死人橋
神奈川県の北部、山に囲まれたある市の外れ。
八月。お盆の真っ盛り。
あたりの空気はどこか湿り気を含み、蝉の鳴き声が耳にまとわりついて離れない。
「ミーンミンミンミン……ジジジ……」
中学二年生の少女・朝倉紗月は、両親と共に父の実家に帰省していた。母方ではなく、父方の田舎というのがまた独特で、夏休みに毎年来ていたはずなのに、なぜか毎回風景が少しずつ違って見えた。
紗月は肩までの黒髪を後ろで結んだ、目元が涼しげな少女だった。色白で細身、日焼け止めの香りが常にほのかに漂う。Tシャツにショートパンツ、首には薄手のタオルを巻いている。親戚が多く集まる家の中では、人の熱気で蒸し暑く、うっすらと汗をかいていた。
夜になると、大広間には親戚一同が集まり、祖父母を囲んで酒を飲んだり、話に花を咲かせたりしていた。子供たちはというと、二階の座敷部屋に集まり、蚊取り線香を焚きながら、怪談大会を始めていた。
その中でも、一番年上の高校二年のいとこ・遥姉ちゃんが語る話は別格だった。
「死人橋って、知ってる?」
部屋の電気が消され、懐中電灯だけがぼんやりと畳を照らしている。
「集落の北の外れにあるんだって。杉林の奥、滝の前にかかってる古い橋。金属の枠と、木の板だけでできててね……細くて、歩くとギシギシ音がするんだって」
「え、それって何のための橋なの?」
「昔は、遺体をお墓に運ぶための道だったの。村の人が死ぬと、その橋を渡って清流を越えて、山の上のお墓まで連れて行ったんだって。だから死人橋って呼ばれてる」
ざわっと空気が冷えた気がした。
「蛍が出て、すごく綺麗なんだって。でもね……その蛍が、人魂だって言う人もいる」
紗月は布団をかぶりながらも、その話が頭から離れなかった。
翌朝、親戚たちはそれぞれ帰っていき、家は再び静けさを取り戻した。紗月の両親は仏壇の整理やお墓参りで忙しそうにしていた。暇を持て余した紗月は、村の中を散策することにした。
空は晴れ渡っているが、湿度が高く、空気が肌にまとわりついてくる。蝉の声はまるで怒鳴り声のように響き、耳が麻痺するほどだ。
(死人橋……ほんとにあるのかな)
昨日の遥姉ちゃんの話を思い出しながら、紗月は北の道へと歩いていった。
舗装された車道の端、畑の向こうに道が切れている。
その先に、農作業中のおじさんがいた。
「すみませーん、死人橋ってこの辺にありますか?」
その言葉に、おじさんの顔がさっと険しくなる。
「……あの奥だよ。でも、やめときな。道、崩れてるとこもあるし、滑ったら谷に落ちるぞ」
「気をつけて行きます!」
笑って答えたが、おじさんの目は笑っていなかった。
杉林に入ると、空気ががらりと変わった。ひんやりとして、風も吹いていないのに葉が揺れている気がした。
しばらく進むと、水音が聞こえてくる。
シャラララ……と、涼やかな音。
木々の隙間から覗くと、そこには清らかな水が流れていた。谷は深く、落差は数メートル。川面は陽光を受けて、ゆらゆらと光を反射している。
川沿いを注意深く歩くと、水面近くまで下りられそうな砂利道を見つけた。
紗月は草をかき分け、慎重に下へと降りた。
「冷たっ……」
触れた水はまるで氷水のように冷たく、透き通っていた。小魚が泳ぎ、川底の石もはっきり見える。
そのとき、ふと目を上げた。
向こう岸の上、10メートルほど高い位置に、一本の橋がかかっていた。
錆びついた金属のフレームに、朽ちかけた木の板。
まるで空中に浮かぶ細い道のように、橋は崖と崖をつないでいた。
「あれが……死人橋……?」
その瞬間、橋の上に何かが動いた。
瞬間、紗月は身をすくませた。影のようなそれは、形を曖昧にしたまま橋の対岸の木々の中へ消えていった。誰だったのか。なぜ、あんな場所に――。
心臓がどくどくと高鳴っていた。
それでも、足は勝手に動いていた。
(上から見てみたい……橋の上がどうなってるのか……)
紗月は川沿いの坂道を引き返し、山道を登っていった。橋を上から見るには、川を囲む尾根の片側をぐるりと回り込む必要がある。道は狭く、木々が鬱蒼と茂っていて、時折蜘蛛の巣が顔に絡みついた。
森の奥に進むにつれ、空気が変わっていく。蝉の声が遠のき、風が止んだ。
代わりに聞こえるのは、乾いた木の軋みと、自分の呼吸音ばかりだった。
やがて木々の隙間から、例の橋が見えた。
「……これが……」
近づくと、橋の実体がよりはっきりと分かった。
金属のフレームは赤く錆び、ところどころ腐食して穴が開いている。
木の板は腐り、踏めば割れそうな箇所ばかり。手すりもない。
一歩足をかけることすら躊躇するような、危うさ。
(これは……さすがに渡れない)
紗月は橋の先を目で追った。
その向こうに、木々の隙間から何かが見える。
石。
古びた、黒ずんだ石塔。いくつも並んでいた。
「あれ……お墓……?」
鳥肌が立つ。
確かに遥姉ちゃんが言っていた。
遺体を運んだ橋、死人橋。
あの橋の先が――墓地なのだ。
ぞわり、と背中を冷たいものが這った。
そのとき、足元でカチッと何かが鳴った。
見ると、小さな石がひとりでに転がっている。
風もないのに。
さらにもう一つ、その横に石が転がる。
そしてもう一つ。
「……っ……」
紗月は思わず後ずさった。
がさり。
背後の藪が揺れた。
誰か、いる?
振り返っても、誰の姿もない。
でも、さっきまで無音だった森が、何かの気配でざわめいている。
すると、橋の向こう。
先ほどまで誰もいなかったはずのその場所に、また人影が立っていた。
一人。
……いや、二人、三人……四人。
視線を凝らす。
白い和装のようなものを纏い、手を前に合わせている。
顔は見えない。
というよりも、顔が、ない。
真っ白な、のっぺらぼう。
その中の一人が、ゆっくりと橋の中央まで進み、立ち止まった。
風が吹いた。
森全体がざわめき、葉が揺れる。
音もなく、もう一人が橋を渡ろうとした。
腐った木板が、ミシ……と沈んだ。
板が、耐えているのか、それとも、沈んでいるのか。
次の瞬間。
ドサッ。
誰かが橋の途中で崩れ落ちたような音がした。
だが、水音はしない。
落ちたのに、音が、ない。
紗月はもう、目を逸らすことができなかった。
そして、四人の影は、橋の先に並び、こちらをじっと見ている。
見えている。
目がないのに、視線だけは感じる。
不意に、鼻を刺す匂いがした。
鉄のような匂い。
……血?
風がまた吹く。
そのとき、頭の奥で何かが弾けた。
「――っ!」
紗月は背を向けて走り出していた。
木々の枝が腕を裂く。
蜘蛛の巣が顔に絡む。
それでも、止まれなかった。
走って、走って、森を抜け、谷を回り込み、来た道を戻る。
やがて、山道に出て、息が切れた。
地面にへたりこみ、酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。
目の前には、通りかかった軽トラ。
「おい、大丈夫か!」
初老の男性が車から飛び出してきた。
――
気がついたとき、紗月は実家の居間で布団に寝かされていた。
母の姿があった。
「もう、どこまで行ってたの! 山に一人で入るなんて……!」
怒られながらも、紗月の頭はまだぼんやりとしていた。
夢だったのかもしれない。
幻覚だったのかもしれない。
そう思いかけたそのとき。
傍らに置かれたリュックから、何かが転がり出た。
朽ちた木片。
赤茶けた釘が、斜めに打ち込まれている。
見覚えがあった。
死人橋の、あの板だった。
鉄の匂いが、また、漂ってきた。