ダム下の夏
「おい、幸太ー! 遊び行くぞー!」
朝の陽ざしが眩しい夏休み中盤、藤村家の玄関がガラリと開いて、塩崎太陽の声が飛び込んできた。後ろには弟の遙人、親友の大塚浩平が立っている。
「太陽くん、どこ行くの?」
幸太が出ると、太陽はニヤリと笑って小声でささやいた。
「……ダム下だよ。今日、あそこ行くんだよ」
「えっ! マジで!? やった!」
「しーっ! おとなには公園行くって言うんだよ!」
ダム下。それは街の南にある巨大なダムの下流、立入禁止区域にできたため池のこと。釣り人や冒険好きな子どもたちの集う場所となっていた。もちろん危険区域だが、子どもたちにとっては、夏の最高の冒険の場だった。
「僕も行くー!」と妹の有紀が後ろから叫ぶ。
「ええー……有紀も?」と幸太は少し渋い顔をする。
「だって、お兄ちゃん、いつも連れてってくれないもん……」
「おいおい、女はやめとけって。泣かれると面倒だぜ」
「そうそう、お荷物になるだけだぞー?」と遙人も口を挟む。
「……いいよ。有紀も来いよ。ちゃんと浮き輪持ってきたか?」
ちょっとだけムカつきながらも、有紀の手を引いて幸太は出発した。
立入禁止のフェンスを越え、ダム脇の鉄のはしごへとたどり着いた一行。コンクリートの壁に張りつくように設置されたそのはしごは、真下に流れる石だらけの川原まで25メートルもある。
「ここ下りんの? こっわ……」
有紀が顔をひきつらせて立ち尽くす。
「うわー、やっぱ女って怖がりだな〜」
「帰れば?」と遙人がニヤニヤしながら言う。
「……お兄ちゃん……」
「……大丈夫。有紀、俺が下にいるから。ちゃんとついて来いよ?」
涙ぐむ妹に、幸太は手を差し出した。ゆっくり、ゆっくり、慎重に。ようやく全員が無事に下まで降りたときには、日差しが真上から照りつける昼近くになっていた。
「うおー、相変わらず石ごろっごろだな!」
子どもたちは大きな石を飛び越えながら、川原を200メートルほど下った。すると目の前に、直径200メートルほどの池が現れる。
「おおーっ! きたきた、ダム下!」
水は透き通り、青緑に輝いている。時折、魚の影が水中を走った。
「よーし、泳ごうぜ!」
「うん!」と幸太と浩平が先に水着に着替え、シュノーケルと水中眼鏡を装着。幸太は有紀にも浮き輪を渡して言った。
「お前も、ちゃんとこれで浮かんでろよ?」
「うん、ありがと、お兄ちゃん!」
水に入ると、冷たくて気持ちがよかった。太陽がギャーギャー騒いでいる声をよそに、幸太たちは魚の泳ぐ姿を追って夢中で潜った。
「うわっ、カニだ!」
水底に、大人の拳ほどある土色のカニがじっとしていた。
顔を水面に出した幸太は、岸にいた浩平に叫ぶ。
「カニいたぞ! でっけーやつ!」
「まじ? それ、多分モズクガニだね」
「え、食えるやつ?」
「うん、けっこう美味いらしいよ」
岸に戻ると、釣りをしていた塩崎兄弟がハヤを3匹釣り上げて、石を組んだ簡易たき火で焼いていた。
「おー、やるじゃん!」
「だろ? 俺って天才」
「太陽くん、それ食べるの?」
「もちろんだ! 焚き火で焼いた魚、サイコーだぞ?」
幸太が言う。
「水ん中にでっかいカニいたぜ。モズクガニってやつだって!」
「は? マジで!?」
太陽がスマホを取り出し、検索し始める。
「……モズクガニ、高級食材って書いてあるじゃん! やっべー、食べようぜ!」
「でも……取れるかな」
「やるんだよ! な? 遙人! 行くぞ!」
「おう!」と兄に続いて駆け出す遙人。
幸太と浩平も、もう一度シュノーケルをつけて潜り始めた。
有紀は浮き輪を抱きながら、岸辺でぽつんと見つめていた。
「……お兄ちゃん、あんまり深く行かないでね……」
その日の午後、子どもたちは全員、カニ探しに夢中になっていた。幸太たちが見つけたモズクガニは4匹だったが、焚き火でじっくり焼くと、香りが香ばしく、皆で分け合って食べた。
「うまっ……」
「やば、カニってうめぇな……」
「もっと取ってきてー!」と遙人が叫ぶ。
そんな中、浩平がポツリと言った。
「でもさ……モズクガニって、普通は岩陰とかに単独でいるんだけどな」
「え?」と幸太が振り向いた。
「いや、今日みたいに岩陰にもいないで、こんなでっかいのがいるの、ちょっと変だなーって」
「変って……何が?」
浩平は答えなかった。ただ、水面の向こうをじっと見ていた。
そのとき、有紀が震える声で言った。
「……ねえ、お兄ちゃん……あそこ……なんか、いる……」
皆が一斉に振り向いた。
陽があたらない薄暗い場所の水底に、黒くうごめく無数の影が密集していた。
「……あれ、カニじゃね?」
「群れてる……?」
「モズクガニが、あんなにたくさん……?」
太陽の目がぎらつく。
「すげぇ! 大漁じゃん! 全部取って食おうぜ!」
「お、おう!」
「やったじゃん!」
遙人が喜び勇んで突っ込もうとする。
「ちょ、待てって! いきなり行ったら逃げちまうだろ!」
太陽が弟を止めながら指示を出した。
「いいか、俺と幸太と浩平でぐるっと囲む。遙人と有紀は岸で見てて。合図で一気に潜るぞ!」
「お兄ちゃん……やめた方が……」
「大丈夫だって。有紀はそこにいて!」
幸太は妹に軽く手を振って、太陽たちとともに黒い塊に向かって泳ぎ出した。
水中に潜ると、すぐに異様な気配を感じた。黒い群れは岩陰に張りつくように密集しており、近づくと、無数の目とハサミがこちらをじっと見つめているように思えた。
「いけっ!」
太陽の合図で、三人は一斉に群れに手を伸ばした。
「いたっ!」
「こっちも!」
数匹のカニが網と手づかみで捕まえられ、水面に放り投げられる。その音に驚いて他のカニたちは水底をうごめき始めた――が、誰かが叫んだ。
「うわっ! 逃げたやつの下、なんかある!!」
浩平だった。
「なに? どうした浩平!?」
「しっ、静かに!」
浩平が再び潜って覗き込む。数秒ののち、顔を上げた彼の唇は青ざめていた。
「……あれ、たぶん……人だ」
「は?」太陽が眉をひそめる。
「何言ってんだ、バカ。そんなわけ――」
「ほんとなんだって! ちょっと見てみろよ……!」
幸太と太陽も続けて潜った。水中眼鏡越しに、カニが群れていた岩の下、灰色の水底に半ば埋まるようにして“それ”はあった。
白く膨らんだ手。指が半分欠け、骨が露出していた。
「うわああああっっ!!」
幸太は思わず水中で叫び、顔を出して必死に泳いだ。有紀が心配そうに近づいてくる。
「お兄ちゃん! なにがあったの!?」
「やばい……やばいって、あれ、人の……人の死体だ……!」
次の瞬間、水面をバシャバシャと太陽が駆け上がってきた。
「う、うそだろ……うそだろうが……」
「うわあああああああっっっっ!!!」
遙人が叫び、足を滑らせて尻もちをついた。
岸辺では子どもたち全員が泣きそうな顔で凍りついていた。
「と、とにかく帰ろう! 警察に言わなきゃ!!」
「うええええ……なにあれ……カニに食われてたよ……」
「死体だよ……ほんとに……人だったよ……」
警察には勇気を出して幸太が電話した。
「ダム下に……死体が……カニが、たくさんいて……水の底に……」
声は震え、途中から泣きながらの通報だった。
その日のうちに、警察と消防、ダム管理事務所の職員が現地を調査。翌日には新聞にも「小学生らが発見 ダムの下流で女性の遺体」という小さな見出しが載った。
死体は、数日前に人造湖で入水自殺を図ったとされる女性のものだった。放流によってダム下まで流され他ものとみられていた。
八月の終わり、夏休み最後の日。
幸太は家の縁側に座っていた。蝉の声はもう弱くなり、風は少しだけ涼しかった。
「お兄ちゃん……」
有紀が横に座る。
「……ん?」
「怖かったけど……お兄ちゃんが、いてよかった」
「……そっか」
「また……行こうね。ダム下じゃなくて……近くの川とかに……」
「うん。今度は安全なとこにしような」
そして二人は黙って、沈む夕陽を見つめた。
もうあの場所には、近づかない。
風の向こうで、水底にひっそりとひそむ、無数の目が、じっとこちらを見つめているような気がして――
幸太は思わず目をそらした。