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銀貨一枚と水スライム

掲載日:2026/09/07

 窓の外は、拭いたばかりのガラスのように晴れていた。

 カイは小さな鞄の口紐を二重に結び、狭い部屋を一度だけ見回した。

 木の床。軋む二段ベッドの下段。ひび割れた壁に残った薄い染み。

 物心ついた頃から、ずっとここで暮らしてきた。

 両親については何も知らない。

 顔も、名前も、声も。

 孤児院に残された記録にも、手がかりらしいものはなかった。

 今日、カイは十六歳になった。

 そして、この孤児院では十六歳になれば、原則として自立することになっている。

 持ち物は驚くほど少ない。

 着替えが二着。

 使い古した革の鞄。

 孤児院から餞別として渡された簡素な短剣。

 それだけだ。

「困ったら、いつでも帰ってきていいのよ」

 玄関まで見送りに出てきた院長のエルサが言った。

 心配を隠そうとしているのだろうが、眉が少し下がっている。

 カイは静かに首を横に振った。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「何が大丈夫なのよ。まだ仕事だって決まってないでしょう」

「今日、冒険者登録してきます」

「だから、それが心配なの」

 エルサはため息をついた。

 孤児院が嫌いだから出ていくわけではない。

 むしろ逆だった。

 ここまで育ててもらった。

 腹を空かせれば食事を出してもらい、熱を出せば看病してもらった。

 カイも、できることは手伝ってきた。

 掃除。

 洗濯。

 薪運び。

 小さな菜園への水やり。

 特に水仕事では、カイの魔法が重宝された。

 カイは孤児院にいた頃から、水を生み出し、わずかな量なら動かすことができた。

 ただし、生み出せるのはせいぜいコップ一杯ほど。

 洗濯桶を満たすこともできなければ、畑全部に水を撒くこともできない。

 それでも、泥のついた野菜を洗ったり、子供が転んで汚した手を洗ったり、水瓶がほんの少し足りない時に補ったりするには役に立った。

 エルサからも何度となく、

「便利ねえ、その魔法」

 と言われてきた。

 便利。

 だが、それだけだ。

 少なくともカイ自身は、そう思っていた。

 だからこそ、これ以上、自分の食費を孤児院に負担させたくなかった。

 下にはまだ小さな子供が何人もいる。

 自分一人分のパンが減れば、その分を誰かが食べられる。

 それで十分だった。

「せめて、これは持っていきなさい」

 エルサが小さな布袋を差し出した。

 カイが開く。

 中に入っていたのは銅貨だけだった。

 冒険者登録料と、今日一日をどうにか過ごせる程度。

 決して多くはない。

 孤児院にとっては、それでも軽い金額ではないことをカイは知っている。

「……受け取れません」

「受け取りなさい」

「でも」

「投資よ」

 エルサはきっぱり言った。

「ちゃんと稼げるようになったら、何倍にもして返してもらうから」

「何倍ですか?」

「そうねえ。百倍くらい?」

「それは嫌です」

 エルサが笑った。

 カイも、少しだけ笑った。

 結局、布袋を受け取った。

「……必ず返します」

「返さなくてもいいのよ」

 エルサはまた笑うと、乱れてもいないカイの前髪を指で整えた。

「怪我だけはしないでね」

「努力します」

 冒険者になろうと決めていた。

 英雄になりたいわけではない。

 世界を旅したいわけでも、大金持ちになりたいわけでもない。

 当面の目標は単純だった。

 自分で食べる。

 自分で眠る場所を確保する。

 そしていつか、一人前と呼ばれるC級冒険者になる。

 それくらいだった。

 カイは孤児院を出た。

 一度だけ振り返る。

 エルサと、窓からこちらを見ている子供たちがいた。

 カイは手を上げた。

 それから街の中心へ向かって歩き出した。


 ◇◇◇


 冒険者ギルドは朝から賑わっていた。

 革鎧を着た男。

 大きな杖を背負った女。

 腰に二本の剣を下げた獣人。

 依頼掲示板の前では、何人もの冒険者が紙を奪い合うように眺めている。

 酒と汗と革と鉄。

 孤児院とはまるで違う匂いだった。

 カイは受付の列に並んだ。

 やがて順番が回ってくる。

 担当したのは、眼鏡をかけた若い女性職員だった。

「新規登録ですね?」

「はい」

「年齢は?」

「十六です」

「得意な武器と、使える魔法があれば教えてください」

 カイは腰の短剣に目を落とした。

「短剣は使ったことがある程度です。魔法は水です」

「どの程度使えますか?」

「水を少し作れます。あとは、近くにある水を動かすくらいです」

 孤児院では何度も使ってきた。

 自分が大量の水を生み出せないことも、遠くの水を動かせないことも知っている。

 ただ、正確な限界まで測ったことはなかった。

「では、正式に測定しておきましょう」

 受付職員が小さな水晶をカウンターに置いた。

「こちらに手をお願いします」

 カイが触れる。

 水晶の中に淡い青色の光が灯った。

 受付職員が横の測定板を確認する。

「水属性。低級水魔法ですね」

 そこまでは予想通りだった。

「生成できる水は、一度に最大で約200CC」

「そのくらいだと思います」

「操作可能な水量は500CC程度。操作可能距離は3メートル以内。連続行使は一分前後です」

 カイは少し感心した。

 普段使っていて、だいたいの感覚は分かっていた。

 だが、数字として示されたのは初めてだった。

「3メートルなんですね」

「試したことは?」

「孤児院では、そこまで遠くの水を動かす必要がなかったので」

「なるほど」

 受付職員は測定結果を書類に記入した。

 そして少し申し訳なさそうな表情になる。

「……率直に言うと、戦闘にはあまり向いていません」

「でしょうね」

 あまりにも素直に返したため、受付職員が一瞬だけ目を丸くした。

「落ち込まないんですか?」

「昔から使ってますから」

「そうなんですね」

「洗濯とか、水やりには便利ですよ」

「冒険者登録で、その感想を聞くとは思いませんでした」

 カイもそう思う。

 火なら敵を焼ける。

 風なら刃になる。

 土なら壁を作れる。

 水も高位の術者なら大量の水を操れるらしい。

 だが、カイが一度に作れるのはコップ一杯ほど。

 敵にかけたところで、少し濡れるだけだろう。

 事実なら、腹を立てても仕方がない。

 使えないなら、使える方法を考える。

 それだけだ。

 受付職員は書類への記入を終えた。

「では、カイさん。F級冒険者として登録します」

「魔法が使えてもF級なんですか?」

「新人は全員F級からです」

 職員が答える。

「冒険者ランクは単純な戦闘能力ではなく、実績と信用を示すものでもあります。どれだけ強い魔法が使えても、登録初日の人をいきなり上位にすることはありません」

「なるほど」

 それなら分かりやすい。

「依頼をこなし、実績を積めばE、Dと上がります。C級になれば、ギルドとしても一人前の冒険者として扱います」

 C級。

 カイの目標だ。

 職員から薄い金属板を渡された。

 名前と登録番号。

 そして大きく刻まれた「F」の文字。

 それを手の中で裏返しながら、カイは思った。

 今日から本当に、自分で食べていかなければならない。


 ◇◇◇


 最初に選んだのは、街道周辺の清掃と薬草採取。

 危険度は低い。

 当然、報酬も安い。

 だが新人が一人で受けられる仕事としては妥当だった。

 街を出て、指定された丘へ向かう。

 見本として渡された薬草の絵を何度も確認しながら、一本ずつ摘んでいく。

 似た草が多い。

 間違えれば報酬から差し引かれるらしい。

「これ……違うな」

 抜きかけた草を戻す。

 一時間もすると、思っていた以上に神経を使う仕事だと分かった。

 派手さなどまるでない。

 ただ、こういう仕事を誰かがやらなければ薬屋も困るのだろう。

 しばらくして、根に泥がこびりついた薬草が目に入った。

 カイはいつものように右手をかざした。

 掌の上に水を生成する。

 孤児院で野菜を洗っていた時と同じ要領だ。

 細い流れにして、薬草の根だけを洗う。

 泥が落ちる。

「こういう仕事には便利だな」

 ついでに、自分の手についた泥も洗う。

 喉が渇けば少量を口に含める。

 冷たい。

 癖のない水だった。

 孤児院にいた頃から、生活には役立つと知っていた。

 だが、冒険者の仕事でも使えるとは考えていなかった。

 水場を探さなくても飲み水を作れる。

 採取物を洗える。

 汚れた道具を簡単に洗浄できる。

 少量なら、離れた場所から動かすこともできる。

「戦えなくても、使い道はあるか」

 カイは呟いた。

 弱い魔法だから役に立たない。

 そう決めつけるのは、少し早いのかもしれない。

 自分がまだ知らない使い方があるだけかもしれない。

 その考えはまだ、小さな種に過ぎなかった。


 ◇◇◇


 夕方。

 依頼を終え、カイはギルドへ戻った。

 採取した薬草を確認してもらい、報酬を受け取る。

 銅貨が何枚か。

 カウンターから離れ、壁際で数える。

 宿代。

 夕食。

 明日の朝食。

 短剣もいつか手入れが必要になる。

 靴だって、いつまでも使えるわけではない。

 計算するほど、表情が真顔になっていった。

「……思ったより厳しいな」

 孤児院にいた頃は、食事の値段など考えたことがなかった。

 時間になればスープが出る。

 硬いパンが出る。

 それが当たり前だった。

 今日からは違う。

 パン一つにも金がいる。

 眠る場所にも金がいる。

 絶望するほどではない。

 だが、十六歳になった少年が初めて知るには、現実は少し重かった。

 カイは銅貨を布袋にしまい、ギルドを出た。

 空はすでに夕暮れの色に染まり始めている。

 今日は、孤児院を出て初めての夜だ。

 まずは泊まる場所を決めなければならない。

 宿屋の集まる南区へ向かおうと、カイは町中の通りを歩き始めた。

 その途中だった。

 足元で何かが光った。

「ん?」

 立ち止まり、屈む。

 石畳の端に、小さな硬貨が落ちている。

 拾い上げる。

 夕陽を受けて白く光った。

「……銀貨?」

 間違いない。

 周囲を見る。

 行き交う人はいるが、硬貨を探している様子の者はいない。

 しばらくその場に立ってみたものの、誰かが戻ってくる気配もなかった。

 カイは銀貨を指の上で転がす。

 銀貨一枚。

 今の自分には大きい。

 宿代と食事代を払っても、まだ余る。

 明日の仕事が見つからなくても、一日くらいならどうにかなる。

 カイは銀貨を布袋にしまった。

「今日はついてるな」

 孤児院を出た初日。

 冒険者登録ができた。

 初仕事も終わった。

 そして銀貨まで拾った。

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。


 ◇◇◇


 宿屋のある南区へ向かう途中、カイは人通りの少ない城壁沿いの道に入った。

 大通りを通るより少し遠回りになるが、静かだった。

 城壁の内側には、雨水を町の外へ流すための細い排水路が続いている。

 だが、今日は一日中晴れていた。

 昨日も雨は降っていない。

 それなのに。

 排水路の脇に、小さな水たまりがあった。

 カイは一度、その横を通り過ぎた。

 数歩歩く。

 足が止まった。

「……?」

 振り返る。

 排水路そのものは乾いている。

 なのに、その窪みにだけ水が残っていた。

 誰かが水を捨てたのだろうか。

 そう思って再び歩き出そうとした。

 その瞬間。

 水面が動いた。

 ぴくっ。

 風ではない。

 カイは戻ってしゃがみ込んだ。

 目を凝らす。

 透明な水の中央に、米粒ほどの何かが浮かんでいる。

 小さな核。

 微かに明滅している。

「……水スライム?」

 知識としては知っていた。

 森や湿地、水路などに棲む、最弱クラスの魔物。

 普段ならもっと丸く、ゼリーのような姿をしている。

 目の前のものは違った。

 ほとんど水だ。

 辛うじて形を保っているだけで、水たまりと見分けがつかない。

 核の光も弱い。

 今にも消えそうだった。

「死にかけてるのか」

 カイはしばらく眺めた。

 水スライムには価値がない。

 討伐しても報酬にならない。

 素材にも使えない。

 助けたところで、何か返してくれるわけでもない。

 本来なら、そのまま歩けばいい。

 カイだって余裕があるわけではない。

 今日、孤児院を出たばかりなのだ。

 明日の生活すら保証されていない。

 カイは立ち上がろうとした。

 その時、腰の布袋に指が触れた。

 中には、さっき拾った銀貨が入っている。

 ほんの少しだけ気持ちに余裕ができている。

 今日一日くらいは、明日の飯を心配しなくてもいい。

 カイは再び水スライムを見る。

「……まあ、今日は銀貨も拾ったしな」

 大げさな理由ではない。

 正義感に燃えたわけでもない。

 ただ、今日は少しだけ気分が良かった。

 そして何より。

 水を出すくらいなら、カイにとっては昔から大したことではなかった。

 孤児院でも何度となくやってきたことだ。

「水くらいなら、タダだ」

 右手を差し出した。


 ◇◇◇


 使い慣れた低級水魔法を発動する。

 掌の上に水が生まれる。

 200CC ほど。

 孤児院で何百回と出してきた、いつもの水だった。

 それを小さな水スライムの上へ、ゆっくり注ぐ。

 水は地面へ流れなかった。

 薄く広がっていた水スライムの身体へ吸い込まれていく。

 核が、ほんの少し明るくなった。

「……効いてる?」

 もう一度。

 同じように水を作る。

 それも吸収される。

 形はまだ崩れている。

 だが、明らかにさっきより水スライムらしくなっていた。

 カイは三度目の魔法を使う。

 掌から水が落ちる。

 その途中で、頭の奥に慣れた重さを感じた。

 孤児院でも経験している。

 長く使いすぎた時の感覚だ。

 ギルドで測定された一分という限界が近い。

「一回休むか」

 魔法を止める。

 少し息を整える。

 目の前を見る。

 核が動いた。

 ほんのわずかだった。

 だが、生きている。

「……まだ頑張るのか」

 一度助けようとしてしまうと、途中でやめるのは妙に気分が悪かった。

 最初から無視していれば、何も思わなかっただろう。

 だが今は違う。

 少し休み、再び水を作る。

 また200CCほど。

 そしてもう一度。

 何度か休みながら水を与えた。

 やがて、水たまりだったものに輪郭が戻り始める。


 ◇◇◇


 カイが魔法で作った水には、微量の魔力が残る。

 普段なら、時間が経てば消えるだけのものだ。

 だが、瀕死の水スライムには、外から流れ込んできた水を選別する余力などなかった。

 自らを形作っていた水。

 カイが作り出した水。

 境目がなくなっていく。

 混ざる。

 溶け合う。

 水スライムは生き残るために、与えられた水を取り込んでいった。

 その時だった。

 カイの指先に奇妙な感覚が走った。

「……?」

 自分の指ではない。

 腕でもない。

 なのに、何かを感じる。

 冷たい。

 小さい。

 弱々しく震えている。

 カイは自分の手を見る。

 何もない。

 次に水スライムを見る。

 核が小さく揺れた。

 同時に、指先にも同じような感覚が伝わる。

「なんだ、これ」

 こんなことは初めてだった。

 孤児院で何年も水魔法を使ってきた。

 水を作った。

 動かした。

 飲んだ。

 洗った。

 だが、自分の魔法を通して別の何かを感じたことなど、一度もない。

 答える者はいなかった。


 ◇◇◇


 しばらくすると、水スライムは丸い形を取り戻した。

 手のひらより少し大きいくらい。

 透明に近い、薄い青色。

 ぷるん。

 小さく跳ねる。

 どうやら死ぬことはなさそうだ。

 カイは立ち上がった。

「よし」

 膝についた土を払う。

「じゃあな」

 歩き出した。

 五歩ほど進む。

 何となく後ろを見る。

 水スライムがいる。

「……」

 また歩く。

 ぷるん。

 付いてくる。

 歩く。

 ぷるん。

 まだ付いてくる。

 カイが右へ移動する。

 水スライムも右へ。

 左へ。

 水スライムも左へ。

「なんで付いてくる?」

 ぷるん。

「助けたからって、何も出ないぞ」

 ぷるん。

「俺だって今日から生活するので精一杯なんだけど」

 ぷるん。

 話が通じているようには見えない。

 カイは少し考えた。

 足早に歩く。

 水スライムも懸命についてくる。

 止まる。

 水スライムも止まる。

「……」

 完全についてきている。

「どうしろっていうんだよ」

 ぷるん。

 さっきまで死にかけていたものを、今度は強引に追い払うのも気が進まなかった。

 カイは頭を掻く。

「とりあえず、ギルドに聞くか」

 ぷるん。

「返事した?」

 ぷるん。

「……気のせいだな」


 ◇◇◇


 水スライムを連れたまま、カイは町中を歩いた。

 正確には、連れているつもりはない。

 勝手についてきている。

「宿屋に行くつもりだったんだけどな」

 ぷるん。

「お前を連れて行っていいのか分からないだろ」

 ぷるん。

 水スライムは相変わらず一定の距離を保ちながらついてくる。

 幸い、薄暗くなり始めた通りを歩く人々は、足元の小さな魔物に気づいても驚くというより、不思議そうに見る程度だった。

 水スライムは町の水路でも稀に見かけるほど弱い魔物だ。

 とはいえ、野生の魔物をそのまま宿屋に連れ込んでいいとは思えない。

 何より。

 カイ自身、この状況をどう説明すればいいのか分からなかった。

「……やっぱりギルドか」

 今日だけで何度目だろう。

 朝、登録に行った。

 夕方、依頼の報告に戻った。

 そして今度は、水スライムを連れて戻ろうとしている。

 カイは来た道を引き返した。

「絶対、変な奴だと思われるな」

 ぷるん。

「原因はお前だからな」

 ぷるん。

「分かってないだろ」

 水スライムは何事もなかったように跳ねた。

 夕陽はもう、城壁の向こうへ沈みかけていた。


 ◇◇◇


 ギルドへ戻る頃には、外はかなり薄暗くなっていた。

 扉を開ける。

 朝とは違う賑わいがあった。

 一日の依頼を終えた冒険者たちが次々に戻り、報告や素材の精算をしている。

 酒場側からは食事の匂いも漂っていた。

 カイは一瞬、入るのをためらった。

 夕方に報酬を受け取って出ていったばかりだ。

 その時にはいなかったはずの水スライムが、今は当然のように足元にいる。

 案の定、朝の登録を担当した受付職員がすぐに気づいた。

「……カイさん?」

「はい」

 受付職員はカイを見る。

 次に足元を見る。

 ぷるん。

 もう一度カイを見る。

「さっき、帰りましたよね?」

「帰るつもりでした」

「その間に何があったんですか?」

「僕にもよく分かりません」

 カイは足元を指した。

「これなんですけど」

 ぷるん。

 受付職員が眼鏡を少し持ち上げる。

「……水スライムですね」

「だと思います」

「どうして、さっきまでいなかった水スライムを連れて戻ってくるんですか」

「宿屋へ行く途中で拾いました」

「水スライムを?」

「死にかけていたので、水をやったら付いてくるようになりました」

 受付職員はしばらく無言だった。

「犬なら、まだ分かるんですけど」

「僕もそう思います」

「水スライムですよ?」

「そうですね」

 二人で足元を見る。

 ぷるん。

 受付職員は小さく息を吐き、カウンターから出てきた。

「……とりあえず、少し調べましょう」

「まずは少し離してみますね」

 長い棒を持って、水スライムをそっとカイから遠ざける。

 一メートル。

 問題ない。

 二メートル。

 ぷるぷると身体が揺れ始める。

 さらに離そうとした瞬間。

「……っ」

 カイの胸の奥に、奇妙な感覚が走った。

 引っ張られる。

 痛みではない。

 だが気持ちが悪い。

 同時に、水スライムも激しく震えた。

 受付職員の動きが止まる。

「今、何かありました?」

「変な感じがしました」

「どんな?」

「引っ張られたような」

 受付職員が水スライムを見る。

 それからカイを見る。

「……少し待ってください」

 表情が変わった。


 ◇◇◇


 しばらくして、奥から年配の職員が出てきた。

 手には小さな水晶板を持っている。

「契約魔物用の鑑定器です」

 朝の受付職員が説明した。

 カイは首を傾げる。

「でも、水スライムですよ?」

 年配の職員が頷く。

「その通りです」

「契約魔物になるんですか?」

「なりません」

「じゃあ、何のために?」

「だから調べるんです」

 妙に説得力があった。

 水晶板が水スライムの上にかざされる。

 淡い光。

 表面に文字が浮かび始める。

 年配の職員が読む。

 そして止まった。

 受付職員も覗き込む。

 動かなくなる。

 何が起きたのか分からず、カイも横から見る。

 そこには三つの項目が表示されていた。

 個体。

 低級水スライム。

 状態。

 安定。

 そして最後。

 契約者。

 カイ。

「……」

 誰も話さない。

 周囲の冒険者まで、妙な空気に気づいてこちらを見始めた。

 カイが最初に口を開いた。

「……これ、壊れてません?」

 年配の職員は返事をしなかった。

 水晶板を一度消す。

 もう一度かざす。

 淡い光。

 同じ文字。

 契約者。

 カイ。

 年配の職員がゆっくり息を吐いた。

「……あり得ない」

 受付職員も頷いた。

「ですよね」

 カイは二人を見る。

「でも、出てますよ?」

「だから困っているんです」


 ◇◇◇


 奥の相談室へ移動することになった。

 水スライムも当然のようについてくる。

 ぷるん。

 年配の職員が分厚い資料を机に広げた。

「水スライムは、一般に契約魔物にはならない」

「なぜです?」

「契約に必要な知能と自我がほとんど確認できないからだ」

 資料をめくる。

「水スライムは非常に原始的な魔物だ。危険性も低く、素材価値もほぼない。死亡時には身体を維持できなくなり、ほとんど普通の水になってしまう」

 カイは足元を見る。

 確かに、出会った時はただの水たまりにしか見えなかった。

「だから、生態研究そのものがあまり進んでいない」

 職員は別の資料を開いた。

「少なくとも、このギルドに残っている記録には、水スライムとの契約例は一件もない」

「一件も?」

「ない」

 カイは水スライムを見る。

 ぷるん。

「じゃあ、これは?」

「分からん」

 即答だった。

「水をやったんだったな?」

「はい」

「それだけか?」

「何度か水魔法で」

「契約術は?」

「知りません」

「契約陣を描いた?」

「描き方を知りません」

「名前をつけた?」

「まだ名前もないです」

 年配の職員が額を押さえた。

 受付職員も困った顔をしている。

「本当に、普段使っている水魔法で水を与えただけなんですね」

「はい」

 カイは足元を見る。

 小さな水スライムも、こちらを見ている。

 ような気がする。

「……お前、何したんだ?」

 ぷるん。

「答えてるつもりか?」

 ぷるん。

 やはり分からない。

 ただ一つ確かなことがある。

 鑑定器には、間違いなくカイの名前が出ている。

 あり得ないはずの契約が成立している。

 理由は誰にも分からない。

 本人にも。

 ギルドにも。

 おそらく、この水スライム自身にも。


 ◇◇◇


 ギルドを出た頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 カイの隣を、小さな水スライムが跳ねている。

 ぷるん。

 今朝、孤児院を出た時は一人だった。

 これからも一人で暮らしていくものだと思っていた。

 自分で仕事を探して。

 自分で金を稼いで。

 自分で飯を食べる。

 そのはずだった。

 だが。

 一匹増えた。

 カイは水スライムを見る。

「宿って、魔物も泊まれるのかな」

 ぷるん。

「一匹分取られたら困るんだけど」

 ぷるん。

「食事はいらないよな?」

 ぷるん。

「本当に会話できてないよな?」

 ぷるん。

 カイはしばらく黙った。

 そして、小さく笑った。

「……まあ、いいか」

 歩き出す。

 歩き出す。

 水スライムも、ぷるんと跳ねてついてくる。

 今日の朝まで、カイが持っていたものは少なかった。

 古い鞄。

 着替え。

 短剣。

 わずかな銅貨。

 それだけだった。

 夕方になって、財布には銀貨が一枚増えた。

 そして足元には、名前すらない低級水スライムが一匹増えていた。

 その時のカイにとっては、それだけのことだった。

 死にかけていたから、水をやった。

 たまたま銀貨を拾って、少し気分が良かったから。

 ただ、それだけ。


 だからカイはまだ知らない。


 今日、自分が助けたこの小さな水スライムが、これから先、どれほど長く自分の隣にいることになるのか。

 低級と呼ばれた自分の水魔法に、どれほど多くの可能性が眠っているのか。

 そして。

 F級冒険者として最初の仕事を終えたばかりのこの少年が、いつの日か――

 SS級冒険者。

 王国から重大な使命を託されるほどの冒険者になることを。

 今のカイには、想像することさえできなかった。


 水スライムが、隣で小さく跳ねる。

 ぷるん。

「……だから、宿代がお前の分まで必要なのかって聞いてるんだけど」

 ぷるん。

「分かってないよな」

 夜の町を、一人と一匹が歩いていく。

 世界の誰も、まだ知らない。

 後に王国中へその名を知られることになる少年の物語が始まったのは、

 伝説の剣を手にした日でも、

 強大な魔法に目覚めた日でもなかった。

 銀貨を一枚拾って、ほんの少しだけ機嫌が良かった日。

 そして、

 死にかけた低級水スライムに、コップ一杯ほどの水を与えた日だった。

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