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鏡面の婚約破棄

作者: 清水薬子

 王宮の大広間。

 絹のカーテンが風に揺れ、金色の燭台がまばゆく光っていた。


「リシェル・オルドレア! お前との婚約を、今この場で破棄する!」


 突然の宣言に、集まった貴族たちのざわめきが広がる。

 声の主は、第一王子セオドア。誰もが認める美貌の王子であり、同時に、誰も逆らえぬ男だった。


 リシェルは微笑んだ。

 唇の端をわずかに持ち上げる、礼儀正しい微笑。それが彼女の最後の貴族的な防壁だった。


「……理由を、お聞かせ願えますか?」

「お前が、王家の資金を横領したと報告を受けた! 証人もいる!」


 王子の隣には、華奢な少女が立っていた。

 金髪の巻き毛に、涙で潤んだ碧眼。まるで絵画の天使。

 彼女────男爵令嬢メリナが小さく手を上げた。


「わたくし、見たんです。リシェル様が、王家の帳簿を改ざんしているのを!」


 ざわ、と空気が動く。

 貴族たちは視線を交わし、誰もが心の中で計算を始めた。

 どちらの陣営につくべきか。どちらが勝つのか。

 リシェルは静かに一歩前に出た。

 その瞳は、まるで鏡のように澄んでいた。


「……王子殿下。わたくしは潔白です。ですが、ここで争っても意味がありません。婚約破棄を、お受けいたします」


 「リシェル!?」の名を呼ぶ父の声が震えたが、彼女は一礼して黙らせた。

 そのまま彼女はゆっくりと踵を返し、大広間を去ろうとした。

 だが扉の前で、ふと振り返る。


「────殿下。ひとつだけ申し上げてもよろしいでしょうか?」

「……なんだ」

「鏡は、真実を映すものです。ですが、曇れば何も見えません。どうか……磨くことをお忘れなく」


 それだけ言い残し、リシェルは去った。


 その後、王子の周囲で奇妙なことが起こり始めたのは、ほんの数日後のことだった。

 帳簿がすべて焼け落ち、証拠が失われ、代わりにメリナの名が偽造書類に記されていた。しかも、彼女が持つ鏡の裏には、リシェルの家紋を刻んだ封蝋が貼られていたのだ。


 王子は震えた。

 ────鏡は、真実を映す。


 誰も知らない。

 リシェルが幼い頃から、幻影を操る古い魔術を研究していたことを。

 彼女が最後に言った「鏡」とは、彼自身を指していたのかもしれない。

 虚栄に曇った鏡は、やがて自らを映すことさえできなくなる。



◇◆◇◆


 あの婚約破棄の夜から、季節がひとつ過ぎた。


 リシェル・オルドレアは、今は王都の外れにある古い屋敷で暮らしている。

 かつての絢爛たるドレスも宝石も、ほとんど手放した。代わりに手にしたのは、硝子と銀でできた鏡の欠片たちだ。

 彼女はそれらを磨き、組み合わせ、光を試す。

 昼間は穏やかな魔術の研究をし、夜は古い鏡細工を作る。

 どんなに曇った鏡も、手をかければ再び光を返す。

 それが、今の彼女の慰めだった。


 ある午後。

 屋敷を訪ねてきたのは、一人の青年だった。質素な服を着ていたが、その背筋はまっすぐで、どこか懐かしい気配があった。


「……お久しぶりでございます、リシェル嬢」

「ええ。元侍従長殿。あなたまで追放されていたとは知りませんでした」


 青年は静かに頷いた。

 メリナの不正を内部告発したことで、彼も職を失ったのだという。


「陛下がようやく目を覚まされ、真実を調査なさっている。君の潔白も、もうすぐ証明されるだろう」


 リシェルは少し笑った。

 それは感謝でも安堵でもない。ただ、静かな笑み。


「もういいのです。真実なんて、証明されなくても。私は、私がどんな人間だったかを知っていますから」

「だが、名誉が────」

「名誉は他人の鏡です。曇れば、磨けばいい。けれど、私はもう、映されることに疲れました」


 青年は言葉を失った。

 けれど、リシェルの声には悲しみよりも、柔らかい光が宿っていた。


「いまの私は、鏡を作る人です。誰かが自分を見つめ直すための鏡を」


 彼女の指先には銀粉がついていた。

 陽光の下で、それはまるで星屑のようにきらめいた。


 その日、青年は小さな手鏡を一つ受け取った。

 裏には、彼女の紋章と共にこう刻まれていた。

“真実を映すのは、鏡ではなく、見る者の心。”

 その言葉は、王都に戻った青年を通じて、やがて王の耳にも届いたという。

 そして数年後、リシェルが作った鏡は「心映えの鏡」と呼ばれ、貴族たちの間で密かに求められるようになる。


 鏡は静かに人を映す。

 それは復讐ではなく、救済の形。

 ──曇りなき心だけが、真実を見抜けるのだから。





◇◆◇◆




 リシェルが去ったあの日から、王宮の鏡は一枚、また一枚と割れていった。

 最初は偶然だと思っていた。だが、まるで王城そのものが何かを映すのを拒むように、割れた鏡は増え続けた。


「殿下……こちらの帳簿、また矛盾が見つかりました」


 侍従が青ざめた声で報告する。

 セオドアは机に突っ伏し、乱れた髪の間から虚ろな目を上げた。


 焦げた紙の匂い。焼却された証拠。消えた金。

 ────そして、メリナの不在。

 彼女はすでに逃げていた。婚約破棄劇の“証人”として称賛されたあと、密かに国外へ消えたのだ。

 置き土産は、偽造書類と、ひとつの手鏡。

 裏に刻まれていたのは、リシェルの家紋。

 だが、その鏡を覗き込んだ瞬間、セオドアは息を呑んだ。

 鏡の中の自分が笑っていた。

 冷たい、嘲るような笑み。

 現実の自分は歯を食いしばっているのに、鏡の中の王子は穏やかに微笑んでいた。

 その唇が動いた。


「鏡は、真実を映すものです。曇れば、何も見えません。」


 リシェルの声だった。

 セオドアは鏡を床に叩きつけた。

 ぱりん、と音がして、破片が散らばる。

 そこに映ったのは、自分の足元。

 ────泥のような罪の影が、ぬるりと広がっていた。


 あのとき、彼女は言っていた。

 “婚約破棄を受け入れます”と、静かに。

 彼はそれを「敗北」と思っていた。だが今ならわかる。あれは「赦し」だった。

 自らの手を汚さず、真実に委ねる強さ。

 彼には、一度も持てなかった力。

 夜明け前、彼は再び鏡の欠片を拾い上げた。

 月明かりがその表面を滑る。そこに映るのは、やつれた自分の顔。それでも、正面から見つめるしかなかった。


「……リシェル。ようやく、見えたよ」


 彼は王位継承の権利を放棄した。

 その後の彼の行方を知る者は少ない。

 ただ、王都の片隅に“鏡磨きの男”が現れ、古い鏡を丁寧に磨いては、道行く人々に差し出していたという。

 彼が磨いた鏡は不思議なほど曇らず、覗く者の心を静かに整えると評判になった。

 そして、裏面にはいつも同じ言葉が刻まれていた。


「真実を映すのは、鏡ではなく、見る者の心」




◇◆◇◆





 潮風が髪を乱した。

 海の見える小さな町の宿で、メリナは窓辺に座り、割れた鏡の欠片を指先で転がしていた。

 指に触れるたび、ひやりと冷たい。

 それは、王子を奪ったあの日────リシェル・オルドレアの手から密かに奪った鏡の破片だった。

 「綺麗な人だと思ったのに、随分と古ぼけた鏡を持ち歩くのね」と、当時の自分が笑っていたのを覚えている。


 王子に見初められたくて、貴族の娘に憧れて、嘘を重ねた。

 リシェルを貶めれば、自分が愛されると信じていた。

 滑稽なほど、必死だった。

 でもリシェルを貶めた夜、王子の瞳に浮かんでいたのはリシェルの姿だけだった。

 彼女の名前を呟き、古ぼけた鏡を抱きしめていた。

 それを見たとき、心の奥で何かが音を立てて崩れた。


「どうして、あんな顔ができるの……」


 メリナは呟き、鏡の欠片を陽にかざした。

 その中に、涙で歪んだ自分の顔が映る。

 彼女は笑っていなかった。化粧も落ち、頬もやつれ、もう“美しい女”ではなかった。


 メリナが街を歩いていた時、旅の商人が彼女に声をかけた。


「お嬢さん、その鏡、変わってるね。裏に刻印がある」


 彼が指差したのは、小さく彫られた紋章────リシェルの家の印だった。

 そして、その下にかすれた文字。

“真実を映すのは、鏡ではなく、見る者の心。”

 それを読んだ瞬間、メリナの手が震えた。


「リシェル……あなた、私を憎まなかったのね……」


 彼女は涙を流しながら、初めて自分の心を見た。

 どれだけ醜く、どれだけ臆病で、どれだけ愛を欲しがっていたか。

 そのすべてを受け入れたとき、鏡の欠片がふっと温かくなった。

 光を透かすと、欠けたはずの面が、ゆっくりと滑らかに繋がっていく。

 ────まるで、赦しのように。

 メリナは町を出た。

 行く先を誰も知らない。

 ただ、しばらくして辺境の地に「孤児院を開いた女」がいるという噂が広まった。

 子どもたちに鏡を与え、「自分の顔を見てごらん」と微笑む女。

 美しい微笑みを浮かべ、悩める子どもに寄り添う。


「鏡はね、心を映すの。だから、優しい顔をしていれば、鏡もきっと優しく光るのよ」


 子どもたちは笑い、鏡はきらめいた。

 その女が、かつて“婚約破棄の首謀者”だったなど、誰にも分からない。



◇◆◇◆




 春。

 陽の光が柔らかく、空気に花の匂いが混じる午後。


 王都の外れ────リシェルが営む鏡工房の庭に、ひとりの客が訪れた。

 彼女は黒い外套をまとい、深くフードをかぶっていた。

 靴の音が砂利道を静かに叩く。

 庭の奥では、銀色の硝子を磨くリシェルの姿がある。

 風に揺れる髪は相変わらず整っていて、指の動きは美しかった。


「……鏡を、お願いしたいのです」


 声は低く、かすれていた。

 リシェルは布を置き、顔を上げる。


「はい。どのような鏡をお求めですか?」

「……“自分を見つけるための鏡”を」


 一瞬、リシェルの手が止まった。

 その声音には、記憶の底に沈んでいた痛みがあった。

 けれど、彼女はやわらかく微笑んで言った。


「では、こちらへ。心を映す鏡は、光を選びますから」


 工房の奥。

 並ぶ鏡の中のひとつが、午後の陽射しを受けて淡く光った。

 女がフードを下ろす。

 ────そこにいたのは、メリナ・フォールトンだった。

 やせた頬に陽があたり、瞳の奥に長い旅の色がある。

 リシェルは驚かなかった。ただ、ほんの少し息を吸い込み、穏やかに言った。


「ずいぶん、遠くまで行かれたようですね」

「はい……。あのとき、あなたを傷つけたことを、ずっと後悔していました」

「後悔は、鏡を磨くようなものです。傷は残りますが、光も増える」


 メリナは目を伏せ、鏡に手を伸ばした。

 硝子の表面がかすかに波打ち、二人の姿が並んで映る。

 若い頃には決して見えなかったもの────


 涙も、赦しも、そして人の温もりも、そこにあった。


「あなたは、怒っていないの?」

「いいえ。あなたがあのとき私を貶めなければ、私はここにいなかった。誰かに壊されて、ようやく自分を作り直せたのです」


 メリナの頬を、一筋の涙が伝った。

 それを見たリシェルは、鏡布をそっと差し出す。


「涙の跡は、拭きましょう。悲しみは、もう過ぎたのですから」


 二人は少し笑った。

 外では風が吹き、花びらが舞い込んで鏡の前に散った。

 光が反射して、部屋中がやわらかく染まる。

 そのとき、リシェルがふと思い出したように言った。


「そういえば……王子殿下も、最近は鏡を作っておられるそうですよ」


 メリナが目を丸くする。


「鏡を? あの方が?」

「ええ。市場で偶然見かけました。とても丁寧な磨き方で……手に取る人が、皆静かに笑うのです」


 メリナは微笑み、胸に手を当てた。

 リシェルも鏡の方を向き、二人の姿を映す。

 そこには、もう嘘も怒りもない。ただ、過去を越えて並ぶ二つの影があるだけだった。


「鏡は不思議ね」

「ええ。割れても、映すことをやめないのです」


 外の風が香りを運ぶ。

 花の白と、光の金と、再会の静けさ。

 リシェルは鏡に触れ、静かに言葉を置いた。


「真実を映すのは、鏡ではなく──心。そして、赦した心は、最も美しい鏡になるのです」

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