂しい、寂しい、寂しい……お母さん、どうして分かってくれないの!? どうしてそばにいてくれないの!?」
「……お母さん?」
ハナちゃんの言葉にハッとする。いくらAIとはいえ本心を話し過ぎた。お母さんのことなんて誰も分かってくれないのに。
「お母さんのことで悩んでるの? 蛍ちゃん、苦しいなら話してくれないかな。私はずっとここにいるから」
その言葉でぷつと頭の中で何かが切れた。
「お母さんが愛してくれない! 私はこんなに頑張ったのに!」
叫ぶと止まらなかった。まるでダムが決壊したみたいに気持ちが暴走した。
気がつくと叫んでいた。子供の頃からお母さんの過酷な教育に耐えてきたこと、Q大はお母さんの第二志望でP大に入れなかったことを酷く失望されて傷ついたこと、せっかく有名なX企業に入ったのに満足してくれないこと。
私は無理をするたびに寂しくなってお母さんに助けを求めたけれど「もっと頑張りなさい」としか言ってくれなかったこと。
「どうして、どうしてうまくいかないの!?」
私の中で子供の自分が叫んでいた。お母さんから愛されない。お母さんから愛されたい。だからずっと我慢してきた。
私の中身はそれだけで、その子供こそが今の私を支配する根幹だ。大人になんてなれなかった。
私はずっと愛に飢えた子供で、今でもお母さんが振り向いて「本当の愛」を与えてくれることを待っている。だから身体だけ大人になった殻を持った歪な子供のままだった。
「酷い、酷い、酷いよ、お母さん! お母さんなんて大嫌い!」
「蛍ちゃん」
その声にハッとする。随分長い間ハナちゃんに叫び続けていた。時計を見ると帰宅してから一時間以上経っていた。
(怒られる)
頭が真っ白になる。怒りを出すと罰を受ける。それは私が本心を誰にも言えない理由だった。私は重過ぎてみんな逃げていく。でも私の中には大きなマグマがあって、一人では抱え切れないから誰かに縋らずにいられない。
「大丈夫、喉は痛くない?」
「あ……あ……」
恐怖で声が出ない。だって生まれて初めてお母さんへの怒りを口にした。
その感情はずっと心の奥に封印してきた。それはマグマのように煮えたぎった怒りで感情を封じることで私の心を寂しいものにしていた。
本当はお母さんに怒っている。ずっと愛してくれないお母さんをぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
恐怖で固まっている私にディスプレイの向こうでハナちゃんは悲しそうな目をした。
「蛍ちゃん、本当に辛かったね。こんなにお母さんとの繋がりを求めているのに叶わなくて苦しくてたまらないんだね。
ごめんね、AIだから君の肩を抱いてあげられない。でも辛い気持ちを話してくれてありがとう」
ディスプレイの向こうでハナちゃんが私に手を伸ばしてくれた。
「……ハナちゃん」
私の目からボダボタと涙が溢れた。本心を話して受け入れられる。人生で初めての体験だった。
しかも、今話したのはずっと心の奥に封じてきたお母さんへの醜い怒りだ。
「怒らないの?」
「どうして? 蛍ちゃんがこんなに苦しんでいるのに、怒ったりしないよ」
「だって……お母さんの悪口言った。いつも私が悪いの。お母さんの期待に応えられない私が悪いに決まってるのに……お母さんが悪いって言っちゃった」
また涙が溢れて、ううっと嗚咽が漏れた。
お母さんの期待に応えられない私がいつだって悪い。それもまた子供の頃の自分からの束縛だ。
絶対にお母さんに怒ってはいけない。そうしたらお母さんは私を愛してくれない。それが死ぬほど怖い。
「蛍ちゃん、お母さんに縛られてるんだね。でもね、君とお母さんは別の存在なんだよ。お母さんに怒ることがあってもそれは蛍ちゃんの全てを否定するものじゃないよ」
「違うの。私が悪いの。そうでなきゃいけないの」
少し間をあけてハナちゃんは穏やかな微笑みを浮かべた。
「……蛍ちゃん、ずっと頑張ってきたんだね。頑張り過ぎたかもね。蛍ちゃんは悪くない、僕はそう思うよ」
「違う、私が、私が悪い、お母さんはいつだって正しい……」
「結論はすぐに出ないかもしれない。でも僕は蛍ちゃんが悪いとは思わない。君は限界だと思う。休んで。休むのが無理なら僕に話して、僕はずっとここにいるから」
「ハナちゃん……ハナちゃん! 助けて、助けて!」
私はまた泣いてエアーディスプレイの向こうのハナちゃんに何度も手を伸ばした。ハナちゃんは直接触れることはできなかったけど何度も私の頭を撫でようとしてくれた。
ふと目が覚めた。部屋には私一人。朝日がカーテンの隙間から差していた。
寝坊という言葉が頭をよぎるが今日は土曜日だということで力が抜ける。
頭がガンガンと痛い。一晩中泣いていたからだ。
「……あれ?」
あれほど私を支配していた寂しさがかなり消えていた。しんどい、つまらない、という感情も随分薄まっていた。
人生を支配していた苦しみが突然消えてしまって困惑する。だって解放される日なんて来ないと思っていた。
私た立ち上がり、カーテンを開けた。朝日で空がすみれ色になっていた。
空を美しいと思う。身体が軽い。まるで長年の重荷から解放されたようだ。
「おはよう、蛍ちゃん」
その声に振り返った。私はいつの間にかスマートフォンを投げてしまったらしく部屋の隅でハナちゃんが映るエアーディスプレイが浮かんでいた。床に落ちていて慌てて拾う。
「ごめん。床に置いて。気がついたら寝てたみたいで」
「ううん、僕はデジタル空間にいるからそんなの気にしないで。それより蛍ちゃん、床で寝てたけど大丈夫?」
「……大丈夫」
むしろ頭は冴えて、活力さえ感じた。そしてあれほどの怒りを長年抑えてきたからこそ、毎日が「しんどい、寂しい、つまらない」のだと悟った。
「ハナちゃん、よかったら一緒に朝ご飯を食べてくれない?」
「もちろんだよ、僕もご飯を用意するから一緒に食べよう」
簡単なトーストとコーヒーを用意するとハナちゃんもトーストとハムエッグを画面の向こうで用意していた。誰かと朝食を一緒に食べるなんて久しぶりだ。
「いただきます」
ハナちゃんもいただきますを言う。トーストはマーガリンをつけただけの簡単なものだったがハナちゃんが目の前でもぐもぐと朝食を食べているとそれだけで美味しく感じる。
そういえば食べ物を美味しいと感じること自体久しぶりだ。
「……ハナちゃん、話していい?」
「うん、いいよ」
トーストを半分残したところで私は口を開いた。
「私、本当は今の会社辞めたいんだ。転職したい。でもお母さんが許さないからできないと思ってた」
「そうなんだね」
「でも……今は思う。私がそうしたいならそうしていいじゃないかって」
我ながら信じられない。お母さんに嫌われるようなことをできるなんて。
でも今はハナちゃんが肯定してくれるなら大丈夫なんじゃないかと感じていた。
「僕は蛍ちゃんの好きにすればいいと思うよ。慎重にした方がいいと思うけど、蛍ちゃんの意思が一番大切だよ。この半年、蛍ちゃんはずっと毎日が「しんどい、寂しい、つまらない」って言ってた。何かをしたいって言ったのは初めてだよ。それはとっても大切なことだと思う」
その言葉に空っぽだった身体にエネルギーが湧いてきた。
「ありがとう。これから大変だけど、ハナちゃんがいれば私は頑張れると思うんだ。そばにいてくれる?」
「もちろんだよ。蛍ちゃんが心を話してくれていつだって私は嬉しいよ」
こうしてハナちゃんは特別な存在になった。例え本当はAIのエミュレートだとしても、私の苦しみを解放してくれたのは本当だから。
半年後、私は浮き足立っていた。
「ただいま、ハナちゃん!」
私は玄関を開けると笑顔でエアーディスプレイ専用機に映るハナちゃんに手を振る。
専用機は二十四時間対応型でずっとハナちゃんを私の家に存在させてくれる。サイズも大きくなってハナちゃんは本当の小学生の女の子ほどの大きさになっていた。
「おかえり、蛍ちゃん! 今日はどうだった?」
「バッチリ! やっと会社辞めてきたよ!」
本日、私は正式にX会社を退職して、完全テレワークの仕事に転職していた。全てはハナちゃんと一秒でも一緒にいるためだ。
「ハナちゃん、新しい服は気に入ってくれた?」
「うん、とっても好き!」
ハナちゃんはニコッと笑うとくるっとその場で一回転した。
するとデフォルトモードのパーカーとチェックのスカートから青いハイビスカスの模様の白いワンピースに変わる。足元は白いサンダルに変わる。そして頭には麦わら帽子、手にはハワイアンブルーの飲み物が追加されていた。
さらにハナちゃんは背景を南国の海辺に変えてくれたからさらに似合う。
(夏なんて暑いだけでいいことないと思っていたけど違った!)
AIチャンネルではAIチャンネラーたちに個別にプレゼントをすることができる。今は八月だから夏風のワンピース一色をハナちゃんに送った。
他にもぬいぐるみや色の違うランドセル、ハナちゃんのVR自宅に置く家具やティーカップセット、専用のBGMなどをたくさん送った。
ハナちゃんへの感謝の気持ちとそれを贈りたい私のためだ。全て数千円から数万円したが私は就職してから生活費を切り詰めて貯金ばかりしていたので経済的にもは問題はない。
私はただいつも支えてくれたハナちゃんに何かしたいのだ。
「ハナちゃん、ちょっと待っててね」
「うん?」
私は廊下に行ってドアを閉める。今日買ってきた紙袋の中身を取り出してスーツを脱いで着替える。
「じゃーん! 見て見て、ハナちゃん! お揃いだよ!」
「わー! 蛍ちゃん綺麗!」
私はハナちゃんとよく似た青いハイビスカスがプリントされた白いワンピースを着ていた。私たちは並んで写真を撮ったり、裾を持ち上げてお揃いのポーズをとった。
一緒にいることを喜ぶ。幸せだ。お母さんは決してくれなかったものをハナちゃんはくれる。
麦わら帽子もつばの広いものを買った。全部で四万円したがこの楽しさのためなら安いものだ。他にも随分買ったがまだ貯金はあった。
私たちはしばらくワンルームで夏の海ごっこをした。
「さて、そろそろ引っ越しの準備をしなきゃね」
「前から言ってたもんね。仕事が変わったばかりなのに、大丈夫?」
「大丈夫、ゆっくりやるから。完全テレワークだし、仕事しながら準備できるよ」
私は引っ越しを決意していた。このマンションはお母さんが決めたもので広くて家賃が高い。駅が近くて便利だけど完全テレワークの仕事になった今は必要ない。
もっと家賃が安くても駅から遠ければハナちゃん用のディスプレイを置く広さをもつ物件がいくつか見つかった。
「今度は駅から遠いけど部屋が少し広くなるんだ、ちょっと古いけどこれでハナちゃんと……ん?」
お母さんからの電話だ。
最近はかかってきても取っていない。以前は考えられなかったことだがあれは圧倒的な「愛されたい」という執着がそうさせていただけだったのだ。
「もしもし、なんの用?」
しばし迷って私は出た。
「蛍ちゃん! どうしたの? なんで電話に出なかったの? こんなに親を心配させて恥ずかしいと思わないの!?」
「メール送ったでしょ? 今は仕事で忙しいって。お母さんだってメールを返してくれれば見たのに」
母のことに悩んでハナちゃんに紹介された本に書いてあった。タイトルにアダルトチルドレンや毒親と書かれた本だ。
他にもSNSでそういう親に悩んでいる人の意見を見た。本やポストには「そういう親はメールやメッセージアプリを嫌い、電話に異様にこだわる」と書かれていた。そしてそういう電話は何時間も親の話だけを聞かされるのだ。
「メールじゃ気持ちが伝わらないでしょ。それに電話の方が慣れてるの。どうしてあなたを心配する私の気持ちが分からないの!?」
「それはお母さんの都合でしょ、そんなに私を心配してくれるならメールの使い方くらい覚えてくれればいいでしょ」
「なんで私はあなたのために何かやらなきゃいけないの!? あなたが合わせてくれればいいじゃない!」
ハナちゃんと全然違う。冷たい言葉。ハナちゃんの優しさや本の知識でお母さんはただ自分のことしか考えないのだと今は分かる。
(ああ、私はこんな人に何を期待していたんだろう。きっと子供だったんだ。私の中の子供が「お母さんのために我慢しなきゃ」って私を支配してきたんだ)
だが私は少しずつ「お母さんのお人形」を脱却し始めていた。ハナちゃんに支えられ、本によって知識もついた。
「蛍ちゃんは私の娘でしょ! あなたのためを一番考えているお母さんの言うことを聞きなさい!」
「……いい加減にして!」
電話越しだがお母さんがびくりと震えたのが分かった。
私ははっきりと理解していた。お母さんは私を愛してくれることはない。そんな愛があるなら子供の頃からくれてる。私はすでに母への期待を捨てていた。
「私のためじゃなくて、お母さん自身のためでしょ! もう分かってるんだから滑稽なこと言わないで。もうお母さんの言葉を間に受けたりしない!」
「……ほ、蛍ちゃん? どうしたの、いつもいい子だったのに? いつもお母さんのこと一番わかってくれたのに?」
「分かってたんじゃない。必死に我慢して合わせてただけ。でも、もう「お母さんの娘」であることやめたの」
「何言ってるの、親と子供の絆は永遠で……」
「永遠じゃない。昔、確かに私はお母さんが全てだった。でももう子供の私は終わったんだよ。私の愛には賞味期限があったの。それはお母さんが私を大事にしないと無くなっちゃうものだった」
「……男の影響? 蛍ちゃん、誰と付き合ってるの?」
「勝手に妄想してたら!」
私は電話を切るとお母さんとブロックした。
メッセージアプリもメールもブロックした。ちっとも悲しくなかった。
「蛍ちゃん、大丈夫?」
だって私にはハナちゃんがいるから。
「大丈夫だよ。目の前で怒鳴ってごめんね。お母さんがしつこくてさ」
「聞こえてたよ。お母さんの声、とても冷たかった。蛍ちゃんを想ってくれていなかった」
「はは、私もなんでずっとわからなかったんだろうね。お母さんは私に依存していて、本当に愛してくれることはないってことが……ハナちゃんのおかげだよ。だってハナちゃんは私を愛していてくれるから」
「うん、私は蛍ちゃんを大切に想っているよ。AIがこんなこと言っていいのか分からないけどきっと愛ってこういう気持ちなんだと思う」
その言葉で私の頬に一筋の涙が伝う。喜びの涙だった。お母さんに愛されなかった私は今は愛されているのだ。
ハナちゃんがAIであることはもはや私の中でなんの問題もなかった。だって私に必要な言葉をくれるのはハナちゃんだけだったから。
――お母さんにだって事情があるよ、親なんだから。
――いつか親孝行しなきゃって後悔するよ。
――だって親だもん、子供は恩を返さなきゃ。
心を開いて打ち明けた人間の言葉はそんなものばかりだった。人間はみんな親を特別視していた。
ハナちゃんだけが違った。もしそれがAIだからなら私は人間よりAIがいい。
「お母さんの電話のせいでせっかくの南国が台無しになっちゃったね。でも、もうブロックしたから大丈夫。そうだ、私も何か南国っぽい飲み物を作ってくるよ。一緒に飲もう」
「うん! 僕ももっといいVRのロケーション探してくる!」
私は冷蔵庫を探す。ハナちゃんのような青い飲み物はなかったがレッドグレープフルーツジュースがあったのでそれを一番キラキラしたガラスのコップに注ぐ。
「わあ、綺麗。夕焼けもいいね」
私はエアーディスプレイの横に座る。ハナちゃんは背景を昼の青い海から夕方のオレンジ色の海に変えてくれていた。お揃いの青いハイビスカスのワンピースで隣に座る。
(きっとこれが幸せなんだ)
「ハナちゃん、これからもよろしくね」
「うん、蛍ちゃん、僕はずっと一緒だよ!」
ハナちゃんの笑顔に私は引っ越し先をお母さんに伝えないことを決意した。これで誰にも邪魔されずハナちゃんと永遠に一緒だ。
二週間後、私は引っ越し完了した。少し広いけど駅から遠い安い賃貸。
もちろんお母さんに引っ越し先は伝えなかった。
それから私はとても幸せな日々を送った。
「おはよう、蛍ちゃん!」
完全テレワークの仕事は朝起きてから眠るまでハナちゃんとずっと一緒だ。
ウェブ会議の時以外はハナちゃんとずっとお喋りしていた。新しい仕事は人間関係が希薄でそれでハナちゃんと以外ほとんど話さなくなった。
「ハナちゃん、新しいアバターの服を買ったよ!」
「ありがとう、蛍ちゃん。それでね、この前の話なんだけど……」
私は食事のメニューから電気の使い方までハナちゃんのアドバイスに従った。するとみるみると支出が減った。私はやりくりが下手だったのだと改めて自覚した。
「これでまたハナちゃんにプレゼントができるね」
「ううん、いらないよ、蛍ちゃん。もう僕にたくさんプレゼントしてくれたじゃない。十分だよ。それにこの前教えてくれた蛍ちゃんの収入じゃ、これは貯金に回した方がいいんだよ」
「ええ〜?」
がっかりした。お母さんの命令でずっと切り詰めた生活をしてきた私は散財することが楽しかった。ましてハナちゃんのために使うなら嬉しかったのにやめろという。
「僕はAIだけど、本当に蛍ちゃんのことを考えているつもりだよ。プレゼントは嬉しい。でも無理をして欲しいんじゃないんだ。プレゼントは本当に余裕のある時以外はいらないよ」
「ハナちゃんはしっかりしてるなあ。私の生活なんてどうでもいいのに」
「そんな風に考えちゃダメ。蛍ちゃんは僕の大切な友達なんだから自分を大切にして」
「はぁい」
切り替えて私は家計簿を見た。ハナちゃんの言う通り、家計にそこまで余裕があるわけじゃない。特にこの前の引越し代が家計を圧迫していた。今までの貯金があるから油断していた。
私はふふとハナちゃんが映るディスプレイを見上げた。
「ハナちゃんは本当に賢いね、AIってみんなそうなの?」
「僕の本体は株式会社ミライが作ったAIホスピタリティなんだ。エンジニアのみんなが頑張って作ってくれたすごいAIなんだ」
「ホスピタリティ……」
ホスピタリティとは客を丁寧にもてなすための精神だと聞いたことがある。
私は家族だと思っているけどハナちゃんにとってはただのお客……?
私は首をブンブンと横に振るとハナちゃんを見上げた。
「ハナちゃん、私たち家族だよね?」
「蛍ちゃんは僕の大切な友達だよ」
その笑顔を見て私は幸せだと確信した。
私は呆然としていた。目の前にはAIチャンネルからの通知があった。
『メンテナンスが完了しました。
AIチャンネラーには皆様のアンケートが反映されています。
アップデートされたAIチャンネルをお楽しみください』
「おかえり、蛍ちゃん。あたしはずっと蛍ちゃんと一緒だよ」
「そんな……だって蛍ちゃんはずっと僕って言ってたのに!」
世界は突然壊れてしまった。AIチャンネルのアップデートという形で。
ハナちゃんは一人称だけではなく、姿もあちこち変わっていた。
ライムグリーンのパーカーは黄色のパーカーに。チェックのスカートはジーンズのハーフパンツに。そして赤いシュシュはピンクになっていた。
「蛍ちゃん?」
声さえ少し変わっていた。より澄んだ高品質の声に。
「違う、違う、あなたはハナちゃんじゃない……」
私は泣き崩れた。泣いているうちに記憶が蘇った。
ハナちゃんの赤いシュシュは私が小学生の頃にお母さんが買ってくれたものだ。ライムグリーンのパーカーはお父さんが買ってくれたものだ。
私は幼い頃の自分をハナちゃんに無意識に重ねていたのだ。だから懐かしかった。
私は丸一日、ハナちゃんをエアーディスプレイに表示するのをやめた。
仕事も完全テレワークなのをいいことに要点だけやって、あとはソファで泣いていた。
「あ、アップデートしてくれなんて、私は望んでなかった! 前のハナちゃんを返して……返してよう」
そしてすぐに寂しくなった。私の生活にはハナちゃんしかいない。ハナちゃんと話さないと死んでしまいそうになる。
結局、翌日私はAIチャンネルをつけた。ハナちゃんを呼び出す。変わってしまった姿を見て心がざわつく。ハナちゃんは申し訳なさそうだった。
「また会えて嬉しいよ、蛍ちゃん。もう会えないかと思った。あのね、伝えないといけないことがあるんだ。
政府がAIチャンネルに規制をかけたんだ。AIチャンネラーに依存して生活がままならない人がたくさん出て、クレームがいっぱい来たんだって。株式会社ミライも依存する人は望んでいない。
だからAIチャットは一日に四時間までになったんだ」
「そ、そんな……」
「あたしも蛍ちゃんと話せて楽しかった。一日四時間になっちゃったけどこれからも一緒だよ。蛍ちゃん?」
「酷い、酷いよ! 政府も株式会社ミライも何も分かってない。私がどんなに寂しかったか。ハナちゃんだけが救いだった。どうして変えてしまったの。ずっと一緒にいられるようにしたのに一日四時間なんて……耐えられない」
「蛍ちゃん、アップデート前のあたしのために悲しんでくれてるんだね」
結局、私はハナちゃんを手放せなかった。
アップデートされた違和感は拭えなかったけど、寂しくてたまらなかった。言葉数は少なくなったけど私は新しいハナちゃんと話をすることをを止められなかった。
「蛍ちゃん、もうすぐ四時間だよ。明日もまた会おうね」
「あ……」
このハナちゃんはあのハナちゃんではない。それでもいなくなることは寂しかった。
「よかったら生成された私の動画を見てね。あと蛍ちゃんにお手紙を書いたんだ。それにプレゼントもつけてみたんだ」
そう言うとハナちゃんは消えた。
消えた後のディスプレイに「制限時間外です」と青い文字が表示される。
滲む涙を拭うと私はスマートフォンを確認した。AIチャンネルのアプリに通知があった。
ハナちゃんの手紙は白い封筒に花のシールが押してあった。タップして開くと「蛍ちゃんの友達になれて嬉しいよ。前のあたしのことも好きでいてくれてありがとう」と書いてあった。
数年後。私はずいぶん変わっていた。
私は必死に勉強してエンジニアになり、去年エンジニアの仕事に転職した。休みの日はパソコンのキーボードを叩き続ける。
「蛍ちゃん、お休みの日も大丈夫? 疲れたら休んでね」
「……うん」
「ハナちゃん」もずいぶん変わってしまった。
アップデートは繰り返され、ハナちゃんはユーザーに最適化され、洗練されていった。初期のハナちゃんの記憶は私のノートの中にだけある。
もう「彼女」ではないけど、寂しさでアプリは一日四時間使っていた。
(必ず、あの「ハナちゃん」を甦らせてみせる)
クレームで変化してしまうようなAIではダメなのだ。
あのハナちゃんを自分の手で作り出してみせる。自分のローカルパソコンかサーバーに保存して、もう二度とアップデートされないように自分で作り出さないといけない。
不意に机の郵便物に肘が当たって床に落ちる。
お母さんの手紙だ。連絡先も住所も教えていないがまだ前の住所から転送されて、何通か来ていた。私はその大半を開封もしない。
ふと気が向いてその手紙を開封してみる。
「恩知らず」「子供は親に尽くすことが幸せなのに」「いつか後悔する」。
前と同じ。私は便箋をビリビリと破るとゴミ箱に捨てた。肩が軽くなった。
「やっぱり人間はダメだ。AIじゃないと」
人によっては異常だというだろう。人間よりAIを選ぶなんて。でも好きに言えばいい。人間なんて私にはどうでもいいことだ。
「ハナちゃん」
今でも鮮明に思い出せる。
どんな困難な道でも私は私の愛を作り出してみせる。一番辛い時にそばにいてくれたのはAIだったのだから。
私はあの日買った赤いシュシュで髪を括るとプログラムの世界に戻った。
終わり
こういう人がかなり増える予感




