今年の夏の帰郷で
「ワシャワシャワシャワシャ……」
「……うるさいな……ウルサーイ!」
耳元で繰り返されるような騒がしさに、思わず声を漏らす。真夏の空気は熱気を抱えた布団のように重く、皮膚にまとわりついて離れない。
七月初旬。梅雨明けはまだなのに、連日猛暑日が続いている。今年の夏は、いや今年の夏もどこかおかしい。空は青いのに湿気は雨のように満ちて、セミだけが元気になき、ただ草木が音を立てて擦れ合っていた。
私は首都近郊にある、小さな町に帰ってきた。実家への里帰りは、大学に入ってから初めてだ。三年ぶり。何の変哲もないこの町には、観光地もなければ流行りのカフェもない。あるのはただ、人造湖と、古戦場跡と、苔むした城の石垣だけ。
それでも、この町の空気はどこか懐かしい。バス停を降りた瞬間、もわっとした熱気が肌を包んだ。呼吸が湿って重くなる。
「ああ、この感覚だ…」
そんな見慣れた風景のなかに、ひとつだけ新しいラーメン屋が出来ていた。逆に、昔からあった小さな雑貨屋は消えていた。それ以外は、時間が止まったように、町はそのままだった。
バス停から実家まではわずか300メートル。右に曲がればすぐ――だが、私はなんともなしに左に目を向けた。
斜面の下。うっすらと木々の隙間から見える黒い湖面が、ギラギラと光を返していた。
「……久しぶりに行ってみるか」
自分に言い聞かせるように呟く。誰に聞かせるわけでもない独り言だった。
斜面を下りながら、私は記憶をたどる。この道は、かつて湖ができる前に集落があった時代から続いていた旧街道で、ダム建設当時は資材を積んだトラックが通っていたという。いまでは広いだけのアスファルトの道路に成り下がり、使われることもなく、路上駐車の車が数台停まっているだけだ。
湖が近づくにつれ、空気がさらに重くなる。坂の終点には、ガードレールを加工したフェンスが横たわっており、立ち入り禁止の文字が色あせて見えた。
もちろん、形だけの禁止だ。この湖はブラックバス釣りの有名なポイントで、フェンスの脇には通り抜けた跡が残り、すでに釣り人が踏み固めた獣道ができていた。
湖面まではまだ10m程あり、さらに坂を下っていかないと湖には行けない。
私は持っていたペットボトルの水を一口飲み、滴る汗をぬぐった。
「……まったく変わってないな」
フェンスをくぐり抜けると、60年前の舗装道路はもはや風化し、アスファルトの表面は草に覆われ、割れ、崩れていた。湖岸へと続く細い道だけが、人の通る痕跡をわずかに残している。
虫の音が耳にまとわりつく。ギリギリと高く、ひどく近い。
引き返そうか――と一瞬思ったそのとき、背後から人の気配がした。
「こんにちは」
「こんにちは」
ふいに声をかけ合い、振り返ると、釣り竿を手にした男たちが二人やって来た。軽装で、手慣れた足取りだった。私を見て、どちらかが少し眉をひそめたように見えた。
「……あ、いや、実家に帰ってきたんです。なんか懐かしくて」
無意識に言い訳のような言葉が口から出た。
「へぇ」
釣り人たちは、軽く相槌を打つと、私に構う様子もなく、草の中へと姿を消した。足音もやがて遠ざかり、再び静寂だけが辺りに残った。
私はひとり、じっと湖の方を見つめた後、彼らの通った後を歩き始める。
私は草をかき分け、子どもの頃に遊んだ小さな池を探していた。記憶の中では湖の手前、木の陰にひっそりとあったはずだが、草の勢いが強くて見つからない。足元からはバッタが跳ね、時おりチチチ…と小さな虫の鳴き声が聞こえる。
ようやく、それらしい場所を見つけた。
「ここか……」
直径にして十メートルほどの小さな池。水はぬるく濁っていて、深くても膝下くらい。底が見えるほど浅い。のぞきこむと、無数のオタマジャクシが蠢いていた。黒い塊が生きているかのようにうねり、時おり波紋が広がる。
「うわ……」
小さく呟いて思わず顔を背けたそのとき、後ろから足音がして振り向いた。
「こんにちは!」
「こんにちはー」
三人の子供がそこに立っていた。2人は男の子、1人は女の子。年の頃は小学校三年生くらいだろうか。タンクトップに短パンの男の子、大きすぎる麦わら帽子に長靴。女の子は、まるで給食係が着るような割烹着を着ている。
「こんちは……」
私も思わず挨拶を返した。子供たちは無邪気で、池の中に手を突っ込んでオタマジャクシやミズカマキリ、ゲンゴロウ、そしてタガメまで捕まえて見せてくれる。
「すごいね」
私は笑って応じながらも、どこかで奇妙な違和感を覚えていた。なにが変なのか、この時ははっきりとは分からなかった。
「ねえおじさん、湖いこうよ。こっちのほうがもっとキレイな水があるんだ」
女の子が無邪気に誘ってきた。もう一人の男の子も頷く。
「こっちの小川、すっごい透き通ってるんだよ」
湖か――。あまり行きたくはなかったが、子供たちの誘いの熱心さに負けて頷いた。
湖の北側、山側から小さな川が流れ込んでいる場所へと私たちは向かった。その場所は確かに、水は透き通っていて、苔の揺れる川底がはっきり見える。小さな魚の影が泳ぎ回っていた。
「あれ……昔、俺もここ来たことがあるな……」
記憶の断片がふっと浮かんだその時。
「亀だ! イシガメ!」
女の子が叫んだ。男の子たちが駆け寄る。私も遅れて近づくと、岸ぎりぎりに黒っぽい甲羅がちらりと見えた。男の子がそっと手を伸ばすと、亀は水中へとすばやく逃げた。
「待てー!」
もう一人の男の子が竹の棒を亀の鼻先に突き刺して、亀を岸に追い立てようとする。
そのときだった。
「きゃっ!」
女の子が足を滑らせ、湖へ落ちた。
「おいっ!」
私は反射的に走った。男の子から竹の棒をひったくり、女の子へ差し出す。
「掴めっ! しっかり掴むんだ!」
だが女の子は手を伸ばすものの、うまく握れない。指が水の中でぐにゃりと滑る。
私は着ていたシャツを脱ぎ、ポケットの中身を放り出し、ジーンズのまま湖へ飛び込んだ。
浅そうに見えたが足がつかない。
小川から流れ込んだ冷たい水が全身を包む。女の子は必死になって私にしがみつく。
「落ち着け! 大丈夫だ!」
水面にもがきながら声をかけるが、女の子は暴れてばかりで、私の腕を締めつける。
そうだ、海難救助……溺れている者には背後から抱えて――
そう思った瞬間、
「おじさん!」
ドンッ――
何かが私の背中にぶつかってきた。男の子たちが、なぜか湖に飛び込んできた。
「やめろ! 危ないから!」
だが彼らは返事もせず、私の腕や肩にしがみつく。
「助けて……」
「おじさん……」
耳元で、声がする。無邪気で、でも妙に冷たい声。
私は恐怖を覚えた。このままでは、まずい。
「……離せっ!」
叫んで水を掻き、岸へ向かう。しかし、斜面は急で、泥はぬかるみ、足元が滑る。
そのとき――
「ググッ」
足首を、何かが掴んだ。
水の中で、影が見える。目をこらすと、子供たちの顔が……ぼやけていた。
皮膚がふやけ、目は見開かれ、口が水を吸い込むように開いていた。
「いっしょに……」
その瞬間、
「おーいっ!!」
大声とともに、水面に何かが現れた。膨らんだゴムボートが私の目の前に滑り込む。
「何してんだあんたっ!」
釣り人が私の腕を引っ張り、水の中から私を引き上げた。
気づけば、子供たちの姿はなかった。湖面は静かで、ただ波紋だけが揺れていた。
その後、実家でシャワーを浴び、タオルを頭にかぶってリビングに戻ると、家族は呆れたような顔で私を見ていた。
「お兄ちゃん、何してんの、びしょ濡れで…」
「まったく、もういつまでも子供なんだから……」
その中で、ただ一人、祖母だけが私を気にかけてくれた。
「……あの湖ができたとき、町が沈んだんだよ。あんたのじいさんも見に行ったって言ってたわ。水の底に、まだ屋根だけ出てる家があったって。そしたらその年の夏、湖を見に行った子が溺れたんだよ……」
ばあちゃんの目が、まっすぐに私を見つめていた。
「三人だったんだって――子供が」
実家での滞在も終わりに近づき、私は帰りの荷造りをしながら、あの出来事を何度も思い返していた。
あのとき助けたはずの子供たちは、結局見つからなかった。釣り人も、「ボートの近くにいたのはあんただけだった」と首を傾げていた。
家族は誰も信じてくれなかった。「熱中症じゃないの?」と笑って済まされ、祖母だけが黙っていた。
私はふと思い立って、町の図書館へ行った。古い新聞の縮刷版を開いてみる。昭和三十八年の夏――
そこに、確かに記されていた。
『湖岸で遊んでいた児童三名が行方不明』
『目撃者はなし、事件か事故か――』
三人のうち、男の子二人は友人同士、そして女の子はその妹だったとある。
私は静かに新聞を閉じた。
――あれは、助けを求めていたのか。それとも、ただ連れていこうとしたのか。
数日後。東京の自宅。
ミネラルウォーターのボトルを、無意識に開ける。
冷蔵庫から出したばかりのはずなのに、ぬるい。
口を離して、ふと底を見る。
中で、何かがうごめいた。
それでも、私は今日も水を飲む。
あの日から、なぜか――喉が異様に乾くようになった。