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トイワホー国における策略 5章

サフィニアはビャクブとフレークをそれぞれ紹介した。ビャクブはいつにも増して畏まっている。

「いやー」フレークは言った。「ぼくはヤツデくんともお話をしてみたかったけど、ヤツデくんは風邪をひいちゃったのではしょうがないですね。それでも、ぼくはビャクブくんとお会いできてうれしく思います。ようこそ」フレークは満面の笑みを浮かべている。「ビャクブくんは来てくれてありがとうございます」フレークはいつでも心にゆとりを持っている。ビャクブは即座に「いえいえ」と応じた。

「こちらこそ」ビャクブは話を紡いだ。「フレークさんはこんなに立派なお宅に招待させてくださってありがとうございます。時に、フレークさんたちの兄弟は仲がとてもいいんですね?」ビャクブはなんの考えもなしに言葉を述べた。「ヘンルーダさんとカスミさんとコリウスさんは一姫二太郎だし、おれはヘンルーダさんから聞かせて頂いた『絆ファミリー』の話にはとても感動させてもらいました」

「それはまた」「フレークは言った。「どうもありがとうございます。ただ、このことはよく間違われますが、一姫二太郎は女の子が一人で男の子が二人という意味ではなくて子を持つには長子は女の子で次子は男の子がよいという意味なんですよ」フレークはできるだけやんわりとビャクブの間違いを指摘した。

「あーあ」サフィニアは言った。「ビャクブくんは初っ端からドジを踏んじゃった。でも」サフィニアは確認を取った。「お父さまはそれくらいでビャクブくんのことを軽んじないよね?」

「もちろんだとも」フレークは応じた。「それは当然のことだよ。間違うことは誰にだってありますからね。それではそろそろ本題に入りましょうか」フレークは真面目な顔をした。

 なぜなら、ビャクブは質問内容の書かれているメモ用紙と自前のペンを用意し出したからである。

「それではお言葉に甘えさせてもらいます。一つ目の質問はこれか」ビャクブは紙面から顔を上げた。「おれは時間がかかってしまってすみません。ゼンジさんというお父さまはフレークさんからご覧になってどのような方でしたか?」ビャクブは捜査を開始した。サフィニアは黙ってその様子を眺めている。

「父は窮地に立たされると意外と弱い人でした。ただ、社長をしていたぐらいですから、それでも、父はなんとかして乗り切ってきたみたいです。それに、父は追い込まれた時には他の人の意見も積極的に受け入れる人でした。ぼくも『困った時はお互いさま』という言葉は父から何度も聞かされましたからね。あとはそうだなあ。ご覧のとおり、父はお金持ちでしたが、無駄遣いはしませんでした。父はかといってケチという訳でもありませんでしたけどね。ぼくから見た父の人物評はそんな感じです」フレークは言い終えた。

「さすがはフレークさんも社長をされていらっしゃるだけのことはありますね。フレークさんは見事な観察眼をお持ちなので、おれは大変に参考になりました。それでは失礼ですが、フレークさんは事件のあった際にはどちらにいらっしゃいましたか?」ビャクブはそう言うと再びペンを持って画板の上の紙に文字を書く体勢に入った。ビャクブはそうしながらも恐縮そうにしているので、フレークは敏感にそのことを察した。

「ようはアリバイですね。ぼくは聞かれても平気ですよ。ただ、ぼくには残念ながらアリバイはありません」フレークは真っ直ぐなもの言いをしている。「あの時は仕事場にいましたが、ぼくはずっと一人でしたし、ぼくにはこっそりと抜け出すことも可能な状態でしたから」フレークは真顔である。

「フレークさんは正直にお答え下さってありがとうございます。おれもヤツデもアリバイがないくらいでフレークさんを疑ったりすることはないので、ご安心下さい」ビャクブは言いづらそうにして聞いた。「それでは次の質問ですが、フレークさんにはゼンジさんを恨んでいる人間にお心当たりはありませんか?」今は実の息子に父親の悪いところを聞いているので、ビャクブは恐縮している。

「ぼくの小さい頃のことはよくわかりませんが、父は思うにぼくの物心がついた頃には皆から好かれている様子でした。父はたくさんの年賀状も貰っていましたし」フレークは言った。「ここは『愛の国』と言われるトイワホー国ではありますが、あるいはそのことをやっかんでいる人はいたかもしれませんが」

「話を割って悪いんだけど」一応はサフィニアも話し合いに参加した。「おじいさまの会社は段々と大きくなって行った過程で潰れた会社はなかったの? もし、あったら、そこの社長や社員はおじいさまを恨んでいたとしてもおかしくはないでしょう?」サフィニアは聞いた。ビャクブはそれを傍観している。

「そうだね」フレークは頷いた。「でも、それはないと思うよ。ぼくはさっき『おじいさまは皆から好かれていた』と言ったけど、その中には他社の宝石店の社長も含まれていたから、他社が潰れそうになったら、その時はおじいさまのところへ来て助けやアドバイスを貰っていたみたいだからね」フレークは淡々と答えた。

「そっか」サフィニアは納得した。「おじいさまはトークもうまくて人柄もよかったものね。ああ。ごめんね」サフィニアはビャクブに対して再び話の主導権を譲った。「私はビャクブくんの話を割っちゃったね」

「いや」ビャクブは寛容である。「おれは一向に構わないよ。一応」ビャクブは「サフィニアが質問してくれたこともきちんとメモさせてもらったし」と言うと再びフレークの方に向き直った。

「フレークさんにはもう少しだけ質問をさせて下さい。事件の前後になにか変わったことはありませんでしたか?」ビャクブは言った。「どんな些細なことでも結構です」

「変わったことはないと言ったら、それは嘘になります。というのはコリーが事件後に遺産の受け取りを拒否しているのです。ですが、この事実はおそらく今回の事件とは無関係だと思いますよ」フレークは意味深なことを言った。フレークは直感でその理由を知っているのかもしれないとビャクブは思ったが、この問題はプライベートなことだし、フレークの方も答えてくれそうもなかったので、この話は切り上げることにした。

「変わったことはもう一つあります。父は事件の二日前に『自分はもう棺桶に足をつっこんでいる』というようなことを言っていました。ぼくは父のセリフにしては弱気だなと思ったので、その時はほんの少しの違和感を覚えました。しかも」フレークは遠い目をしている。「そのセリフはコリーにも言っていたそうです」

「なるほど」ビャクブは納得した。「ゼンジさんはなにかを感じ取り身の危険を察知していたのかもしれませんね」ビャクブは考え深げである。フレークはそれについて特にコメントをしなかった。

「ビャクブくんって迷信深いね」サフィニアは口を挟んだ。「でも、それはないと思うよ。よく考えてみてよ。普通は身の危険を感じたんだったら、他の人に助けてもらえばいいじゃない。それなのにも関わらず、実際にはそんな相談を受けた人はいない。ただの偶然だよ」サフィニアは思ったことを口にした。サフィニアはやはりストレートな性格なのである。フレークは表情を変えないでいる。

「それは確かに一理あるな。おれの考えすぎか。それではまたフレークさんにお聞きしますが、フレークさんは事件の前日にゼンジさんの部屋には行きましたか?」ビャクブは質問した。

「答えは『ノー』です。そう言えば、ここ最近はおじいさまの部屋には行っていないな」フレークは平然と答えた。「父と話す時は専ら食後の席ですませていましたからね」

「わかりました」ビャクブは理解を示した。「ヤツデからはおれも聞きたいことがあれば、聞かせてもらってもいいと言われているので、個人的な興味でお聞きしますが、フレークさんのご趣味はなんですか?」このビャクブの質問には大した意図がある訳ではない。ビャクブはお金持ちの人の趣味を知ってみたかったのである。

「ぼくの趣味は様々な国のコインを集めることです。ぼくはいわゆるコレクターっていうところですね。帰り際に声をかけて下されば、ぼくは喜んでビャクブくんにもコレクションをお見せしますよ。それとも」フレークは聞いた。「ビャクブくんはあまりコインには興味がありませんか?」

 これは誰もがそうだが、自分の収集しているものは他の人にも見せたくなるものである。サフィニアは口を挟まなかった。ビャクブは「いえいえ」と取り成した。

「そんなことはありません」ビャクブは腰が低い。「おれは無趣味でも何にでも興味を持つ性分なんです。それではヤツデからの最後の質問です。フレークさんの誕生石はなんですか?」

「ガーネットです」フレークは親切に答えた。「ビャクブさんはもうお聞きかもしれませんが、サフィの誕生石はサファイアです」フレークは妙なことを聞かれても全く動じていない。

「さすがは宝石商の社長さんだけあって即答ですね。フレークさんはご親切に教えて下さってどうもありがとうございました」ビャクブはそう言うと礼儀正しくきちんとぺこりと頭を垂れた。

「え?」サフィニアは焦っている。「ちょっと待った。ヤツデくんは人の誕生石なんて聞いてどうするつもりなの? まさかとは思うけど、ヤツデくんは熱にやられて頭の意識が朦朧としていたんじゃないの?」サフィニアとしてはもはや謎だらけの状態である。「お父さまはどうして質問の意図を聞こうとしないの?」

「ぼくは確かにヤツデくんと話したことはないけど、ヤツデくんの人柄はビャクブくんを通してなんとなくわかったから、ヤツデくんには必ずきちんとした意図を持っているんだろうなって思ったし、今はビャクブくんに聞いても困らせちゃうだけかと思ったんだよ」フレークは問いかけた。「ビャクブくんには誕生石の質問の意図はわかりますか?」フレークはさすがの気の使いようである。

「全然です」ビャクブは正直に答えた。「ヤツデは苦しんでいたから、昨夜も今朝も残念ながらヤツデとはあまり話はできなかったので、おれも誕生石の質問を見た時には『なんだコリャ』って思いました」

「ははは」フレークは笑んだ。「事実はやっぱりそうでしたか。天才の考えることは得てして凡人には理解が不能なことが多いですからね」フレークはきっぱりと言い切った。ヤツデとは一度たりも会ったことがないにも関わらず、フレークはそこまでヤツデを買っているのである。フレークには先見の明がある。

「それは」ビャクブは恥ずかしげもなく言った。「まさしくそのとおりです。おれにはヤツデの推理力の才能についていけないで、おれは何度も苦労をしたことかもわかりません」

「ビャクブくんも実にいい性格をしていますね。ビャクブくんはトラの威を借るキツネではなく謙虚な方です。ビャクブくんとお会いできて本当にうれしいです。これからの捜査もよろしくお願いします」

「了解しました」ビャクブは「フレークさんは貴重なお話を聞かせて下さってありがとうございました」と言うと再びぺこりと頭を下げた。サフィニアは満足そうにしている。

 ビャクブはフレークの元を離れた。ビャクブはサフィニアに連れられ、今度はサフィニアの母親であるアオナの元へ向かうことになった。とりあえず、ビャクブは一安心である。サフィニアは言った。

「私の家族はやさしいから、ビャクブくんにはお母さまも積極的に手を貸してくれると思うよ」

「ほら」サフィニアは歩きながら言った。「この音が聞こえる?」サフィニアは視線でもビャクブの注意を喚起した。ビャクブが耳を傾けてみると、ビャクブの耳にはピアノの演奏の音が微かに聞こえてきた。

曲調は実に穏やかである。サフィニアはドアをノックし返事が返って来てからビャクブと一緒に音楽室に入った。ピアノの奏者はやはりサフィニアの母親であるアオナだった。

アップライト・ピアノとは多く家庭や教育のために使われるピアノを言い一方のグランド・ピアノとは演奏会場で使われるピアノを言うのである。ビャクブはアオナに会釈した。

「悲しいけど」サフィニアは母親のアオナに言った。「ヤツデくんは熱が出てこられなかったの。でもね」サフィニアは懇願した。「ビャクブくんは来てくれたから、お母さまはお話をしてあげてくれる?」

「ええ」アオナの口振りはとてもやさしいものである。「もちろんよ。ビャクブさんは来て下さってありがとうございます。ヤツデさんには『お大事にして下さい』とおっしゃって下さいますか?」

「わかりました。それはきちんと伝えておきます。アオナさんは滅茶苦茶にやさしそうだな」ビャクブはアオナに好印象を持った。「それに、アオナさんはピアノの演奏もお上手でしたよ」

「ふふふ」アオナは微笑んだ。「ビャクブさんはやさしい方ですね。ですが、私のピアノの演奏は大したことはありませんよ」アオナは謙虚に言った。とはいっても、これは本当に謙遜である。アオナは『ハート・マーク』や『天女』という自作の曲を作っている程にピアノを使いこなしているからである。

 ビャクブとサフィニアはイスに着いた。ビャクブは自分でも言っていたとおり、アオナからはやさしそうな印象を受けたので、今回は割とリラックスしている。

「それでは早速に本題に入らせてもらいます。まずはありふれた質問をさせてもらいますが、アオナさんには幸いにもショッピングをされていたというアリバイがあるそうですね?」ビャクブは確認した。

「ええ」アオナはしっかりと断言した。「私はヘンルーダくんとカスミちゃんと一緒でした。おじいさまは大変な時だったのにも関わらず、これではあまりにも呑気な話ですが、間違いはありません」

「いえいえ」ビャクブは取り成した。「そんなことは予測不可能ですから、アオナさんは呑気なんかじゃないと思いますよ。アオナさんとカスミさんとヘンルーダさんはとにかくこれで全員がアリバイについての同じ供述をされたことになりました。そのことはヤツデにもきちんと伝えますので、アオナさんはご安心下さい」ビャクブはメモを取りながらもアオナを気遣った。サフィニアは相も変わらずに今回も聞き役に徹している。

「失礼を承知でお聞きしますが」ビャクブはできるだけソフトな言い方で質問した。「アオナさんにはゼンジさんのことを恨んでいた人にお心当たりはありませんでしたか?」

「はい」アオナは言った。「おじいさまはすごくやさしくて穏やかな方でしたから、恨んでいた人がいたとは私には思えません。おじいさまは義理の父親だから、私はそう申し上げるのではなく本心からそう思います」

 アオナは会ったばかりのビャクブに対しても懇切丁寧な対応をしているあたりはさすがにトイワホー国の国民である。ビャクブはヤツデの書いたメモに目を落とした。

「それじゃあ、次はこれか。アオナさんにはゼンジさんが亡くなられたこと以外で最近になって変わったことになにかお心当たりはありませんでしたか?」ビャクブは質問を続けた。アオナは「うーん」と考え込んだ。

「コリーくんの目が事件の前日(一昨日)に充血していたことは変わったことと言えば、変わったことです。コリーくんはおそらく涙を流していたんだと思います」アオナの腰は相も変わらずに低いままである。「私は本人に対して直接に聞いた訳ではないので、それはあくまでも私の推測ですが」

「なるほど」ビャクブは尤もらしい顔をしている。「アオナさんは貴重な情報を提供して下さってありがとうございます」ビャクブはメモを取りながらも言った。

 ヘンルーダは一昨日の午後に「コリウスはゼンジと言い争いをしていた」と証言していたので、ビャクブはそれとの関連性も考慮した方がいいと同時に思った。ビャクブは中々に聡明である。

「先程のアオナさんはゼンジさんのことをやさしい方だったとおしゃっていましたが、ゼンジさんの人柄はもう少し具体的にはどんなことをお思いになられますか?」ビャクブは聞いた。

「一番はやっぱりフレークと結婚をした時にそのことを歓迎して下さいましたし、おじいさまは嫁姑問題のようなことも絶対に起きないっておっしゃって下さったことです。それに、未来館でもしもそんなことが起きたとしても、おじいさまは絶対に私のことを守ってくれるとも言ってくれたことです。とはいえ」アオナは慎み深い。「おじいさまは私のことを安心させてくれようとしただけでおばあさまもとてもやさしい淑女でしたので、実際にはそのような心配は不要でした。ですから、私は本当に幸せ者だと思っています。おじいさまは殺害されたのにも関わらず、不謹慎ではありますが」アオナはビャクブの目を見て話をしている。ビャクブはアオナにしても十分な淑女だと認識した。ビャクブはすかさず「いや」と往なした。

「アオナさんのおっしゃりたいことはよくわかります。話は変わりますが」ビャクブは再び質問を開始した。「アオナさんは事件の前日にゼンジさんの部屋へは行かれましたか?」

「いいえ」アオナは言った。「おじいさまのお部屋には行っていません。ですが、それはどういう発想から生まれた質問なのですか? ビャクブさんのご質問はもちろん不快に思った訳ではなく単に不思議に思ったから、私はお聞きさせてもらいました」アオナはしっかりと大人の対応をしている。

「申し訳ありませんが」ビャクブは小さくなってしまった。「実のところ、おれはヤツデのメモに従って質問をしているだけなので、意図はおれにもさっぱりわからないんです。すみません」

「ビャクブくんはヤツデくんに絶対的な信頼を置いているんだものね。でもね。ビャクブくんはこれからもっと突拍子のないことを聞いてくるよ」サフィニアは確認した。「そうだよね?」

「あれのことかい?」ビャクブは合いの手を入れた。「サフィニアの前評判のとおり、この質問は実に唐突ですが、アオナさんの誕生石はなんですか?」ビャクブは自分で聞いておきながらも「これはなんの役に立つのだろう? 一体」と思った。サフィニアは母親のアオナの反応を窺っている。

「それは本当に奇妙なご質問ですね。私は三月の生まれですから、誕生石はアクアマリンとブラック・ストーンです」アオナは未だに不思議そうにしながらもきちんとした答えを提示した。

「わかりました」ビャクブは納得した。「アオナさんは変な質問にも答えて下さってありがとうございます。フレークさんとカスミさんとコリウスさんの兄弟仲はいいそうですね?」ビャクブは問いかけた。「アオナさんはそのことについてどう思われますか?」多少はこれも変な質問かなと思ったが、ヤツデは三兄弟の共謀を疑っているのかなと思ったので、ビャクブはアオナに思い切って質問してみた。

「私は三人の仲がいいのはすばらしいことだと思います。三人での団結力は確かにすばらしいですけど、私としては三人で他の誰かを助けられるところもすばらしいことだと思います。フレークとの結婚当初に三人と一緒に親交を深めるためキャンプに行ったら、フレークは『寒くないか?』とか『退屈じゃないか?』と色々なことを心配してくれましたし、コリーくんはカレー作りを一人でやると言い私を休ませてくれました。カスミちゃんは寝る前にテントの中でこれからは未来館で過ごすに当たって嫌なことがあれば、フレークだけではなく自分も助けになってくれるって言ってくれたんです」アオナは微笑みを浮かべている。「あの時はとてもうれしかったので、当時のキャンプは私の大切な思い出の一つです」

「そうですね」ビャクブは納得した。「血の繋がりはなくてもアオナさんには未来館にもすばらしい家族が揃っているんですね。おれからの質問というよりはヤツデからの質問は以上ですが、おれは一つリクエストさせてもらってもいいですか?」ビャクブはお願いした。「アオナさんは一曲だけ最後にピアノの音色を聞かせてもらえませんか?」ビャクブは人並みに音楽への興味を持っている。

「ビャクブさんは聞いて下さるんですか? それはすごくうれしいです。ご要望とあらば、私は演奏させてもらいます」アオナは「もちろん」と言うと『リメンバー』という曲の演奏を始めた。

ビャクブはもしかして放っておくとその内に居眠りし出すのではないかとサフィニアは見張っていたが、結局のところ、約三分の曲が終わるまではさすがのビャクブもきちんとアオナの演奏に耳を傾けていた。

「お聞き下さってどうもありがとうございます」アオナは懇切丁寧である。「あまり、うまくはありませんでしたが、今回の演奏はノー・ミスだったので、ご勘弁下さい」アオナはどこまでも謙虚である。

「おれには専門的なことはよくわかりませんが、少なくとも、アオナさんの演奏はお上手に聞こえました」ビャクブはサフィニアにも話を振った。「ピアノはサフィニアも演奏できるのかい?」

「私はできないよ。だけど、私には茶道と馬術の心得があるの」サフィニアはビャクブにピアノを弾けない代わりとして愛嬌のある笑顔を向けた。「すごいでしょう?」

「まあ」ビャクブは適当に受け流した。「それは確かにそうだな」

 サフィニアには茶道と馬術の特技があり、ヤツデにはすごい推理力とオカリナの演奏という特技があるのにも関わらず、自分には唯一特技がないので、ビャクブはバツが悪かったのである。

 とはいっても、ビャクブは物事を深く考えるような性格ではないので、そのビャクブとしてはそれによって必要以上に落ち込んでしまうというようなことはなかった。

 アオナからの事情聴取は終わったので、ビャクブはアオナに深くお礼の言葉をかけサフィニアと共に音楽室をあとにすることにした。アオナは淑女らしく最後にはお礼を述べた。

「あとはお話を聞かせてもらっていないのはカスミさんの旦那さんのラルフさんだけになったな」ビャクブは一応の確認を入れた。「ラルフさんは未来館にいるのかい? 今」

「うーん」サフィニアは少し考えた。「ラルフ叔父さまはいると思うよ。ラルフ叔父さまは本館じゃなくて別館の方に住んでいるから、ビャクブくんは私についてきてくれる? 私は案内してあげる。これはおさらいだけど、ラルフ叔父さまはカスミ叔母さまの旦那さんなの。だから」サフィニアは歩き出しながらも親切に教えてくれた。「私から見ると、ラルフ叔父さまは義理の叔父よ」

 ビャクブは生返事を返した。未来館は返す返すもでかくて綺麗だなとビャクブは上の空で思っていたからである。未来館の本館と別館は渡り廊下で繋がれている。

その道すがらでは青磁と白磁の壺がずらりと左右対称シンメトリーに並んでいたので、それらは鑑定すれば、どれもきっと高額なんだろうなとビャクブは思った。

「おれはラルフさん以外の未来館に住む人たちとはお会いしたけど、サフィニアの親族はアット・ホームな人たちだったな」ビャクブは未来館に圧倒されてばかりいないで頭を働かせることにした。「となると、ラルフさんもそんな感じなのかい? 例えば、ラルフさんとカスミさんは夫婦仲がいいのかい?」

「ええ」サフィニアは得意げである。「その二つの質問の答えはどちらも『イエス』よ。だから、今までのとおり、ビャクブくんには緊張する必要はないよ。ほら」サフィニアは「ラルフ叔父さまのお部屋はここよ」と言うとノックをして返事があるとドアを開け要件を述べて部屋に入った。その際のサフィニアは今の自分と一緒にいるのはヤツデではなくビャクブだということも忘れずに述べた。

「こんにちは」ラルフは言った「ビャクブくんの噂はサフィちゃんから兼ねがね聞いています。まずは初めにぼくの自己紹介をさせて下さい。ぼくはスポーツ・ジムでインストラクターをしているのです。ですから」ラルフは「ぼくにとってはこんなこともお茶の子さいさいです」と言うと卓越したバランス力とパワーによりダンベルを指一本で持ち上げて見せようとした。しかしながら、ラルフはそれに失敗してしまい自分の足にダンベルを落として「痛っ!」という声を上げた。サフィニアは無表情である。

「大丈夫ですか?」ラルフはまるでお笑い芸人みたいだなと思いつつもビャクブはしっかりとラルフの心配をした。「今の衝撃は痛そうでしたよ。おケガはありませんでしたか?」

「大丈夫です。これはビャクブくんへのドッキリですから」ラルフはケロリとしている。「足には痛くないようスリッパを履いていましたし、実はこのダンベルも大して重くはないんです」ラルフはそう言いながらも拾ったダンベルを「ひょいひょい」と上げ下げしている。

「ラルフ叔父さまは今回もやっぱりやるんだ。ラルフ叔父さまはこういう人よ。ビャクブくんはつまらなかったでしょう?」サフィニアは些かつっけんどんなもの言いである。「ラルフ叔父さまは社交的で人を笑わせるのが好きだけど、実際にはいつもつまらないことばっかりしているのよ」

「いやー」ラルフは頭を掻いた。「ごめん。ごめん。サフィちゃんは相も変わらず厳しいな」ラルフは「それはいいとしてどうぞお座り下さい」と言ってビャクブとサフィニアのことをソファに座らせた。

「サフィニアは厳しかったですが、今のギャグはおれには受けましたよ。大変だとは思っていましたが、おれはその一方で笑いを抑えるのに一苦労してしまいましたからね。ラルフさんはおもしろい方だ。ラルフさんはおもしろくて強くて男前だなんてカスミさんがラルフさんに惚れた理由は男のおれにもよくわかりました」ビャクブは寛ぎながら雑談している。サフィニアはここでは口を挟まなかった。

「いやー」ラルフは言った。「ビャクブくんはうれしいことを言ってくれるね。ですが、ぼくにはそんな三拍子が揃っているとは思えませんがね。ほら、サフィちゃんも頷いているでしょう?」ラルフはサフィニアから冷たい目で見られながら言った。サフィニアは別にラルフのことが嫌いな訳ではないが、サフィニアとラルフの二人の関係性はこれがいつものとおりなのである。そのことはラルフも大して気にはしていない。

「サフィニアからラルフさんへの風当たりは強いんですね。まあ、ユーモアの受け取り方は人それぞれですからね。ラルフさんのユーモアはおれと一緒でカスミさんには受けるみたいですね。時に、ラルフさんは毎年のように奥さんのカスミさんにプレゼントを贈られているのですか?」ビャクブはソファの間にあるテーブルのチラシを片づけているラルフを見ながら聞いた。「このお話はカスミさんご本人から伺ったのですが、カスミさんはラルフさんからのイヤリングのプレゼントを後生大事にされているので、おれはお聞きしている訳ですが」この時のビャクブにはある一つの可能性が頭を過ぎっていた。ラルフは「はい」と応じた。

「ぼくは毎年『カスミはこんなぼくとでも一緒にいてくれてありがとう』という意味を自分なりに込めてカスミの誕生日になるとプレゼントを送っています。今年はちょっと遅れてしまっていますけどね」ラルフは整理整頓を終わらせようやく落ち着いてしゃべれるようになった。

「カスミ叔母さまは今月の12日が誕生日だったのよ。ああ。そうか。だから、カスミ叔母さまの誕生石はトルコ石とラピスラズリよ。ラルフ叔父さまは自分の誕生石をビャクブくんに教えてあげてくれる?」サフィニアは促した。ビャクブはすでにペンとメモ用紙で聞き込みを開始していた。

「ぼくの誕生石はダイヤモンドです。それにしても」ラルフは言った。「ビャクブくんは随分ともの好きですね。お義父さんの事件についての聞き込みでそんなことを聞かれるとは予想外でした」

「実のところ、それはおれも同意見です。というのも、この質問はヤツデに頼まれたから、おれはお聞きしているので、その意図はおれにも読めてはいないからです」ビャクブはヤツデの描いた質問メモに目を落としながら聞いてみた。「それではカスミさんに関連した質問を続けさせてもらいますが、カスミさんとゼンジさんの親子関係はどのようなものでしたか?」ビャクブはほとんどアドリブの質問をしていない。

「仲は実に良好そのものだったと思います。カスミとお義父さんは一言で言えば『付かず離れず』のいい距離感だったと思います。ぼくはカスミとお義父さんがケンカをしているところを見たことがないですし、お義父さんは学生時代のカスミがお義父さんに勧められてやっていたバレエをやめることもすんなりと許してくれていたみたいですからね」ラルフは強調した。「バレエとはバレー・ボールではないですよ」

「はい」ビャクブは頷いた。「そのことはオリーブさんからも伺っているので、承知しています。ラルフさんのお父さんとゼンジさんはラルフさんとカスミさんのご結婚についてはどのような想いをお持ちになっていましたか?」ビャクブはすらすらと質問を続けている。その理由はちゃんとヤツデのメモがあるからである。

「ぼくの父親は初めこそびっくりしていましたが、実のところ、ぼくの父親もゼンジお義父さんと一緒で宝石商の社長をしていたんです。ですから、今のぼくの父親の会社だった宝石商はドリーム社に吸収合併されています。ぼくたちのものは決して政略結婚という訳ではなかったのですが、ゼンジお義父さんとぼくの父親は馬があったみたいだったので、ぼくの結婚はゼンジお義父さんとぼくの父親も喜んでくれていました。ぼくの場合は母親から逆玉の輿だと冷やかされましたけどね」ラルフは少し笑みを浮かべながらリラックスして話をしている。「ぼくは狙っていた訳ではありませんでしたが、致し方のないことです」

「いつかは私にも旦那さんにそんなことを言われる日がくるのかしら?」サフィニアは口を挟んだ。

「まあ、それは置いておいてラルフ叔父さまとカスミ叔母さまにはスポーツが好きっていうだけじゃなくて最初から手芸も好きだったっていう共通点があったそうなのよ。私にはラルフ叔父さまが手芸好きっていうのは少し意外だったけど」サフィニアは言った。それはビャクブもラルフの体格からして共感している。

「ぼくはサフィちゃんに初めて会った時からすでにスポーツ・マン体型だったから、サフィニちゃんとしてはそうだろうね」ラルフは幾分か得意げである。「ただ、幼少期のぼくはおばあちゃん子だったので、実際にはそういう方面でもよく花嫁修業をしていたカスミとは気が合いました」

「それはとてもいいことですね」ビャクブは半ば答えを予想しながらもきちんと確認した。「ゼンジさんはラルフさんからご覧になってどのような方でしたか? ゼンジさんはやさしい方でしたか?」

「ええ」ラルフは首肯した。「お義父さんはとてもやさしい方でした。お義父さんはお年を召されてもとても頭の切れる方だったと思います。ですから、お義父さんは今わの際にもあのようなメッセージを瞬時に残せたのだと思います。もっとも」ラルフは言った。「あれは本当にメッセージなのかどうかはまだわかりませんが」

「そうですね。ゼンジさんはラルフさん以外の方の話からしてもきっとものすごく頭がよかったのですね」ビャクブは聞いた。「ということは必然的にゼンジさんの記憶力はよかったのですか?」

「はい」ラルフは肯定した。「お義父さんはとても聡明でした。ボケは全く始まっていなかったように見受けられました。この場にサフィちゃんがいるから、煽てているのではなくぼくは本心からそう思っています」

「わかりました。月並みな質問ですが、ラルフさんは事件のあった際にはどちらで何をなさっていましたか?」ビャクブは探偵の常套句を口にした。「別にラルフさんを疑っている訳ではなくただの確認なので、どうか、ラルフさんはお気を悪くしないで下さい」ビャクブは配慮を忘れなかった。

「ええ」ラルフは理解を示した。「わかりました。ですが、ぼくにはアリバイを証明している人はいません。あの時は仕事中だったのですが、ぼくはたまたま一人だったので、誰もアリバイを証明してくれる人はいません。フレーク義兄さんも同じようなことを言っていたような気がしますが、とりあえず、ぼくの答えはそんな感じです」アリバイはなくても特にラルフには変化は見られない。サフィニアは黙して語らずである。

「ラルフさんは正直にお答えして下さってどうもありがとうございます」ビャクブはいつものとおりの質問をした。「それでは最後の質問ですが、ラルフさんは事件の前日にゼンジさんのお部屋には行かれましたか?」

「その問いには即答できます。お義父さんの部屋には行っていません。ぼくは長いことお義父さんの部屋には足を踏み入れていませんからね。一年くらいはなんだかんだで行っていません。ですが、ぼくは別に行くのが億劫だった訳ではありません。お義父さんは自室に引き籠もっているような方ではなくよく談話室や音楽室なんかにもいたので、ぼくは格別にお義父さんの部屋を訪問する必要はなかったというだけの話です」

「了解しました」ビャクブは頷いた。「ラルフさんは捜査に協力して下さって本当にありがとうございました。ラルフさんのお話はきっとヤツデが役立ててくれると思います」ビャクブは自信満々である。

「もし、そうなら、ぼくとしてもそれ程にうれしいことはありません。ビャクブさんはお話を聞いて下さってどうもありがとうございました」最後はラルフも礼儀の正しい態度で話を終えた。

 ビャクブとサフィニアの二人はラルフの部屋を出た。一旦は本館に戻ると、ビャクブとサフィニアは思考を整理するため客室で落ち着いた。ビャクブはすでに完全にリラックスしている。

「ほらね?」サフィニアは言った。「私の家族は皆がやさしかったでしょう? それでも」サフィニアは些か挑戦的な態度で質問した。「ビャクブくんは私の家族の中で怪しい人物を見つけた?」

「いや」ビャクブは否定した。「見つけてないよ。かといって」ビャクブは悟りの境地にいる。「それを証明することはできないし、おれだけではやっぱり犯人の目星をつけるのは無理だな」

「そっか」サフィニアは嘆息した。「ビャクブくんは明日もうちに来てくれるよね? 元気になっていれば、その時はヤツデくんと一緒に」サフィニアはしっかりとヤツデへの気配りをした。

「ああ」ビャクブは合意した。「サフィニアが呼んでくれるなら、おれは来るけど、明日はなんとしてでもヤツデには元気になってもらっておかないとおれが一番に困る」ビャクブは渋面を作っている。

「さて」ビャクブは気を取り直した。「フレークさんからコインのコレクションを見せてもらったら、おれは帰るとするか」ビャクブは呑気な口調で言った。サフィニアは納得してもう一度だけフレークのところへビャクブのことを案内した。ビャクブはそこでフレークによって大歓迎された。

 その用事もすむと、ビャクブはサフィニアからお礼を言われ未来館の外へ出た。今日は帰りもヘンルーダによってカラタチの家まで送ってもらうことになっていたので、ビャクブはヘンルーダのことを探そうとしたが、ヘンルーダの居場所の目星はすぐにつけることができた。なぜなら、ヘンルーダは広大な未来館の庭で焚き火をしていたからである。ヘンルーダは「お疲れさまでございます」と述べた。

「よろしければ」ヘンルーダは「ビャクブさまもお一ついかがでございますか?」と言って焼き芋に目を向けた。そのため、ビャクブは一つ焼き芋を貰うことにした。ビャクブはヘンルーダにお礼を言うことを忘れなかった。この場にはビャクブとヘンルーダの二人しかいない状況である。

「お疲れのところ、大変に恐縮ですが、ビャクブ様はわたくしにもなにか最近になって変わったことはないかとお聞き下さいませんか?」ヘンルーダは唐突に言った。不都合は特にないので、ビャクブはもぐもぐしながらも言われたとおりにした。今のビャクブは無心である。

「最近は三点ほど変わったことがございました。まず」ヘンルーダは言った。「昨日はゼンジ様の金庫からフレーク様がなにかを取り出していたとわたくしはカスミさまからお話を頂いております」

「それはゼンジさんが亡くなった直後だけに気になりますね。ん? でも」ビャクブは個人的な疑問を口にした。「カスミさんはどうしてそのことをヘンルーダさんにお話になったのですか?」

「遺憾ながら」ヘンルーダは言った。「それはわたくしにもわかりません。ですが、カスミ様はもしかすると他のご家族にお話されるよりある意味では部外者であるわたくしにお話しされた方が気が楽だったのかもしれません。それでは二つ目の変わったことでございますが、それはカスミ様に関するものです。実のところ、カスミ様は朝食の準備でお皿を二枚も割ってしまわれました。お食事中はなおかつ三回もスプーンやパンを下に落とされておりました。カスミ様は実のお父さまを亡くしたとはいえ、それは些か行き過ぎのような気が致します」ヘンルーダはゆっくりとした口調で話を区切った。

「それは確かに言えていますね。ん? まさかとは思いますけど、実はカスミさんには犯人がわかってその犯人が身内の人だったから、カスミさんは気が動転しているのか? ああ。すみません。今の話はただのおれの思いつきですので、どうか、ヘンルーダさんは真に受けないで下さい。それで?」ビャクブは貴重な証言を得るためにも今や真剣になっている。「最後の変わったこととはどんなことですか?」

「ラルフ様のことでございます。お仕事は今日も昨日もお休みなはずなのにも関わらず、ラルフ様はなぜかわたくしに仕事に行って来るとおっしゃってお出かけになられているのです」

「うーん」ビャクブは唸った。「それは確かに謎ですね。行き先が職場でないとしたら、ラルフさんは嘘をついてまでどこで何をしているのかな? そう言えば、カスミさんはラルフさんが休日にも仕事に出ているって言っていたな。おれはこれらもちゃんとあとでメモをしておかないといけませんね。ヘンルーダさんは貴重なお話を聞かせて下さってどうもありがとうございます」ビャクブはぺこりと頭を垂れた。「お話はとても参考になりました」ビャクブは機嫌がよさそうなので、ヘンルーダもうれしそうにした。

 その後は焼き芋を食べ終えたので、ビャクブはヘンルーダによって車でカラタチの家に連れて行ってもらうことになった。ビャクブはその間にさっきヘンルーダから仕入れた情報をメモしておいた。

 ヤツデなら、これだけの情報があれば、おそらくはゼンジ殺害事件の真相に肉迫できるだろうとビャクブは思った。もっとも、それにはヤツデの体調の改善が絶対条件になってくるので、無神論者のビャクブはヤツデの回復リカバリーをお祈りした。ビャクブの聞き込みは多くの収穫を得て終わりを告げることになった。ビャクブは自分自身を褒めてあげたいくらいである。

確かにヤツデはビャクブの今日の聞き込みを大いに役立てることになるが、今回の事件においてはまだまだビャクブの活躍の機会は残されている。ビャクブがヘンルーダにお礼を言いカラタチの家に到着すると、カラタチは牛丼を買って自宅でビャクブのことを待ってくれていた。

 ハム・エッグなら、カラタチはフライパンで自分でも作れるが、レパートリーはそれだけなので、カラタチの普段の食生活は主にレトルト食品とカップ・ラーメンばかりである。

 ビャクブの場合はチャーハンしか作れないので、ビャクブの食生活はカラタチと似たり寄ったりである。ヤツデは意外と料理ができる。実のところ、ヤツデはカレー・ライスやチャーハンやラーメンや肉野菜炒めやホット・ケーキや焼きそばを初めとして結構な料理の数を作れるのである。

「長らくお待たせしてしまって申し訳ありませんでした」ビャクブはカラタチの家の食卓につくと真っ先に聞いた。「おれは元気ですが、ヤツデの方はどうでしたか?」

「ヤッちゃんの体温は少しだけ下がりました。これはいい傾向ですな。今日はクリスマスですし、ビャッくんはがんばってきたので、私からはプレゼントをさせて下さい」カラタチはそう言うとビャクブに対して落語のCDをプレゼントした。カラタチはヤツデに対してすでにマウス・ウォッシュをプレゼントしている。マウス・ウォッシュとは歯磨き粉の液体版のことを指すのである。

とはいえ、カラタチはヤツデの口臭を気にしている訳ではない。ヤツデはクリーブランド・ホテルで医者が苦手だと言っていたので、カラタチはマウス・ウォッシュをプレゼントしたのである。

「なるほど」ビャクブはCDをしげしげと眺めている。「これを聞いていれば、夜中にいくら度を越して寝つきの悪いおれでも退屈しなくてすみますね。どうもありがとうございます」ビャクブは「それではおれからもカラさんにプレゼントをお返しします」と言うとカラタチに対して今朝に購入したかりんとうをプレゼントした。カラタチはそれを受け取ると大いに喜んだ。ヤツデはカラタチに対してすでにかわいいモンスターが出てくる小説をプレゼントしていたので、カラタチはすごくうれしそうである。カラタチはヤツデから恐竜のイラストが入ったボール・ペンもプレゼントされていたのを思い出しビャクブにヤツデから頼まれていたプレゼントを渡した。それはヤツデが恐竜展で問題を解いてゲットしたファイルだった。

「これはまた格好のいいファイルだな」ビャクブは聞いた。「ヤツデは起きていますか? 今」

「できれば」ビャクブはすぐに言葉を紡いだ。「おれはすぐにでもヤツデにお礼を言いたいのですが」ビャクブは恩義を忘れなかった。ビャクブは律義な男なのである。カラタチは「ええ」と応じた。

「ヤッちゃんはおそらく起きていると思います。とりあえず、ビャッくんが無事に帰ってきた報告をするためにもヤッちゃんのところへ行きましょうか」カラタチは提案した。

 牛丼を食べ終えると、ビャクブは同意した。カラタチのマンションの部屋は3LDKである。今のトイワホー国はインフレでもデフレでもない状態である。トイワホー国の経済事情は地方公務員をしている27歳のカラタチにはそれで無理のない暮らしだというのが現状である。

カラタチの思ったとおり、ヤツデは起きていた。昨日よりは心なしかヤツデの顔色はよくなっているので、ビャクブは少し安心することができた。ヤツデは相棒のビャクブに声をかけた。

「おかえり」ヤツデは言った。「聞き込みは無事にできた? 今日は一人で聞き込みをさせちゃってごめんね」ヤツデは心配している。「ぼくは聞き込みに行けなかったから、サフィニアは怒っていなかった?」

「ああ」ビャクブは応じた。「サフィニアはヤツデのことを心配してくれていたし、おれも聞き込みは抜かりなくできたよ」ビャクブは丁寧にお礼を言った。「ヤツデは恐竜のファイルをくれてどうもありがとう」

「ううん」ヤツデはやんわりと取り成した。「今日のビャクブの報酬としては少なすぎるくらいだよ。話は変わりますが、カラさんはビャクブにこの街を案内してあげてくれませんか?」ヤツデは懇願した。「ぼくは行けませんが、どうか、お願いします」ヤツデはビャクブの仕事の疲れを癒してほしいと思っているのである。

「わかりました」カラタチは続けた。「ですが、ヤッちゃんの病状が悪化した際はすぐにご連絡下さい。私はすぐに駆けつけてできるだけのことはします」カラタチは精一杯のやさしさを見せた。ヤツデは了承した。ビャクブはヤツデに聞き込みの結果を残してカラタチと一緒に出かけることになった。カラタチはレディー・メードのピー・コートを羽織った。そのコートのカラーは流行色の緑がかった黒である。カラタチは体格が人並み外れて巨大なので、そのコートは大きいサイズの服が売っている行きつけの店で買った代物である。

 車はカラタチとビャクブを乗せプレミアム・ブリッジを超えた。一般的には景品や特典をつけた売り出しをプレミアム・セールと言うが、プレミアム・ブリッジはそれとは関係なく語呂と語感がいいから、この橋にはその名がつけられている。カラタチの愛車の中は暖房が聞いていたので、ビャクブは心地よくカラタチと話ができた。コイン・パーキングに駐車すると、カラタチはビャクブと一緒に街を散策した。ビャクブはそこで映画のポスターを発見しちょうどカラタチの好きなプロデューサーの手がけたCGのスペース・オペラをやっていたので、ビャクブとカラタチの二人はその映画を見て行くことにした。その映画はグレイスフル・スタジオというプロダクションの作品であり三つの惑星に行けるようになった天地の国民が様々な生き物と友好を持つことになる話だった。天地は地球と同じくすでに月面着陸には成功している。その映画を見終えると、ビャクブとカラタチはヤツデの夕食をコンビニで購入しお土産も別の場所で買うと一度はヤツデのところへ行き少ししたら、ビャクブとカラタチの二人はクリスマス・パーティーに参加することにした。

ビャクブとカラタチの二人は会場まで徒歩で行くことになった。驟雨はやがて雪になったので、今夜はホワイト・クリスマスになった。ビャクブとカラタチは傘を持って家を出た。しかし、雪はあくまでも淡雪なので、積もることはないというのが事実である。時刻は6時半を回っている。

夜空にはいくつかの星が瞬いているので、今日はとても幻想的なクリスマスになっている。冬の大三角形とはオリオン座のベデルギウスと大犬座のシリウスと小犬座のプロキオンを合わせたものを言うのである。冬の第六角形(冬のダイヤモンド)とは冬の大三角形にオリオン座のリゲルと双子座のカストルやポルックスと馭者座のカペラと牡牛座のアルデバランを合わせたものをいうのである。

「実のところ」カラタチはとても穏やかな顔をしている。「クリスマス・パーティーには毎年のように行っているのですが、私は他の人と連れだって行くことは初めてなのです。ですから、ビャッくんには本当に感謝しています。私としてはビャッくんが今日という日を楽しいパーティーで楽しんでもらえると感激です」カラタチはパーティーの会場に歩いて行く途中でそんな言葉をもらした。

「お気遣いありがとうございます。カラさんはそうおっしゃいますが、おれはすでにカラさんのおかげで今日を満喫していますよ。殺人事件の聞き込みは確かに大変でしたが、ヤツデは予め聞いてほしいことをメモしてくれていましたからね。とはいっても」ビャクブは微笑んだ。「今はさすがに頭を切り替えておれも『愉快なクリスマス』のクリスマス・パーティーを楽しみたいと思いますが」

 会場にはカラタチの家を出てから約10分で到着した。会場は明るくてクリスマス・キャロルが外にも流れていた。入り口には「メリー・クリスマス!」と書かれた看板やサンタクロースの人形がある。会場内はそこかしこにオーナメントを施されたモミの木やエゾマツのクリスマス・ツリーが安置されている。『愉快なクリスマス』のクリスマス・パーティーは誰もがフリー・パスで入ることができるのである。

しかし、中にはクリスマス・ケーキやロースト・チキンが食べたい人もいるはずである。その人々の場合は料金を支払わなければならない。食事は小皿によそうバイキング制である。シャンパンやワインやカクテルなどのアルコール類は別料金なので、それらは有料だが、オレンジ・ジュースやアップル・ジュースなどのソフト・ドリンクは無料である。ただし、カラタチは下戸である。サワーは好きだが、ビャクブは別に酒豪という訳ではないし、ヤツデは体に悪いからという理由でアルコールを敬遠している節がある。

 夕食はまだ取っていなかったので、ビャクブとカラタチは受付嬢に食事代を払いビンゴ大会のカードを貰った。中には芸を披露したい人もいるが、その人たちはエントリー・ナンバーを貰っている。食事していると、ビャクブとカラタチはチェンスという名の男性に話しかけられた。チェンスは低姿勢である。

「こんばんは」男は頭を下げた。「私はチェンスと申します。実はちょっとした理由がありまして私は一人なのです。お二人は少しばかり私のこともお仲間に入れてはもらえませんか?」

「はい」ビャクブは即答した。「もちろんです。おれはビャクブです。こちらはカラタチさんです。外は寒いですが、トイワホー国の場合は今年のクリスマスも暖かいですね。ん? でも、チャンスさんはそうではないのですか?」ビャクブは聞いた。チェンスはカラタチによって手振りで促され腰を下ろした。

「ええ」チェンスは頷いた。「これはまたお恥ずかしい話なのですが、実は妻とケンカしてしまいまして今は家にいると落ち着かないのです。今宵は折角の楽しいクリスマス会だったのに、私は水を差してしまいました」チェンスは謝罪した。「申し訳ありません」チェンスは慎み深いなとビャクブは思った。

「いえいえ」カラタチは気を遣った。「お気になさらないで下さい。ケンカ中に一人でこちらにいらっしゃっていて奥様の気を余計に悪くなさるご心配はないのですかな?」

「カラタチさんはご心配をありがとうございます。今はあいにく私が何を言っても妻は機嫌を損ねたままでしょう」チャンスはしょぼくれている。「残された道は時間が解決するのを待つことのみです」

「そんなものですかね?」未婚者のビャクブは曖昧に答えた。「そのペンダントは奥様との記念品かなにかですか?」ビャクブはチェンスが首にかけているものを見て目敏く聞いた。チェンスは「ええ」と応じた。

「よくお気づきになりましたね」チェンスは感心した。「ビャクブさんは中々に鋭いお方だ」チェンスは「おっしゃるとおりです」と言うとペンダントを開き少し中の写真をビャクブとカラタチに見せた。そこにはチェンスとチェンスの妻の二人が写っていた。チェンスに子供はいないのである。

「ことわざでは『ケンカする程に仲がいい』といいますが、今はケンカをされていても普段のチェンスさんはきっと愛妻家なのですな」カラタチは食事を取りながらも質問した。「私は市役所に勤めていますが、チャンスさんはどのようなお仕事をされておられるのですかな?」

「私は興信所に勤めています。私にとっては中々にやりがいのある仕事です。実のところ」チェンスは謙遜して見せた。「現在は転職したばかりなので、私にはてんてこ舞いな感は拭えませんが」

「初めは誰もがそんなものですね。そう言えば」ビャクブは新たな話題を振った。「チェンスさんはこの近くであった駅構内での殺人事件をご存じですか?」ビャクブに聞かれると、チェンスは「ええ」と頷いた。

「私は新聞で読んでびっくり仰天しました。解決のためには決定的な証拠がなにかあるといいのですが、まあ」チェンスは同意を求めた。「刑事ドラマのようには行きませんよね?」

「そうですかな?」カラタチは反論した。「犯人は意外と早く見つかるかもしれませんよ」カラタチは意味深なことを言った。ビャクブには意図がわかっているので、ビャクブは心の中で同調している。

「おやおや?」チャンスは目を白黒させている。「カラタチさんは不思議なことをおっしゃいますね。それはトイワホー国の警察が優秀だからですか? それとも、カラタチさんには他にも根拠はおありですか?」チェンスは興味を持っている。ビャクブは「それは当然だろうな」と思った。カラタチは「ええ」と首肯した。

「理由はトイワホー国の警察が優秀だからというのもあります。それに、この場には来ていませんが、実は殺人事件を解決したことのある友人がこの街にやって来ていましてね」カラタチは自分のことのようにして誇らしげである。「彼は今回の事件についても探りを入れているのです」

「おやおや」チェンスは驚いている。「それは頼もしいですね。私としては妻との確執もその方に解消してもらいたいくらいです。いえいえ」チェンスは笑顔を浮かべた。「それはさすがに冗談です」

 ビャクブはそれを受けると、チェンスは奥さんとそれ程に深い溝ができている訳ではないのかなと思った。その後のビャクブとカラタチとチェンスの間ではゼンジ殺害事件の話とチャンスの夫婦ゲンカの話は出なくなった。ビャクブとカラタチはチェンスと休日ホリデーの過ごし方を話したり二人羽織やマリオネットの芸を見たりしてクリスマス・パーティーを楽しんだ。

運はいい方なので、ビャクブはビンゴ大会で三等のお買いもの券を当てた。カラタチとチェンスはビャクブをお祝いしたが、今日はよくがんばったからかなとビャクブは思った。

 

 ビャクブとカラタチはチェンスと別れヤツデが療養しているカラタチの家に帰って来た。ヤツデはカラタチの愛犬であるコロと遊んでいたので、ビャクブは「ヤツデは意外と元気だな」と思った。

 カラタチから許可は貰っていたので、ヤツデはユニット・バスでシャワーを浴び終えていた。カラタチはどちらでもいいと言ったが、今夜のヤツデとビャクブはカプセル・ホテルに戻ることにした。

「それでは」カラタチはすでに車を運転しながら会話をしている。「ヤッちゃんの体調が完全に回復していれば、明日は私が車でヤッちゃんとビャッくんのお二人を未来館にお連れしましょう」

「それにしても」カラタチは話を続けた。「ヤッちゃんはここまでの回復を見せてくれるとはうれしい限りですな。ですが、無理はなさらないで下さい」カラタチはカプセル・ホテルでヤツデとビャクブを車から降ろす時に声をかけた。ヤツデはそんな度量の広いカラタチに対してお礼を言うとビャクブと一緒にホテルの自分たちの部屋へと向かった。カラタチは安全運転で自宅へと帰って行った。

「ごめんね」ヤツデはビャクブに対して謝意を表した。「今日のビャクブにはロハで仕事をしちゃったね。でも」ヤツデは歩きながら言った。「今回の事件の全貌はビャクブの聞き込みのおかげでぼくにはだいぶ見えてきたよ」ヤツデの足取りは割としっかりとしたものになっているので、ビャクブは安心している。

「それはすごいことだな。例えば、ヤツデには何がわかったんだい?」ビャクブは身を乗り出している。「犯人はサフィニアの親族の中にいそうかい?」ビャクブはもどかしそうでもある。ここはすでにヤツデとビャクブのホテルの一室である。ヤツデは「うん」と頷いた。

「犯人は間違いなく未来館にいる人たちの中にいるよ。ぼくはだいぶ頭も冴えてきて体も楽になってきたから一旦はここで事件をまとめておこうか」ヤツデは確認した。「ビャクブは眠くない?」

「ああ」ビャクブは胸を張った。「大丈夫だよ。頭は冴えてないけど、眼は冴えてるよ。ヤツデは未来館の中にゼンジさんを殺害した犯人がいるとは言うけど、中にはアリバイのある人たちも多くいるよな?」ビャクブは単純明快な質問をした。「その人たちは除外するのかい?」

「除外はしないけど」ヤツデはとんとん拍子で答えた。「参考にはするよ。サフィニアとアオナさんとカスミさんとヘンルーダさんの4人にはアリバイがあるよね? オリーブさんとフレークさんとコリウスさんとラルフさんの4人にはアリバイがないよね?」ヤツデはやさしく聞いた。「犯行時刻は午後5時から5時10分だけど、場所は駅構内だということについてビャクブは疑問を抱かなかった?」

「ヤツデの『黒の推理』だな?」ビャクブは言った。「言われてみると、犯人は公共の場でどうして殺害を行ったのかの理由は謎だな」ビャクブは期待に満ちた眼差しを向けた。「ヤツデにはその意味がわかったのかい?」ビャクブに聞かれると、ヤツデは「ううん」ときっぱり言った。

「ぼくにもそれはまだわからないけど、ゼンジさんと縁のある人物は駅と縁のある人が何人かいるよね? オリーブさんは駅でゼンジさんと出会ったし、ラルフさんのお父さんはゼンジさんのことを駅で救ったし、この二つのどちらか、あるいは両方が今回の駅で起きた事件と関与している可能性はあると思うよ。ぼくは少なくとも『白の推理』でそのことを確実なものとして考えているよ」

「そうか」ビャクブは相槌を打った。「ヤツデがそう言うのなら、それは信憑性のある話だな。ゼンジさんはどうやって駅に呼び出されたのかも重要な問題だよな?」ビャクブは聞いた。「ヤツデはこの問題をどう捉えているんだい?」ビャクブの問いに、ヤツデは気楽に答えた。

「その問題はすでに解決しているよ。ビャクブには特別に教えるけど、仮に、犯人が未来館の中にいるのだとしたら、その人は事件の前日にゼンジさんを呼び出しておくか、ゼンジさんはコリウスさんのスマホを持っていたのだから、あるいはそのことを知っていた人物が電話で呼び出した可能性もあるよね? 話は全く変わるけど」ヤツデは同意を求めた。「未来館には怪しい行動を取っている人も多いとは思わなかった?」

「そういや」ビャクブは思い出した。「コリウスさんは怪しすぎると思ったよ。アオナさんはコリウスさんが事件の前日に涙を流していたって言っていたし、ヘンルーダさんはコリウスさんが事件のあとに涙を流していたり事件の前日にゼンジさんと荒っぽい声で話し合いをしていたりしていたって言ってたし、フレークさんはコリウスさんがゼンジさんの遺産を受け取らないと言っていたし、怪しいというか、不可解というか、コリウスさんは意味深な言動をしているよな?」ビャクブはヤツデの質問の意図を汲み取り鋭いところを突いた。

「他にも」ヤツデは言った。「ラルフさんは仕事が休みなのにも関わらず、本人は仕事に行ってくると言って外出しているし、カスミさんはお葬式のあとからミスを連発するようになったし、フレークさんは事件後にゼンジさんの部屋に入ってなにかを持ち出している。極めつけはその三つの情報をリークしてくれたのはヘンルーダさんだよね」ヤツデはビャクブのメモ書きを頭の中にしっかりとインプットしている。

「そうか」ビャクブは得心した。「ヘンルーダさんはもしかすると一番に怪しい人かもしれないな。ヘンルーダさんは親切な振りをしているけど、実は他の人に罪を擦りつけようとしているんだ。でも、それはおかしいよな。ヘンルーダさんはゼンジさんに救われたんだから、ヘンルーダさんには動機がないよ。ゼンジさんの家族には遺産目当てっていうことも考えられるけど、ヘンルーダさんはそうじゃないから、この推理はダメだな。おれの推理は行きづまっちゃったよ。それに」ビャクブはお手上げのポーズを作った。「ヘンルーダさんにはアリバイもあるし」ビャクブは匙を投げたが、ヤツデは未だ「いや」と諦めなかった。

「この人にはアリバイがあるから、この人は犯人じゃないと決めつけるのはよくないよ。ぼくにはもう一人だけ不可解な行動を取っていてマークしている人がいるよ」ヤツデは秘密めかした。

「それはアオナさんのことかい?」ビャクブは不思議そうにしている。「おれは最も犯人らしくないのはアオナさんだと思っていたけど、ヤツデにはなにか根拠はあるのかい?」

「アオナさんのことも容疑者から外してはいないけど、ぼくはゼンジさんのことを最後の人物としてマークしているんだよ。ゼンジさんはどうしてラルフさんのお父さんに恩があることをオリーブさん以外の家族に秘密にしていたのか? ゼンジさんはコリウスさんのスマホを事件当日に借りていたけど、それにはどんな意図があったのか? ゼンジさんはどうして30年も前の日記に興味を示したのか? 全ての事象には必ず理由があるものだよ。事件の全貌はその一つ一つをつぶさに解いて行った時に明らかになると思うよ」

「やれやれ」ビャクブは辟易している。「ヤツデの推理には追いかけるのが精一杯で読み解くのは叶わないけど、ヤツデはそこまで事件の捜査を進展させてくれたのなら、おれとしては今日の聞き込みをした甲斐があったよ。話は最後にするけど、犯人は本当に左利きだと思うかい? コリウスさんは警察が左利きの人物による犯行だと言っていたらしいけど、そうなると、犯人はアオナさんとラルフさんのどちらかということになるよな?」ビャクブは何気なく素朴な質問をした。ヤツデはすると驚きの答えを提示した。

まさか、ヤツデからそんなとんでもない答えが返ってくるとは思ってもいなかったビャクブは絶句したが、ヤツデはビャクブとカラタチの参加したクリスマス・パーティーの様子を聞きたがった。

 ビャクブは仕方なくパーティーについての話をすると、ヤツデはビャクブの想像以上に興味が深々の様子だった。ビャクブはパーティーについての話を詳しくすると、やがてはヤツデと就寝することにした。

 今夜は寝つきの悪いビャクブだけではなく頭をフル回転させていたので、ヤツデも眠りに就くのは遅くなってしまった。その代り、ヤツデにとって得たものは大きかった。

ヤツデには朧気ながら事件の輪郭が見えてきている。あとは自分の体調をよくすることも肝要なので、ヤツデは明日になれば、風邪が完治していることを祈り深い眠りに就いた。

ビャクブは病中でもあれだけ頭が切れれば、ヤツデは大したものだと思っているが、当のヤツデは自分の代行で聞き込みを行ってくれたビャクブに大いなる敬意を持っている。


ヤツデの喉の痛みや頭痛は幸いにも治ったので、ヤツデとビャクブは翌朝にカラタチを呼び出した。ヤツデはカラタチの体温計で熱を計ってみると平熱になっていたので、ヤツデとビャクブはカラタチによって未来館に連れて行ってもらうことになった。カラタチはヤツデが復活してくれて嬉々としている。

未来館の庭園ではヘンルーダが掃き仕事をしていたが、ビャクブは車中でサフィニアに連絡を入れていたので、ヘンルーダはヤツデとビャクブのことに気づくとこちらにやって来た。

今日はヤツデが一緒なので、ビャクブは安心しきっているが、ヤツデはヘンルーダの表情を見て気を引き締めた。ビャクブはサフィニアと通話していたが、ヤツデはサフィニアの声に元気がないことにも気がついていた。それには当然のことながらちゃんとした理由がある。

「おはようございます。ぼくらは今日もお邪魔しますが、察するにどなたか警察署での事情聴取に連れて行かれてしまいましたか? いや」ヤツデは聞いた。「正確にはコリウスさんが連行されましたか?」

 ビャクブはそれを聞くと隣でびっくり仰天している。その反応はヘンルーダも一緒だった。

「え?」ヘンルーダはきょとんとした。「ああ。はい。さようでございます。詳しくはサフィニアお嬢さまからお話があると思いますので、とりあえず」ヘンルーダは「我々は中へ入りましょう」と言うとヤツデとビャクブを連れて歩き出した。ヤツデはどうしてコリウスが警察に連行されたことを知っていたのだろうとビャクブとヘンルーダは不思議そうにしているが、当のヤツデは何も語らなかった。

 ヤツデとビャクブは未来館に入ると、果物の入ったベリー・セットが置かれたキッチンにはアオナがおり、広大な応接間にはシフト・ドレスに身を包んだサフィニアがいた。ヘンルーダはサフィニアにヤツデとビャクブの到着を告げると引き下がった。サフィニアは暗い表情をしている。

「おはよう」ヤツデは明るく言った。「サフィニアは精神的にショックを受けたと思うけど、心配はいらないよ。コリウスさんは今日中には帰ってくるよ。それよりも」ヤツデは呑気な話題を口にしている。「ぼくはここに来る途中で軒に氷柱ができていた箇所を見たけど、暖炉のあるお家の中はやっぱり暖かいね」

「ヤツデくんは病み上がりで適当なことを言っているの?」サフィニアは気遣った。「風邪がまだ治っていないなら、ヤツデくんは無理して来てくれなくてもよかったのに」

「でも」サフィニアは続けた。「ヤツデくんは来てくれてありがとう」

「いや」ビャクブは待ったをかけた。「サフィニアは勘違いしてるよ。ヤツデの風邪は完治してる。その証拠にヤツデはコリウスさんが警察に連行されたことをヘンルーダさんが言う前に言い当てたんだ。コリウスさんはどうして警察に行ったのか、サフィニアはその理由を聞いているかい?」ビャクブは質問した。

「ええ」サフィニアは頷いた。「事件現場にはコリウス叔父さまの毛髪が発見されたらしくてね。今は任意同行だけど、コリウス叔父さまは重要参考人として連れて行かれちゃったの。ヤツデくんはコリウス叔父さまが犯人じゃないと思っているの?」サフィニアは矢継ぎ早に聞いた。「今のコリウス叔父さまはどうして警察署にいることを言い当てられたの?」サフィニアはヤツデのことをじっと見た。

 そのことはビャクブも大いに知りたがっている。天地ではラブルエーテ国による技術により毛髪で個人を特定することが可能になっている。ヤツデは淀みなくサフィニアの質問に答えた。

「コリウスさんは十中八九の確率で犯人ではないよ。それなのにも関わらず、コリウスさんは警察署にいると思ったのはサフィニアの落ち込んだ声とヘンルーダさんの浮かない表情でわかったんだよ。それだけなら、サフィニアとヘンルーダさんは他の誰かがどうかして他の理由で落ち込んでいる場合もあるけど、仮に、犯人がサフィニアの家族の誰かだと判明したのなら、サフィニアはビャクブとの通話の時点でそのことを口にしていたはずだよね?」ヤツデは確認した。「コリウスさんには元々いくつもの怪しい点があったし、コリウスさんの場合はもう一つでも不利な証拠が上がると重要参考人になりうる可能性の最も高い人物だから、ぼくにはそのことがわかったんだよ」ヤツデが話し終えると、サフィニアは「すごい!」と感嘆の声を漏らした。

「ヤツデくんって本当にすごいね。警察はコリウス叔父さまを疑っているけど、ヤツデくんはその上を行っているから、コリウス叔父さまは犯人じゃないっていう証拠がヤツデくんにはあるんでしょう?」サフィニアは大いなる期待を込めて聞いた。ヤツデは「うーん」と言葉を濁した。

「証拠というか」ヤツデは口を開いた。「ぼくはすでに犯人の目星をつけていてその人物がコリウスさんじゃないから、今回は断言をしただけであってまだコリウスさんの不利になる事実の全てに納得の行く説明はできないよ」ヤツデは驚愕の事実をさらっと言った。サフィニアは一旦「なんだ」と受け流しかけた。

「えー!」サフィニアは驚いている。「ヤツデくんには犯人がわかったの? 昨日は自分で聞き込みをしてもいないのに」サフィニアは閉口した。このことは昨夜にヤツデから聞いていたので、ビャクブには一応の耐性はできている。アオナはサフィニアの声を聞いてこちらを気にしている。

「うん」ヤツデは頷いた。「確実ではないけど、犯人はわかってると思うよ。今日はそのことを確実にするためにここに来たし、ぼくには他にも行くところはあるけどね。もし、ぼくの推理が間違っていたら、名誉棄損になっちゃうから、犯人の名前は言わないよ」ヤツデは常套手段を口にしている。

「ヤツデくんって意地悪なんだね。ヤツデくんはあんまり隠し事ばっかりしているとフルーツを食べさせてあげないよ。でも、ヤツデくんは元気になってくれてよかった。聞き込みはビャクブくんだけだとなんだかんだでとんちんかんだし」サフィニアはちらっとビャクブを見た。「例えば、誕生石の話とか」

「いやいや」ビャクブは言った。「ちょっと待ってくれよ。誕生石についてはヤツデが言い出したことでおれの発案じゃないから、そこは理解しておいてくれるかい? そう言えば、その情報はなんの役に立ったんだい? 一体」ビャクブは質問した。サフィニアはビャクブと同じく耳を聳てている。

「今はまだなんの役にも立っていないよ。もっとも、この事件にはこれから誕生月が重要になってくる可能性が大だとぼくは思っているけどね」ヤツデはここで言葉を区切った。

「はじめまして」ヤツデはネーブル・オレンジを持ってきてくれたアオナに挨拶した。「お邪魔しています。ぼくはヤツデです」ヤツデは律儀にぺこりと頭を垂れ自己紹介した。

 アオナは「はじめまして」と言うと自身も名乗った。「サフィは先程『ヤツデさんにはおじいさまの件で犯人がわかった』と言っておりましたが、それは本当ですか?」アオナはサフィニアの隣のソファに腰かけながら聞いた。ビャクブはアオナにお辞儀をしておいた。

「確実ではありませんが、ぼくにはおそらくわかっていると思います。ビャクブは昨日にアオナさんからお話を聞かせてもらいましたが、せっかくなので、ぼくからもお話を聞かせて下さいませんか?」ヤツデはやさしくて人を安心させるような声で同意を求めた。アオナは淑女らしく「もちろんです」と応じた。

「ですが」アオナは言った。「もし、よろしければ、ヤツデさんはその前に私の誕生石を聞きたがった訳を教えて下さいませんか? 私には殺人事件に誕生石が絡んでいるようには思えないのですが」

「詳しくはお話しできませんが、ゼンジさんの残されたダイイング・メッセージは誕生月を意味しているんです。これはビャクブとサフィニアも含めてここだけの話にして下さい」ヤツデは懇願した。

「そうだったんですか?」アオナは意外そうにした。「それなら『111月』生まれの人はいないから、三つの棒は『三月』を意味していたのですね? え? それなら、三月の生まれは未来館にもいますけど」アオナは言い淀んだ。ビャクブは誰が三月の生まれだったかなと記憶を辿った。ビャクブは適当な性格なのである。

「コリウス叔父さまは三月の生まれよ。しかも、三月の生まれはヘンルーダさんを含めた未来館に住む全員を勘案してもコリウス叔父さまだけよ。どういうこと? ヤツデくんはさっき『コリウス叔父さまは犯人じゃない』って言っていたじゃない。ヤツデくんはまた熱が出てきたんじゃないの?」サフィニアは疑っている。

「ぼくは熱を出して譫言を言っている訳じゃないよ。してみると、この話は矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、ぼくの導き出した答えがあっているかどうかは明日までにはお話しできると思うよ。ぼくはコリウスさんについての情報をもっと求めているのですが、アオナさんは昨日『コリウスさんは事件の前日に涙を流していた』とおっしゃっていましたよね? アオナさんはそれについてはどう考えていらっしゃいますか?コリウスさんはどうして事件の前日に涙を流していたのか、アオナさんにはなにか思い当たることはありますか?」ヤツデはちゃっかりと自分のペースに持って行った。アオナは「いいえ」と動じなかった。

「特に思い当たることはありません。私はコリーくんに嫌なことがあったとは聞いていませんし、芯が通っているから、コリーくんはちょっとやそっとのことで涙を流すことはないと思います。私の考えを申し上げるなら、あれはうれし泣きか、あるいは人には言えない凶事があったとしか考えられません。ごめんなさい」アオナはふと気づいた。「私はもしかすると適当なことを申し上げているかもしれません」

「いいえ」ヤツデはやさしい口調で取り成した。「お気になさらないで下さい。なにしろ、アオナさんのご意見はこのぼくが聞いたのですから」ヤツデは話を続行した。

「アオナさんはご親切にお考えをおっしゃって下さってどうもありがとうございます。フレークさんは今回の事件とは関係ないだろうとおっしゃっていましたが、アオナさんはコリウスさんがゼンジさんの遺産の受け取りを拒否していることについての理由をお聞きになりましたか?」ヤツデはやさしい口調で聞いた。

「いいえ」アオナは否定した。「私には聞くタイミングがありませんでした。あり得るとすれば、コリーくんはすでに主人の会社で働いていてそのことを恩義に感じているから、これ以上は亡くなったおじいさまから金銭的な援助を拒否しているのではないかと思います」アオナは考え考え言った。

「確かにおれらは少ししか話はさせてもらってはいませんが、コリウスさんは豪快さと一緒にやさしさも滲み出た方でした。ん? ということは宝くじとかで大金を手に入れてうれし泣きしていた。お金には困っていないから、コリウスさんはゼンジさんの遺産の相続を拒否しているっていうことは考えられないかい?」ビャクブは話に割って入ると独自の推理を披露した。ヤツデはすぐさま切り返した。

「それはそれでビャクブらしい真っ直ぐな推理だけど、それには穴があるよ。コリウスさんの性格が豪快なら、コリウスさんはどうして手に入れた大金のことを隠してこそこそとうれし泣きしているのかな? ただ、ぼくにもアオナさんの証言とビャクブの人物評でコリウスさんの言動の謎を解く手掛かりはしっかりと貰うことができました。事件のあった二日前のことです。ゼンジさんは比喩的に自分の死を暗示する発言をしていたそうですが、アオナさんはお聞きになりましたか?」ヤツデは質問した。サフィニアはビャクブを軽視している訳ではないが、内心ではヤツデの聞き込みの手際のよさはビャクブの比ではないなと思っている。

「え?」アオナは不意を衝かれた。「いいえ。私はそのお話を初めて聞いてびっくりしました。どういうことでしょうか? おじいさまは体調が悪くてなんらかの病気を発症したと思ったのではないでしょうか?」

「それは大いにあり得ることですが、そのことは警察が調べるので、ぼくたちにはその確認を取る術はありません。それでは最後になりますが」ヤツデは聞いた。「アオナさんはカスミさんと仲がいいですか?」

「ええ」アオナは即答した。「カスミちゃんは私の義理の妹ですし、サフィのこともかわいがってくれるので、仲はいいです。私は事件のあった時刻もカスミちゃんと一緒でしたが」アオナは怪訝そうである。

「これはあくまでもただの確認です。どうか、アオナさんはあまりお気になさらないで下さい。アオナさんは気を悪くされてしまったのなら」ヤツデは慇懃に頭を下げた。「申し訳ありません」

「ところで」ヤツデは言った。「オリーブさんはご在宅ですか? 質問は二つだけでいいので、オリーブさんにはお聞きしたいことがあるんです」ヤツデは謙虚ながらも自分の意志をしっかりと表示した。

「おばあさまはお外に出ているはずです」アオナは「ご案内致します」と言うと立ち上がった。ビャクブとサフィニアも当然のように立ち上がったが、ヤツデはその二人に自分だけで行って来ると述べた。要件はすぐにすむのにも関わらず、ヤツデは寒い中でビャクブとサフィニアにまで立ち話に付き合わせるのは酷だと思ったからである。ビャクブとサフィニアは仕方なくお留守番をすることになった。

 ヤツデはアオナに案内され未来館の庭園へやって来た。スカーフをしたオリーブはヘンルーダと一緒にガーデニングをしていた。役目を終えると、アオナは未来館に帰って行った。ヤツデはその際にも丁寧にお礼を言った。ヘンルーダは気を使ってこの場を退いたので、ここにはヤツデとオリーブだけが残った。

「ヤツデさんは精力的に捜査を続けて下さっていらっしゃるのですね」オリーブは高貴な淑女らしくヤツデのことを気遣った。「お体の方はもうすっかりと大丈夫なのですか?」

「はい」ヤツデは首肯した。「オリーブさんはご心配をありがとうございます。こちらは綺麗なお花畑ですね。オリーブさんにはお花を愛でる習慣があるとヘンルーダさんからお聞きしていましたが、これらのお花はまるでオリーブさんの心の清らかさを表出させているようです」ヤツデは花畑を見つめながら言った。

「ふふふ」オリーブは微笑んだ。「ヤツデさんは褒め上手ですのね。私は若い頃に郵便局と小学校の給食作りのパート・タイマーをしたことはありますが、それらはどちらも短期間だったので、おじいさまのおかげで余暇をガーデニングの時間に当てられたというだけのお話です」オリーブは饒舌になっている。

「あら」オリーブは言った。「ごめんなさい。ヤツデさんは人当たりがいいから、私はつい無駄口を叩いてしまいました。ヤツデさんはどのようなことをお聞きにいらっしゃったのでしょうか? 一体」オリーブはじょうろで花に水をやりながらも真剣な口調で質問を発した。オリーブはとても好意的である。

「先程も申し上げましたが」ヤツデは穏やかな顔をオリーブに対して向けた。「ぼくのお聞きしたいことは二点です。オリーブさんの誕生石とゼンジさんは記憶力の高い方だったかどうかです」

「ヤツデさんはすっかりと聞き込みが板についていらっしゃるのですね。ヤツデさんは切り替えが早くてとてもすばらしいです。あら、私はまた無駄口を叩いてしまいました。申し訳ありません。私は二月の生まれですから、誕生石はアメジストです。おじいさまの記憶力はズバ抜けていました。おじいさまは一度でも聞いた人の名前はどんなに時間が経っても忘れない頭脳の持ち主でした。そうそう」オリーブは遠い目をしている。「おじいさまはまだ社長になる前の下積み時代には知り合いの誕生日を忘れずに覚えていてその人の誕生日になるとお祝いの言葉や贈り物を送っては皆をよく驚かせていました」

「それは素敵なお話ですね。オリーブさんは質問に答えて下さってどうもありがとうございました。ガーデニング中だったにも関わらず、どうもすみませんでした。それでは」ヤツデは「失礼します」と言うと未来館の中へと歩を進めた。ヤツデが曲がり角でちらっと振り返ると、ヘンルーダはオリーブのところへ帰って来ていた。ヤツデは元いた応接間に戻ってくるとそこにはすでにアオナの姿はなかった。ビャクブとサフィニアは少しばかり揉めていたので、ヤツデは密かに敬遠したい気持ちになっている。

「ヤツデくんは遅い!」サフィニアは文句を言った。「ビャクブくんは失礼なことを言っているから、ヤツデくんは連帯責任で謝ってよ。さもなくば、ヤツデくんの今日の夕食は抜きだよ」

「事情はよくわからないけど、ごめんね。もっとも、夕食は自分で調達するから、責任は取らないけど、ビャクブは何を言ったの?」ヤツデは聞いた。「ビャクブはサフィニアのことを犯人扱いにでもしたの?」

「ビャクブくんはそれよりもっとひどいことを言ったのよ。ビャクブくんは私を除いた未来館にいる人たちは全員がぐるだって言ったの。そんなことはないって決まっているのに」サフィニアは身内の名誉のために必死になって主張した。ヤツデはビャクブの軽率さにびっくりしてしまっている。

「ごめん」ビャクブは謝った。「そういうことは思っていても口にするべきではなかったよ。でもだよ。実はサフィニアを除いた未来館の人たちは犯人を知っていて全員で口裏を合わせて空とぼけているということもなくはないと思わないかい?」ビャクブはヤツデに近づいて小さな声で言った。ヤツデは苦笑している。

「ちょっと待ったー!」サフィニアは言った。「ヤツデくんとビャクブくんは私をのけ者にしてこそこそ話をしているということは悪いことを企んでいるでしょう? ヤツデくんは何をしゃべっていたかを話さないと私はヤツデくんのことを嫌いになるよ」サフィニアはなぜかヤツデだけに脅迫をしてきた。

「今の話は大したことではないから、サフィニアは嫌わないでね。さっきは夕食の話が出たから、ビャクブはなにかを食べたくなっちゃって聞き込みが長引いてもお昼ご飯はちゃんと食べられるかどうかって心配になっちゃったんだよ。ビャクブの心配は杞憂に終わるから、心配はいらないよ」ヤツデはそう言うとサフィニアには見えない方の右目でウインクした。サフィニアは疑わしそうな顔をしている。

「ああ」ビャクブは頷いた。「それもそうかもな。ヤツデはオリーブさんから有益な情報を得られたかい?」ビャクブは何気なく話題を変えることにした。「次はどういう行動に出る?」ビャクブは現金な男である。

「できれば」ヤツデはサフィニアの方を見た。「ぼくはフレークさんともお会いしておきたい。フレークさんにはお聞きしたいことがあるし、ぼくはこの目と耳でフレークさんのことを認知しておきたいからね」

 フレークは在宅中だったので、サフィニアはヤツデの願いを聞き入れることにした。ヤツデとビャクブはサフィニアに連れられてフレークの自室に向かうことになった。ヤツデはその途中でトイレに寄りたいと言ったので、サフィニアはヤツデにトイレの場所を教えた。ヤツデはビャクブとサフィニアには先にフレークの元へと行っておいてもらいフレークの部屋から一番に近いトイレに向かった。

ヤツデがトイレに入ろうとすると偶然にもラルフと遭遇をした。ラルフは「漏れちゃうよー!」と言いながらトイレへ駆け込んで行った。ラルフはお尻を抑えて「バタバタ!」していたので、ヤツデは思わず笑みを浮かべてしまった。未来館のトイレは個室が一カ所に三つもあるので、ヤツデとラルフは同時に用を足すことになった。ラルフはヤツデが用を足し終え手を洗っていると意外にも早く個室から出て来た。

「いやー!」ラルフは言った。「今の事態は危ないところでした。危機一髪という言葉はこういう時にこそ使うのが相応しいですね。すみません。申し遅れました。ぼくはラルフです。あなたは察するにヤツデさんですね?」ラルフはけろっとした顔をしている。「はじめまして」ラルフは慌ててトイレに入りヤツデを笑わせようとしていただけだったのである。ラルフはようするにふざけていたのである。

「はじめまして」ヤツデは応じた。「ぼくはお察しのとおりヤツデです。ラルフさんはトイレに間に合ってよかったですね。今日のラルフさんはお仕事がお休みなのですか?」ヤツデは言った。「最近はお仕事がお忙しいそうですが」せっかくなので、ヤツデはトイレの洗面台の前でラルフと立ち話をさせてもらうことにしたのである。ちなみに、ヤツデはなんとなくラルフの先程の小芝居を看破している。

「ええ」ラルフは好意的である。「ぼくはようやく一仕事を終えて切りがついたものですから、しばらくはカスミと一緒にいる時間を長くしていきたいと思っています。しかし、ぼくは参ってしまいました。今日は夢で自分の仕事場が蘇芳色の血に染まっているグロテスクなシーンを見てしまったので、ぼくは思わず飛び起きてしまいました」ラルフは大げさな仕草で肩を竦めた。「ぼくは心身共に丈夫だとは思っていますが、多少はやはり義理の父であるゼンジさんのことで神経過敏になっているのかもしれません」

「ラルフさんがそうなられても仕方はないですし、そのことは恥ずかしいことでもないと思います。それはカスミさんも然りです。カスミさんの調子はあまりよくないとお聞きしましたが、カスミさんが調子を悪くされた原因がゼンジさんの件であることは明白ですよね? ですが、カスミさんはビャクブとぼくがゼンジさんの事件後にお会いした際には気丈なところをお見せして下さいました。ラルフさんにはカスミさんがそのあとでさらに調子を悪くされたなんらかの原因にお心当たりはありませんか?」ヤツデは何気に本格的な聞き込みを始めている。「それは例えどんなに些細なことでも構いません」

「ヤツデさんはサフィちゃんの噂のとおり聡明な方ですね。カスミにはなにかあったかな? ん? カスミはお葬式のあとにお葬式場を出たところで呆然としていましたが、あれにはひょっとするとなにかしらの意味があったのかな? ぼくはてっきりカスミが父の死を改めて痛感したせいだと思っていましたが、それはただの考えすぎかな?」ラルフは頭を掻きながら恐縮そうにしている。「ぼくはあまりお役に立てずにすみません」

「いいえ」ヤツデは打ち消した。「ぼくはとても貴重なお話を聞かせて頂きました。どうもありがとうございます。ラルフさんには立ち話をさせてしまいましたね」ヤツデは謝った。「どうもすみませんでした」

 ラルフはするとヤツデを取り成した。ヤツデはラルフと別れてからすぐにフレークの部屋の前にやって来た。フレークの部屋のドアは開いていた。ビャクブとサフィニアは並んでソファに腰を下ろしていた。その対面にはフレークが座っている。フレークは「やあ」と言った。

「お待ちしていました」フレークはゆったりと構えている。「とりあえず、ヤツデくんもお座り下さい。ぼくはヤツデくんとお会いできて光栄です。ヤツデくんは随分と真相に迫っているそうですが、コリーは犯人ではないと断言されていたそうですね?」フレークはゆっくりと問いかけた。ヤツデは会釈してからお言葉に甘えてソファに腰を下ろさせてもらうことにした。ビャクブとサフィニアは無言である。

「はい」ヤツデは応じた。「コリウスさんには確かに行動や状況に怪しい点や不可解な点はありますが、そのいくつかはコリウスさんを犯人の身代わりにしているのだとぼくは考えています。それよりも、ロデアさんの件では出過ぎた真似をしてしまいました」ヤツデはぺこりと頭を下げた。「申し訳ありません」

「いえいえ」フレークは肝要である。「ぼくにはあの一件のおかげでヤツデさんの手腕も計れましたし、ぼくもサフィとは確執ができた訳でもありませんので、どうか、ヤツデくんはお気になさらないで下さい。ぼくには父が殺害された理由を推測できませんが、ヤツデくんにはそれさえも読めているのですか?」

「ぼくにはゼンジさんが殺害された理由の半分は読めている気がします。今は気がするだけですから、申し訳ありませんが、現時点では詳細をお話しする訳にはまだ行きません。昨日はビャクブからフレークさんに質問をさせてもらいましたが、ぼくからもフレークさんには直接に少し質問をさせて頂けますか?今回の事件の特徴は色々と嗅ぎ回っているとその分だけの謎が次から次へと出てくることですが、アオナさんには事件前後で変わったことはありませんか?フレークさんはアオナさんの旦那さんだから、フレークさんにだけはわかることをお聞きしています。ですが、答えにくければ、そのことについては何もおっしゃらなくても構いません」ヤツデはしっかりと分を弁えている。傍のサフィニアは関心している。

「それは即答できる質問です」フレークはきびきびとした口調で答えた。「ぼくからは答えにくいからではなく何もアオナに変わったところはないと思います。義父が亡くなったのにも関わらず、心境には変化がないとは不謹慎に聞こえるかもしれませんが、それはアオナが気丈な性格をしているからだと思われます」フレークは真っすぐにヤツデを見据えている。ヤツデは動じることなく微動だにしていない。

「フレークさんの実の妹のカスミさんはどうですか?」ヤツデは注意深く聞き込みをしている。「フレークさんのご兄弟はとても仲がいいとお聞きしています。お話はカスミさんの旦那さんのラルフさんからも伺っていますが、カスミさんの様子にはフレークさんからご覧になって変化はありませんか?」

「カスミはか弱い精神の持ち主ですから、昨日はカスミが未来館に帰ってきた時に怯えたように震えていたのです。ですから、ぼくはその理由を聞くと父の殺害現場に花を手向けて来たらしいのですが、カスミはするとその時に父の苦しみに想いを馳せて気が気ではなくなってしまったと言っていました。カスミは今回の事件で相当のショックを受けていると思います」フレークは言った。サフィニアは悲しそうな顔をした。

「そうでしたか」ヤツデは相槌を打った。「ではコリウスさんについてはどうですか? コリウスさんには隠し事をされている節が多々ありますが、フレークさんはそのことに関連してご存じのことはありませんか?」

「ええ」フレークは言った。「大変に恐縮ですが、実を言うと、ぼくも弟からは聞きたいことがたくさんあるくらいです。コリーはどうして遺産相続のことで向きになるのかもその一つです」フレークは慎重な態度で質問に答えた。ヤツデは素直に「わかりました」と応じた。

「フレークさんはお話を聞かせて下さってどうもありがとうございました。ですが、ぼくはこれで失礼する訳には行きません」ヤツデは妙なことを言い出した。「ぼくはフレークさんの証言の中に虚偽の証言が混ざっていたことを見抜いています。二人には悪いけど、ビャクブとサフィニアは外に出ていてくれる?」

 耐性ができているので、ビャクブは特に驚かなかった。

「ヤツデくんはまた私のことを除け者にするの?」サフィニアは不服そうである。「ヤツデくんは本当に悪い子ね。お父さまはそれを許可するの?」サフィニアは聞いた。ビャクブは別にどちらでも構わない腹積もりである。ヤツデは依然として真剣な顔をしている。一方のフレークは「うーん」と鷹揚に構えている。

「そうだね」フレークは結論を下した。「ヤツデくんの話には大いにぼくも興味を惹かれている。しばらくはヤツデくんとぼくの二人きりにしてくれるかな? ビャクブくんはサフィに付き合ってやって下さいますか? 申し訳ありません」フレークは恐縮している。ビャクブは快く了承しサフィニアと一緒に部屋を出た。サフィニアは盗み聞きをするためにドアを閉めた振りをした。しかし、ヤツデはそれを予測していた。

結局はバレたので、ドアは完全に閉められた。ビャクブとサフィニアは仕方なく外で蚊帳の外に置かれることになった。サフィニアはヤツデの隙のなさを恨めしく思った。ビャクブは口を開いた。

「ヤツデは何を考えているのか、わからないけど、おれの見立てではサフィニアの家族に殺人犯はいないと思うよ。ほとんどの人は隠し事をしているみたいだけど、おれはなんとなくそんな気がする」

「なーんか」サフィニアは白々しく言った。「ビャクブくんにそう言われても説得力が今一に感じられるんだよね。それなら、ビャクブくんは誰を疑っているの?」サフィニアは幾分かの期待を込めて聞いた。「ビャクブくんはやっぱり通り魔の仕業だと思っているの?」サフィニアはビャクブを見直しかけていたが、ビャクブはそれを打ち砕いた。ビャクブは尤もらしく「うーん」と言った。

「そうだな」ビャクブは口を開いた。「例えば、真犯人はヘンルーダさんかな。ヘンルーダさんはゼンジさんに恩があるらしいけど、実はその切っ掛けを作ったのはゼンジさんのせいだったという可能性も考えられなくはないだろう? ヘンルーダさんは意図的ではなくとも引きこもりをしている間にゼンジさんからなんらかの被害を受け、ゼンジさんはヘンルーダさんを未来館の執事として雇った。ヘンルーダさんはそれで満足していたかのように見せかけていたけど、実はその恨みを晴らす時を今か今かと窺っていたんだよ。おお。ヤツデの話はもうすんだのかい?って」ビャクブはサフニアによって足を踏み付けられ「痛い!」と悲鳴を上げた。サフィニアはビャクブの話が気に食わなかったのである。ヤツデは苦笑している。ヤツデはちょうどフレークの部屋から出てきたところだったのである。しかし、ヤツデの顔はすぐに真顔に戻った。

「ビャクブくんは失礼なことばかりを言うよね? ヘンルーダさんは私達の家族のようなものだから、犯人ではないに決まっているでしょう?」サフィニアは父のフレークに聞いた。「話はまとまったの?」

「ああ」フレークは頷いた。「ヤツデくんからは驚くべき話を聞かされたよ。話はサフィにもすぐに伝わると思うから、今はサフィもこの件には首を突っ込まないでくれるかな?」フレークは「ごめんよ」と言うと愛想笑いを浮かべた。とりあえず、捜査は進展したみたいなので、サフィニアはフレークのお願いを受け入れることにした。フレークに深くお礼を述べると、ヤツデはサフィニアに自分は未来館をこれにて辞去する旨を伝えた。今のヤツデとビャクブとサフィニアは未来館の別館の応接間にやって来ている。

「ヤツデくんとビャクブくんは明日にはお家に帰っちゃうんでしょう?」サフィニアはやや焦り気味になってしまっている。「ヤツデくんは今日中に事件を解決してくれるの?」

「ううん」ヤツデは意外にも否定した。「一度は言ってあるけど、ぼくにはまだ行かないといけないところがあるから、真相の解明は確実ではないとはいっても、明日にはやってお見せできると思うよ。一旦はビャクブとも別行動を取るけど」ヤツデは真剣な顔をして聞いた。「サフィニアには最後にとてもおかしな質問をしてもいい?」ヤツデは自らの妙な言動を自覚している。

「ヤツデくんは今までにもいくつもおかしな質問をしているような気がするけど、それは置いておくとして別にいいよ」サフィニアは了解した。すると、ヤツデはとんでもない質問をした。ビャクブとサフィニアはヤツデがまた発熱をしたのかと思ったが、今のヤツデは至って健常である。

ヤツデはサフィニアに不思議さを残したままにしてビャクブと一緒に未来館の外に出た。サフィニアはどうしてそんなことを聞くのかと食い下がった。しかしながら、サフィニアはヤツデにより「それはすぐにわかるよ」と「サフィニアは教えてくれてありがとう」の二つの言葉でうまくかわされてしまった。

「おれはついて来なくていいって言っていたけど、ヤツデはこれからどこに行くつもりなんだい? ヤツデはさっきヘンルーダさんのところに行っていたけど、あれはなんのためだったんだい?」ビャクブは未来館の庭をヤツデと共に歩きながら質問した。ヤツデは未来館を出る前にヘンルーダと話をしていたのである。

「ぼくはヘンルーダさんにロデア探偵事務所の場所を聞いていたんだよ。探偵社は思っていたよりもここから近くてよかったよ。ぼくはどこに行くかは言うまでもないよね? ロデア探偵事務所に行けば、全ての謎は解明されるとぼくは踏んでいるんだよ。ぼくはどうしてビャクブの付き添いなしでいいって主張しているのかというと」今のヤツデはこの上なく気楽な口調で話をしている。「今回のビャクブには一人で聞き込みをしてもらって迷惑をかけちゃったからっていうのもあるし、要件はすぐにすむと踏んでいるからだよ」

「そうか」ビャクブはあっさりと納得した。「ヤツデは心遣いをありがとう」ビャクブは聞いた。「ヤツデは探偵事務所に行ってロデアさんになにかの調査を依頼するつもりなのかい?」ビャクブにはそれが最もな理由に思えたのである。ヤツデとビャクブは一陣の風に吹かれた。

「その質問には『うん』と言ってしまっても間違いではないかな」ヤツデは「明日までにはサフィニアにも言ったとおり片がつく簡単な依頼だけどね」と言うと微笑んだ。

ビャクブはそんなヤツデを頼もしく思った。その後のビャクブはヤツデのことを見送ってカラタチの家に帰って来た。ヤツデは徒歩で移動し、ビャクブはカラタチの自動車で移動したのである。

カラタチは自宅で得意満面になっていた。なぜなら、カラタチにはヤツデの持ち帰って来たミステリー・ツアーの第11問目の答えがついにわかったからである。

「カラさんはすごいですね」ビャクブは手放しで褒めた。「この問題はヤツデを以ってしても解けなかったのに」ビャクブに持ち上げられると、カラタチは「いえいえ」と謙遜した。

「私はヤッちゃんの解いてくれた答えの半分をヒントにしなければ、は解くことはできなかったと思います。どうですかな?」カラタチは聞いた。「ビャッくんもその問題に再び挑戦をしてみますかな? 今一度」

 ビャクブにはヤツデが解けなかった問題なんて解ける気は全くしながったが一応はその提案を受け入れた。以下はその問題文である。題目は『紛失の謎』と言うものである。


 これはヘルシンキ駅を1の駅として5の駅までに起こった奇妙な話である。1~5の駅は主要な駅を指している。1と2の間・2と3の間・3と4の間・4と5の間には停車駅が少なくとも4つは存在している。

 ここにはアルフレッドとウォンテッドと言う二人の男性とイングリットという一人の女性がいる。以上の三人は一度も顔を合わせたことのない赤の他人である。アルフレッドはヘルシンキ駅で急行の電車に乗った。イングリッドはヘルシンキ駅で準急の電車に乗った。ウォンテッドはヘルシンキ駅で普通の電車に乗った。

 つまり、乗車駅は同じだが、三人の乗っている電車はそれぞれ違うということである。しかし、アルフレッドとイングリットとウォンテッドの三人の共通点はもう一つある。アルフレッドとイングリットとウォンテッドの三人は車内に入ってから取った行動が同じだったのである。アルフレッドとイングリットとウォンテッドの三人は席に座らずドアに近いところに立ちうしろにある網棚にバックを置くことにしたのである。

イングリッドは準急に乗っていたが、やがては2の駅で下車することにした。インリッドはバッグを忘れずに持って行こうとして振り向いた。しかし、そこにはイングリッドのバッグは見つからなかった。イングリッドがいくら括目して見てもバックが再び現れる訳はなかった。

イングリッドはよく見てみると自分のバッグがあったはずの少し奥に別のバッグが置かれていることに気がついた。イングリッドは咄嗟に周りの人にこのバッグの持ち主はいるかどうかを聞いた。答えはイングリッドの予想したとおりのものだった。そのバッグはこの場にいる人のものではなかったのである。

イングリッドは他の人が自分のバッグと勘違いをしてイングリッドのバッグを持って行ってしまったのだと考えた。インリッドは仕方なくそのバッグを持って電車を降り駅員に対して事情を説明しに行った。イングリッドは「自分のバックはきちんと手元に帰って来るのか」と心配している。

3の駅では先程のイングリッドと同じような事態が起きていた。アルフレッドが電車を降りようとしていたら、アルフレッドのバッグはなくなっていて代わりに他の人のバッグが網棚に置かれていたのである。アルフレッドは誰か他の人が間違って自分のバッグを持って行ってしまったのだろうというイングリッドと同様の結論に至りそのことを駅員に伝えに行った。アルフレッドのバッグはのちにイングリッドの乗っていた電車が4の駅に到着した時に親切な人により駅員に届けられることになった。

次は普通の電車に乗っていたウォンテッドの話である。ウォンテッドは5の駅で電車を降りようとした時に今までのアルフレッドとイングリッドと同様の事態が起こった。それもそのはずである。アルフレッドは3の駅でバッグを届けていたが、あのバッグはウォンテッドのものだったからである。ウォンテッドはアルフレッドとイングリッドと同様に所有者不明のバッグを持って電車を降りた。実はこのウォンテッドが駅員に渡したバッグは事の発端のイングリッドのバッグだった。ここでは事件をまとめてみることにする。

アルフレッドは急行に乗って3の駅で下車したが、アルフレッドのバッグは準急の4の駅で発見されることになった。イングリッドは準急に乗って2の駅で下車したが、イングリッドのバッグは普通の電車の5の駅で発見されたることになった。ウォンテッドは普通の電車に乗って5の駅で下車したが、ウォンテッドのバッグは急行の3の駅で発見されることになった。イングリッドは準急に乗っていて2の駅でバッグを発見していたが、そのバッグはアルフレッドとイングリッドとウォンテッドの誰のものでもなかった。それではこのようなことになってしまったのはどうしてだろうか? 答えには二通りのパターンが存在する。


 ビャクブは以上の問題文を読み終えた。しかし、ビャクブの頭は問題文を読んだだけではこんがらがって全く問題を把握できなかった。ビャクブはそれと同時に「ヤツデはよくこんな問題をミステリー・ツアー・で全問正解したな」と感心した。カラタチは悩んでいるビャクブを見て表を書いてみるようにとアドバイスした。答えは二通りあると書いてあったので、ビャクブはヤツデが解いた一つの答えをカンニングすることにした。以下はヤツデの推理した答えである。バッグが独りでに動くはずはない。バッグは移動した際には必ずバッグを移動した人物がいるはずである。その人物とは誰なのか?

それこそはこの問題の真相に大きく関係して来ることになるのである。アルフレッドとイングリッドとウォンテッドのバッグは一目で自分のバッグではないと気づいた。ということはどれも見かけが違うということである。イングリッドは女性なので、その事実はバッグが似ていなかったという可能性を強めるとヤツデは考えた。それではどうしてバッグを取り違えてしまう人が現れてしまったのか?

ヤツデはここで疑惑の『黒の推理』を使った。ようはバッグを待ち去った人物は間違って持って行ったのではなく本当は自分のものではないとわかっていたのにも関わらず、その人物は故意に持ち去ったと考えたのである。そうなると、アルフレッドとイングリッドとウォンテッドの憶測は単なるミスリードだったということになる。それでは犯人はどうしてそんなことをしたのか?

それこそはこの問題の答えの片割れである。つまりは電車で起こったバッグの入れ替わり事件は全て愉快犯の仕業だったのである。愉快犯はどのようにしてバッグを入れ替えて行ったのか?

愉快犯はヘルシンキ駅(1の駅)で準急に乗車する。次に、愉快犯はイングリッドと同じ電車に乗るということである。ここでは一つ重要なことがある。愉快犯はすでに伏線を敷いていたということである。それはイングリッドのバッグと入れ替えるためのバッグを自らも手にしていた点である。愉快犯はこうして1と2の駅の間に予め持っていたバッグとイングリッドのバッグを入れ替えた。

愉快犯は続いてイングリッドが下車するのと同時に2の駅で自分も下車する。愉快犯はさらにイングリッドのバッグを持ったまますぐにウォンテッドの乗車している普通の電車に乗り換える。

その後の愉快犯は持っていたイングリッドのバッグをウォンテッドのバッグと交換して見せる。それが終わると、愉快犯は2と3の駅の間で下車してアルフレッドが乗っている急行に乗り換える。そこでの愉快犯は持っていたウォンテッドのバッグとアルフレッドのバッグを交換する。

次の3の駅ではアルフレッドがウォンテッドのバッグを持って下車をすることになる。愉快犯はさらにこの時に下車して最初に乗っていた準急に戻る。ここまでくれば、あとは最後の仕上げだけである。

愉快犯はアルフレッドのバッグを置いて密かに立ち去れば、ただそれだけでいいのである。4の駅ではこうして所有者不明のままアルフレッドのバッグが発見されることになる。本来は2の駅で擦り替えられていたイングリッドのバッグはウォンテッドが下車する5の駅になって初めて発見されるというカラクリだったのである。ビャクブはヤツデの答えの内容には熟考した末に納得した。しかし、結局のところ、ビャクブはギブ・アップをしてしまった。ビャクブは降参してカラタチから答えと解説を素直に聞くことにした。

「もう一つの答えは犯行の目的が違ったのですな」カラタチは話を始めた。「つまりは愉快犯ではなく窃盗犯だったのです。しかしながら、窃盗犯の狙いはバッグではなく中に入っている財布だったのです。窃盗犯はイングリッドさんが乗っていた準急の電車に乗る前にバッグを一つ盗んでいたのです。ここまではヤッちゃんの解説と似たり寄ったりですな。窃盗犯の次のターゲットはイングリッドさんのバッグに入っている財布ということになりました。窃盗犯にとっては隙を見てイングリッドさんのバッグを盗むのはいいですが一つ問題があります。窃盗犯はすでに盗んだバッグを一つ持っているので、それは持っていると邪魔になってしまうのです。ですから、窃盗犯は考えたのです。バッグを交換すれば、バッグは一つになりさらに周りの人にもバッグを置いた瞬間を見せられる。窃盗犯はこれによりバッグを盗む際の布石にも成り得ると考えたのです。ようは一石二鳥という訳ですな。窃盗犯はまんまとイングリッドさんのバッグを手に入れて電車を降ります。車内ではバッグの中のものを物色する訳には行かないでしょうからな。窃盗犯はホームのイスに腰かけて財布を探したのでしょう。窃盗犯はそれが終わると今度はウォンテッドさんの乗っている普通の電車に乗ります。窃盗犯はそこでも先程と同じような手順を行ったのでしょうな。窃盗犯は金目のものを抜き取ったイングリッドさんのバッグをウォンテッドさんのバッグの横に置いてしばらくするとウォンテッドさんのバッグを持って下車するという訳です。推理小説の探偵のようで小恥ずかしいですが、説明はこのような感じでもよろしいかったですかな?」カラタチはようやく問題の解説を終えた。ビャクブはすると「本当のカラタチは相当な切れ者だったのだな」と溜息をついた。ヤツデには一つの答えしか導き出せていなかったが、本当はヤツデも途中までは問題の手口が読めていたので、実はヤツデにも時間さえあれば『愉快犯』と『窃盗犯』という二通りの答えに辿り着くことは容易だったかもしれないのである。しかし、ビャクブはカラタチに花を持たせるためにもヤツデにカラタチの功績を伝えようと決心した。カラタチは照れくさそうである。


時は流れた。この日の夕食はヤツデが帰って来るとビャクブとカラタチの三人で料理店に行ってスキヤキを食べることになった。ヤツデはビャクブからすっかりとカラタチの名推理を聞かされることになった。

「さすがはカラタチさんですね」ヤツデはカラタチに敬意を払っている。「ぼくはカラさんなら『紛失の謎』を解いて下さると信じていました」ヤツデはどんな時でも謙虚なのである。

「いえいえ」カラタチは謙遜した。「私はしょせん犯罪捜査に貢献されたこともあるヤッちゃんとビャッくんには敵いません。スキヤキはおいしいですな? 機会があれば、今度は闇鍋をやりませんか?」

「それはいいですね」ビャクブは一応の確認をした。「闇鍋は確か明かりを消した中で各自が思い思いに持ち寄った食べものを鍋で煮て食べる遊びですよね?」ビャクブは全くの無学ではないのである。

「うん」ヤツデは首肯した。「そうだよ。ビャクブはどうしてスキヤキをスキヤキと言うか、知ってる?」ヤツデは説明した。「スキヤキは鋤の金属の部分で肉を焼いたからとも肉をすき身にして焼いたからとも言われているんだよ」ヤツデは博覧強記である。カラタチは「ほほう」と話に割って入った。

「私は初めて聞きました。ヤッちゃんはもの知りですな」カラタチは称賛した。「ビャッくんはヤッちゃんのことをもの知り博士と呼んでいたことにも頷けます」

ヤツデはそれに気をよくしてさらに雑学を開陳し始めた。ヤツデは「ネコまたぎ」にはまずい魚と美味な魚という真逆な意味があって「風間」には風が止んでいる間と風が吹いている時という真逆な意味を持つおもしろい言葉だと説明をしたのである。それを聞くと、ビャクブとカラタチは素直に関心した。ビャクブは特にヤツデの博識なところを尊敬してもいるのである。ビャクブはヤツデの話が一段落すると言った。

「カラさんは『紛失の謎』を解き明かしたけど」ビャクブは大いなる希望を込めて質問した。「ヤツデはロデア探偵に会いに行ってゼンジさん殺害事件の謎を解き明かせたのかい?」

「ぼくにはもう殺害事件における全ての謎は解明し終えたよ。ぼくの謎解きトークは明日になったら、ビャクブも未来館の人たちと一緒に聞いてね? 殺人事件は早く解明しないともう一つ起きる可能性も秘めていることだしね」ヤツデは不意に意味深なことを言った。ビャクブは今すぐにその話を聞きたがった。

ところが、ヤツデは話が相当に込み入っているからという理由でやんわりと受け流した。ビャクブはせっかちではないので、結局は明日までヤツデの謎解きを待つことで妥協した。

カラタチはそんな二人を見て「今は事件のことを忘れてもらおう」と思い別の話を提供した。その後のヤツデたちの三人は殺人事件のことを一旦は忘れて自分たちの休暇を存分に楽しむことにした。


 サフィニアは夕食を終えると祖母のオリーブの元に向かった。ビャクブはサフィニアを除いた未来館の人々がグルだというようなことを言っていたが、サフィニアは初め全くそのことを気にしてはいなかった。ところが、今のサフィニアは疑心暗鬼に囚われていた。サフィニアは別に自分の親族を信頼できなくなった訳ではないが、サフィニアにはもやもやした気分がこびりついてそれが取れなくなってしまったのである。母親のアオナは家事をしているし、サフィニアは実の祖母のオリーブを問いつめたなら、オリーブはおそらく隠し事をしていても答えてくれそうな気がしたので、現在はオリーブの部屋にやって来たという次第である。

「おばあさまにはいきなり妙なことを聞くけど、ロデアさんって本当に信頼の置ける人なの?」サフィニアは問いつめた。「私にはあんまりそうは思えないの。ここでは言いたくないけど、私はロデアさんからいい印象を受けていない理由もきちんとあるの」まずはサフィニアも自分の家族の話題を避けたのである。

「サフィの言葉を返すようで悪いけど」オリーブの口調は心から心配そうである。「ロデアさんは信頼のおける人よ。サフィはロデアさんからなにか言われたりされたりしたの?」

「いいえ」サフィニアは頭を振った。「私は特にそこまではされていないから、おばあさまは心配をしなくていいのよ。正直に話して欲しいのだけど、おばあさまはおじいさまの事件に関係することにしろ関係しないことにしろなにか隠し事をしてはいない? 私にはなんでも言って欲しいの。お願い」

「私はおじいさまを殺害した犯人を知らないけど、サフィにはラルフくんと一緒に隠し事をしていることは認めないといけないみたいね」オリーブは謝った。「ごめんなさい」

サフィニアはすぐにオリーブとラルフの持つ秘密を聞きたがった。そのため、オリーブはラルフと一緒に立てているある一つの計画プランを包み隠さずに打ち明けた。

それを聞くと、サフィニアは驚いた。ただし、サフィニアはそのこと自体でショックを受けることはなかった。しかし、サフィニアはこのようにして他の皆も自分の知らない秘密を持っているのが当たり前なのかと思うと少しブルーな気持ちになった。未来館にはコリウスが程なくして警察署から戻って来るという吉事があったので、サフィニアはそのことで元気を取り戻すことはできた。


 明くる日になると、カラタチはヤツデとビャクブのことを未来館の近くにまで連れて行った。目的はヤツデがゼンジ殺害事件の解決をすることだということはわかっていたので、カラタチはヤツデに対して別れ際にエールを送ってくれた。ビャクブは真剣な顔をしてヤツデと共にヘンルーダに案内され未来館の応接間にやって来た。この場にはヤツデとビャクブの他にはサフィニアとオリーブとアオナの三人がいる。

 カスミはヤツデたちの視界に入る範囲のテラスにて一人で静かに読書をしている。今日は冬にしては暖かい気候なのである。カスミは少なからずヤツデたちの話に興味を持っている。

「お話は昨日のディナーの席でサフィから伺っています。ヤツデさんには今回のゼンジおじいさまの事件に纏わる謎が解けたそうですね?単刀直入にお聞きしますが、犯人は誰なのですか?」アオナは聞いた。「犯人はやはり通り魔ですか?」アオナは粛然とヤツデの次の言葉を待っている。

 犯人はせめて通り魔であって欲しいとアオナだけではなくサフィニアも心の底から願っている。ビャクブはヤツデがどんな反応を示すのかとハラハラしている。

「残念ながら」ヤツデは切り出した。「犯人は通り魔ではありません。犯人はこの未来館に関わりのある人物です。こちらにはせっかくご本人がいらっしゃることですし、ご本人にもこちらに来て一緒にぼくのお話を聞いてもらいましょう」ヤツデはそう言うと一直線にカスミの方に向かって行ったかと思うとカスミを連れて戻って来た。カスミは何も言わずに俯いている。サフィニアは絶句している。

「ヤツデさんはカスミが犯人だとおっしゃるのですか? しかし、カスミにはアリバイがあったはずです。犯行時刻はアオナさんとヘンルーダさんと一緒だったという完璧なアリバイです。それに」オリーブは途中で話を遮られた。ヘンルーダはつかつかとこちらに歩み寄って来て不意に口を挟んできたからである。

「申し訳ございません。犯人はカスミさまではなくわたくしめです!」ヘンルーダは思わず声が大になっている。ビャクブはいきなりの目まぐるしい展開に混乱している。それはサフィニアも同じである。

「どうやら」ヤツデは言った。「ぼくは皆さんを驚かせてしまったようですね」

「こちらこそ」ヤツデは謝った。「どうもすみません。ヘンルーダさんはカスミさんを守ろうとして嘘をつかれているだけです。それでは順を追ってご説明させて頂けますか? ゼンジさんは駅のホームで殺害されましたが、これは果たして偶然でしょうか? ぼくは信用の『白の推理』というものを使って必然だと決めつけました。それではそう考えた時にゼンジさんをホームで一人きりにできたのは誰か?ゼンジさんは事件のあった時にコリウスさんからスマホを借りていました。コリウスさんにはゼンジさんのことをどこにでも呼び出すことは可能です。ですが、ぼくにはコリウスさんがカスミさんの指示でゼンジさんにスマホを貸していたことが気になっていました。ぼくはそれだけで気になっていた訳ではありません。ぼくはビャクブにもお願いをして事件の前日にゼンジさんの部屋に行かれた方はいたかどうかをチェックしました。その結論はカスミさんだけが唯一ゼンジさんの部屋を訪れていたという事実です。つまり、カスミさんにはコリウスさんにスマホを持たせ事件の現場にコリウスさんの毛髪を落としてくることは不可能ではないということです。カスミさんはあたかもコリウスさんがスマホでゼンジさんを事件の現場に呼び出したと見せかけその裏では事件の前日にすでに呼び出しを終えていたものだと考えられます。このお話はぜひともカスミさんにお聞きになってもらいたいのですが、ゼンジさんはきっとなんらかの気配を察していたんだと思いますよ。フレークさんはゼンジさんのことを窮地に立たされると意外と弱い方だとおっしゃっていました。オリーブさんはゼンジさんのことを決して完璧な方ではないともおっしゃっていました。おそらくは滅多に外出をされずそれでいて人付き合いの好きなゼンジさんが『幸せギフト』の図書カードを事件の当日に持って行かれなかったのはそのせいだと思われます。実はそのことを裏付けるものはまだあります。フレークさんとコリウスさんはゼンジさんが事件の二日前に自分が棺桶に足を突っ込んでいると聞いていらっしゃったそうです」ヤツデはようやくここで言葉を切った。執事のヘンルーダはオリーブの身振りによってすでに職務に戻っている。

「そんな」サフィニアにはわからないことだらけである。「おじいさまはカスミ叔母さまに命を狙われていると知っていたの? どうして? おじいさまはどうして黙っていないで私達に相談もしてくれなかったの?」

「おじいさまはそれでもカスミのことを信じていたのじゃないかしら?」オリーブは予想を口にした。

「ぼくはオリーブさんのおっしゃるとおりだと思います。疑惑のきっかけはこの日記の位置が変わっていたこともゼンジさんのアンテナに引っかかる大きな役割を果たしていたと思います」ヤツデはそう言うとオリーブから借りていた30年前の日記を取り出した。ゼンジはヤツデの推理のとおりにこの日記の件とカスミさんに日程を聞かれて『外出の際は気をつけて』と言われた時の様子からなにかあると悟っていたのである。

「ヤツデは初めからその日記にこだわっていたけど、ゼンジさんはどうしてその日記の位置がズレていたくらいのことで敏感に自分の死なんていうものと結びつけることができたんだい?」ビャクブは聞いた。

「その理由はカスミさんの犯行の動機と関与しているよ」ヤツデは「そうですよね?」と言うとここに来て初めてカスミに対して話を振った。アオナはじっとカスミのことを見つめている。

「ええ」カスミは頷いた。「ヤツデさんのおっしゃるとおりです。その30年前の日記には父が駅でアタッシュ・ケースを線路に落としたということが書かれていました。私はその後も日記を読み進めて行く内にその当時にラルフのお父さまに私の父が助けられていたということも知りました。私は父の仕事の都合でラルフと結婚させられていたんです!」カスミは少し声を荒げた。ビャクブはなるべく平常心を保とうと努めている。

「どういうこと?」サフィニアは混乱している。「カスミ叔母さまはたったそれだけの理由でおじいさまを手にかけたの? カスミ叔母さまにはそもそもアリバイがあるのよ。ダイイング・メッセージの意味はなんだったの? カスミ叔母さまはどうして30年も前のおじいさまの日記を開く気になったの? 私にはまだわからないことだらけよ」サフィニアは言った。その想いはヤツデとカスミを除いた皆が同じである。

「うん」ヤツデは相槌を打った。「ぼくは一つずつ説明して行くよ。まずはサフィニアの最後の問いだけど、カスミさんはどうしてゼンジさんの日記を開く気になったのか、それはサフィニアも知っているはずだよ。なぜなら、元々は他でもなくサフィニアがぼくにその情報を提供してくれたのだからね。サフィニアは『仲良しトラベル』に参加している時に『おばさまは自分のことがどんな風に書かれているのかと気になっておじいさまの日記をこっそりと呼んでいた』みたいなことを言っていたよね? ぼくはさすがにその時のサフィニアの正確なセリフまでは覚えていないけど、サフィニアの言ったことはちゃんと耳にしたことをよく覚えているよ。カスミさんの犯行の動機はラルフさんとの結婚が画策されていたことだったからだけではありません。ゼンジさんの残された血文字は11月の生まれを意味していました。ゼンジさんは今わの際に『11月』の『月』の一角目を書いたところで力尽きてしまったのです。カスミさんは12月の生まれですから」ヤツデは言いかけた。ヤツデはゆっくりとしゃべっていたので、その後の言葉はアオナが引き継いだのである。

「実行犯は別にいるということですね? お聞きするのは恐ろしくて少し憚られるような気もしますが、その実行犯というのはどんな人物なのですか? 実行犯は私達の中にいるのですか?」アオナは聞いた。ビャクブは頭の中で11月の生まれの事件の関係者を必死に思い出そうとしている。

「いいえ」ヤツデは否定した。「真犯人の名はチェンスさんと言う方です。おそらくはこの場にいらっしゃる方でチェンスさんをご存知の方はカスミさんとビャクブの他にはいらっしゃらないと思います」

「なんだって?」ビャクブはびっくり仰天している。「チェンスさんっていうのはおれとカラさんが『愉快なクリスマス』のパーティー会場で知り合ったあのチェンスさんのことかい?」ビャクブは天地が逆転したかのようにして驚きを露わにしている。「ヤツデは一度もチェンスさんと接触すらしていないじゃないか!」

サフィニアとオリーブとアオナは聞いたことのない人物の名が出てきて唖然としている。カスミは同様の色を隠せないでいる。ヤツデの推理はカスミにとっては図星だったのである。

「いや」ヤツデは首を左右に振った。「ぼくは探偵のロデアと偽証したチェンスさんとカーム・エンデバーで接触しているよ。チェンスさん(自称ロデアさん)にはいくつもの不可解な点がありました。ぼくは疑惑の『黒の推理』というものでとことんチェンスさんのことを疑った結果としてその結論にまで辿り着きました。チェンスさんは本物のロデアさんではないと疑い始めたそもそものきっかけは尾行があまりうまくなかったからです。探偵のプロフェッショナルのロデアさんなら、素人のぼくにはあんなにも易々と尾行を見抜けなかったのではないだろうかとぼくは考えたのです。カーム・エンデバーに入ると、チェンスさんは上着のジャンバーを閉じました。その時のぼくはただ単にチェンスさんにとっては思ったよりも店内が寒くてジャンバーを閉じたのだと思いました。ですが、ビャクブが偶然『愉快なクリスマス』でチェンスさんと遭遇しチェンスさんが首にかけているチェンスさんの奥さんのペンダントの話をしてくれて考えを改めました。ぼくには触れられたくない話題だったから、チェンスさんは察するにペンダントを隠したのです。チェンスさんはどうしてペンダントの話題に触れられたくなかったのかはあとでご説明致します。ここでは触れられたくない話題と言えば、ぼくがゼンジさんの事件についての話題を出したら、チェンスさんは店内を逃げるようにして去って行かれました。ロデアさんにはこれも似つかわしくない行動です。サフィニアにはロデアさんに関するいくつかの情報を求めたよね?」ヤツデはやさしい口振りで確認をした。とりあえず、ビャクブは大人しくヤツデの話に聞き入っている。オリーブとアオナはすっかりと閉口してしまっている。

「ええ」サフィニアは落ち着いて答えた。「ロデアさんには人差し指をトントンする癖はあるかっていうことやロデアさんの一人称や髪の色は何色かっていう質問のことでしょう?」サフィニアは確認した。オリーブとアオナは注意深く話に耳を傾けている。カスミはだんまりを決め込んでいる。

「うん」ヤツデは頷いた。「チェンスさんは用意がよくてロデアさんの名刺を持っていてロデアさんの癖も念のためにまねていたけど、ロデアさんの一人称をまねることまでは気が回らなかったんだよ。ロデアさんの一人称は『ぼく』なのにも関わらず、チェンスさんはカーム・エンデバーでぼくと話をしていた時には終始『私』という一人称を使っていました。ぼくはここまで推理を煮詰めてテナントのロデアさんのペンシル・ビルに行って裏を取って来ました。ロデアさんは黒髪ですが、チェンスさんは茶髪でした。ぼくはそこで今まで推理してきたことが間違いではなかったことを知ったということです」

「ヤツデさんのお話はよくわかりました」アオナは口を挟んだ。「そのチェンスさんという方はなんの恨みがあってゼンジお義父さまに危害を加えてカスミちゃんを事件に巻き込んだのですか?」

「それは順を追ってご説明致します。ですから、皆さんは驚かないで下さい。今回の事件は交換殺人なのです。アオナさんは『カスミさんは事件に巻き込まれた』とおっしゃいましたが、カスミさんはすでに危険な立場にいらっしゃいます。カスミさんにはそれだけではなく殺害する歪んだ動機もお持ちです」ヤツデは驚愕の事実を口にした。カスミはハッとしてヤツデの顔を見た。ビャクブは目が点になっている。

「交換殺人ということは」サフィニアは言った。「おじいさまはなんの面識もない人に命を奪われたの? カスミ叔母さまはどうしておじいさまをそんなにも恨んでいたの? それに」サフィニアは絶句した。

ビャクブとオリーブとアオナはサフィニアの言いたかったことを理解することができた。カスミはすでに殺人を犯しているのかどうかを聞こうとしていたのである。ビャクブはヤツデがそこまでの真相に近づいているだろうということに確信を持っている。オリーブとアオナは次の話の展開を待っている。

「サフィには怖い思いをさせてごめんね」カスミは微かに笑んだ。「あたしはあたしの人生を懐柔していた父が許せなかったの」カスミはそう言うと訥々と真相を語り出した。

 大学進学の頃のカスミは口のうまいゼンジに言いくるめられゼンジと同じ有名私立大学を受験するも不合格で浪人を経験した。しかし、高校生の頃のカスミはそれ以前にバレエの全国大会で優勝していれば、今のカスミはその道をそのまま歩み続けているはずだった。

 それにも関わらず、ゼンジはカスミのバレエのライバルに融資をしていた。ゼンジはそこまでしてカスミにバレエを断念させその他の実用的な習い事に心血を注がせようとしていたのである。

 もっとも、カスミは自身でも言っていたとおり、カスミの不満を爆発させるに至った決定打は他でもなくラルフとの結婚である。カスミは29年前(27歳の時)にラルフとの結婚を決意した。

しかし、思い返せば、カスミとラルフの出会いのきっかけはゼンジが作り出したものである。そのゼンジは自分の会社の商売敵である重役の息子のラルフと自分の娘であるカスミを結婚させることにより自身の会社を大きくするためにカスミのことを利用していたのである。

「あたしはあたしとラルフの結婚よりも前から父がラルフのお父さまと知り合いだったなんて少しも知らなかった。よく考えてみると、父はあたしに対してああしろだのこうしろだのと些細なことにまで口出しをしていたんで」カスミは聞いた。「ヤツデさんは何をきっかけにしてあたしを疑い始めたのですか?」

「疑惑の時期はカスミさんと初めてお会いした時です。きっかけはカスミさんの言葉の端々にゼンジさんに対するほんのわずかな避難の気持ちが垣間見えたからです。例えば、カスミさんはゼンジさんのことを厳しいところがあったとおっしゃいました。カスミさんはそのあとゼンジさんのことを慈悲深い方だと取り繕っていらっしゃいましたが、あれはカスミさんのゼンジさんに対する本音が出てしまっていたのではないかとぼくは考えたのです」ヤツデは説明した。ビャクブはヤツデの相変わらずの鋭さに感心している。

「これはサフィニアのセリフの重複にはなるけど、今回の事件は交換殺人なんだろう? それなら」ビャクブは核心を突く質問をした。「ヤツデはカスミさんも誰かの命を手にかけたと言うのかい?」

「ううん」ヤツデは否定した。「カスミさんは誰も人を殺めてはいないよ。それは不幸中の幸いだね。カスミさんはよく思い留まって下さいました。ここからはロデアさんにお会いして来てぼくが得た情報をお聞き下さい」ヤツデはそう言うと昨日一人でオフィス街にあるロデア探偵事務所に行って来た時のことを詳しく話し出した。ヤツデが尋ねると、本物のロデアはトイワホー国の国民らしく愛想よくヤツデのことを受け入れてくれた。ヤツデはロデアの仕事の邪魔をしないよう昼食時に事務所を訪ねていたのである。

ヤツデはロデアに丁寧にチェンスが犯罪者である可能性が高い旨を話した。それを聞くと、ロデアはその話に納得しチェンスについての情報をヤツデに提供してくれた。

 ヤツデはてっきりチェンスが11月の生まれだとばかり思っていた。ところが、ロデアの情報によると、チェンスは8月の生まれだった。8月の誕生石はサードニックとペリドットである。ヤツデはそれでもめげなかった。ヤツデはチェンスの家族についての情報を知りたがった。

チェンスの父は以前に板前をしていた。ところが、その父親の店はチェンスが小学生の頃に潰れ借金を負った上に、その父親には洋服を試着室から着たまま帰ろうとしたという前科があった。

執行猶予中のチェンスの父はオリーブのカバンを駅のホームでひったくろうとして失敗した。ここは『愛の国』トイワホー国なので、借金の取り立ては無理矢理にはなされなかったが、当時は小学生だったチェンスにでも自分の父を警察に突き出し刑務所に入れた男の顔は今になっても覚えていた。

その男とは仕事で全盛期を迎えようとしていたゼンジだった。ヤツデはどうしてここまでの情報を得られたのかというと、それは一重にロデアが敏腕な探偵だったからである。

ロデアはそこまで知っていてチェンスをゼンジの家族と接触させたのはチェンスもまさか今さらになってゼンジに対して復讐をしようなどとは思わないだろうと思っていたからである。

ロデアは最後にサフィニアの尾行の一件から程なくしてチェンスが探偵のアルバイトを辞めたいと言い出してきたという情報もヤツデに対して提供してくれた。

チェンスがロデア探偵事務所でアルバイトをしていたのはおそらくカスミに近づくためだったのだろうとヤツデはその時に推測した。ヤツデはロデアからチェンスの自宅の住所を聞きロデア探偵事務所をあとにした。ヤツデの次の目的はチェンスの妻であるマイに会って話を聞かせてもらうことである。

マイは幸い在宅でありさらには『愛の伝道師』に恩があったので、同じく『愛の伝道師』であるヤツデのことを快く受け入れてくれた。ヤツデは自分がチェンスの知人であり今のチェンスが大変な状態にあるとマイに対して説明した。ヤツデはチェンスが犯罪にでも関与しているのかと何気なく聞いてきたマイに対して「イエス」と答えておいた。マイはそれならば『愛の伝道師』ではなく警察が動くべきなのではないのかと最もな追及をして来た。ヤツデは説明を割愛するため「最近のマイは事件や事故といったトラブルに巻き込まれることはなかったか?」とさり気なく話題を反らした。マイはすぐにそれを否定した。

しかしながら、ヤツデがどんな些細なことでもいいと食い下がると、マイは一つ思い当たることがあると言った。マイはある雨の日に人気がなくて暗い時間帯に立体駐輪場を利用しようとして三階まで上がって合羽を脱ぎ自転車を止め階段を降りようとすると知らない女性と接触して危うく階段から転げ落ちそうになっていたのである。その日は雨が降っていて足下は滑りやすく人気がなかったとなると基本的にはどこもかしこも防犯カメラの設置がされていないトイワホー国となると、もし、マイがその時に階段から転落死をしていても、それは警察にも事件か、事故かの区別は難しいばかりではなく犯人にしても逃げ果せる公算は高かった。ヤツデはその時にマイが接触した女性の顔を覚えているかどうかを聞いた。

マイは「その女性はマフラーをしていてショート・カットだった」と答えた。マイはその上「再びその女性を見れば、思い出せる自信はある」と答えた。それはヤツデとしては十分すぎる程に納得の行く返答だった。交換殺人の構図はチェンスがゼンジを殺害しカスミがマイを殺害するというシナリオだったのである。ヤツデは話をチェンスのことに移した。ヤツデはマイからチェンスに関する情報を聞き出したが、それは以下のとおりである。チェンスは左利きだった。それはコリウスが「犯人は左利きの可能性が高い」と警察から聞いた事実と一致している。今のチェンスはマイから離婚を迫られており職も安定してはいなかった。ただし、タイム・リミットがついているとはいえ、チェンスはきちんと職に就くまではマイと夫婦であることを訳されていた。チェンスはマイに対して宝石の贈り物をしたことがあった。チェンスはマイの誕生石であるトパーズをプレゼントしていたことがあった。マイは三月の生まれだったのである。

「ヤツデくんの話はよくわかったけど」サフィニアは聞いた。「おじいさまのダイイング・メッセージは三月を意味していてそのマイさんが三月の生まれだったことにはどんな関係性があるっていうの?」

「これはあくまでもぼくの推測だけど」ヤツデは推理力をフルに活動させている。「チェンスさんはマイさんの誕生石を記憶力のズバ抜けていいゼンジさんから購入していたんだよ」

「そして」ヤツデは言った。「ゼンジさんはそのことを覚えていた。とはいっても『死人に口なし』っていうから、ぼくにはそのことを立証することはできないんだけどね。だけど、ぼくは色々な可能性を勘案した結果としてゼンジさんのダイイング・メッセージはマイさんの誕生月を意味していたんだと思いました」

「ところで」ヤツデは続けた。「カスミさんとチェンスさんは策略とも言える程に執拗に工作を巡らせていらっしゃいましたね? これは繰り返しの部分もありますが、ゼンジさんはどのようにして殺害現場に呼び出されたのかという謎がありました。実際は事件の前日にカスミさんがゼンジさんの部屋を訪ね犯行現場に呼び出していました。事件の前日にゼンジさんの部屋を尋ねたのはカスミさんのみだということはビャクブの聞き込みのおかげもあってわかったことです。ですが、カスミさんは事件の当日にコリウスさんに自分のスマホをゼンジさんに貸すようそれとなく促されあたかもコリウスさんがもう一台のスマホでゼンジさんを犯行現場に呼び出したのではないかと思わせたりチェンスさんに予めコリウスさんの毛髪を渡しておき現場にそれを残しておいたりヘンルーダさんにはフレークさんがゼンジさんの金庫を弄っていたという今回の事件に直接的な関係のない話を提供して事件を混ぜっ返したりされました。それにも関わらず、カスミさんはお気づきにはなられてはいないようですね? カスミさんはチェンスさんのことを信用しすぎてはいらしゃいませんか?」ヤツデは妙なことを聞いた。ビャクブはヤツデの意図を計りかねている。

「それはどういう意味ですか?ヤツデさんにここまで見抜かれてしまったのなら、あたしは正直に申し上げます」カスミは胸の内を明かした。「あたしは確かにチェンスさんのことを恐れています」

「はい」ヤツデは素直に頷いた。「そのことはよく存じ上げております。ぼくはこれから三つの殺人事件が起きる可能性を考慮していました。一つ目は計画のとおりカスミさんがマイさんを殺害する可能性です。二つ目は痺れを切らしたチェンスさんが自らの手でマイさんを殺害する可能性です。最後の三つ目はチェンスさんがマイさんのことを中々殺害しないカスミさんのことを殺害する可能性です。カスミさんは一つ目の可能性をすでに破棄し三つ目の可能性に怯えていらっしゃいました。ラルフさんはゼンジさんのお葬式の日にカスミさんの様子が少し変だったとおっしゃっていました。それはカスミさんがその場でチェンスさんの姿を見かけたからではありませんか? そう考えると、カスミさんはその時に変わった様子を見せたことにもそのあと未来館のキッチンでミスを繰り返していたことにも合点が行きます。フレークさんはカスミさんが一昨日に怯えた様子だったとおっしゃっていました。こちらはカスミさんがマイさんの殺害に失敗したことに端を発していたのだと思います。ああ。すみません。論点が少々ズレてしまいましたね。チェンスさんはカスミさんが色々な手段を講じていらっしゃったようにカスミさんのことを罠に陥れていたのです。ですが、ぼくは話の順番を間違えてしまいました。ここでは話を整理させて下さい。ゼンジさんはどのようにして殺害されたかについてまたお話させてもらいます。ゼンジさんは予めカスミさんから午後5時に事件の現場に来るよう前日に指示されていました。ゼンジさんはただならぬ気配を察し動揺させられました。ゼンジさんはそれでもカスミさんと話をされるために事件の当日に現場にたった一人で赴きました。ですが、そこではカスミさんではなくチェンスさんがゼンジさんのことを待っていました。ゼンジさんとチャンスさんの二人の間でどんなやり取りがあったのかはチェンスさんに聞いてみるしか、術はもはやありません。ただし一つ言えることはあります。ゼンジさんは現役だった頃にチェンスさんが自分の店でトパーズを購入したことを覚えていたのです。ぼくとビャクブは聞き込みでゼンジさんの記憶力のよさと頭のよさについてオリーブさんやラルフさんを初めとした何人もの方からお聞きしているので、そのことはおそらく間違いないと思います。トパーズは一一月の誕生石です。だから、ゼンジさんは限られた時間を使い名を知らない犯人の手掛かりになるダイイング・メッセージを残そうとされたのです。実はゼンジさんのダイイング・メッセージが誕生月を示していると考えるきっかけはカスミさんが作って下さったのです。カスミさんはカーム・エンデバーでラルフさんから誕生石の贈り物をもらったという話をされていましたよね?」ヤツデはゆっくりと言った。「ぼくはそれを受けてインスピレーションが沸いたのです」ヤツデはポーカー・フェイスである。ビャクブはカスミと初めて会った日のカーム・エンデバーでのヤツデの妙な沈黙の意味を今になってようやく悟った。カスミはハッとしている。

「ヤツデさんの慧眼には本当に驚かされます。つまり、おじいさまは最期まで耄碌していなかったという訳ですね?派内を戻してしまいますが、先程のヤツデさんは何をおっしゃろうとしていたのですか?」オリーブはもう一つの肝心な点を聞いた。「カスミはチェンスさんと言う方に騙されていたというお話でしたね?」

「はい」ヤツデは言った。「チェンスさんは実に用意周到で狡猾な方です。チェンスさんは言葉を巧みに使いカスミさんにゼンジさんに対する憎悪の念を強めさせました。カスミさんにとってその中でも最も効果的だったのはバレエをお止めになる決心をさせた手紙です。カスミさんはその手紙をチェンスさんから見せられましたね?」ヤツデは確固たる自信を持って確認した。サフィニアはすっかりとヤツデの話に聞き入ってしまっている。ビャクブには耐性ができているので、一応は今も平静を保っている。

「ええ」カスミは首肯した。「まさか、ヤツデさんがそこまでご存じだったなんて驚きました。実はあたしの人生の岐路になったバレエの退会の対戦相手はチェンスさんの元恋人だったんです。そこまではいいのですが、チェンスさんはその方が審判員に多額の賄賂を贈っていたという証拠を示す手紙を見せて下さったのです。そのお金の出所はあたしの父だということもその手紙から察することができました。ヤツデさんはどうしてそこまでのことを知ることができたのですか?」カスミは聞いた。この場の者は皆がカスミと同様に不思議そうにしている。ヤツデは「この上なく簡単な話です」と応じた。

「マイさんはチェンスさんがその手紙を書いているところを見かけていらっしゃったからです。チェンスさんはようするに事実を改竄していたのです。カスミさんはおかしいとは思われませんでしたか? カスミさんのバレエの大会の対戦相手が実はチェンスさんの元恋人だったなんて話はあまりにもできすぎています。ゼンジさんはおそらくこの件に関しては全くのノー・タッチだったとぼくは考えています。ゼンジさんはカスミさんに自分と同じ大学に入って欲しいと願ったのもゼンジさんご自身がよかれと思って勧めただけであり、もしも、カスミさんが拒否していたら、未来は変わっていたと思います。オリーブさんはカスミさんとラルフさんがご結婚される前からゼンジさんがラルフさんのお父さまと知り合いだったことを隠していたのはどうしてだったと思われますか?」ヤツデは腹に一物ありながらもオリーブに話を振った。

 カスミは突然の事態の急変に動揺を隠しきれないでいる。

「おじいさまにはとても神経質なところがあったので、カスミには無駄な気を遣わせまいとしていただけだったのだと思います」オリーブは思ったことをありのままに口にした。ヤツデは話を続けた。

「カスミさんはゼンジさんがよくカスミさんの言動に口を挟んできたとおっしゃっていましたが、それはゼンジさんがカスミさんを心から大切に思っていらっしゃったからだったのだと思います。本当はカスミさんに少しでも苦労をさせないように、ゼンジさんは一生懸命に気を使っていらっしゃったのだと思います」

「そんな」カスミは驚愕した。「あたしはそんなにもやさしいお父さまになんてことを」カスミはそう言うと涙を零した。サフィニアはカスミと同様に涙目になっている。

オリーブとアオナはただ茫然としている。ビャクブは犯罪の愚かさに強く痛感させられている。ヤツデは唯一この場の者の中では穏やかな顔をしている。ヤツデはやがてカスミに対して言った。

「ぼくにも悪事をしてしまったことはあります。カスミさんは今回のことを一生の刻印として後悔してしまうかもしれません。ですが、ここにいらっしゃるオリーブさんやフレークさん達はきっとカスミさんのことを受け入れてくれます。ですから、カスミさんはどうか不幸にはならないで下さい。人はなぜこの世に生きているのか? その答えは『幸せを享受するためだ』とぼくは思っています。罪人が刑務所に入ってもまた出られることがあるのはそれで全てが許される訳ではなくても人生における全ての時間で苦しむ必要はないということを意味しているのだと思います」ヤツデは穏やかに言った。ヤツデは悪事をされた被害者だけではなく悪事をした加害者もどれ程に苦しむものなのかを知っているのである。

ヤツデはカスミの性格を考慮して言葉を紡いでいる。さすがのヤツデも全く反省の色のない者には先程のようなセリフを口にすることは決してないのである。ヤツデは最後に言った。

「ぼくのからの話は以上です。ですが、皆さんはカスミさんのことをまだ警察の方に話さないで下さいますか? フレークさんにはカスミさんにお話されたいことがあると思うからです。ただし、チェンスさんはカスミさんの口封じをするために虎視眈々とカスミさんの命を狙っている可能性もあります。ですから、カスミさんはフレークさんがご帰宅になられるまでこの未来館から外出なさらないようお願い申し上げます」

「わかりました。マイさんという方についてはどうされるおつもりなのですか? ヤツデさんの今のおっしゃり方ではまだチェンスさんと言う方を野放しの状態にされているのですよね?」アオナは聞いた。

「はい」ヤツデは即答した。「今はチェンスさんを警察に逮捕されると都合が悪いのです。ですが、アオナさんはご安心下さい。今日一日はチェンスさんをずっと目を光らせておいて見て下さるようロデアさんにはお願い申し上げておきました。全ての要件はすみました。ぼく達はこれで失礼致します」ヤツデはそう言うとオリーブとアオナとサフィニアに対して丁寧にお辞儀をした。ビャクブはヤツデに倣って腰を上げた。

ヤツデとビャクブの二人はオリーブとアオナからお礼の言葉を賜り未来館を辞去することにした。ヤツデはビャクブと一緒に未来館をゆっくりと歩いていると「ヤツデ様!」と背後から声をかけられた。その声の主は執事のヘンルーダである。ビャクブは嫌な予感を覚えたが、ヤツデは平然としている。

「犯人はどなたでございましたか?」ヘンルーダはヤツデに縋るようにして聞いた。「どうか、カスミ様は未来館の元ご主人さまであるゼンジ様を殺害されてはいないとおっしゃっては下さいませんか?」

「ヘンルーダさんはとても忠実な執事ですね。盗み聞きしようとすれば、簡単にできたはずです。ですが、実際はそうされませんでした。カスミさんは確かにゼンジさんを殺害してはいません。詳細はあとでお聞き下さい。これだけは申し上げておきます。ヘンルーダさんはゼンジさんを殺害した犯人からカスミさんをお守り下さい」ヤツデは「お願いします」と言うとぺこりと頭を垂れた。

「承知致しました。わたくしは命に代えてもカスミ様のことをお守り致します」ヘンルーダはそう言うとヤツデとビャクブの労を労うとそれ以上の追及はしてこなかった。

ビャクブはそんなヘンルーダの姿を見て心がほっこりした。ヤツデとビャクブの二人はやがて未来館の外に出た。外では手提げ袋をぶら下げたラルフと偶然にも擦れ違うことになった。

「やあ」ラルフは二人に対して話しかけた。「今日は冷えますね。それはノー・パンだからか」

「ははは」ラルフは妙にハイ・テンションである。「今のセリフはもちろん冗談です。ヤツデさんとビャクブさんのお二人はもうお帰りなのですか?」ラルフは陽気な口調で聞いた。

「はい」ヤツデは答えた。「真実の解明はすみました。つまり、ぼくらにはこちらに長居する理由はもうありません。今日のラルフさんは特に上機嫌ですね。カスミさんはきっと励まされますよ」ヤツデはやさしい微笑みを浮かべている。ビャクブはヤツデの表情を横目で眺めた。

「そうだといいのですがね。ヤツデさんはお気遣いをどうもありがとうございます。お二人は気をつけてお帰り下さい」ラルフはそう言うとハミングをしながら未来館の方に向かって行った。

「今の対応はヤツデにしては少し残酷じゃないかい?」ビャクブは言った。「まさかとは思うけど、ヤツデはおれと同じようにしてラルフさんが上機嫌だった理由にも察しがついているというのかい?」

「それは聞き捨てならないセリフだね」ヤツデはビャクブの方を見た。「ぼくはともかくビャクブもそれに気づいているの?」ヤツデに聞かれると、ビャクブは「ああ」と頷いた。

「気づいてるよ。ラルフさんは毎年のようにカスミさんに対して誕生日のプレゼントを送っていた。それにも関わらず、今年はまだそうしていない。おれは一昨日にラルフさんの部屋に入らせてもらった時にラルフさんがテーブルの上のチラシを急いで片づけているのを見たんだ。その時のおれはただ単に部屋が散らかっていてラルフさんがそれを少しでも綺麗にしたかったんだと思った。だけど、それはおれの思い違いだった。ラルフさんはカスミさんに対する手作りの誕生日のプレゼントを作っていたんだとあとになって思ったんだよ。おれの見たチラシは陶芸教室のものだった。ヤツデはこの推測をどう思う?」

「大変にハラショーだね」ヤツデはビャクブと推理を共有できてうれしそうである。「ビャクブはとても鋭い観察眼を持っているよ。ぼくとビャクブの推理の過程は少し違うけどね。ヘンルーダさんの話によると、ラルフさんは仕事がオフの日にも『ぼくは仕事に行って来るよ』と言って出かけていたり、スポーツ・ジムのインストラクターの仕事をしているのにも関わらず、ラルフさんはまるでサラリーマンのように『とりあえず一仕事ついた』と発言していたり、カスミさんは『最近はラルフさんの仕事の帰りが遅い時や休日にも出勤をする』とおっしゃっていたという事実があったりしたこともぼくの場合はアンテナに引っ掛かったんだよ。あとはビャクブの言ったとおりラルフさんがまだカスミさんに誕生日のプレゼントを送っていなかったことや今のラルフさんが上機嫌に袋を持って帰宅されていたこともそのことを裏づける根拠になったんだよ」ヤツデは理路整然と言った。一方のビャクブはヤツデの話を聞いて唖然としている。

「やれやれ」ビャクブは吐息をついた。「ヤツデを出し抜くのは容易ではないな。そう言えば、ヤツデはフレークさんとカスミさんを対面させることに異常にこだわっていたな?それは本当に後回しではダメなことだったのかい?」ビャクブは話題を変えた。もっとも、それは自尊心を傷つけられたからではない。

「うん」ヤツデは首肯した。「それじゃあ、ビャクブにはカラさんが迎えに来てくれるまでにとっておきの情報をリークしてあげるよ」ヤツデはそう言うと悪戯っぽく微笑んだ。ビャクブは不思議そうにしている。

ヤツデは未来館に纏わる最後となる驚愕の謎解きを始めた。ビャクブはその話を聞きながらヤツデの推理力に圧倒された。ヤツデには解けない謎はないのではないかとビャクブは勘ぐった程である。

今回は風邪をひいて動けなかったというハンディキャップがあったにも関わらず、ヤツデは未来館におけるほとんど全ての隠されていた真実を暴き出してしまっていたのである。


 ここはコリウスの行きつけのスナック・バーである。外は厳冬の季節だけに極寒である。コリウスは奥まったスツールに座し一人でウイスキーをちびちびと呷ってもの想いに耽っていた。この店にはコリウスの他にも三人の客がいる。しかし、コリウスの瞳には何も映ってはいなかった。コリウスには約30分前にアオナからスマホに連絡が来ていた。それにも関わらず、コリウスは未来館に足を運ぶ気にはならなかった。コリウスは虫の知らせで自身の父を殺害した犯人がわかったのだと思っていた。コリウスはこのバーに一人の客が入ってきたことにも気づかなかった。だから、その男に声をかけられると、コリウスは過剰に驚嘆した。

「どうしたんだ?」男は言った。「おれがこのバーに来ることはそんなにも意外か?」兄のフレークはそう言うとブランデーを注文しコリウスの隣のスツールに腰を下ろした。今のフレークはとても落ち着き払っている。他の客は特にフレークとコリウスには気を止めていない。コリウスは「いや」とすぐに落ち着きを取り戻した。「兄貴とはこのスナックで何度も会っているから、おれはそのことで驚いた訳ではないよ。兄貴はてっきりと今は未来館にいるとばかり思っていたんだ」コリウスは聞いた。「兄貴はおそらくサフィから連絡をもらっているだろう?」コリウスは自分とフレークの立場をしっかりと弁えている。コリウスは決して頓馬ではないのである。兄のフレークは「ああ」とすぐに応じた。

「もちろんだ」フレークは言った。「だが、おれにはそれ以前に役割があってここに来たんだ」

「親父はおれが殺害したんだ。兄貴はおれが自首をすることを勧める。用件はさしずめそんなところか?」コリウスはすっかり落胆してしまっている。「兄貴は何もわかってはいないんだ」

「その様子だと、コリーは真相を知っているみたいだな? ヤツデくんの言っていたとおりだ。おれはおじいさまを殺害した犯人もコリーがどうしてそんなにも自分を追い詰めているのかもわかっているよ。コリーはおれとカスミの実の弟ではないんだ。コリーは養子なんだ」フレークはそう言うと切々と事実を語り出した。

シーカーは7歳の時にバスの転落事故で命を落とした。一度は話にあったとおり、そのシーカーはフレークとカスミの実の兄である。当時は0歳だったコリウスは実の父母をその事故で亡くしておりゼンジの養子になっていたのである。ヘンルーダは「ゼンジとコリウスは事件の前日に二人で話し合いをしていた上にコリウスは荒っぽい声を出していた」と証言していた。あれはゼンジが事実を隠して愛情を注いでいたことについてコリウスがその理由を問い質していたのである。その問いに対するゼンジの答えは息子を愛することに理由はいらないというものである。ゼンジはその翌日に永眠することになった。

そのため、コリウスは事件後に涙を流したりゼンジの遺産をいらないと主張したりしていたのである。コリウスはゼンジの遺体の火葬の際に靴紐を直していたが、あれは事件後と同様に溢れ出して来た想いを堪えきれず涙を隠すためのフェイクの振る舞いだったのである。

「そうか」コリウスは吐息をついた。「兄貴は知っていたんだな。おれは生前の親父に何もしてやれなかった。親父は血の繋がりのないおれをあんなにも愛してくれたのにも関わらず、おれは何もしてあげられなかった。しかし、これは妙な話だな。兄貴はどうしておれがそのことを知ったと気づいたんだ?」コリウスは我に返ると不思議そうにしている。フレークはその問いに易々と答えた。

「それはヤツデくんの聡明な頭脳による賜物だよ。ヤツデくんはコリーの様々な異変とバスの転落事故の時期とおれの発言したコリーの遺産の相続の拒否についての問題は今回の事件とは無関係だといった事柄から推理したそうだ。だから、おれはギブ・アンド・テイクという条件つきで正直にヤツデくんに事実を話すことにした。実のところ、ヤツデくんはおれに昨日の時点で犯人を名指ししてくれていたんだ。おれはそのおかげで次にとる行動も決めることもできた。コリーはそろそろ自棄になって飲む酒はこのくらいにしておくことにしよう。さあ。おれ達は未来館に帰ろう。おれたちには帰るべき場所がある」フレークはそう言うとコリウスの分のお代も支払って颯爽と立ち上がった。フレークとコリウスはスナック・バーを出てから約10分後に未来館に到着した。フレークはその間にコリウスに対してヤツデから聞いていたわずかな情報を提供した。

カスミはある人物の策略によりゼンジ殺害事件に関与しているということだけはフレークも知っていたのである。それを聞くと、コリウスは当然のことながら大いに驚嘆した。

フレークとコリウスが帰って来ると、カスミは再三再四の涙を流した。カスミはラルフの作ってくれたティー・カップでココアを飲み終えそれを大事そうにしていた。

ラルフはオリーブに勧められカスミの誕生日プレゼントとしてそのティー・カップを陶芸教室でこっそり作っていたのである。一度は偽りのアリバイを警察に主張していたラルフもそのあとはきちんと事情を打ち明けていた。ヤツデはラルフの隠し事でさえも見抜いていたが、それはオリーブの勧めだったということまではさすがに見抜けてはいなかった。それはヤツデが決して完全無欠の人間ではないという証拠でもある。アオナはフレークとコリウスにヤツデが披露した謎解きを掻い摘んで説明した。

その説明を聞いている間のコリウスはずっと悲しみに暮れていた。アオナの話を聞き終えると、フレークは自室に戻りまた親族とヘンルーダの待つ応接間に帰って来た。フレークの手にはゼンジの金庫から持ち出していたある一つのものがあった。オリーブはそれがなんなのかと不思議そうにしている。

「カスミとコリーはこれを覚えているかな?おれはおじいさまから自分にもしものことがあったら、金庫からあるものを取り出して欲しいと頼まれていたんだ。おれにもそれがこんな代物だったとは予想外だったけどね」フレークはそう言うと子供の頃のフレークが買った額縁に入っているカスミとコリウスの合作のぬり絵を風呂敷の中から取り出した。これは『絆ファミリー』を受賞することに大きな役割を果たした代物である。

「これにはおじいさまからのメッセージが込められている。もしも、親族の者がこれから先の人生で窮地に立たされたら、おれ達は互いに支え合って生き続けて欲しいという切実なメッセージがこめられているんだ。それは今のカスミも例外ではないと天国のおじいさまは言っていると思うよ」フレークはそう言うとやさしく微笑んだ。この場には未来館の住民の全員が揃っている。

オリーブはとても安らかな顔をしている。コリウスとアオナとラルフはゼンジの圧倒的な偉大さに圧倒されている。ヘンルーダは密かに目頭を熱くしている。今のカスミはただひたすらに自責の念に駆られている。サフィニアはそんな中でそっとこの場をあとにし自室に向かって歩き出した。人の世では運命の悪戯に寄る人の悲しみの先に待つものはどんな時でも苦しい程に感じられる人のぬくもりなのである。


 ヤツデとビャクブの今回の旅行はフィナーレを迎えようとしていた。明日からはヤツデもビャクブもそれぞれのルーチン・ワークに戻らなければならないのである。今のヤツデとビャクブはカラタチの自宅にいる。

ヤツデとビャクブはカラタチの愛犬であるコロと最後の挨拶を交わしすでにカプセル・ホテルから荷物をまとめ終えていた。ヤツデとビャクブが未来館で大仕事をやって退けたと聞くと、カラタチはそんな二人に対して最上級の賛辞の言葉を投げかけた。それを受けると、ビャクブは照れくさそうにしていた。

「カラさんにはクリーブランド・ホテルでも今回も大変にお世話になりました。カラさんは色々とぼくたちの面倒を見てくれてどうもありがとうございました」ヤツデはそう言うと頭を下げた。ヤツデは自分がゼンジ殺害事件を解決できたのは他でもなくカラタチの協力があったからこそだと思っている。

「いえいえ」カラタチは頭を振った。「とんでもないです」

「こちらこそ」カラタチは頭を下げた。「ありがとうございます。ヤッちゃんとビャッくんのおかげでとても有意義な時間を過ごすことができました」カラタチは言った。「私はこのご恩を忘れません」

「カラさんはやっぱりやさしいですね。未来館に行っていて不本意とはいえ、おれ達はカラさんのことを蔑ろにしてしまいました。そのことは本当に申し訳なく思っています。どうもすみませんでした。ん?」ビャクブは問いかけた。「この音はヤツデのスマホかい?」ビャクブにそう言われると、ヤツデはビャクブとカラタチに断りを入れてからサフィニアからの電話の着信を受けた。ヤツデはスマホの拡声器ラウンド・スピーカーの機能を使用した。ビャクブとカラタチはこうしてヤツデの話を聞けるようになった。

「もしもし」サフィニアは言った。「ヤツデくんはせっかくがんばって私達のために尽力してくれたのに、私は最後にお礼も言わなくてごめんね。本当はヤツデくんにとても感謝していたのよ。どうもありがとう。このことはビャクブくんともう一人のヤツデくんのお友達にも伝えておいてくれる?」サフィニアは礼儀正しく懇願した。ビャクブとカラタチはすでにその話をしっかりと耳にしている。ヤツデは「うん」と応じた。

「真相はサフィニアにも未来館の人々にとっても相当にショッキングだったよね? だけど、困難はきっと乗り越えられる人の下にしかやって来ないものだよ」ヤツデは『愛の伝道師』としての助言をした。

「ええ」サフィニアは素直である。「ヤツデくんはどうして私のお父さまの帰りを待つように言ったのかもよく理解できた。ヤツデくんは本当にやさしいね。この恩は必ず返すからね。実はヤツデくんに会わせたい人もいるんだ。今は感謝の気持ちで一杯だけどね。ヤツデくんは本当にありがとう。それじゃあ」サフィニアは「またね」と言うとヤツデの返事を聞いて通話を終えた。

 カラタチはビャクブと一緒にヤツデとサフィニアのやり取りを聞いていた訳だが、サフィニアからは好印象を受けた。ビャクブはうれしそうにして窓から外の景気を眺めている。

 その後のヤツデとビャクブはカラタチの車でヘルシンキ駅までカラタチによって送ってもらうことになった。時期はもうすぐで大晦日と正月である。車内では屠蘇やお節料理のことが話題に上がった。カラタチの車はやがて無事にヘルシンキ駅に到着した。ヤツデとビャクブはここでカラタチとお別れである。

「それでは」カラタチは言った。「ヤッちゃんとビャッくんはお気をつけてお帰り下さい。私はヤッちゃんとビャッくんと再会できる日が来る時を楽しみにしています」カラタチには特に寂しそうな様子は見られない。

「ありがとうございます。それはおれ達も同じです。カラさんはよいお年をお迎え下さい」ビャクブはそう言うとヤツデと一緒にカラタチの運転する車を見送った。ヤツデとビャクブの二人はヘルシンキ駅から電車に乗った。ビャクブはやがてヤツデとも再会することを約し自分の乗る電車が来る駅で乗り換えをした。ビャクブは笑顔でヤツデとお別れした。それはヤツデも同じである。一人になるとスマホの着信を受けたので、ヤツデは次の駅で止むを得ず電車を降りることにした。ヤツデは発信者に折り返しの電話をかけた。

「ごめんね。ぼくは電車に乗っていたんだよ。ジェラシックくんは電話をくれてありがとう」

「いえいえ」ジェラシックは応じた。「ぼくは間が悪かったですね」

「こちらこそ」ジェラシックは間髪を入れずに言った。「申し訳ありませんでした。ヤツデさんにはもうミステリー・ツアーの第11問目の答えはわかりましたか? 今のヤツデさんはそれともお仕事で忙殺されていますか?」ジェラシックは持ち前のユーモアを発揮した。「ヤツデさんは労働をがんばろうどうといったところですか?」ジェラシックは太陽のように明るい性格をしているのである。

「仕事は明日から再開だよ。ミステリー・ツアーの問題は半分だけ解いたよ。あとの半分は知り合いが解いてくれたからね。カメはワカメを噛めるかな?」ヤツデは聞いた。「このダジャレはどう思う?」

「ぼくは中々のものだと思いますよ。ヤツデさんは三つも『カメ』を使うとはさすがですね。それではパンダが太ってパンパンだ。ぼくらはバスケの時間を延ばすけか? データは出ーた? 失礼しました。ぼくはついヤツデさんに張り合って見たくなってしまいました。そんなことより、ぼくには要件があったんです。ぼくの住むパミール州の田舎では年明けに宝探しゲームが大々的に行われることになっているんです。ヤツデさんはそれにぼくとぼくの妹と一緒に参加して頂けませんか? ぼくにはヤツデさんの推理力が必要なんです」ジェラシックは言った。ヤツデは密かにジェラシックとの繋がりがまだ切れていないことを喜んでいる。

「ジェラシックくんは少しぼくのことを過大評価している嫌いがあるね。だけど、ぼくはそれに喜んで参加させてもらうよ。ジェラシックくんはせっかくぼくのことを誘ってくれているんだものね。もし、その際にスケジュールが合えば、ぼくは友人を一人だけ連れて行ってもいいのかな?」ヤツデは質問した。

「もちろんです。ヤツデさんの友人となれば、おそらくはヤツデさんの優秀な助手も務められるでしょうからね。それはまさしく鬼に金棒です。詳しい日程はのちほど改めてお伝え致します。どうもありがとうございました。それでは」ジェラシックは「失礼します」と言うとヤツデの返事を聞いてから通話を終えた。ヤツデはスマホをポケットにしまうと次に来た電車に乗った。ヤツデは少し電話が嫌いではなくなっていた。

ヤツデは元々そんなに電話を使う機会が少なくその数少ない機会であまり快い体験をしていなかった。そのため、ヤツデは電話があまり好きではなくなってしまっていたのである。

しかし、今回のヤツデは電話と何回も関わることにより考えを改めた。それと同じことは人間関係でも言えるかもしれないとヤツデは思った。初対面の人と会う時は往々にして無意識の内にその人はどんな人だろうかだとか、自分とは性格が合うだろうかといったように不安なことはたくさんあるものである。

知らないということは確かに怖さにも繋がる。ということは裏を返せば、人は人をよく知るまではその人の本当の姿を見ていないのだから、その人のことが好きか否かを決めてしまうのは早計だということになる。

人の世ではましてや人を見かけだけで判断するなんてことは以ての外である。しかし、普通の人にとってはヤツデと同様に他人に対して初めの一歩を踏み出すことはとても勇気のいることである。ヤツデはそれでも勇気が出ない時の秘策を知っている。それは勇気を出さなくてもできることである。大切なことは相手に興味を持つということである。それは人と人の繋がりの架け橋となる王道である。

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