障子の向こう側
*
一方のチカゲは別の部屋で、別の妓女に着替えのために服を脱がされていた。脱がした経験はあるが脱がされた経験はない。しかも女装なんてしたことはなかった。なぜこんなことをしているのかという気分になる。
しかしあの少女の無鉄砲さを思うと、どうも心配せずにはいられない。それにもしも、もしものことがあったら――あの娘が犯され殺されるなんてことがあったら、酷く気分が悪くなるに違いなかった。
あの下らない日常のやり取りもなくなってしまう。それは嫌だ。
その上計画も失敗してしまう。リオンも知らない、誰にも知られてはいけない計画。まだ実行の段階ではない。証拠がない限りは無闇に実行してはならない。
妓女が美しく微笑んだ。
「お兄さん女装するって本気? 綺麗な顔ねえ」
「はあ、顔が取り柄ですので」
顔色一つ変えずチカゲは言った。自分の赤い目が嫌いだったし、自分自身も嫌いだった。故郷の村を出てから、ツクヨミに拾われてから世界は変わった。そして女相手ならそれなりにこの顔が有効に使えるということも理解した。ただの道具の一つだ。自分が嫌いなことに変わりはない。そんなことも知らず、女は笑った。
「ふふ、嫌いじゃないわよそういうの。お兄さん、あの子を守りたくてついてきたんじゃないの?」
「……そうなのかもしれません」
「要領を得ないわね、恋人なの?」
「いえ」
「そう。じゃあ――お金は取らないから、まだ明るいし、時間もあるし、私と――どう?」
はだけさせられた胸に女が寄りかかる。扇情的で美しかったが、何も感じなかった。
「――そんな気分ではないです。着替えの続きをお願いします」
女は憤慨したようにチカゲを見た。
「私ここで売れっ子なのよ。お兄さん……気持ちよくしてあげられるわよ?」
「着替えの続きを、お願いしているんですが」
女は怒ったように胸から離れた。
「万が一客の前に出てもそれだけ無愛想じゃ駄目ね。ま、男だとバレた時点でアレだけど。犯人さえ殺してくれればいいし」
ムッとしたようにてきぱきと着物を着せていく。普段着ている黒い着物は男物だ。今は同じ黒だが明らかに系統の違うものだった。灰白色の髪が艶やかに髪が結われていく。
「襟元に赤を入れましょうね。あら、日差しの中で見ると髪も銀色にも見えていい感じ。かんざしは――目と同じ赤がいいかしら。紫もいいわね。ほら、紅を塗ってあげるわ。動かないで。――つまんないわねお兄さん。顔色一つ変えないんだから」
そんなこんなで立派な「妓女」の一人が出来上がってしまった。鏡の中のチカゲは女にしか見えない。
「あらいいじゃない。これじゃまるで売れっ子ね」
皮肉なのか本気でそう思っているのかは分からないが、まあ女は満足そうな目をしていた。確かにチカゲは、売れっ子の妓女に見えた。
「ま、これだけ着飾ってもお客の相手をするのはあのお嬢ちゃんよ」
「っ、もし他の客が来たら――」
「それは私達の仕事。犯人の顔は割れてるんだから、他の客はいつも通り相手をするだけよ」
「……ワタシが、犯人の前に出るのはいけませんか」
「女将が許さないでしょうね。あなたは『万が一』の人材だもの。本当は外部の男入れちゃいけないのよ? それに犯人に男とバレたら大変じゃない。脱がすんだから結局そうなるでしょ」
チカゲはわずかに言葉を失くした。
妓女はキセルを吸いながら告げた。
「お兄さん、ここまで着飾ってアレだけど、多分何もさせてもらえないと思うわよ。あの子がかわいそーだと思う? 女ってそーいうものなのよ。男に産まれただけ、あなたはマシなの」
分かっている。そんなことは分かっているが、酷い焦燥感がチカゲを蝕んだ。
「うわ、その顔でお客の前に出ないでね? あ、呼ばれてるわよ」
チカゲが案内されたのは別の部屋だった。障子を開ければ、美しくも妖艶に着飾られたリオンが座っていた。
ここで夜まで待つように、と言われて取り残されてしまった。とは言っても、着替えているうちに随分経ってしまって、日も沈んでしまったが。
リオンは紫の着物を着ていた。胸元が見えそうなものだ。
髪も結われてかんざしがいくつも挿してある。艶やかだがチカゲとは系統の違う化粧。それは初心な生娘が色づいたような、綺麗なものだった。
美しい、と思った。同時にぞっとした。思わずチカゲは顔を顰めてしまった。この娘を見た客はどうするだろう。初々しい彼女の身ぐるみを剥ぎ取って、めちゃくちゃにしたくなるのではないだろうか。
ただただ恐ろしくなった。
*
「まるで売女ですね」
リオンを見たチカゲの、一言めがそれだ。少なくとも娼館で言う言葉ではない。他の妓女がいなくて良かったとリオンは思う。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでも綺麗、と言ってもらえないかな、なんて期待していたのが馬鹿らしくなるほどだ。
「チカゲさん、言い方」
「すみませんつい本音が」
「他の妓女さんに聞かれてなくてよかったね」
「……似合いません。アナタには」
「まだ言う」
ムッとしたリオンと裏腹に、チカゲはなぜか必死だった。
「似合いません! やめてください! ワタシが犯人の相手をします。そのために来たんです」
「……。心配してくれてるの? 持つべきものは友達ですね。どーも」
「リオンさん、ワタシは、」
「あのねチカゲさん、女将さんにも言われてるの。チカゲさんは見目は合格だけど、所詮は男なんだから、犯人の相手をするのはわたしだって。わたしも元よりそのつもりですよ」
チカゲは少し青ざめていた。皮肉なことに口紅が映えて余計美しかった。
「わたしに着物が似合ってない? 勝手に言ってれば? あなたは売れっ子みたい。とてもお綺麗ですよ」
怒っていたので皮肉げに言ってやる。けれど彼からいつもの返事はなかった。愕然とリオンを眺めていた。
「その姿で、他の男の前に出るのですか」
「似合わないって話?」
「そうじゃなくてっ」
「大丈夫、ちゃんと短刀を隠し持ってます。襲われそうになったら、えい! だよ」
刺す真似をしてみせる。
いつもの装束と違うから少し難しいが、まあリオンは自分の刀の腕は信じていたから、どうということはなかった。――いや、本当は、それなりに怖かった。
「顔色が悪いですよ」
チカゲが言った。
「アナタ、少し震えています」
「気のせいじゃない? わたし五人の盗賊も殺したんだよ」
「リオンさん、ワタシは――っ」
すっと襖が開いた。
リオンはハッとする。気がつけば外は真っ暗だ。襖の向こうに女将が立っていた。
「数日待ちぼうけになる可能性もあったのだけれど――運がいいのか悪いのか――お客様がお越しよ、リオン」
リオンは唇をわななかせた。
チカゲの顔はそれ以上見ないようにした。縋りつきたくなってしまうから。
そのまま立ち上がり、気丈に笑って見せた。
「それじゃ、またあとでねチカゲさん」
そのまま奥に進んだ。
*
チカゲは女将に言われ、部屋の横で待機するように言われた。仮にリオンが任務に失敗した場合のためだ。
だがそうでない限り、決して入るなと言われた。この時間、部屋は男と女の閨の場所。邪魔をしてはならない空間だ。
襖から覗くことはできない。けれど影だけが見えた。影だけでもリオンは美しかった。
犯人だという客の男が、リオンの前に座る。中から声が聞こえた。
「おや、これはこれは初々しい」
「どうも、ここでは初めてなので、失礼がありましたらお許し下さい」
「今日は運がいいな。嬢ちゃん、またどうしてここに?」
「ええと、あ、あはは……その、お金がその、足りなくて」
「そうか。まあちゃんと金は払ってあるから安心してくれ。俺は気持ちよくしてやるのが好きだしな。痛いのは一瞬さ。良くしてやるからそんな顔をするな。……ああ、そそるな」
男の影がリオンの頬に手を伸ばす。チカゲはなぜか、今すぐ飛び出して行って男を斬り殺したくなった。
殺気を漂わせるチカゲを、隣にいた女将が小声で止めた。
「リオンはうまくやるでしょうから、心配いらないわ」
本当に? ああそうかもしれない。だが腸が煮え繰り返りそうだ。この感情はなんだ。
中から上擦った声が聞こえてくる。
「えっと、あの、お手柔らかにお願いします」
「はは、ああ、お手柔らかにしてやるよ。ほら、おいで。ああ、いい太ももだねえ」
「ひっ」
「大丈夫。もっと気持ちよくなれるからな」
男の影がリオンの服を脱がせようとする。本来ならそろそろ刀を抜く頃だ。だがリオンの陰はいつまで経っても動かない。
チカゲは焦るあまり小声で告げた。
「女将さん、」
「落ち着いて。あの子五人も殺したんでしょう? 男と対峙するのは慣れているはず。隙を伺っているのよ。邪魔をしては駄目」
違う、――違う、戦うのは慣れているだろうが、こう言った経験は、自分の知る限りでは無いはずだ。
彼女は隙をうかがっているのではない。――動けなくなっているのだ。
チカゲは思わず立ち上がり、がらりと襖を開けた。
女将が何か言う前に襖を閉じてしまった。
「ぁっ」
こちらを見たリオンが救われたような、どこか泣きそうな目をしていた。彼女ははだけさせられていた。もう少しで胸やら何やら見えそうだ。
思った通り彼女は動けなくなっているのであった。
「お客様、ここはワタシがお相手を致します」
「ちか――っ」
チカゲさん、とリオンは口走ろうとしてやめたらしい。一般的には男の名前だからだ。
「ほお、またえらい別嬪さんが来たなぁ。だが今俺はこの子と遊んでいてな」
「この子は慣れていないものですから、ワタシの方がお客様を愉しませられますよ」
「どういう風の吹き回しだ? 客の取り合いか?」
男は満更でもなさそうだが、リオンから目を離さなかった。
「悪いなぁ別嬪さん、俺は慣れてない子がなかなか好みでね」
「それはそれは残念です。ワタシの方が気持ちよくできますのに」
するりと肩を出して見せれば、男がにんまりと笑って目線をチカゲに向けた。
「まあそんなに言うならいいだろう。悪いな嬢ちゃん。また今度だ」
「っ」
リオンが泣きそうになりながらチカゲを見た。どう見ても心配と申し訳なさでいっぱいの瞳だった。チカゲは冷たくそれをあしらった。
「アナタの時間は終わりですよ。お客様はこれからワタシのお相手をするのですから。出てください」
「っ、……」
リオンは涙を堪えるようにして襖の向こうに出て行ってしまった。
さて、問題は目の前の犯人である。
チカゲは帯の中に短刀を隠していたが、男はかなり至近距離で近づいてきた。
まあ脱がされればこちらも男だとバレてしまうだろう。そんなことを考えていると首筋を撫でられた。
悪い意味で鳥肌がたった。
「うん、綺麗な肌だなぁ、楽しませてくれるんだろう? もっと見せてくれ」
「あ、ええ、」
続く言葉が出てこない。短刀を出そうにも身体を弄られ、意図せず身体が固まってしまう。そのうち上半身をはだけさせられてしまった。
「あ? おいおい胸が全然ないじゃないか。まさかとは思うが」
「ヒッ」
下を触られた。
「男じゃねえか」
そこで彼が萎えてくれれば良かった。そうしたら隙ができたはずだ。ところが運が悪かった。
「こりゃ店に文句言わなきゃいけねえなあ。ま、それは後でいい。俺は男でもイケるんだ。特にこんな別嬪さんならな」
この男は、なぜチカゲのような男が出てきたのか疑問に思わないのだろうか。犯人だと顔が割れているのだ。よっぽどの馬鹿か――あるいはチカゲも抱いた後刺し殺すつもりなのか。
殺されるのはまだしも、犯されることを思うとゾッとした。
威勢の良かった自分はどうした。しっかりしろと自分に言い聞かせる。だが身体がうまく動かない。はだけさせられて、太ももを触られている。気持ち悪さの余り鳥肌が立った。
「わ、ワタシは――」
「ん? 萎えてんじゃねえか。今気持ちよくしてやるから」
手を伸ばす彼の背後で、襖が開いた。リオンが射殺しそうな目でこちらを見ていた。
ハッとしたチカゲが口を開く前に、短刀を翳し、リオンが叫んだ。
「チカゲさんに触らないで!!」
そのまま男の背中に短刀を突き刺した。
「ぐはっ、あっ、……」
口から血を吐いて、胸や背中を鮮血で染めて、男はがたりと崩れ落ちた。
リオンが泣きそうな目で肩を揺らしている。
「はあっ、はあっはあっ」
チカゲはあまりのことに呆然と座っていることしかできなかった。
「だ、だいじょーぶ? チカゲさん」
「ええ、まあ、はい」
なんとか立ち上がると、自分が相当はだけさせられていたことに気づく。
リオンが目を逸らした。
「と、とりあえず、任務かんりょーです」
「ああ、お疲れ様二人とも。リオン、ありがとう。あと、チカゲだっけ? そっちの男もね」
言いながら女将が入ってきた。
「死体の片付けはこちらでやっとくから。ああ良かったわ。これでうちも安心して商売ができる」
リオンがかすかに震えた声で言った。
「そ、それは良かったです」
「二人は休んでちょうだい。悪いけど他の部屋は使ってるから空いてないのよ。一室だけどいい?」
リオンはちょっと固まったが、真面目な顔で頷いた。
「分かりました」
チカゲはなんとなく気が遠くなりそうだったが、何も考えないことにした。
そうして二人は奥の部屋へと通された。
まあ途中あんな声やこんな声が聞こえて大層居心地が悪かったが、聞こえないふりをした。
部屋に着くと布団が敷かれてあって、しかし一応配慮したのか二組あった。
「それじゃ、悪いけどこちらは片付けやら何やらで忙しいから。また朝に」
そう言って女将は行ってしまった。
襖が閉まると同時にリオンが膝をついた。
「り、リオンさん!?」
「うっうう〜っ」
色々堪えていたらしい。それが吹き出したかのようにリオンは青い瞳から大粒の涙をこぼした。
「ちょ、ちょっとなんでアナタが泣くんですか?」
「こ、怖かったです、すごく」
しゃくり上げながらリオンが泣いている。彼女も確かにはだけさせられている。
そんな彼女が顔を赤くして泣いているのだ。よろしくない光景だった。
「とにかく落ち着いて。アナタはよくやりましたよ」
「ううっ、怖かったよぉ、さわ、触られたのも怖かったし、あなたが、触られたのも怖かった!!」
そう言ってぼろぼろと泣いた。
彼女が泣くのを見たのは流石に初めてで、チカゲも慌ててしまった。
「リオン、リオンさん、落ち着いて下さい。そもそもワタシなんの役に立ちませんでしたね? すみません。アナタの心配事ばかり増やして、仕事の邪魔したようなものです」
「ちがっ、ちがうっ、女将さんから、わたしが動かないのは隙を伺ってるからだと思ったって、聞かされた。でもチカゲさんが止めに入ったって。わたし触られた時怖くて動けなくなっちゃって」
子どもみたいに泣いている。ああどうしたら良いのだろう、チカゲはすっかり困ってしまった。しゃくり上げながらリオンは言うのだ。
「チカゲさんがいなかったらわたし、多分あのまま――ひくっ、ああ、ごめんなさい。こんな馬鹿みたいに泣いて――でもあなたがいなかったら、ほんとに、ほんとに、」
「分かりましたよ、落ち着いて」
下手くそなりに頭を撫でてみる。
リオンはぽろりと涙をこぼした。
「好きです」
チカゲは今度こそ固まってしまって、言葉に詰まってしまった。
「助けてくれた。いつも文句ばっかりなのに。好きにならない方が、おかしいですっ」
「そ、そうですか。あいにくワタシは――」
「分かってます、分かってるからっ」
リオンはぐしぐしと涙を拭いた。
「でもわたし、やっぱりぐすっ、確信しました。好きです。あなたはわたしを、勝手に振ってください。わたしも勝手に、何度だって告白するのでっ」
なんだか良くわからない感情が身体を駆け巡った。よくないものだ。とにかくよくない。
この娘がおかしな格好をしているせいかもしれない。きっとそうだ。
「あの、ですねえ。はぁ、まあいいです。ご勝手に。あとその格好、不愉快なんですが。服を脱げとは言いませんから、そのかんざしやら何やらなんとかなりませんか?」
「こ、これですか?」
リオンは泣き腫らした目でいくつもあるかんざしを抜いて行った。その度に巻かれた髪が落ち、最終的に全部下ろされた。その方がよっぽど扇情的で、チカゲはさすがに赤くなった。
「チカゲ、さん?」
無垢な少女の眼差しにどうしたらいいのか本気でわからなくなった。
少女が赤くなる。
「も、もしかして、わたしに、見惚れて、くれてる?」
「――違います」
「ほんとに?」
「違います」
「そ、そっ、そっか」
残念そうに少女は俯いた。馬鹿らしい。この娘に情を持つだけ無駄だ。こっちにはこっちの計画がある。彼女は何も知らないけれど、それならそれでいい。利用できるものはなんだって利用すればいい。