トイワホー国における策略 4章
この家の執事のヘンルーダは恐縮そうにしながらソファに腰を下ろした。
「わたくしには何ができるのか、それはわかりませんが、お嬢さまとゼンジ様のためでしたら、わたくしは全面的に協力をさせて頂くつもりでございます。わたくしにはどんなことでもお聞きして下さっても一向に構いません」ヘンルーダは丁寧な口調で言った。「ヤツデ様とビャクブ様は遠慮せずにお申しつけ下さい」
「ありがとうございます。ヘンルーダさんはやさしい方ですね。それに、ヘンルーダさんは本当にサフィニアの家族のことを大切に思われているのですね。それでは早速にお聞きさせてもらいますが、ヘンルーダさんはいつ頃からこちらで働かれているのですか?」ヤツデは世間話のような口調で質問を始めた。
「こちらでは5年前から働かせて頂いております。わたくしは25歳の時でした。実はそうなるまでには少しばかりの曰くがあるのです」ヘンルーダは聞いた。「一応はお話した方がよろしいでしょうか?」
「うん。お願い。おばあさまとおじいさまの出会いはロマンティックな話だったけど、ヘンルーダさんのお話は感動的なのよ」サフィニアは幾分か得意げになっている。サフィニアは事情を知っているのである。
「恐れ入ります。わたくしが22歳の大学生だった時のお話でございます。わたくしはすでにホテルのボーイの内定が決まっていたのですが、それは結果的にフイになってしまいました。ある時のわたくしは車を運転していたら、アクセルとブレーキを踏み間違えてしまいドラッグ・ストアに突っ込んでしまったのです。わたくし以外には幸いにもケガ人はなかったのですが、店は損害を受けてしまったので、それはわたくしの父が代わりにお金を出してくれました。しかし、わたくしは心が弱かったらしいのです。トイワホー国にはそんなわたくしに対してもやさしくして下さる方はいたのですが、それ以来というもの、わたくしは人が怖くなってしまったのです。わたくしは存在することで人に迷惑をかけ他の人を不快にしているのではないかという思いから離れられなくなってしまったのです。わたくしは結果的に恥ずかしながらも引きこもりになってしまいました。わたくしは内定を取り消されたのではなく会社に申し訳なく思いながらも自分で就職を辞退してしまったのです。トイワホー国の人たちはやさしいので、引きこもりはかなりレアなケースです。そして」ヘンルーダは一呼吸置いた。「時は三年が経ちました。その間の父と母はわたくしの意見を尊重してくれ『無理はしなくていい』と言ってくれたのです。その甲斐あってか、時は三年が経ったら、少しくらいは外出もできるようになっていたのです。わたくしとゼンジ様はそんな折に出会ったのです。ゼンジ様はわたくしの父と知り合いになられ、父はわたくしの話をしてくれたらしいのです。ゼンジ様は大変に慈悲深いお方でした。ゼンジ様はわたくしに自分の家で働いてみるのはどうかとおっしゃって下さったのです。ゼンジ様はそればかりではなく『最初はできることだけをやればいいし、気分の沈んでいる時は未来館にはこなくてもいいし、自分は決してわたくしのことを不快な気持ちにはさせないとそこまでおっしゃって下さったのです。それからというもの、わたくしは一生懸命にゼンジ様とその家族の方々に死ぬまで恩返しをしていこうと決心し未来館で使って頂いている次第なのです。ヤツデさまとビャクブさまには格好の悪い話を聞かせてしまいどうもすみません」ヘンルーダはぺこりと頭を下げた。ビャクブはヘンルーダの話に心を打たれている。ヤツデは「いいえ」と応じた。
「ヘンルーダさんはもしかするとぼくなんかと一緒にされたくはないかもしれませんが、ぼくも実は大学生の時に鬱病になり外出もできない時期があったので、少しはヘンルーダさんの気持ちもわかりましたし、ぼくにもゼンジさんの偉大さはよくわかりました」ヤツデはやさしい声音で言った。
「ありがとうございます。さようでございましたか。それではヤツデさまもさぞかしつらい時期を過ごされたのですね。今は回復されていらっしゃるようなので、わたくしとしてもそれは喜ばしい限りです。わたくしはわたくしをやさしく受け入れ修業をさせて頂いたこともありゼンジ様の家の方々がとても好きなのです。可能であるなら」ヘンルーダは厳粛な気持ちで言った。「わたくしはできるだけ長くこちらのお宅でバトラーを続けさせて頂きたいと思っております」ヘンルーダの密かな夢はサフィニアの子やカスミの孫の面倒を見てゆくゆくは「じい」と呼ばれるようになりたいというものである。ヘンルーダの心境はそこからも窺うことができる。サフィニアは口を挟まずヤツデとビャクブの邪魔をしないようにしている。
「なるほど」ビャクブは納得した。「それではそこまでヘンルーダさんの尊敬なさっていたゼンジさんが亡くなったとなれば、ヘンルーダさんのショックは身内の人と同じくらいに匹敵するのかもしれませんね。おれたちはその期待に応えるためにもがんばろうと思います」ビャクブは気合いを入れ直した。
「うん。そうだね。それでは新たに質問させて頂きますが、最近のヘンルーダさんはゼンジさんの部屋の日記に関して普段とはなにか違うような場面に遭遇されたことはありませんか? 例えば、ゼンジさんの日記は一冊だけ抜けていたとか、ヘンルーダさんはゼンジさんの日記を書いているところをご覧になられたといったようにどんな些細なことでもなにかありませんか?」ヤツデはやさしい口調で尋ねた。
「ヤツデ様が些細なことでいいとおっしゃるのなら、思い当たることは一つだけございます。正確にいつだったかは覚えておりませんが、あれは一ヶ月よりも前ではなかったと思います。ある日のことです。わたくしはゼンジさまのお部屋へお夜食をお持ちした。わたくしはゼンジさまの一冊の日記が飛び出していたので、帰り際にその日記を奥へと押してきれいに整頓しようとしたのです。そうしましたら、ゼンジ様はそれをご覧になりわたくしに対してその日記を見せてほしいとおっしゃったのです。ただ、そのあとはゼンジさまのご様子をぼんやりと見ているのも変なので、わたくしはすぐに退出してしまいました」ヘンルーダは思慮深く言った。ビャクブとサフィニアは聞き流しているが、ヤツデはこの話に興味を持った。
「それではゼンジさんが手に取られたその日記がいつのものだったのか、ヘンルーダさんはご記憶されていますか? もちろん」ヤツデはソフトに言った。「無理に思い出す必要はありませんが」
「わたくしは幸いにも覚えております。あれは今から30年前のものでした。日記の年数がたまたま切りのいい数字だったので、わたくしはあまり記憶力がいいとは言えませんが、覚えていることができたのでございます」ヘンルーダは当たりを柔らかくして答えた。ヘンルーダは謙虚な性格の持ち主である。ビャクブは「30年前と言えば」と言ったので、ヤツデとサフィニアはビャクブのことを視線で制した。
「おっと」ビャクブは言った。「これは口止めをされているんだった」ビャクブは頭を掻いてヘンルーダに対して詫びた。「ヘンルーダさんには秘密めかしてしまってすみません」
「とにかく」ビャクブは言った。「あの事件はこのこととなんらかの形で関係があるのかもな。ヤツデもそう思わないかい?」ビャクブは相棒に対して意見を求めた。ヤツデは「うん」とやさしく応じた。
「ぼくもその可能性は大いにあると思うよ。よかったら、ぼくはその日記を持って帰ってもらって読ませてもらいたいんだけど、それはできるかな?」ヤツデはサフィニアに対して聞いた。
「うん」サフィニアは頷いた。「それくらいはたぶんできると思うよ。私はおばあさまにも確認して持って来てあげる」サフィニアは「ヤツデくんとビャクブくんは聞き込みを続けていていいよ」と言うと立ち上がった。ヤツデからお礼の言葉をかけられると、サフィニアは二階へ上がって行ってしまった。
「悪く捉えないでもらえるとうれしいのですが、ヘンルーダさんは昨日の事件があった際にはどちらにいらっしゃいましたか? もちろん」ヤツデはヘンルーダを傷つけないよう気を配って質問した。「ぼくはヘンルーダさんを疑っている訳ではないので、これはあくまでも確認です」
「はい」ヘンルーダは言った。「不快に思ったりはしないので、どうか、ヤツデ様はご安心下さい。あの時のわたくしはショッピング・モールにいました。その時はアオナ様とカスミ様もご一緒でした。わたくしはよく運転手と荷物持ちとして使って頂けることがあるのです。事件の現場からですと、そのショッピング・モールまでは車でも30分以上の距離がございますので、犯人はアオナ様とカスミ様という可能性はございません」ヘンルーダは未来館の執事としてきっぱりと言い切った。ヤツデは簡単には納得しなかった。
「なるほど」ビャクブはやさしく言った。「ということはそれと同時にヘンルーダさん自身にもアリバイはある訳ですから、犯人はヘンルーダさんということもない訳ですね。もちろん」ビャクブはきちんと気配りのできる男である。「ヘンルーダさんのことはおれだって疑っていた訳ではありませんが」
「そうだね」ヤツデはゆっくりとした口調で聞いた。「それでは事件とは関係なさそうなことでも結構ですが、最近のヘンルーダさんは変わったものを見たり聞いたりはしませんでしたか?」
ヤツデは一見すると関係なさそうなことでもどこかで事件と繋がっているかもしれないなにかを情報として得ておきたいのである。ようは空振りも折り込みずみという訳である。
「今すぐに思い浮かぶことは一つだけでございます。それはコリウス様のことについてなのですが、コリウス様には少し失礼になってしまうかもしれないので」ヘンルーダは慎重な態度を見せた。「どうか、ヤツデ様とビャクブ様はここだけの話にして下さいますか?」ヘンルーダには忠誠心がある。
「はい」ビャクブは肯定した。「もちろんです。そのことはおれも肝に銘じてお話を聞かせてもらいます」ビャクブは誇らしげにして言った。ヤツデの方もビャクブと同意見である。サフィニアはまだ帰って来ていない。
「ありがとうございます」コリウスは言った。「一昨日のことでございます。わたくしはゼンジさまのお部屋をとおりかかった際に声が聞こえて参りました。ただの声なら、わたくしも気に止めるようなことは致しませんでしたが、その声は大声と申しますか、ようするに荒っぽい声だったのでございます。ですから、わたくしは失礼を承知で部屋の外からゼンジ様に声をおかけ致しました。未来館の部屋の壁は防音が徹底されておりますが、ゼンジ様の部屋のドアはその時には少しだけ開かれていたのです。わたくしがお返事を待っていると室内からはコリウス様が出てこられ『うるさくしてすまないが、これはトラブルではないから、ヘンルーダくんは安心してくれ』というようなことをおっしゃって下さいました。ですから、それ以上はわたくしも食い下がらずお邪魔してしまったことをお詫びしその場をあとにしました。わたくしはコリウス様がお姿を現された際に少し室内の様子も拝見したのですが、どうやら、コリウス様はゼンジ様と二人きりでお話をされているようでした。このお話は今回の事件となんらかの関係があるのでしょうか?」
「現時点では断言はできませんが、それは事件の一日前のお話なので、今回の件とはどこかで絡んでくる可能性は大いにあると思います。もし、そうなら、コリウスさんはなにか事件のキーを握っているのかもしれませんね。仮に、そのことが事件の前触れだとしたら、ヘンルーダさんは貴重な証言をぼくらにお聞かせ下さったことになります。ぼくたちとは今日にお会いしたばかりなのにも関わらず、ヘンルーダさんは腹を割ってお話を聞かせて下さってありがとうございます」ヤツデは律儀にそう言うとぺこりと頭を下げた。
「いえ」ヘンルーダは言った。「お役に立てたのであれば、それはうれしい限りでございます。それと・・・・おかえりなさいませ」ヘンルーダはお嬢さまのサフィニアが帰ってきたのを見て言った。
「ただいま」サフィニアは応じた。「おばあさまもいいよって言ってくれたから、おじいさまの30年前の日記を取ってきたよ。ヤツデくんはいい子にしていた? ヤツデくんがいい子にしていたのなら、私はおじいさまの日記を見せてあげる」サフィニアは相も変わらずヤツデを子供のように扱っている。
「うん。ありがとう。ぼくは大人しくしていたよ。その甲斐もあってヘンルーダさんからは重要なお話も聞かせて頂けたしね。先程のヘンルーダさんはなにかを言いかけていらっしゃいましたよね? あれは何をおっしゃろうとされていたのですか?」ヤツデはヘンルーダに対して話を振った。ヘンルーダは言った。
「わたくしはもう一つ事件に関係があるのかもしれない事実を思い出したのでございます。実はこちらの件もコリウス様のプライベートに関わることなので、わたくしとしてはこのお話もご内密にして頂けるとありがたく存じます。できれば、このことはお嬢さまも含め口外なさらないで頂きたいのです」
「OK」サフィニアは快諾した。「私はおしゃべりだけど、ヘンルーダさんと叔父さまのためなら、そのお話は絶対に他の人にはしゃべらないから、ヘンルーダさんは安心してね。ああ」サフィニアは「これはヤツデくんに渡しておくね」と言うとヤツデにゼンジの日記を受け渡した。ヤツデは心からのお礼を言った。ヤツデとビャクブはこれから話されるヘンルーダの話を秘密にしておくことを誓った。
「それではお話をさせて頂きますが、昨夜は事件のあったあとにディナーの用意が完了したので、わたくしはコリウス様をお部屋まで呼びに参ったのです。その時のわたくしは少しだけコリウスさまの目が充血されていることに気がつきました。ですが、コリウス様は目を酷使したというよりも涙を流したという印象を受けました。それなら、コリウス様は当然のことながらお父さまであるゼンジ様の突然の他界を嘆いていらっしゃったと考えるのが普通ですが、わたくしには少しそのことが妙に思われました。コリウス様は確かに情のある方ではありますが、コリウス様の気質は同時に押しも押されもせぬ気丈なところのある性格でもあるからなのです。わたくしはそんなコリウス様が涙をお流しになられたということにはなにかしらの深い訳があるのではないかと考えたのです。わたくしはなにかの勘違いをしているのでしょうか? お嬢さまはどのように思われますか?」ヘンルーダは問いかけた。コリウスの性格はサフィニアもよく知っているからである。
「私もヘンルーダさんと同じ意見かもしれない。私は叔父さまが涙を流しているところなんて見たことがないし、私にはちょっと想像もできないからね。このことが事件に関係があるかどうかはともかく叔父さまは隠し事をしているのかもね。まあ、ヤツデくんとビャクブくんなら」サフィニアは呼びかけた。「そんなことくらいはすぐに暴き出しちゃうよね?」サフィニアはもちろん冗談半分である。
「さあ?」ヤツデは言った。「どうかな? もし、コリウスさんのその秘密が事件に関与しているのなら、ぼくは真相を解明する努力はするけどね。とりあえず、ヘンルーダさんからお聞きしたかったことは以上です。ヘンルーダさんはわざわざぼくたちに付き合って下さってありがとうございました」ヤツデは真心を込めて感謝した。ビャクブはというとここでは特に口を挟まなかった。
「こちらこそ」ヘンルーダは言った。「ヤツデ様とビャクブ様はわたくしのお話を聞いて下さってありがとうございました。お話は変わりますが、ヤツデ様とビャクブ様は明日もこちらにいらっしゃるご予定でございますか? それなら、明日はわたくしがお迎えをさせて頂きますが、いかがしましょうか?」ヘンルーダはとても親切な申し出をした。ヤツデはヘンルーダの元来のやさしさを身に染みて感じ取った。
「サフィニアがまたおれたちを招待してくれるなら、おれたちはヘンルーダさんのお言葉に甘えさせてもらいます。そうすれば、おれたちは友人のカラさんの手も煩わせることもないし、おれらはタクシー代も浮かせられますからね。それとも、サフィニアはおれたちなんてお呼びではないかい?」ビャクブは自虐的に遜っている。ヤツデはそんなビャクブの姿に微笑みを浮かべている。サフィニアは応じた。
「そんなことある訳ないでしょう」サフィニアは笑顔を浮かべて言った。「ヤツデくんとビャクブくんがいくら事件の手掛かりを掴むとはいってもたったの一日だけじゃ短すぎるから、もし、二人が明日も来てくれるなら、私は明日も喜んでヤツデくんとビャクブくんの二人をお家に招待するよ」
「ありがとう」ヤツデは言った。「それじゃあ、ぼくたちは明日も来るよ」ヤツデは「よろしくお願いします」と言うとヘンルーダに対してぺこりと頭を下げた。ヤツデの腰の低さは相変わらずである。
「かしこまりました」ヘンルーダは頷いた。ヘンルーダはヤツデとビャクブの宿泊しているホテルの前を集合場所にし集合時間も決定すると自分の仕事をすべくこの場をあとにした。
つまり、この場にはヤツデとビャクブとサフィニアの三人が残っている訳である。ヤツデとビャクブの二人はその際にサフィニアとスマホの電話番号を教え合うことになった。
「今日の聞き込みは一段落したみたいだから、次は謎の男についてだな。今日はその用事もすんだら、おれたちはカラさんのところに帰るっていう流れでいいのかい?」ビャクブはサフィニアに対して聞いた。
「うん」サフィニアは首肯した。「私はそれでいいよ。そう言えば、ヤツデくんは謎の男の正体を暴くいい方法があるみたいなことを言っていたよね? それはなんのことを言っていたの?」サフィニアは問いつめた。「ヤツデくんは友達に隠し事をするなんて悪い子よ」サフィニアはもはや完全にヤツデを子供扱いするようになっている。ヤツデは動じることなく「まあ」と穏やかに言った。
「この手法は果たして有効かどうか、わからないけど、謎の男が本当にいるのなら、ぼくもサフィニアのうしろについて歩けばいいかなって思ったんだよ。ようは二重の尾行だね。そうすれば、ぼくはずっとサフィニアと同じ道を歩いている人物を発見できるかもしれないし、もし、それができなかったとしてもサフィニアをつけているぼくのことを謎の男が見つけたら、その謎の男はなんらかのアクションを取ってくる可能性もあるでしょう?」ヤツデは論理的な思考を披露した。ヤツデはこれをすぐに思いついたのである。
「なるほど」ビャクブは承知した。「今回はダメで元々だから、やってみる価値はあるな。あれ? 確か、ヤツデはおれの力も借りたいって言っていたけど、それくらいなら、ヤツデ一人でもできることじゃないのかい? それとも」ビャクブは期待と不安が半々の状態である。「おれには他になにかの仕事があるのかい?」
「うん」ヤツデは頷いた。「ビャクブにもちゃんと仕事はあるよ。ぼくはサフィニアを尾行するから、ビャクブはサフィニアと並んで歩いてくれればいいんだよ。そうすれば、多少の無茶はするかもしれないし、謎の男はなんらかの行動も取るかもしれないでしょう?」ヤツデは切に願った。「ビャクブがそうしてくれるとぼくとしてもありがたいんだよ」ヤツデはいつの時も相棒のビャクブのことを信頼しているのである。
「まあ」ビャクブは言った。「理屈はわかったけど、なんだか、それはランデブーみたいだな」ビャクブは一応の確認をした。「サフィニアは嫌じゃないのかい?」ビャクブは奥手な側面も持っている男なのである。
「私は別にいいよ。その作戦はおもしろそうだしね。それじゃあ、これから、私達はすぐにプラネタリウムに行きましょう。謎の男はプラネタリウムの帰りに発見されたから、その人物はまた同じ場所で現れるかもしれないでしょう? 私はヤツデくんの活躍に期待しているからね」サフィニアは笑顔で言った。謎の男の正体は確かに突き止めたいし、ゼンジは亡くなって悲しいが、今のサフィニアは少し気持ちが解れている。
サフィニアはウェッジ・ソールを履きビャクブと並んで歩くことにした。尾行は初めてだが、今回は絶対にバレてはいけない訳ではないし、プラネタリウムへの道はサフィニアから未来館の玄関で教えてもらっていたので、ヤツデとしてはそれ程に難易度の高いミッションではない。未来館からだと、プラタリウムまでは徒歩で20分もかからないくらいの道程である。今のサフィニアとビャクブは早速にプラネタリウムへと向かっている。そのプラネタリウムには避雷針があり安価で入れる施設なのである。こちらはがんばって尾行しているヤツデではなくビャクブとサフィニアの二人の模様である。
「ビャクブくんとヤツデくんは仲良さそうだよね?」サフィニアは雑談を始めた。「ビャクブくんとヤツデくんの二人はいつから友達になったの?」サフィニアはおしゃべりが大好きなのである。
「確か」ビャクブは言った。「あれは小学校の二年生だった頃かな。ヤツデはあの時もおれの抱えていた謎を解き明かしてくれたんだよ。ヤツデは子供ながらにあの時から高い推理力を持っていたっていう訳だな。サフィニアはミステリー・ツアーで聞いているとは思うけど、ヤツデは『白と黒の推理』を使うだろう?」ビャクブは懐かしむように感慨深げである。「子供の頃はヤツデもあれを使うことはなかったんだけどな」
「そうなんだ」サフィニアは相槌を打った。「ヤツデくんは地味にすごい人なんだね。いや。ヤツデくんは地味でもないか。ヤツデくんとビャクブくんはだって実際に殺人事件の解決にも貢献しているんだものね。聞きたいことは色々とあるけど、今はせっかくだから、ビャクブくんはヤツデくんとの出会いについてその時のビャクブくんの抱えていた謎っていうのを私に聞かせてくれない?」サフィニアは興味津々である。
「ああ」ビャクブは了承した。「それくらいは別に構わないよ。あの話はさして長話にもならないと思うからな」ビャクブはそう言うとガレージ・セールを横目にして自分とヤツデとの昔話を始めた。
ビャクブはあまりこの話を人に話したことはないが、それは機会が少ないだけである。できれば、この話は誰でもいいから、ビャクブとしては誰かに聞いてもらいたいような話なのである。
ヤツデはビャクブのことを尊敬しているが、ビャクブの方もヤツデのことを慕っているので、そのヤツデの武勇伝はビャクブにしても人に話すということはうれしい限りなのである。
サフィニアは自分自身がおしゃべりでもあるが、実は話を聞くのも同じくらいに好きなので、ビャクブの話は嬉々として聞いている。以下の話はヤツデにしてみても人生で初めて謎に挑戦することになった話であってビャクブの兄弟についても知ることのできるそのあらましである。
ビャクブの言っていたとおり、当時のビャクブは小学校の二年生である。長兄のダイヤーズは小学校6年生である。次兄のドラグーンは小学校の四年生である。
ビャクブは二人の兄であるダイヤーズともドラグーンともとても仲がいいのである。例えば、長兄のダイヤーズは自分が先生になって電子商店街を利用させてくれたし、次兄のドラグーンは船航の運行業者が出てくるアニメを紹介して毎週のようにビャクブと一緒に視聴していた。
つまり、三男のビャクブは二人の兄に愛されて育ったのである。ビャクブがスマホを好きになったのは長兄のダイヤーズの影響でありビャクブが海の仕事を夢見るようになったのは次兄のドラグーンの影響だと言ってしまっても過言ではない。話を戻すことにする。
ビャクブは放課後に校庭のブランコに乗っていた。ビャクブはあまりせかせかせずゆらゆらとブランコを漕いでいた。この日のビャクブには一つの悩み事があった。前日の話である。ビャクブが下校して家に入ると、次兄のドラグーンはぷんぷんしていた。ビャクブはドラグーンと共同で部屋を使っているのだが、その部屋が荒らされていたのである。しかも、ドラグーンは自分で作った押し花のハガキが一枚だけ見当たらないと言うのである。ドラグーンはそれをビャクブの仕業だと思った。ビャクブとの仲はいいし、性格も悪くはないので、ビャクブのことは非難もしないし、ドラグーンも怒りはしなかった。最後は部屋が荒らされていることをビャクブのせいだと思っていたドラグーンもビャクブが犯行を否定すると素直にそれを信じてくれた。
ビャクブには全く思い当たる節がなかった。そのため、ビャクブは空き巣にでも入られたのではないかと主張したが、どうやら、その可能性はないようである。
ビャクブの両親は共働きだが、その日は母のパートが休みだったので、母親はずっと家にいたし、長兄のダイヤーズは隣の部屋で工作をしていたと言うのである。ビャクブはかくして訳のわからないまま母に手伝ってもらい部屋のものを整理整頓することにした。ドラグーンのハガキは見つかったが、その際に妙な出来事が起きた。母親は片付け始める前にアルバムから欠落した裸の写真を指しそれをしまっておくようにとビャクブに言った。しかし、それは行方不明になっていた写真だったのである。
なぜか、その写真が探したはずの机の上にあったのである。ビャクブとドラグーンの部屋は荒らされているとは言っても仕舞ってあるものが出ていたりなにかに乗っているものが下に置かれていたりするだけなのである。つまり、その写真だけが特別に別の場所に移されているというのは不自然なのである。母親は「部屋が荒らされてから初めて部屋に入ったのはビャクブだった」と断言している。ところが、その写真が行方不明になっていたのは母も知っていたのにも関わらず、母親は驚かなかった。普段のビャクブの母親なら、この場面ではオーバー・リアクションをするはずだったのにも関わらず、母親は驚かなかったのである。
母親はもしかするとビャクブよりも早く問題の部屋で例の写真を見つけていた可能性が浮上した。母親のことは疑いたくないが、その可能性にはビャクブも気がついた。
しかし、母親はビャクブよりも早くその部屋には入っていないという嘘をついている。ということは母がこの部屋を荒らしたのか、もし、そうだとしたら、母親はなぜそんなことをしたのだろうか、ビャクブはそのようにして漠然と考えたが、それ以上の推理は進まなかった。
ビャクブはもやもやしたままブランコを漕ぐスピードを速めた。ビャクブは勢いよくタイミングもよくジャンプしてブランコから飛び降りた。ビャクブはすると前にあった囲いの先にお腹を打ってしまった。ビャクブが悶え苦しんでいると後ろの方では「ドサッ!」という音がした。
ビャクブは少し気になったが、とりあえず、それは無視しておくことにした。というよりも、ビャクブは自分も悶絶しているので、今は他の人に構っている余裕はないのである。ビャクブはついてないことだらけの状態でお腹を抱えこの場をあとにした。ビャクブはやや悲しげである。痛みは幸いにもすぐにひいたので、ビャクブはよろよろしながらも家に帰ることができた。
翌日である。ビャクブは家の近くの病院で予防接種を受けることになった。はしかの予防注射である。注射は物心ついてからでは始めてのものだったが、ビャクブはあまり恐怖を感じなかった。
ことわざでは「知らぬが仏」とも言うが、ビャクブは怖いもの知らずなのである。ビャクブは待合室の長イスに座り足をブラブラさせていると、同年代の誰かはビャクブに対して話しかけて来た。
「こんにちは」少年は言った。「明日は明日の風が吹くっていうけど、昨日はお互いに間抜けなことをしちゃったね」ヤツデは含みのある発言をした。ヤツデはこの頃から稀有な性格をしていたのである。
「ああ」ビャクブは応じた。「こんにちは」ビャクブはそこで言葉を切った。小学校の二年生の時のビャクブとヤツデはクラス・メートだった。しかし、ビャクブとヤツデが話を交わすのはこれが始めてである。ビャクブのヤツデに対する印象は大人しくてやさしそうな子だというものである。
ヤツデのビャクブに対する印象はというと口は達者ではないが、ビャクブには一本の筋が通っていそうな人だというものである。もっとも、ビャクブにしろ、ヤツデにしろ、二人は小学校二年生の時点で詳しく人間を見て分析したりはしていなかったので、今の二人の感想はあくまでも文字にするならばの話である。
「間抜けなことってなんのこと?」ビャクブはヤツデのセリフを思い返した。
「ビャクブくんはブランコから飛びおりて失敗しちゃったけど、ぼくは木から飛びおりて失敗しちゃったんだよ」ヤツデは事もなげしに言った。すると、ビャクブはすぐに昨日の物音を思い出した。あの音はヤツデがビャクブを助けようとして木から飛び降り着地を失敗した音だったのである。
あの時のことは客観的に見ると二人の小学生がバカなことをして痛みをこらえ芋虫のようにもぞもぞしている図ができあがっていたのである。ビャクブはそれを思うと少しだけ顔が赤くなる思いだった。
しかしながら、ビャクブはそれについてはなにも言わなかった。ヤツデは着地に失敗をしたとはいえ左足だけは地面についていたので、とりあえずはヤツデの方も大事には至らないですんだのである。ヤツデは子供の頃から現在と同じように運動神経がずば抜けてよくなかったのである。
「そうか」ビャクブは言った。「それはヤツデくんも大変だったね。でもね。おれは実を言うと悩み事があって少しむしゃくしゃしていたから、着地に失敗しちゃったんだよ。これは言い訳に聞こえるかもしれないけど」ビャクブは遠慮気味にして言った。ヤツデは「悩み事?」と聞き返した。
ビャクブはヤツデにそう聞かれると自室が荒らされていたことについてぺらぺらと話し出した。まさか、ビャクブはヤツデが謎を解明してくれるとまでは思っていなかったが、人には時に誰かに悩みを話すことで気持ちが落ち着くという場合もある。ヤツデはその上にやさしそうな風貌をしている。そのため、今もそうだが、ヤツデはこの頃から他の人にとっては話をしやすい人間だったのである。
「ぼくはその謎の答えを宿題として明日までに考えておくよ」ヤツデはビャクブの話を聞き終えると意図も容易く言った。今のヤツデは確かに冗談を言っているようには見えない。
「ヤツデくんはこういう謎を解くのが得意なの?」ビャクブはうれしそうにしている。
「ううん。」ヤツデは否定した。「そんなことはないけど、ビャクブくんが困っているなら、ぼくは力になりたいからね。期待はあんまり持ちすぎないでね。一応は断わっておくと、ぼくは成績が優秀っていう訳でもないからね」ヤツデは恥ずかしげもなく言った。ヤツデは確かに学校の勉強が苦手なのである。
「いや」ビャクブは取り成した。「おれよりは確実にヤツデくんの方が頭は切れそうな気がするよ。とにかく」
「ありがとう」ビャクブはお礼を言った。「おれはヤツデくんが味方になってくれたおかげで随分と気が楽になったよ」ビャクブはやさしい口調である。ビャクブは本心から言っている。
「それは」ヤツデは言った。「よかったよ。もし、ビャクブくんがぼくの代わりに二回の注射を打ってくれたら、お礼はそれでいいよ」ヤツデは小心者なのにも関わらず、今は恥ずかしげもなく堂々としている。
「いや」ビャクブはつっこみを入れた。「それは無理だよ」ビャクブは笑んでいる。実のところ、ヤツデは注射が怖かったのである。その後のヤツデとビャクブはワイヤレス通信が可能なゲームの話をして仲を深めることになった。ビャクブは注射を打たれても平気だったが、ヤツデは注射を受けるとげっそりしてしまった。ただし、ヤツデもさすがに泣きはしなかったので、とりあえず、ビャクブはそのことを指摘して慰めておくことにした。ヤツデとビャクブは実際に話をしてみてお互いに好印象を持ったので、少なからず、ヤツデはそれについて喜んでいた。それはビャクブの方も同じである。
翌日である。ビャクブは登校するとすぐにヤツデの元へ駆けつけた。その時のヤツデは学級文庫を眺めていた。ビャクブは前置きを抜きにして直接に要点に入った。
「おはよう」ビャクブはヤツデに対して明るく言った。「昨日の宿題はやって来てくれた?」
ヤツデには期待していない訳ではないが、ビャクブはヤツデが自分の持ち出した謎を解けなくても別に構わなかった。今日はヤツデからの謎解きの解答を得るというよりも昨日はヤツデと友達になれたので、ビャクブは改めてヤツデとお話をしてみようと思っただけである。
「宿題ってなんのこと?」ヤツデは言った。「それにしても、今日はいいお天気だね。春はポカポカしているから、ぼくらは陽気で眠気を誘われるね。なんだか、ぼくは眠たくなってきちゃったよ」ヤツデはのんびりとしている。ビャクブは些か落ち込んでしまった。そのため、ヤツデは慌てて付け足した。ヤツデはすでに人の心の動きが読めている。ヤツデはビャクブの言いたいことをきちんと理解している。
「今のセリフはもちろん冗談だよ。それにしても、昨日の注射はすごかったね。ぼくはビャクブくんが先陣を切ってくれなければ、今頃はやられていたかもしれないよ。ぼくたちはこれでまた一つの壁を乗り越えたのかと思うとしみじみとするね」ヤツデには前置きがあった方がいいらしいのである。
「まあ」ビャクブは微笑んだ。「確かに注射は恐怖の体験だったことは事実だけど、ヤツデくんはまるで激しい武者修行でも終えたかのような言い方だね。それよりも」ビャクブは弱々しく聞いた。「宿題はやって来てくれたの?」ビャクブに聞かれると、ヤツデはあっさり「うん」と応じた。
「宿題はちゃんとやってきたよ」ヤツデは断言した。「答えは合っていると思うしね。たぶん」
「それなら」ビャクブはすぐにこの話に飛びついた。「ヤツデくんはその答えを聞かせてくれる?」
「うん。ただ、今は時間がないから、答え合わせは昼休みにしようね。そうだ。ぼくはその前に聞いておきたいんだけど、ビャクブくんの一番上のお兄ちゃんは料理をする?」ヤツデは突然に奇妙な質問をし出した。
「ああ」ビャクブは応じた。「料理はするよ。ダイヤーズの兄ちゃんにはおれも料理を作ってもらったことがあるよ」ビャクブにそう言われると、ヤツデは「なるほどね」と応えた。
「それなら一番上のお兄ちゃんはどんな料理をするのが好きかな?」ヤツデは聞いた。ビャクブにはダイヤーズの趣味と部屋が荒らされたことはどう繋がるのか、わかっていない。
「ダイヤーズの兄ちゃんはゲームとパソコンと日曜大工の三つが好きかな。ゲームはおれも好きだけど、それはなにかと関係あるの? ああ」ビャクブはここで閃いた。「わかった。犯人はもしかしてダイヤーズの兄ちゃんなの?ダイヤーズ兄ちゃんは確かにおれとドラグーンの兄ちゃんの部屋が荒らされていた時にすぐ隣にいたものね」ビャクブは興奮気味である。一方のヤツデは落ち着き払っている。
「うん。そうだね。でも一番上のお兄ちゃんは犯人ではないよ。犯人っていう言葉は言い過ぎかもしれないけどね。確かに一番上のお兄ちゃんがこの件に関わっているのは間違いないよ。今はもう先生が来ちゃったから、詳しくはまたあとで話すね」ヤツデは話を切り上げた。ビャクブはその言葉に素直に頷いて自分の席へと戻って行った。ヤツデはダイヤーズがこの件に絡んでいると言ったが、実際に部屋を荒らされたのはビャクブとドラグーンの部屋だし、ダイヤーズは犯人ではないと言われたので、ビャクブにはヤツデの言いたいことはよくわからなかった。それに、ダイヤーズが犯人ではないとしたら、ドラグーンか、もしくは母が犯人である可能性が高いことになる。仮に、犯人がドラグーンなら、ドラグーンはどうして自分の部屋を荒らしそれをビャクブのせいにしようとしたのか、ビャクブにはやはりさっぱりと訳がわからなかった。
昼休みになると、ビャクブはヤツデのところへ向かった。ただし、ヤツデはここでも前置きを入れてきた。ヤツデはテレビを見て父から聞いた印税の話をした。印税とはとても小学校二年生の子の話題とは思えないが、ヤツデは昔から変人だったのである。
ビャクブはヤツデの話を真剣に聞いていた。ビャクブは昔から人の話をちゃんと聞いてあげられるタイプの人間だったのである。ビャクブはようするに人がいいのである。ヤツデは「それじゃあ」と言った。
「そろそろ」ヤツデはまじめな顔をしている。「ビャクブくんの持ってきてくれた問題の正解を言おうか。ビャクブくんの言うとおり、犯人はビャクブくんのお母さんだけど、お母さんは気持ちが荒れている訳ではないから、別に部屋を荒らす必要なんてないよね? となると、お母さんは部屋を荒らしたという考え方自体が間違っているのかもしれない。それじゃあ、お母さんは何をしたかったのかって考えた時に答えは閃いたよ。話は至ってシンプルだよ。まず、ビャクブくんのお母さんは一番上のお兄ちゃんのゲーム遊びを程々にしてほしかった。ビャクブくんも『ダイヤーズ兄ちゃんはゲームが好きだ』って言っていたものね。ビャクブくんのお母さんはそこでそのゲームを隠すことを思いついた。けど、隠す場所にはお母さんも気をつけなくちゃいけないよね? そのお兄ちゃんは料理をするから、ゲームは電子レンジや冷蔵庫には隠せない。お母さんはゲームを自由に出入りできる部屋に隠しても一番上のお兄ちゃんに見つけられる可能性がある。つまり、隠す場所はビャクブくんと二番目のお兄ちゃんの部屋が一番に適当だった。だから、お母さんはビャクブくんと二番の目のお兄ちゃんの部屋でゲームを隠すのに適切な場所を探していた。ところが、お母さんはその内にお部屋の整理をしてあげたくなってきた。おそらくはそれで色々なものを出したりしまったりしていた。でも、お母さんはそれに夢中になっていたら、お母さんは時間の過ぎるのを忘れてしまっていた。当の一番上のお兄ちゃんはそのタイミングで帰って来てしまった。止むを得ず、取るものも取りあえず、お母さんはビャクブくんと二番目のお兄ちゃんの部屋をあとにしたっていう訳だよ。ゲームはもう見つかったのかな? もちろん」ヤツデは一気に述べた。「ゲームとはお母さんに隠されたお兄ちゃんのゲームのことだけど」
ビャクブは黙り込んでしまった。ヤツデはここまでの話をしたり顔で長々と話をしたのにも関わらず、自分はもしかして大はずれを引いたのではないかと気が気ではなかったが、ビャクブはやっと口を開いてくれた。
「すごい」ビャクブは感極まっている。「事実はきっとそのとおりだよ。ヤツデくんにはダイヤーズの兄ちゃんのゲームがなくなったっていうことは言っていなかったのに、ヤツデくんは的中させているっていうことはきっとそうなんだ。一時はダイヤーズ兄のちゃんがゲームをなくした腹いせにおれとドラグーンの兄ちゃんの部屋を荒らしたのだとばかり思っていた時があったけど、実際はそうじゃなかったんだね。ありがとう」ビャクブはヤツデの推理に対して心から感動している。
「どういたしまして」ヤツデは言った。「報酬は次の注射の時の代行で賄ってもらって構わないよ」
「って」ビャクブは笑顔でつっこみを入れた。「ヤツデくんはどんだけ注射が嫌なんだよ!」
その後のビャクブは自分の母親に対してこっそりとヤツデの推理を話すと、母親は素直に事実を認めた。母親はビャクブとドラグーンにこっそりと謝ってくれた。
ビャクブの母親はトイワホー国の国民である。そのため、ビャクブの母親は部屋の片づけの途中で放り出してしまったことを申し訳なくは思っていたのである。母親はやり方が間違っていたかもしれないと思いダイヤーズに対してゲームを返してしまったというオマケつきである。
そうなると、ダイヤーズはまたゲームばっかりやっていて勉強をしなくなったかというと、そんなことはなくとばっちりを受けたビャクブとドラグーンに対しダイヤーズも申し訳なくは思ったので、少しはダイヤーズも勉強をするようになった。ダイヤーズとしてはドラグーンとビャクブのためにも勉強をやるという大義名分ができたので、結末としてはむしろラッキーだったのである。
ヤツデとビャクブの二人はビャクブの問題の提起とヤツデの解答によってお互いに親密さを増して行くことになった。ヤツデとビャクブは困った時には助け合い、その友情は25歳の今にも繋がっている。
ビャクブはサフィニアに対して以上の話をしていたが、やがてはプラネタリウムの施設に入って行った。ビャクブとサフィニアの二人はそつなく仕事をこなすことができたのである。
ヤツデはどうなのかというと、こちらは大収穫を上げそうな雰囲気である。これはちょうど郵便ポストの横を通過した時に気づいたことだが、ヤツデはビャクブとサフィニアのあとをさっきからついて歩いている謎の男を発見した。ヤツデはビャクブとサフィニアとはゆったり70メートルくらいの距離をあけているが、謎の男はそれとは逆にぴったり50メートルくらいの間隔をあけてビャクブとサフィニアのあとをついて歩いて
いる。謎の男は少し勾配のきつい坂を登り切ると歩みを止めた。
サフィニアとビャクブの二人はプラネタリウムの施設に入ったので、謎の男は少しばかりの時間を空けようとした。謎の男は5分もしない内に動き出そうとしたが、ヤツデは謎の男にそれをさせなかった。
「すみません」ヤツデは直球勝負で挑んだ。「不躾で大変に失礼な質問ですが、今のあなたは何をなさっているのですか?」ヤツデの変人ぶりはこういう時には役に立つのである。
「ええと、まあ、私は当てもなくブラブラしているだけです。まさかとは思いますが、あなたは警察の方ですか? これは職務質問ですか?」謎の男は必要以上に警戒している。この男性にはなにかしらのうしろめたいことがあるので、神経質になっているのかなとヤツデは思った。
「いいえ」ヤツデはあっさり言った。「ぼくは警察官ではありません。ですが、ぼくはもしかするとあなたと同業者かもしれません。あなたはサフィニアのことを尾行されていましたよね? ぼくも実はサフィニアのストーカーなんです。ぼくはヤツデと言います」ヤツデは「はじめまして」と言うとぺこりと頭を下げた。
「これはたまげましたね。トイワホー国は『愛の国』だけあってストーカーまで礼儀が正しいのですか。ですが、私はあなたに興味が沸きました。少しお話をさせてもらえますか? 実際のところ、ヤツデさんもそれをお望みなのではありませんか?」謎の男は些か気取った仕草をして言った。ヤツデは「はい」と応じた。
「おっしゃるとおりです。ですから、ぼくはお話を持ちかけさせてもらったんです」ヤツデは内心でニヤリとした。ヤツデと謎の男の二人は近くにあった喫茶店に入った。喫茶店はアルコールを扱わないショップのことである。一方のカフェはアルコールを提供する点で喫茶店とは違ってくる。
この喫茶店は『カーム・エンデバー』と言うチェーン・ストアである。細面の謎の男は席につくと早速にブラック・コーヒーを頼んだ。一方のヤツデはメロン・クリーム・ソーダを注文した。性格が子供っぽいが故に、ヤツデは紅茶やブラック・コーヒーのような大人の飲み物は苦手なのである。
「私は何者なのかはヤツデさんのご想像にお任せしておきましょうかね。ヤツデさんはご自身でそうだとおっしゃっているのですから、私はストーカーでも特に驚きはしないのでしょう?それどころか、私達はストーカー同士で協定でも結んでおきますか?」謎の男は余裕である。
「もし」ヤツデはもっと余裕である。「ぼくとあなたがストーカーなら、あるいはそういう話も成立するかもしれないし、時にはどちらかは手を引くようにしろという話になるかもしれませんね」
「どういうことですか?」謎の男は警戒した。「私には今一ヤツデさんのおっしゃりたいことが読めないのですが、つまり、ヤツデさんはストーカーではないとおっしゃりたいのですか?」謎の男は聞いた。
「はい」ヤツデは頷いた。「そのとおりです。ぼくはあなたとお話をさせて頂きたかったものですから、先程は嘘をついてしまいました。どうもすみません。ぼくがストーカーだと言えば、あなたはおそらくぼくの話に飛びついてくるだろうと思ったんです。ぼくは健全なサフィニアの新しい友達です。そもそも、あなたは何者であり誰の差し金で何を目的としているのか、ぼくは知っているのですが」ヤツデは驚愕の事実を口にした。「全部」ヤツデは微笑している。一方の男は「そうでしょう。って」と目をパチクリさせた。
「なんですって?」謎の男は驚いた。「ヤツデさんはなぜ私が雇われていることをご存じなのです」謎の男は慌てて口をつぐんだが、それは遅かった。謎の男は仕方なく観念した。謎の男は少し服の中を探したあとでヤツデにその証拠として名刺を渡した。そこには以下のように記載されていた。
ロデア探偵事務所 所長 ロデア
男はヤツデがその名刺を見ている間にジャンバーを閉じたので、ここは少々暖房の効きが悪く寒いからかなとヤツデは思った。実はフレークの家族にはかかりつけの医者や専属の弁護士だけではなくロデアという専属の探偵もいるのである。ヤツデは考えを巡らせるようにして名刺を観察している。
「やはり」ヤツデは言った。「そうでしたか。とはいえ、確信があった訳ではないんですけどね。ですから、先程のぼくの発言にしても鎌をかけたにすぎません。重ね重ねの不作法をしてしまってどうもすみません。ですが、ぼくにはちゃんとロデアさんが誰の依頼で仕事をされているのかの察しはついています。これは間違っているかもしれませんが」ヤツデは鋭く切り込んだ。「ロデアさんの依頼人はサフィニアのお父さんのフレークさんではありませんか?」ヤツデにそう言われると、男は一旦「いや」と言った。
「まあ」男は頭を掻いた。「私がここでとぼけても仕方なさそうですね。尾行がバレてしまいヤツデさんに話しかけられた時点で私の負けでしたね。私が話さなくてもこの事実はヤツデさんからサフィニアお嬢さまに伝わり、結局はフレークさんまで話が届いてしまう可能性は大ですね」男は肩をすくめた。話はヤツデと探偵の頼んだ飲み物が来たので一旦は途切れた。ヤツデは先に話を切り出した。
「一応」ヤツデはゆっくりと言った。「申し上げておくとフレークさんの依頼ではないかと思った理由はごく簡単なものです。ロデアさんのミスではありません。サフィニアとフレークさんは仲がいいはずなのにも関わらず、フレークさんはサフィニアが謎の男につけられていることを聞いてもなんのアクションを取られなかったからです。普通なら、成人しているとはいえ、父親のフレークさんは娘のサフィニアを心配して警察に電話したり、今度は一緒に外出をしようとしたりしそうなものですが、サフィニアはそういうことを言っていませんでした。とはいうものの、今回の場合はフレークさんにもなんらかの作戦があったとも考えられますから、ロデアさんは絶対にフレークさんの差し金で行動をしているとは言い切れなかったんです。話は変わりますが」ヤツデは聞いた。「ロデアさんはイライラされているのですか?」ヤツデはなぜそう思ったのかというと、ロデアはついさっきから人差し指をテーブルでトントンしていたからである。
最初は注文した飲み物が中々来なくて焦れているのかとヤツデは思ったのだが、ロデアは飲み物が来てもトントンしているので、その可能性は間違っていたということである。男は「ああ」と言った。
「これは私の癖でしてね。私は別にイライラしている訳ではありません。この癖は紛らわしいみたいなので、これからはできるだけ我慢することにします。ヤツデさんはサフィニアお嬢さまの新しい友達だとおっしゃっていましたが、ヤツデさんとサフィニアお嬢さまの二人は何が切っ掛けでお知り合いになられたのですか?」探偵は抜け目なく情報を得ようとしている。「ヤツデさんはこの近くにお住まいなのですか?」
「ぼくの住まいはこの近くではありません。ぼくは県外に住んでいます。ぼくとサフィニアはどうして知り合ったのかというと『仲良しトラベル』が切っ掛けです。ああ。ですが、それは別にフレークさんには報告しなくてもいいと思いますよ。その情報はすでにサフィニアの口から伝わっていると思いますからね」ヤツデは堂々と主張した。この話の主導権はヤツデが握っている。男は素直に「了解しました」と言った。
「なんにしても」男は続けた。「私はホッとしました。私としては懇意にさせて頂いているフレークさんのご令嬢に不穏な空気がつきまとっているのだとしたら、悲しい限りですからね」探偵は言った。
「そうですね。これは純粋な疑問なんですが、ロデアさんはフレークさんのご家族とはいつ頃からのお付き合いがあるのですか?」ヤツデは聞いた。ヤツデにはある狙いがあって聞いている。
「そうですね。ええと、私はもう10年以上もフレークさんのご家族と懇意にさせて頂いております。今は35ですが、私が探偵を始めたのは25の時です。つまり、私は探偵を始めて間もなくフレークさんのご家族から贔屓にさせてもらっているという訳なのです」男は淡々と語った。今日はミスをしたが、探偵は誇らしげな顔をして自信ありげである。ヤツデは矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「そうでしたか。それではゼンジさんが殺害されてしまったことについてはロデアさんにとっても大きなショックだった訳ですよね?」ヤツデは精一杯の弔意を込めて質問した。
「ええ」探偵は言った。「まあ、そういうことです。私はそろそろお暇させてもらいます。どうもすみませんでした。一度はヤツデさんをストーカーだと思ってしまいましたが、どうか、お許し下さい」
「もちろんです」ヤツデはやさしい口調で返答した。「元はと言えば、ぼくが話を無理矢理にまぜっかえしてしまっただけですからね。ロデアさんはお話を聞かせて下さってありがとうございました」
「いえいえ」男は取り成した。ロデアと自称する男は「さようなら」と言うと自分が飲んだコーヒーの代金をテーブルに残しいそいそとこの場をあとにした。
ヤツデはビャクブとサフィニアを待つことになった訳だが、行く当ては特にないので、結局はこの『カーム・エンデバー』でビャクブとサフィニアの二人を待つことにした。ただし、何もしないで待っているだけというのも暇なので、ヤツデはいっそのこと『カーム・エンデバー』でランチを取ることにした。
ヤツデはパスタを注文したあとビャクブやサフィニアからなんらかの連絡が来ていないかどうかを調べるためスマホを取り出した。すると、カラタチから先程の男性と話している時に着信が来ていたことに気がついた。そのため、ヤツデはお店の人に断りを入れ外に出てカラタチに対してコール・バックした。
「やあ」カラタチは電話越しで言った。「ヤッちゃんは忙しくしているにも関わらず、私は電話してしまってどうもすみませんな。今は電話していてもよろしいのですかな?」カラタチは丁寧なもの言いをした。ヤツデは「はい」と答えたので、カラタチは安堵した。
「大丈夫です。今はむしろ時間に余裕があるので、カラさんとの会話は大歓迎です。謎の男の正体は突き止めたのですが、ビャクブとサフィニアの二人は訳があってプラネタリウムに行っているので、ぼくとビャクブはカラさんのところへ帰るのにはもうしばらく時間がかかりそうです。ごめんなさい」
「いえいえ」カラタチは取り成した。「そんなことは全く構いませんよ。ですが、時間はあるということなので、私からは三つのお話をさせて下さい。まず、ミステリー・ツアーの問題は私も挑戦させてもらったのですが、答えはとんとわかりませんな。しかし、ヤッちゃんは安心して下さい。私は諦めないで答えがわかるまで考えてみようと思っています。次に、ヤッちゃんが銭湯にソックスを忘れてきてしまった件ですが、ヤッちゃんのソックスはなぜか見つかりませんでした。ソックスはもしかしたらヤッちゃんのファンが持って行ってしまったのかもしれませんな」カラタチは明るい口調で言った。半分はカラタチなりのユーモアである。
「それはおもしろい冗談ですね」ヤツデは軽く受け流した。「とはいえ、カラさんには無駄足を踏ませてしまったので、ぼくはあとでちゃんとお詫びをしようと思います。それにしても、ソックスは忘れ物でないとしたら、あるいは単にぼくの見落としなのかもしれませんね。だとしたら、どうもすみません」ヤツデは相も変わらず謙虚さを忘れていない。それはカラタチの方も同じことだった。
「いやいや」カラタチは再び取り成した。「謝ることはありませんよ。事実はまだそうと決まった訳ではありませんからな。それでは最後の要件ですが、私はヤッちゃんとビャッくんを車で迎えに行こうと思っているのですが、私はいつ頃に迎えに行けばいいですかな? もちろん」カラタチはとても親切な申し出をした。「私は決して急かしている訳ではありませんので、ヤッちゃんとビャッくんはゆっくりでも構いませんが」カラタチはやはりやさしい性格の持ち主である。ヤツデはやさしい口調で謝意を表した。
「ありがとうございます。ぼくらがいつ頃に帰れるかはまだわからないので一応はカラさんも昼食をすませておいて下さいますか? 帰りの時間になったら」ヤツデは丁寧な口調で言った。「その時はこちらからスマホで連絡させてもらいます」ヤツデはカラタチの申し出を心から喜んでいる。
「了解しました。気は長い方なので、私はのんびりとお待ちすることにします。ですから、どうか、私のことはヤッちゃんも気にすることなく焦らずにがんばって下さい。それではまたのちほどお会いしましょう」カラタチは快活に言った。ヤツデは返事をすると通話を切った。
現在のヤツデとビャクブは殺人事件の捜査にも首をつっこんでいるが、ヤツデはなんとなくカラタチに対してそのことを言い出せなかった。「自分たちはもしかすると明日も半日は出かける」と言えば、カラタチは怒るのではないかとヤツデは少し尻込みしてしまったのである。そうはいっても、カラタチの性格はとてもやさしいので、カラタチがそんなことでは怒らないことは火を見るよりも明らかである。
ヤツデは食事と読書をして待っているとスマホに着信があった。そのため、ヤツデはスマホを見てみるとドキンとした。電話の相手はサフィニアだったのだが、ヤツデはサフィニアに対して恋をしてときめいている訳ではなく電話での応対が苦手なだけである。ヤツデはカラタチの時もそうだったのである。
サフィニアは「今はどこにいるか」と聞いてきたので、ヤツデは「カーム・エンデバーだ」と答えた。ビャクブとサフィニアの二人は通話を終えるとヤツデのところにやって来た。
ヤツデは店内に入ってきたビャクブとサフィニアに目敏く気づいた。大学生の時にお年玉と成人式のお祝いのお金を叩いてICLというレンズを目の中に入れる視力矯正手術を行ったので、ヤツデの視力はとてもいいのである。店内で声を出すと他のお客さんに迷惑なので、ヤツデは無言で手を振ってビャクブとサフィニアに気づいてもらおうとした。サフィニアはするとすぐに気づいた。ヤツデとビャクブとサフィニアは簡単な話し合いの結果の末にビャクブとサフィニアの二人もこの店で昼食を取ることになった。
「ねえ」サフィニアは言った。「ヤツデくんは聞いてよ。私とビャクブくんは二人でデートみたいにしてプラネタリウムに行ったって言うのに、ビャクブくんはずっと寝ていたのよ。ビャクブくんは寝つきが悪くていつも寝不足気味になっているって言うけど、私はちょっとショックだったな。私ってそんなに魅力がないのかしら?」サフィニアはヤツデに対して話を振った。「神童のヤツデくんはどう思う?」
「ビャクブは寝不足気味だっていう話は事実だから、サフィニアは深く考えないでいいと思うよ。ぼくもそうだけど、ビャクブはそもそも相手が絶世の美女だったとしても他の人と違う態度で接するようなことはしないんだよ。だから、サフィニアはビャクブを怒らないであげてね」ヤツデは軽く往なした。
「ところで」ヤツデは問いかけた。「ぼくはなんで神童なの?」ヤツデはそのことの方が気になっていた。
「それはおれがサフィニアに小学生時代のエピソードを話したからだよ。確かによく考えてみると小学校二年生であれ程の推理力を持っていたら、ヤツデは十分に神童だよな。それよりも」ビャクブはサフィニアの方を向いた。「ホントにごめん。サフィニアはさっきのヤツデのセリフで少しは気を落ち着けてくれたかい?」ビャクブは聞いた。「うん」サフィニアは意外にもあっさりと頷いた。
「私はもう怒ってないから、ビャクブくんは心配しなくても大丈夫よ。そもそも」サフィニアは笑顔になった。「私は本気で怒っていた訳でもないしね。ヤツデくんとビャクブくんには少し変わったところがあるみたいね」サフィニアは吐息をついた。ヤツデはこの話を聞き流している。
「ヤツデは筋金入りだけど、そこにはおれも入っているのかい?」ビャクブは嫌そうにしている。「ヤツデの場合は今回の旅でもぬいぐるみを番犬代わりに使うくらいだからな」ビャクブはおかしそうにしている。
「そうなの?」サフィニアは確認した。「ヤツデくんっておバカさんね。私はそろそろ本題に入るけど、ヤツデくんは謎の男と接触できたの?ヤツデくんは神童なんだから、それくらいはできたよね? もちろん」サフィニアはプレッシャーをかけた。ヤツデはサフィニアに圧倒されながらも判明した事実を全て話した。
ここでは簡単に言ってしまうと、ヤツデはサフィニアを尾行していたのが探偵のロデアだったことやその依頼人がサフィニアの父のフレークだったことを口にしたのである。その間に注文した料理が来たので、ビャクブとサフィニアは食事を開始している。ビャクブは意外な真相に驚いている。
「そうだったのね。お父さまの仕業だとは思いもしていなかったな。それにしても、お父さまはどうして私を監視させていたのかしら? まさかとは思うけど、お父さまは私が裏で悪事でもしていると思ったとか?」サフィニアは思案している。サフィニアはやはりなんとなく不安を感じているのである。
「サフィニアはそんなに邪推することはないと思うよ。ぼくはフレークさんとお会いしたことはないけれど、フレークさんはきっとサフィニアのことが心配だったから、サフィニアがいつも元気にしているかどうかを知っておきたかったんだよ」ヤツデはゆっくりと言った。これこそはヤツデのやさしさの真骨頂である。
「その意見にはおれも同意するよ。サフィニアはそれだけお父さんに大切に思われているっていうことだろうな。サフィニアもこれですっきりしたし、謎の男も犯罪とは無関係だったんだから、この件はハッピー・エンドだな。無論」ビャクブは大らかな口調で言った。「ゼンジさんの件はハッピーではないけど」
「なんか、ヤツデくんとビャクブくんは二人して話をよくまとめようとしていない? まあ、事実はヤツデくんとビャクブくんのおかげで判明したんだから、お父さまのことは二人の活躍に免じて怒らないであげる。それよりも、おじいさまの事件については明日も調べてくれるんだよね?」サフィニアは聞いた。「なにか、ヤツデくんとビャクブくんには手掛かりを掴めそうな気配はある?」サフィニアはかなりの期待を寄せている。
「おれはあるようでないような感じだけど、ヤツデなら、手応えくらいは感じているはずだよ。ゼンジさんはどうやって呼び出されたのか、ゼンジさんとコリウスさんの口論は事件に関係があるのか、ヤツデは明日にでもそういったものを解き明かしてくれるよ」ビャクブは無責任な発言をした。
とはいえ、これはヤツデにプレッシャーを与えている訳ではなくヤツデへの絶対的な信頼感がビャクブに言わせているセリフである。信頼感は親友にとって最も大事なものである。ヤツデは異議を申し立てようとしたが、それはサフィニアによって遮られてしまった。
「さすがはヤツデくんね。私もそうなんじゃないかと思っていたんだ。お話をまだ聞かせてもらっていないのはお父さまとお母さまとラルフ叔父さまとカスミ叔母さまの4人ね。ただ、カスミ叔母さまはショックから立ち直って」サフィニアは途中でセリフを遮られてしまった。
「あら」女性は言った。「サフィはあたしの話をしてくれているの? それはいい話なのかしら?」女性とはカスミのことである。ことわざでは「噂をすれば、影が差す」と言うが、この状況はまさしくその言葉のとおりである。サフィニアはご本人の登場にとても驚いた様子である。
「え?」サフィニアは聞いた。「カスミ叔母さまはどうしてここにいるの? いいえ。カスミ叔母さまがここにいちゃいけない訳ではないけど、叔母さまはわざわざ話を聞かせてくれるために来てくれたの?」
「皆があたしの話を聞いてくれるなら、あたしは喜んでお話するけど、元々はそうじゃなくてウィンドー越しにサフィの姿が見えたから、あたしもここに来てみたの」カスミは「はじめまして」とヤツデとビャクブに挨拶した。ヤツデとビャクブの二人は丁寧に挨拶を返し自己紹介した。
「ヤツデさんとビャクブさんのお二人はサフィのお願いを聞いてくれるなんてとても親切な方々なんですのね。ヤツデさんは相棒のビャクブさんまで連れてきて下さってありがとうございます。サフィの話によると、ヤツデさんはミステリー・ツアーで大活躍をなさったようですね。今日は父のゼンジの事件を調べて下さっていたのですか? もし、そうなら、ヤツデさんはなにか有益な情報を得られましたか?」カスミは聞いた。
「はい」ヤツデは首肯した。「カスミさんの家族の方々は皆さんがご親切なので、ぼくたちにはそのおかげで色々なことがわかりました。今すぐに事件の解決ということにはならないかもしれませんが、ぼくらはもう少しカスミさんのご家族の協力が得られれば、もしかすると、裏に隠された事実を暴くことができるかもしれません」ヤツデは珍しく強気である。つまり、ヤツデはかなりの有益な情報を持ち合わせているという意味である。カスミはヤツデのことを見て「頼もしいですね」と言った。
「それではあたしもお二人に協力させて下さい。ヤツデさんはお聞きしたいことや知りたちことがあれば、遠慮なくおっしゃって下さい。あたしもいい大人ですから、昨日よりはだいぶ気持ちも落ち着いてきたので、取り乱すようなことにはならないと思います。せっかくですから、あたしにもこちらでお食事させてもらえますか?」カスミは聞いた。ヤツデとビャクブの二人は当然のことながら頷いた。カスミがオーダーを終えると、ヤツデとビャクブは早速に聞き込みの体勢になった。
「カスミさんは協力して下さってありがとうございます。それでは形式的にお聞きしますが、カスミさんは事件があった時刻にはヘンルーダさんとアオナさんと一緒でしたか? アオナさんやヘンルーダさんのどちらかを長く見かけなかった時間があったというようなことはありませんでしたか?」ヤツデは素人探偵として常套手段の質問から聞き込みを開始することにした。カスミは「ええ」と応じた。
「それは断言できます。あたしは買い物をしている時にはアオナお義姉さまとひっきりなしにおしゃべりをしていましたし、ヘンルーダさんには荷物持ちをしてもらいながらも定期的に買うものを持ってもらっていましたから、自分で言うのもなんですけど、あたしとアオナお義姉さまとヘンルーダさんの三人にはアリバイがあるので、あたしたちに父を殺害した犯人の可能性はありません」
「なるほど」ビャクブは相槌を打った。「それは確かにカスミさんの言うとおりですね。そのことはおれも頭に入れておきます」容疑者はこれにより一気に三人も減ったので、ビャクブは内心で喜んでいる。容疑者は少なければ、少ない方がいいというのはヤツデとてビャクブと同意見である。
「それではカスミさんからご覧になられてお父さんのゼンジさんはどのような方でしたか?」ヤツデは丁寧に言った。「客観的にではなくカスミさんの主観で答えて下さって構いません」
「父は悪い人ではありませんでした」カスミは言った。「そういう言い方をすると誤解を招くかもしれませんが、別に父が悪い人だったから、あたしは父のことを庇っている訳ではありません。ただ、父は少しばかりあたしには厳しい一面を見せることもありました。ですが、ラルフとの結婚には父もすぐに賛成してくれましたし、父はヘンルーダさんのことを含め非常に慈悲深い人だったとあたしは思っています」
「そうでしたか」ヤツデは合いの手を入れた。「立ち入ったことをお聞きしますが、カスミさんとラルフさんの間にお子さんはいらっしゃいますか? 話を聞いた限りではお子さんがいるとしても一緒には暮らしてはいないようですよね?」ヤツデは聞いた。一応はビャクブも真剣に耳を傾けている。
「ええ」カスミは言った。「あたしとラルフとの間には二人の息子がいます。二人は時々未来館に帰って来てくれますが、事件のあった時は県外にいました。ですから、犯人があたしの息子たちということもあり得ないと思います」カスミは息子たちのことを大切に思っているよき母なのである。
「はい」ヤツデは素直である。「よくわかりました。今は聞き込みをさせて頂いているとはいえ、ぼくは素性を晒すような質問をしてしまいどうもすみませんでした。話は変わりますが、ラルフさんはカスミさんから見てどんな方ですか?」ヤツデは次の質問に入った。ビャクブはそれを大人しく聞いている。
「それはもう自分の理想の男性を見つけたって感じさせてくれるくらいあたしにとってはとても素敵な人です。ラルフは実際にとてもいい人だと思います。昔のあたしは長髪だったんですが、当時のあたしは今のようにして短髪にするとあたしには似合わないかなって思ったんです。そしたら、ラルフは『そんなことはないよ』って言ってくれたあとイヤリングを買ってくれたんです。もし、あたしがイヤリングするなら、その時は短髪の方がよく見えるからってラルフは言いました。ですから、そのイヤリングはラルフがくれたあたしの誕生石の指輪と同じくらいうれしい贈り物だって思っているんです。それと、これはラルフとの新婚旅行でのお話ですが、あたしにはそそっかしいところがあるので、いつの間にか、ビザをなくしてしまったことがあったんです。そしたら、ラルフはあたしと一緒に探してくれました。その時は少し前に行ったレストランですぐにビザは見つかったんのすが、怒るどころか、ラルフは自分自身の不注意さを謝ってくれたんです。ごめんなさい」カスミは恐縮している。「あたしは調子に乗りすぎてしまいましたね。退屈なのろけ話をしてしまいました」カスミはご多分に漏れず謙虚なのである。ビャクブは「いや」と取り成した。
「そんなことはありませんよ。カスミさんはいいお話をして下さったので、おれはラルフさんのことを見習おうと思いました。それに、少しはカスミさんのおかげでラルフさんの人柄がおれにも理解できましたしね」ビャクブはやさしい口調で言った。ビャクブはヤツデによる次の質問を待った。
ところが、ヤツデは中々口を開かなかった。なぜなら、ヤツデは先程のカスミのエピソードによってゼンジの事件の解決に繋がる重要な事実に思い到ったので、しばしの間は自分の世界に入って考え事をしていたのである。ビャクブは間を持たせるため自分もなにかを聞いた方がいいのだろうかと思い始めた。すると、ヤツデはその頃になってようやく口を開いた。ビャクブとしては一安心である。
「それでは質問の種類を変えてしまいますが、最近はなにかしら変わったことはありませんでしたか? もっとも」ヤツデは言った。「変わったことは誰かの様子がおかしいとかまで大事ではなくてもほんの些細なことでも構いません。もっと言えば、事件には関係のなさそうなことだと思うものでも構いません」
「ヤツデさんがなんでもいいとおっしゃるのなら、思い当たることは一つあります。最近はラルフの帰りが遅くなったことです。それに、ラルフは休日もたまにお仕事に顔を出すようになりました。一応は勘違いのないように言っておきますが、ラルフは浮気をしている訳ではないと思います。証拠はありませんが、あたしはラルフのことを信頼しているので、それは間違いないと思います」カスミは自信満々の様子で言葉を紡いだ。
「わかりました。ぼくもその可能性は除外しておくことにします。まさかとは思いますが、カスミさんは今回の事件の犯人に心当たりはありませんか?」ヤツデは慎重に言葉を選んで言った。「あるいはそこまで具体的ではなくともゼンジさんに対して不当な恨みを持っている人がいれば、それでも構いません」
「犯人の心当たりは全くありません。私生活で父を恨んでいる人にも全く思い当たりません。となると、残るは仕事関係ですね。このことはヤツデさんとビャクブさんもご存じだと思いますが、父は会社の社長をやっていたこともあるので、あるいはそこで逆恨みされていたっていう可能性はあるのではないかと思います。ただし、自分の父親に対して言ってもあまり説得力はないかもしれませんが、父は比較的に人情の厚い人だったので、そのことはヤツデさんとビャクブさんも頭に入れておいて下さい。それから、ヤツデさんとビャクブさんはこのことも忘れないで下さい」カスミは心から懇願した。「あたしの家族の中には父を殺害した犯人はいません。あたしはそれくらい自分の家族の皆を信頼しているんです」
カスミはきっぱりと言い切ったので、サフィニアは感動している。サフィニアは今までも自分の家族の中にはゼンジを殺害した犯人はいないと思っていた。ところが、サフィニアの場合はあくまでも願望に過ぎなかったので、今のサフィニアはカスミのスタンスを見習おうと思ったのである。
「わかりました。カスミさんがそこまでおっしゃるのなら、ぼくもそのことは肝に銘じざるを得ません。カスミさんは事件の前日にゼンジさんの部屋へ行かれましたか?」ヤツデは中々に奇妙な質問をしている。「あるいはゼンジさんの部屋に入った誰かを見かけませんでしたか?」
「誰かしら他にも父の部屋に入った人はいたかもしれませんが、あたし以外には父の部屋に入った人は知りません。昨日は父にとって久しぶりの外出だから、あたしは父に気をつけて行ってくるよう声をかけに行ったんです」カスミは言った。ビャクブはそれをぼんやりと聞いている。
「そうですか。カスミさんは思いやりのある方なんですね。まさかとは思いますが、その時のゼンジさんの様子におかしな点があったというようなことはありませんでしたか?」ヤツデは真剣な顔をして聞き込みを続けている。「ゼンジさんはなにか特別なことをおっしゃっていたという話でも構いません」
「異変は特になかったですし、父は事件と関係のありそうなことも口にはしていませんでした。なんだか、あたしは有益な情報をお二人に提供できていないみたいですね」カスミは謝った。「どうもすみません」カスミはすっかりと恐縮してしまっている。カスミはやさしい性格をしているのである。
「いいえ」ヤツデは首を振った。「そんなことはありませんよ。一応は事件の前日にゼンジさんが普段のとおり過ごしていたというのも貴重なお話です。今のところ、ぼくからは以上だけど、ビャクブの方にはカスミさんにお聞きしたいことはある?」ヤツデはすでに上の空だったビャクブに聞いた。
「ああ」ビャクブは我に返った。「せっかくだから、おれも一つ聞かせてもらうよ。このお話はオリーブさんから聞いたのですが、学生時代のカスミさんはバレエで全国大会に出るほどの選手だったんですよね? それなのにも関わらず、カスミさんはどうしてバレエをやめちゃったんですか?」ビャクブは低姿勢を崩すことなく聞いた。「この質問は事件の話というよりただ単におれの気になることを聞いているだけかもしれませんが」
「それはすごく簡単な話です。あたしは全国でベスト4に入れば、バレエを続けるつもりだったのですが、実際はその手前の準々決勝で敗れてしまったので、バレエの道からは潔く身を引き花嫁修業をすることにしたんです」カスミは「格好の悪い話ですよね?」と言いながら照れ笑いを見せた。
「いやいや」ビャクブは取り成した。「お話は相当にハイ・レベルなものなので、おれにはそうは思えませんよ。さてと、カスミさんへの質問はこれで終わりっていう訳だな」ビャクブは「カスミさんはお話を聞かせて下さってありがとうございました」と言うと頭を下げた。ヤツデはそれに倣った。
ヤツデとビャクブの二人は多少の話し合いの結果の末にこれでカラタチのところへと戻ることになった。つまり、今日の捜査はこれでおしまいという意味である。ヤツデとビャクブはまだ席についていたのだが、やがてはサフィニアにより感謝の気持ちを述べられると伝票を持って店外に出ようとした。
しかし、ヤツデはサフィニアに聞いておきたいことがあったので一旦はビャクブには先に行ってもらうことにした。その間のカスミはたまたま化粧室に行っていた。他の人には聞かれたくない話だったので、このタイミングはヤツデにとってはラッキーである。
「これは単なる確認なんだけど、サフィニアはロデアさんに会ったことはある?」ヤツデは単刀直入に聞いた。「もし、あるなら、サフィニアはロデアさんの癖のことを知っている?」
「ええ」サフィニアは肯定した。「ロデアさんには会ったこともあるし、癖のことも知っているよ。ロデアさんの癖っていうのは机で指をトントンってやることでしょう? それがどうかしたの?」サフィニアは頭を働かせ自問自答している。「ああ。ヤツデくんはただの確認って言ったか。さっき」
「うん」ヤツデは屈託がない。「そういうことだよ。それじゃあ」ヤツデは「ぼくはもう一つだけ確認させてね」と言うとサフィニアに対してロデアに関する重要な質問をした。ヤツデはサフィニアから返答をもらうとお礼をしっかり言ってサフィニアと化粧室から帰ってきたカスミとお別れした。
サフィニアは叔母のカスミが食事を終えるのを待ちカスミと一緒に家に帰ることになったので、ヤツデが会計をすませ外に出てみると、ビャクブは店外で電話をしていた。
ビャクブの電話の相手はカラタチである。ビャクブはカラタチに車で向かに来てもらえるようお願いしているのである。それを終えると、ビャクブはヤツデと一緒に歩き出した。
ビャクブは口にこそ出さないが、集合場所はカラタチの方向音痴に配慮し先程の『カーム・エンデバー』という喫茶店ではなくサフィニアの家の前にしておいた。
そうすれば一度は来たことがあるので、さすがのカラタチも迷いにくいはずだからである。その予想のとおり、ヤツデとビャクブがサフィニアの家についてから間もなくすると、カラタチは迷うことなく車でやって来てくれた。ヤツデとビャクブは感謝の気持ちで一杯である。
その少しあとの話である。オリーブは自宅の談話室にいた。ラルフがその部屋を横切ろうとすると、オリーブはそのラルフに対して声をかけた。オリーブはただ雑談をするためではなくあまり機械に強い方ではないので、ラルフに香典についてスマホで調べてもらいたいことがあったのである。
ラルフは義理の母親であるオリーブの要望に快く答えた。完全に使いこなしている訳ではないが、ラルフは人並みにスマホを使っている。オリーブは香典返しとして海苔をお返ししようとしていたが、ラルフはスマホによる情報からどうやらその必要はないと返事をした。
オリーブは自分たちの住むマクマード市の公共事業に香典を寄付するつもりだったので、そのような場合は香典返しが免除されるというのがトイワホー国の習わしだったのである。
ただし、お礼の挨拶状だけは発送した方がいいということがわかったので、ラルフはオリーブに対してそれについての協力をする旨を伝えた。とはいえ、フレークはしっかりしているので、ゼンジとオリーブの事実上の長男であるフレークが先頭に立って作成するだろうということは想像に難くない。
トイワホー国では中元や歳暮が届いた時には礼状を書くことがエチケットだが、普通は香典返しをする場合にはその必要はないのである。オリーブはとにかくラルフのおかげで大助かりである。
「ラルフくんは色々と教えてくれてありがとう」オリーブは謙遜気味である。「ラルフくんはやっぱり頼りになるわね。でも、インターネットくらいは私も使いこなせるようにならないといけないかしらね?」
「まあ」ラルフは言った。「ぼくはどっちでもいいと思います。インターネットはフレーク義兄さんとコリウスくんも使えますから、その点ではオリーブお義母さんも困ることはないと思いますからね。とはいえ、お義母さんがスマホを使えるようになりたいのであれば、ぼくもそのお手伝いはさせてもらうつもりですが」
「ありがとう」オリーブはお礼を言った。「それなら、私は考えておくわ。話は変わるけど、ラルフくんのアリバイの説明の仕方はあれでよかったのかしら?」オリーブは突然に意味深な話を切り出した。「警察の人はラルフくんのことを疑っていないかしら? だとしたら、私は申し訳ないことをしてしまったわね」
「いえ」ラルフは言った。「例の件はお義母さんのせいではありませんよ。心配はいりません。ぼくはちゃんと説明しましたから、警察の方も信じてくれたんじゃないかと思います。ここはましてや『愛の国』ですからね。とはいえ、刑事さんがなんでもかんでも信じていたら、それはそれでいけないような気もしますが」ラルフは断言した。「警察の方はとにかくぼくの証言を頭から嘘だと決めつけてはいないと思います」
「それもそうね」オリーブは論破された。「ごめんなさい。私はいらない心配をしていたみたいね。でも、私はラルフくんを心配する前に自分のことを気にかけた方がいいかもしれないわね。私のアリバイはあってないようなものだから、警察の方はそれこそ私のことをマークしているでしょうね。それとも」オリーブは自虐的である。「警察の方の眼中には最初からこんな非力なおばあさんは入ってないかしら?」
「犯人は左手で犯行に及んだそうですから、眼中に入ってないというのかはわかりませんが、お義母さんは確かに容疑者のリストからは除外されているかもしれませんよ。お義母さんは右利きですし、そんなに力も強い訳ではありませんからね。お義母さんは非力であることを喜ぶべきかもしれません。もっとも」ラルフはやさしい口調で言った。「トイワホー国では非力な人間を卑下する人はお目にかかれないでしょうが」
「ちなみに、非力か、そうではないかの関係の以前にお義母さんが犯人だとは一度もぼくは考えていませんよ」ラルフは心からオリーブを敬愛している。ラルフとオリーブの関係は良好なのである。
「うれしいわねえ」オリーブは顔を綻ばせた。「どうもありがとう。サフィは警察の捜査員だけではなく二人の捜査員を連れてきてくれたのよ。その方々はヤツデさんとビャクブさんって言うんだけど、そのお二人は真剣に私達の境遇に感じ入ってくれているようだったのよ。それに」オリーブは低姿勢のままで話を続けている。「私の直感は頼りにはならないかもしれないけど、お二人は頼りになりそうだったしね」
「そうでしたか。それでしたら、ぼくも早くそのお二人にお会いしたいですね。サフィちゃんもいいお友達と出会えてよかったですね。お二人は無償で働いている訳だから、ぼくはお二人に会ったら、その時は感謝の気持ちを忘れないようにしないといけませんね。ヤツデさんとビャクブさんは明日も来て下さるのですか?」
「ええ」オリーブはゆっくりとした口調で言った。「私はたぶんそうだと思うわ。ヘンルーダくんはさっき『明日はヤツデさんとビャクブさんを迎えに行ってくる』っていうようなことを言っていたからね。もっとも、ヤツデさんとビャクブさんの訪問はおじいさまのお葬式のあとになるでしょうけど」
ゼンジのお葬式場は幸いにも未来館から10分のところが取れたのである。会葬者はあまり呼ばずにほとんど明日のゼンジのお葬式は家族葬のような小規模なものにする予定なのである。
「ぼくはお義父さんによくしてもらったので、お義父さんの突然の死は大きなショックでした。ぼくは同時にそれを知った時のお義母さんのショックも考えましたが、あの時は言葉にならない程に悲しい気持ちになってしまいました」ラルフはしんみりとしたムードの中において切なげにして言った。
「そうね」オリーブは応じた。「ラルフくんは思いやりのある方だから、それは想像に難くないわ。私としてもラルフくんに気を使ってもらえてすごくうれしいわ。もしかしたら」オリーブは自虐的である。「有閑マダムとしてぬるま湯に浸かっていたから、私には罰として試練が訪れたのかしらねえ?」
「どうか」ラルフは言った。「お義母さんはそんなに悲観なさらないで下さい。お義母さんは毎日を精一杯に生きているのですから、その生活には誰もケチをつけることはできません。それはお義父さんにしても同じです。お義父さんは実際にいい人でした。お義父さんはこのぼくのことを助けてくれるだけではなくぼくのことを信頼しぼくを頼りにもしてくれました。ぼくにとってはそれもうれしかった思い出の一つです」
ラルフは仕事のブリーフィングについてゼンジから教えてもらったり一年目の結婚祝いにはライト・バンを買ってもらったりもしたのである。そのライト・バンはゼンジの家族の全員が使うウィーク・エンド・ハウスの入り口に駐車されている。ゼンジは会社のロゴタイプを新しくする際にラルフにどんなものがいいかを聞いたりリグーン国の別荘としてログ・ハウスを建てる時もきちんとラルフから意見を聞いたりしたこともあった。ゼンジとラルフはそれ程に親密だったという訳である。オリーブは「そうね」と言った。
「ラルフくんはおじいさまによくして下さっていたから、そのことには私も感激していたのよ。思い出はホームでのラルフくんのお父さまの件もあるしね。フレークとコリーなら、悲しみはしてもおじいさまの死のショックには耐えられるだろうけど、カスミは大丈夫かしら?」オリーブは慈悲の心を見せた。「カスミには昔からショックに脆いところがあったから、カスミのことは私も心配しているのよ」
「それは同感ですが、カスミは大丈夫だと思います」ラルフは落ち着いた口調で言った。「ぼくは夫としてできるだけカスミのことを支えてあげるようにします。未来館に帰ってきてから少しカスミとは話をしましたが、昨日よりはだいぶカスミも顔色がよくなっているように見えました。まさか、ぼくはぬるま湯に浸かっていたとは言いませんが、カスミは穏やかな世界の住民ですからね。カスミはグロテスクな映画を見ると泣いてしまうくらいですから、お義父さんの死はお義母さんと同じくらいにショックだったとは思います」
カスミのことを誰よりも大切にしてあげようとするラルフはやさしい夫である。この談話室にはちょうど会話が切れたところで不意に「やあ」と言ってコリウスがやって来た。
「ラルフ義兄さんにはお袋の話し相手をさせてしまって悪いですね。今まではなんの話をされていたのですか? いや」コリウスは言った。「それは聞くまでもないか。話題は親父の事件に関連したことでしょうからね。警察の捜査はどのくらい進んでいるんでしょうかね?おれは親父の事件について内の家族の中に知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる者がいるのかと思うと息がつまりそうになりますよ。いい加減」
「まったく」オリーブは呆れている。「コリーはデリカシーの欠片もないわね。そんなことは想っていても口にはしないことよ。それとも、コリーには私達の家族の中に犯人がいるっていう確信でもあるの?」
「いや」コリウスは否定した。「そんなものはないよ。この未来館に親父の外出の情報を外に流した犯人はいるかもしれないけど、さすがのおれも自分の親族の中に殺人犯がいるとは思いたくない。ただし、それはあくまでも思いたくないっていう話だ。それに、この家族の中で一番に怪しいのはおれじゃないのかとも思っているよ。アリバイはないし、あろうことか、おれには前科まである。自分で言うのも変だけど、おれは最重要容疑者っていう訳だよ。動機はやっぱり遺産が狙いかな?」コリウスは自己分析している。とはいえ、コリウスは冗談を言っているのである。ラルフは黄色の瞳をコリウスに向けた。
「まさか、警察の人はそんなに短絡的じゃないから、コリウスくんはそんなに悲観する必要はないと思うよ。それに、コリウスくんは生前のお義父さんにお金を借りればいいだけだから、遺産は大した動機にはならないんじゃないかな?それとも、コリウスくんはお義父さんの持つお金を全て奪い取ってやろうという考えの下で一人また一人と未来館の家族を消して行くとでもいうのかな? それはあまりにもバカバカしいよ。いくらなんでも」ラルフは肩をすくめている。「それは推理小説の読みすぎだよ」
「そうね。どちらかと言えば、私もラルフくんの意見に賛成するわ。今はちょうど遺産の話が出たから、一応は言っておくと、私は弁護士の方にお願いしておじいさまの遺産を家族でわけてもいいと思っているの。コリーはどう思う?」オリーブは真剣な口調になって問うた。コリウスはまじめに言った。
「おれは反対だよ。未来館では別にお金に困っている人はいないんだし、親父にはましてや遺書の類もなかったんだから、遺産はお袋が全額を管理してくれればいいじゃないか。誰かしらがお金に困ったら、その時はお袋の判断でその人に譲渡すればいいと思うよ」コリウスはきっぱりと主張した。「予め言っておくけど、おれはお袋が遺産を分配してもそのお金を受け取るつもりはないよ」コリウスの大胆さにはラルフもびっくりしている。コリウスはてっきり遺産の相続を喜ぶとラルフは思っていたのである。
「コリーは相変わらず困った子ね。わかったわ。私もおじいさまの遺産をどうするかはよく考え直してみるわ。コリーはいつまでも意地をはっているなら、その時はフレークとカスミの手を煩わせることになるかもしれないけどね」オリーブは思慮深げに発言した。コリウスは全く動じていない。
「まあまあ」ラルフは割って入った。「細かいことは後回しにしましょうよ。遺産の問題はなにも今すぐに考えなくてはいけない話ではありません。それより、ぼくは野暮用をすましたあと警察署に行ってきたんです。コリウスくんは先程『警察の捜査はどのくらい進んでいるのか』というようなことを言っていたけど、警察の方たちはとても尽力してくれているみたいですよ。凶器となった包丁は現場にあったそうですが、持ち主は不明なままのようです。この凶器は未来館のものではないというのは言うまでもないかもしれません。それから、現場は地下鉄のホームでしたよね。となると、普段はあの時間帯のあの場所には人が少ないということを犯人が計算に入れていた可能性が高い訳です。犯人は偵察をしてあの現場を見つけた可能性もありますが、警察の方は犯人が普段からあの地下鉄のホームを利用していた可能性もあると考えているようです。もっとも、捜査の情報はいくら親切なトイワホー国の警察でもその程度しか教えてもらえませんでしたけれどもね。そう言えば」犯罪捜査には素人のラルフは不思議そうにしている。「警察の方はお義父さんの日記を持って行かれたそうですが、その日記はなにかこの事件に役立つのでしょうか?」
「さあ?」コリウスは肩をすくめた。「どうでしょうね。最近の親父は確かに日記を再開しようかというようなことを言っていましたけど、その記録は実際には見つからなかったので、おれにはあまり日記が役に立つとは思えませんがね。仮に」コリウスはもったいぶった口調で言った。「最近の日記が存在しとしても犯人からの指示とかで必ず事件の解決の役に立つ情報が記録されているという確信もありませんし」
「日記と言えば、私はヤツデさんとビャクブさんにも日記をお貸ししたのよ。確か、あの日記は10年前のものだったかしら? おそらくはヤツデさんとビャクブさんにもなにかしらの思惑があるのでしょうね。そう言えば」現在のオリーブは頬杖をついている。「サフィは『おじいさまは『幸せギフト』を送り忘れていた』って言っていたけど、それは万事に抜かりのないおじいさまらしくないミスね。まさかとは思うけど、それは犯人からの指示だったのかしら?」オリーブは新案を出した。ラルフはここでは口を挟まなかった。
「まさか」コリウスは言った。「お袋は考えすぎだよ。仮に、親父が誰にも『幸せギフト』を送らないでいると犯人にはどんなメリットがあるっていうんだよ。親父の『幸せギフト』はたぶんこの事件とは全く関係ないよ。少なくとも、おれにはそんな感じがする。とりあえず」コリウスは進言した。「親父の渡し忘れたっていうその『幸せギフト』はおれが明日にでも親父の代わりに誰かしらに送っておくことにするよ」多少は尖っている部分もあるが、コリウスはやはりやさしいのである。ラルフは微笑んでいる。
「ありがとう」オリーブは謝意を表した。「なんだか、おじいさまには悪いけど、おじいさまがいなくなってしまっても私には皆がいてくれるから、私はとても幸せ者ね。こういう考えは悪いものかしら?」
「そんなことはないんじゃないか。使い古された陳腐なセリフだけど、それは親父だってきっと望んでいることだよ。とまあ、話が奇麗に片づいたところでこの話し合いはお開きとしましょうか。明日はお葬式だから、お袋は精々寝坊しないよう気をつけるんだよ」コリウスは捨てゼリフを吐いてこの場を去って行った。
この場には再びオリーブとラルフの二人だけが残った。
冗談めかしてはいるが、根はやさしいので、コリウスは決して不謹慎な訳ではなくて明るく振る舞うことによって母親のオリーブのことを元気づけようとしていたのである。
オリーブはもちろんのことだが、それは義理の兄のラルフにもしっかり伝わっている。その後のラルフは少しオリーブと事件とは関係のない話をして談話室を辞した。
ラルフはその際に窓の外でほんの少し雪が降っているのを確認した。ラルフの地元は毎年の冬になると冬将軍が訪れるようなところである。ラルフは幼少期にかまくらを作ったり雪合戦したりしたし、あるいはスキーやスケートといったウィンター・スポーツもよくやったものである。
しかしながら、今のラルフは雪を見てもそういたものを連想しなかった。今のラルフは妻のカスミと二人の息子とゼンジの5人で行ったスケート場のことを思い出している。多くの感銘を与えてくれたゼンジのことを思いながら感傷的になっているので、死とは本当に悲しいものだなとラルフは思った。
銭湯とスーパー銭湯と健康ランドは順々にグレードと料金がアップする。スーパー銭湯は銭湯に毛が生えたようなものなので、沸かした湯が使われている。スーパー銭湯にはマッサージや食事処もあるが、基本的にはお風呂がメインである。一方の健康ランドは温泉である。健康ランドはお風呂だけではなく仮眠スペースやマンガ・コーナーやゲームセンターなどのレジャー施設が存在する。それこそは三つの違いである。
今はどうしてそのような話をしているのかというとカラタチの運転によってヤツデとビャクブが健康ランドにやって来たからである。カラタチの入館料はヤツデとビャクブの二人が半分ずつ出した。その理由は午前中にカラタチを一人にしてしまったということもあるが、なにより、それにはヤツデとビャクブがカラタチに無駄足を踏ませてしまったお詫びの意味も含まれている。
これはサイド・ストーリーになるが、実はヤツデが銭湯に忘れてきたかもしれないと言いカラタチに銭湯まで確認してもらったソックスはビャクブの荷物の中に紛れ込んでいたのである。
カラタチはその程度のことで怒りはしなかった。しかし、カラタチはヤツデとビャクブの思いを汲み健康ランドの料金をおごってもらうことにしたのである。そのため、今のカラタチはむしろ上機嫌である。ヤツデとビャクブとカラタチの三人は健康ランドにて薬湯やヒノキ風呂やミスト・サウナといったものを堪能することになった。ヤツデとビャクブとカラタチは極楽である。
今回はせっかくなので、お風呂に関する話をしてみることにする。リンスとコンディショナーとトリートメントの三つの効果の違いはそれぞれで変わらないが、細かいところではやはり若干の違いが存在している。まずはリンスの話である。リンスは髪の表面をコーティングし毛髪の表面を覆うキューティクルの傷みを防ぐ代物である。コンディショナーはリンスよりも髪の毛の表面を整えるのが強いという代物である。
次に、トリートメントは元気を与える成分を髪に沁み込ませ内側から髪を回復させる代物である。トリートメントは約10分間の時間を置き成分を浸透させることが必要になってくる。
余談はこのくらいにしてヤツデたちの話に戻ることにする。お風呂から上がると、ヤツデとビャクブとカラタチの三人は館内にある中華料理店にやって来た。ヤツデは自分が頼んだエビチリが来るときちんと合掌してから食事を始めた。これはヤツデのいつもの習慣である。ビャクブは明後日の方向を見ている。
「なるほど」カラタチはヤツデの様子をしっかりと見ていた。「ヤッちゃんはクリーブランド・ホテルに宿泊していた時もそうでしたが、食事する際にはちゃんと手を合わせているんですな?」カラタチは「それでは私もまねさせてもらいましょう」と言うと自分も合掌してから麻婆豆腐に手をつけた。一応は言っておくと、このテーブルには皆が食べるための手羽先と手を洗うフィンガー・ボールも置かれている。
「実はヤツデが手を合わせるのには突拍子のない曰くがついているんですよ。ヤツデは大学生の時に」ビャクブは口を滑らせそうになり慌てて口を噤んだ。カラタチは不思議そうにしている。
「おっと」ビャクブは言った。「今はあまりに楽しいから、おれは浮かれていたけど、この話はしてほしくないかもしれないな。ごめん」ビャクブはヤツデに対してしっかりと謝意を表した。
「ううん」ヤツデは真面目に言った。「別にいいよ。ぼくは大学生の時に鬱病で一年の休学をしたことがあったんです。当時は以前になにかの本で鬱病には絶食が利くって読んだことがあったので、ぼくは一週間ほど食事を抜いたことがあったんです。ぼくはそれで空腹がどれほどつらくどれほど食べ物がありがたいかということがよくわかったので、今は感謝の気持ちを忘れないようにするために食事の前には手を合わせることにしたんです」ヤツデが話を終えると、ビャクブは複雑な心境になった。
人が自尊心を持ち自分自身の価値を疑わずにいられることは強さである。それとは反対に自分自身の価値を疑ってしまい無力感に囚われ、自分は弱い人間だと決めつけてしまうことが鬱病である。
しかし、時にはそのようにして自分という存在と真正面から向き合って悩み尽くせることができるのも強さの一つである。ただし、人がこの強さを発揮するには精神面で疲労が溜まってしまうことになる。
しからば、人は悩みから解放されるためにはたっぷりとした休養が必要になるのである。
ようはだらけることも無力感という名のネックを乗り越えるための修行なのである。そのため、大学生時代のヤツデには一年間の休養が必要不可欠だったという訳である。
「鬱病とは本当につらいものらしいので、今ではそれを乗り越えることのできたヤッちゃんは立派ですな。それに、私には一週間もご飯を食べないでいるというのも考えられない話です。私の場合はきっとチャレンジしても二日以内に根を上げてしまいます。結局のところ」カラタチはちゃんと口にものが入っていない時に聞いた。「その絶食はヤッちゃんの病気の治療に役立ったのですかな?」
「単にぼくが変わっているだけかもしれませんが、ぼくの場合は特によくも悪くもなりませんでした。ビャクブとカラさんのどちらかはザーサイを食べて下さいませんか?」ヤツデはお願いした。カラタチが名乗りを上げたので、ヤツデはカラタチにより自分のザーサイを食べてもらうことにした。
ザーサイに関わらず、たくあんやキムチといったつけものは唯一ヤツデの嫌いな食べ物なのである。嫌いな食べ物はないので、ビャクブとカラタチはなんでも食べてしまうのである。
「そうだ」ビャクブは言った。「お風呂に入っている時に謎の男の話はさせてもらいましたが、カラさんにはまだゼンジさんの殺害事件についての話はしていませんでしたね? 実を言うと、おれたちは明日も用事ができて出かけないといけなくなってしまったんです。どうもすみません。まず、それにはクリーブランド・ホテルでの事件とコニャック村での事件についてもお話させてもらう必要がありそうですけど」
「そうでしたか。それは悲しいことですが、私としてはヤッちゃんとビャッくんが出かけてしまっても構いませんよ。ヤッちゃんとビャッくんにはのびのびとしていてもらいたいですからな。それにしても、コニャック村とはこんにゃくみたいな名前ですな。コンニャクは便秘の解消にも威力を発揮する低カロリーな食品だと聞いたことがあります」カラタチは自分のセリフを全力でカバーしている。「私はそんなコンニャクが好きですよ」カラタチは微笑んだ。実は今のようなとんちんかんな問答のことをコンニャク問答というのだが、それを口にするとカラタチに失礼なので、ヤツデはあえて言わないでおいた。
ビャクブはクリーブランド・ホテルでの事件とコニャック村での事件における自分たちの活躍を大まかに話した。ヤツデとビャクブは予め『そのことは話してもいい』と決めていたのである。ビャクブは最後にサフィニアの祖父であるゼンジが何者かによって殺害された一件を話し結びとした。
「いやはや」カラタチは感嘆の声を上げた。「それは驚きましたな。まさか、クリーブランド・ホテルでの事件はヤッちゃんとビャッくんが解決していたとは恐れ入りました。私はあまりにも驚きすぎて腰が抜けてしまいましたよ。しばらくは立ち上がれないかもしれません。ようはここでもまた事件に遭遇したから、ヤッちゃんとビャッくんは役に立ちたいと思われている訳ですな? それはとても立派なことです。それにしても、ヤッちゃんとビャッくんの周りでは今年に入って三件の殺人事件が起こるとは大した珍事ですな。それでも、事件はヤッちゃんとビャッくんのおかげで解決している訳ですから、事件の関係者は大いに助かっているのではないですかな?」カラタチはいつもの穏やかな口調で大様に聞いた。ヤツデは沈黙している。
「おお」ビャクブは目から鱗が落ちた。「カラタチさんはポジティブですね。おれたちはもしかして疫病神なんじゃないかと思っていたので、おれは今のカラさんのセリフで元気になれました。ゼンジさんの事件ではダイイング・メッセージが残されていたんです。三本の棒と言えば、カラさんには小文字の『i』と大文字の『I』と数字の『1』と漢数字の『三』の他にもなにか思い浮かぶことはありますか?」
「うーむ」カラタチは考え込んだ。「そうですな。三本の棒はネコやクマの爪痕かなにかですかな? いえ。別にふざけている気はないのですが、私は何分にも頭の回転が鈍いのです。そうだ。その棒は二種類の文字を組み合わせているのではありませんかな? 例えば」カラタチは中々に穿った考え方を提示して見せた。「三本の棒は大文字の『I』と数字の『11』を組み合わせて『I11』といった感じです」カラタチは言う程に頭が悪くないのである。ビャクブは意気揚々としている。それはヤツデも同じことだった。
「なるほど」ヤツデは素直である。「それは考えませんでした。カラさんの発想力は中々に柔軟で参考になります。ですが『I11』とはなんのことですかね? もしかして『I11』はロッカー番号かな? だとしたら、ぼくは明日にでもモスト駅に行って『Iの11』というロッカーがあるかどうかを調べてこようと思います。そこにはもしかするとなにか事件の手掛かりになりそうな秘密が隠されているかもしれませんからね」
「いえ」カラタチは困惑した。「ちょっと待って下さい。先程の案は私にもそこまで自信があって言った訳ではないのです。ですから、私の思いつきでヤッちゃんに無駄足を踏ませてしまうことはできません。ヤッちゃんとビャッくんはただでさえ忙しいのですから、モスト駅には私が行ってきます。私には定期券があるので、モスト駅までは無料ですし、なにより、私は暇ですからな。いえ。別にヤッちゃんとビャッくんのことを責めている訳ではありませんよ。私はヤッちゃんもビャッくんも本当にやさしい人だと思っていますからな」カラタチは高評価した。ビャクブはそれを受けるとうれしそうな顔をした。
「ありがとうございます。それじゃあ、モスト駅の件はお願いします。ですが、ぼくはやさしい人間ではありませんよ。この話はビャクブとカラさんには話してもいいかな。ぼくは実を言うと悪人なんです。昔のぼくは取り返しのつかない罪を犯したことがあるんです」ヤツデは神妙な顔をして言った。なにやら、ヤツデは真剣なので、ビャクブとカラタチも真剣に話を聞く体勢に入った。
ヤツデは自分が抱えている二つの心の闇について話し始めた。一つ目はヤツデが小学校4年生だった時の話である。当時のヤツデとビャクブの二人はクラスが違かったので、ビャクブはこのストーリーのことを知らない。ヤツデはクラス・メートのある女の子にアニメのキャラクターの名前を渾名にしていた。そのキャラは少し意地悪な女の子だったのだが、クラス・メートの女の子は性格というよりもそのキャラの見かけに似ているから、ヤツデは勝手に渾名をつけていたのである。
ある日のことである。ヤツデは何日もその渾名でクラス・メートの女の子を呼んでいたら、その女の子は泣き出してしまった。今までは我慢していたが、その女の子はやはりその渾名を嫌がっていたのである。ヤツデは今でもそれに気づかなかったことを悔いている。
二つ目の話はヤツデが中学校三年生の時の話である。学校で当時一番に強いテニス部の部員を倒したことがあったのだが、ヤツデはその時にそのエース部員の怒りを買ってしまった。
そのため、そのエース部員はその後の練習でヤツデがサーブを打つとわざとヤツデのボールを遥か遠くへとぶっ飛ばしてしまった。その日のヤツデはボールを探すだけで部活が終わってしまいせっかく父親に買ってもらったボールをなくしてしまったことを思い悲しみ泣きながら帰途に着いたのである。
もう一つの事件はその三日後に起きた。ヤツデは自分の後輩とダブルスを組み例のエース部員のチームと対戦することになった。しかしながら、ヤツデには先日の嫌がらせが頭をよぎってしまいまたいじめられると怖いから、ヤツデはその試合で手を抜きわざと負けてしまった。
ヤツデが本気を出していても勝てたかどうかはわからないが、その時は後衛のヤツデが手を抜いたことが試合に大きな影響を与えたことは間違いなかった。後輩はすると悔しくて涙を流してしまった。
後輩とはもちろんその試合で前衛を務めた男の子である。そのため、あの時は自分がいじめられてもいいから、本気を出してあのエース部員を打ち負かすべきだったとヤツデは今でも心残りに思っている。以上の二つのエピソ-ドはあくまでも自称だが、ヤツデの犯した重大な罪である。ヤツデはビャクブとカラタチにつらそうにしながら今の二つの話を終えた。ビャクブは落ち着いて話を聞いていた。
「うーむ」カラタチは唸った。「ヤッちゃんはつらい過去を経験していたのですな。ですが、テニス部の話では悪いのは例のエース部員ですから、ヤッちゃんには全く落ち度はないと思います。普通は中学生の時点で自分を犠牲にしてまで他の人を救おうとするなんて簡単にできることではありませんからな。もし、できるなら、それはもはや神様のレベルです。私はヤッちゃんの味方です。断然」カラタチは断言した。
「おれもカラさんと同意見だよ。小学校の頃の件にしてもヤツデには悪気があった訳じゃないし、ヤツデはちゃんと今でも反省しているんだから、今はもう悩まなくてもいいんじゃないかい? 人は失敗から物事を学んで成長するものだよ。それで?」ビャクブは聞いた。「ヤツデは引退する際にはエース部員に最後の試合で勝ったのかい? 部活はもう引退するんだから、ヤツデはもういじめにあうこともなくなるはずだろう?」
「理屈を言えば、確かにそうなるけど、直接対決はしなかったよ。ただ、そのエース部員は最後の大会の個人戦で二回戦止まりだったけど、ぼくは三回戦まで進んでチームの勝ち頭になれたんだよ。それなのに」ヤツデは自虐的に言った。「ぼくは団体戦に入れる4人の中には入れなかったけどね」
「一番に強い選手が団体戦に出ないなんておかしな話だな。だけど、おれにはこれでわかったことが一つあるよ。ヤツデはなんで犯罪者に対してもやさしいのか、それは自分自身が罪を背負って生きてきたから、ヤツデには人間の心の弱さを十分に知っていた訳だったんだな? 人はどんなに正しく生きようと思っていてもいつ自分が過ちを起こすことになるのかはわからないっていうことだな。自分で言っておいてなんですが、話が段々と重くなってきましたね。それにしても」ビャクブは急に砕けた表情になった。「これはおいしい担々麺だな」ビャクブはカラタチに対して気を使ったのである。
「ビャッくんは偉いですな。『おいしい』と言えるということはご飯をありがたく思っている訳ですからな」カラタチは穏やかに言った。「話は変わりますが、明日はクリスマスですな。私からはそこで提案なのですが、もし、よろしければ、明日は『愉快なクリスマス』のパーティーに出席しませんか? パーティーは夜ですから、おそらくはヤッちゃんとビャッくんのお仕事の妨げにもならないですからな」
『愉快なクリスマス』とは基本的にクリスマス・パーティーのことである。『愉快なクリスマス』では素人の出し物が開かれるが、時にはお笑い芸人のコントやプロの手品なども見られる。そのパーティーは出入りが自由で人と一緒にいたい人へのトイワホー国の独特の社交の場である。
「それはいいですね」ビャクブは楽しげである。「大賛成です。実のところ『愉快なクリスマス』のパーティーには子供の頃に二回だけ行ったきりなので、おれは明日が楽しみになってきました」
「そうですか。それは私にとってもうれしい限りです。実はもう一つ楽しみなことはあるのですよ。私はヤッちゃんとビャッくんへのクリスマス・プレゼントを用意しているのです。とはいうものの、それは大したものではありませんが」カラタチはもったいぶった口調で言った。ビャクブは話の続きを待った。
「おや?」カラタチはヤツデの方を見た。「ヤッちゃんは大丈夫ですか?」カラタチはおどおどと不安そうにしている。なぜなら、ヤツデはつらそうにしてテーブルで突っ伏しているからである。
「事態としてはまずいことになりました。ぼくはどうやら熱が出たみたいです」ヤツデは見るからに気分が悪そうである。先程のヤツデはつらそうにして話をしていたが、あれは話の内容がつらいだけだった訳ではなく体調もすぐれなかったからでもあったのである。食事を終えると、ヤツデとビャクブとカラタチの三人は早急に健康ランドを撤退することにした。ヤツデは「自分は仮眠室で寝ているから、ビャクブとカラタチはゆっくりしていてもいい」と言ったのだが、ビャクブとカラタチには特に必ずやらなければいけないことはなかったので、結局はヤツデと一緒に帰宅することを選んだ。
ビャクブはカラタチの車に乗り込みながらも不安にかられていた。明日はもしかして自分が一人で未来館に行って捜査しないといけないのだろうかとビャクブは思っていたのである。クリーブランド・ホテルとコニャック村でヤツデの捜査の仕方を見てきたとはいえ、ビャクブにはうまい聞き込みをする自信はない。ビャクブは未来館での捜査をどうするつもりなのかとヤツデに対して聞いた。ヤツデはすると「自分は行けないから、ビャクブは一人で行ってくれるか、あるいはビャクブもお休みするのかのどっちかになるだろう」と言った。もし、ビャクブが捜査に行くのなら、カラタチはヤツデの面倒をしっかりと見ることを約束してくれた。ビャクブはついに決断を下した。ヤツデとカラタチが一生懸命にがんばっているのだから、ビャクブは自分もがんばって聞き込みをしようと考えたのである。なにより、自分がここでがんばれば、ヤツデは必ずゼンジの事件を解決してくれるとビャクブは信じているのである。
壮年のフレークには社長としての貫禄がある。フレークにはただ単に貫禄があるだけではなく父のゼンジから引き継いだドリーム社の経営もしっかりと運営している。
しかし、フレークは仕事だけを生き甲斐にして生きている訳ではない。大学生の頃にはクルーザーで航海するクルージング部に所属していたし、フレークは今でも様々な国のコインの収集家としてしっかりと趣味を楽しんでいる。そのフレークは未来館に帰って来た。
リビングに入ると、フレークはヘンルーダのことを見て意外そうにした。とはいえ、フレークはヘンルーダを嫌がっている訳ではないので、そこは要注意である。
「おや?」フレークは言った。「ヘンルーダくんはまだいたのかい?」
「いやいや」フレークは取り成した。「ヘンルーダくんがいたらいけない訳ではないけど、時刻はもう8時を過ぎているから、時間帯としてはもう帰宅してもいい頃だよ」フレークはそう言いながらスーツを脱ぎリビングのソファに腰かけた。フレークは完全にリラックス・モードである。
「はい」ヘンルーダは恭しく首肯した。「それは承知しております。ですが、僭越ながら、わたくしめでもフレークさまがお帰りになられるまで未来館にいれば、少しは皆さまも心強いかと思いましたので、本日は長居させて頂きまいました」ヘンルーダは「申し訳ありません」と言うと丁寧にぺこりと頭を垂れた。
「いや」フレークは言った。「謝ることはないよ。ヘンルーダくんの言うとおり、確かに殺人犯がこのあたりをうろついているという可能性はなきにしもあらずだからね。ヘンルーダくんの選択は間違っていないよ。カスミなんかは特に気が弱いから、ぼくは助かったよ。どうもありがとう。ヘンルーダくんは父のことを恩人だと思ってくれているから、本当はヘンルーダくんもつらい思いをしていただろうけどね」
「とにかく」フレークは言葉を紡いだ。「明日もよろしく頼むよ」
フレークはゼンジのお葬式のことを言っている。世間ではクリスマス・イブだが、未来館に住む人たちにとってみると、今日は通夜でもある。執事のヘンルーダは全く疲れを見せていない。
「それは十二分に承知しております。明日はゼンジ様のためにも万事で遺漏のないようにしたいと思っております。フレーク様はわたくしを気づかって下さいましたが、今回の件は突然の事態でフレーク様にも本当にショックな出来事だったと思っております」ヘンルーダは丁寧に言った。「ご心中お察し致します」
「ありがとう」フレークはお礼を言った。「今回の件は確かにぼくとしても冗談抜きでかなりの精神的なダメージを受けたよ。事件は殺人だっていうのだからね。このトイワホー国でそんなことに直面するとは思いもしていなかったよ。人生には何があるか、わからないものだね。ヘンルーダくんにも警察から事情聴取を受けさせたり、ヘンルーダくんには余計な気を使わせてしまったりしてすまないね」フレークはとても寛大である。「普通は厄介事に巻き込まれるなんて歓迎しないだろうからね」
「確かに」ヘンルーダは真剣な面差しでありのままの意見を口にした。「そのご意見にはわたくしも賛同致しますが、わたくしはゼンジさまの事件を厄介事だとは思っておりませんので、どうか、そこのところはご安心なさって下さい。わたくしには幸いにもアリバイがありますので、その点でも気づまりな思いはしなくてすんでおります。わたくしはそもそも未来館にお住みの方々が犯人だとは露ほども思っておりません」
「うん」フレークはやさしく言った。「ヘンルーダくんはさすがにうれしいことを言ってくれるね。ぼくは今のヘンルーダくんの言葉で改めて励まされたよ。ありがとう。それじゃあ、ぼくも帰ってきたことだし、今日はヘンルーダくんも仕事を終わりにしてくれていいよ。ヘンルーダくんは気をつけて帰ってね」
ヘンルーダは慇懃にお辞儀をしてから帰宅の準備をするためにこの場を離れた。この場には話し相手がいなくなったので、フレークはすっと立ち上がった。フレークは未来館の別館に向かった。
未来館の本館と別館は渡り廊下で繋がっている。別館には妻のアオナがいるので、フレークはそのアオナに対して帰宅した旨を伝えた。その後のフレークは自分の部屋に行き背広から普段着に着替えた。
フレークにはやらなければならないことがあったので、それを終わると、フレークは自室をあとにしゼンジの書斎だった部屋へと向かっていった。書斎に入ると、フレークはすぐ壁に埋め込まれた金庫の方へと足を向けた。フレークは予め覚えておいた番号を金庫に合わせた。ゼンジの金庫はその結果としてすぐに開いた。
フレークは金庫の中に入っていたものを取り出しニヤリとした。
金庫の中を空にすると、フレークはその金庫の扉を元のとおりに閉めた。フレークは少しばかりあたりを見渡すと近くにあったアタッシュ・ケースを手に取り金庫から取り出したものをその中に入れた。ここでの用事はすんだので、フレークはこの部屋をあとにした。すると、こちらにはちょうどカスミがやって来た。フレークから見ると、カスミは実の妹である。フレークは妹のカスミに対して愛想笑いを浮かべた。
「おかえりなさい」カスミは言った。「アオナさんから聞いたんだけど、お兄さまはさっきお仕事から帰って来たんだってね。おじいさまが亡くなったっていうのに、お兄さまはしっかりとお仕事をこなすことができるなんてさすがね」カスミは賛美した。兄のフレークは肩をすくめている。
「ところで」カスミは言った。「お兄さまはおじいさまの書斎で何をしていたの? 今」
「まあ」フレークに動揺は見られない。「大した用事ではないよ。野暮用っていうやつだね。おれはちょっとばかり仕事で必要なものを拝借してきたんだ。カスミもおじいさまの書斎になにか用事があるのかい?」フレークは聞き返した。フレークは世間話のように軽々しく聞いている。
「いいえ」カスミはきっぱりと言った。「あたしは通りかかっただけよ。仕事の方は会長が亡くなってどうなの?」カスミはちゃんと心配して問うた。「ドリーム社は混乱しているの?」
「いや」フレークは否定した。「ほとんど混乱はしていないよ。ぼくもお悔やみの言葉は皆から貰ったけど、おじいさまは名目だけが会社に所属していたようなものだから、おれの仕事がおじいさま件で大量に増えるっていうようなことはないよ。ただし、それはあくまでも大量に増えることはないって話だから、ぼくは仕事で家を空けなくちゃいけないこともあるけどね。時に、ラルフくんはどうなのかな?」フレークは中々に思いやりのある気遣いを見せた。「ラルフくんはちゃんと忌引きでお休みは取れるのかな?」
「ええ」カスミは頷いた。「ラルフはちゃんと仕事にも切りがついたから、しばらくは休めるし、仕事に行き始めてもなるべくは早く帰宅をするって言っていた。未来館の人たちとしては殺人犯が捕まるまでは怖いものね」カスミは切実に言った。「あたしとしてもたくさんの人が家にいてくれた方が心強いし」
「そうだね」フレークは同意した。「実を言うと、おれはさっきもヘンルーダくんとそういう話をしていたんだよ。それに、ラルフくんは愛妻家だから、ラルフくんに任せておけば、カスミは大丈夫な気がするよ。それとも」フレークはおどけた素振りを見せながら言った。「カスミはそれ程にひ弱じゃないのかな?」態度はおちゃらけているが、フレークはきちんと妹の心配をしている。カスミは「いいえ」と応じた。
「あたしはけっこう華奢よ。あたしはお嬢さま育ちですもの」カスミは「そういう点ではサフィにも気を使ってあげなくちゃね」と言うと話を切り上げフレークの元を離れて行った。
今までは立ち止まっていたフレークも自分の部屋に向けて歩き出した。やがては自室に入ると、フレークはゼンジの書斎から持ってきたものを自分の金庫に入れた。
フレークの耳にはその作業が終わった際に部屋のドアを誰かがノックする音が聞こえてきた。フレークがそれに応じると、この部屋にはサフィニアが姿を現すことになった。
「お父さまにはどうしても話しておかないといけないことがあってきたの。連絡はもう行っているのかしら?」サフィニアは静かに話を切り出した。「ロデアさんは誠実な人だから、連絡はもう行っているかもね。だとしたら、お父さまは今さらとぼけないでよ」サフィニアにはものすごくドライな感じがある。
「ああ」フレークは恐縮してしまっている。「わかったよ。事態がここまで来たら、ぼくには降参するしか術はないだろう。ぼくは確かにロデアさんから尾行が失敗したという連絡を受けたよ。つまり、ぼくはサフィに尾行をつけたんだ。それは悪かったと思っているよ。ごめん」サフィニアの実の父親とはいえ、フレークはバツが悪そうである。しかしながら、フレークの内心は微塵も動揺していない。
「私は怒っている訳じゃないの。だから、私は別にいいんだけど、お父さまはどうしてそんなことをしようと思ったの?」サフィニアは問い正した。「お父さまはもしかして私が裏で悪いことをしようとしているとでも思っていたの?」サフィニアの口調は相も変わらずドライなままである。
「いやいや」フレークは否定した。そんなことは全く思っていなかったよ。ぼくはその点ではサフィのことを信頼しているからね。サフィには納得してもらえるかどうか、わからないけど、理由はごく簡単だよ。今はいつも一緒に働いている女の子の社員が心の病で休職していてね。ぼくはサフィもそんなことになってしまったら、大変だと思ってロデアさんにサフィが元気にしているかどうかの調査を依頼したんだよ。ぼくには決して悪意があった訳じゃないよ。全くいらぬ心配だったかもしれないけど、ぼくはつい不安になっちゃったんだよ」フレークは笑顔を見せた。サフィニアはすると態度を和らげた。
「ところで」フレークは言った。「サフィはどうやって尾行者を捕まえたんだい?」フレークは聞いた。そのため、サフィニアは父のフレークに事実をありのままに打ち明けた。
サフィニアは何度か自分の友達が尾行者に気がついたことやヤツデとビャクブという新しい友達が活躍したことを話した。フレークは黙ってサフィニアの話を聞いていた。
「なるほど」フレークは話を最後まで聞くと言った。「尾行する人を尾行するなんて諧謔的じゃないか。ヤツデくんにはユーモアがあっていいね。ヤツデくんの好感度は純粋に上がったよ。それにしても、ぼくは一本取られたよ。とはいえ」フレークは真剣な顔になった。「ぼくはそんなことで手を煩わせてしまったのだから、ヤツデくんとは会う機会があれば、その際は謝っておこうか。そのヤツデくんとビャクブくんは明日もこの未来館に来てくれるのかな?」フレークはそのことを願っているような口振りである。サフィニアは「ええ」と応じた。フレークは明らかにうれしそうな顔になった。
「たぶん」サフィニアは無表情である。「そうなると思う。ヤツデくんとビャクブくんの二人はきっとおじいさまの事件に光明を差してくれるって私は信じているからね。それにしても」今度のサフィニアはドライな口調ではなく真面目な感じで問いかけた。「うちの家族には電車に関連する事件が三つもあるなんてなんだか思わせぶりよね?」サフィニアは同意を求めている。だが、フレークは「ん?」と怪訝そうにした。
「電車の関連する事件は三つではなくて二つじゃないのかい?」フレークは聞いかけた。「電車の関連する事件はおじいさまとおばあさまの出会いと今回の殺人事件とで二つじゃないか。事件はその他にもまだなにかあったかな? うーん。ぼくには思い出せないな。残りの一つはなんだったかな?」フレークはとぼけている訳ではない。サフィニアは納得の表情で「へえ」と言った。
「あの件はお父さまも知らないことなんだ。それなら、あの件はおじいさまとおばあさまとラルフ叔父さまだけが知っているのかな? ああ。お父さまは不思議そうな顔してるね。でも、このことは知っておかないといけない程に重要な話じゃないのよ。それと、おばあさまからは口止めされてるから、お父さまには私も話をすることはできないの。ごめんね。でも、秘密を持っていたのは一緒だから、私もお父さまもこれでおあいこでしょう? まさか、私はお父さまが私を尾行させていたなんて思いもしなかったものね。それに」サフィニアは真剣な顔をして言った。「もし、私の知っている秘密がおじいさまの事件と関連しているのだとしたら、ヤツデくんとビャクブくんはその繋がりを教えてくれることになるかもしれないしね。それにしても、お母さまとお父さまは強いよね? お父さまはおじいさまが亡くなってもちゃんとお仕事に行けているし、追悼の曲とはいえ、お母さまは事件のあった日に鼻歌を歌っていたものね。私はお父さまとお母さまが薄情だっていう皮肉を言っている訳じゃないのよ。もちろん」サフィニアはきちんと分を弁えている。
「ぼくもサフィがそんなことを言う子だとは思っていないよ。社員の生活がかかっているから、ぼくはちゃんと仕事をしなくちゃいけないと思うんだけどね。そうでなければ、ぼくもおじいさまの死で沈み込んでいたかもしれない。お母さまの場合はただ単に鼻歌を歌って大好きな音楽でおじいさまとの思い出を思い出して感傷に慕っていただけなのかもしれないしね。そもそも」フレークは真面目な顔をしたまま急に物騒な話題を持ち出した。「お母さまにはアリバイもあるのだから」フレークはしみじみとしている。
「って」サフィニアは驚いている。「真面目な顔でそんなこと言わないでよ。お父さまはそんなつもりで言ったんじゃないだろうけど、お母さまにアリバイがなかったら、私にはまるでお母さまも容疑者にされていたみたいに聞こえるじゃない。まあ、でも、警察の人はアリバイのないコリウス叔父さまやおばあさまのことを疑ってかかっているかもしれないけどね。ああ。本人の前で言うのもなんだけど、警察の人にはお父さまだってマークされているかもしれないよね。とはいっても、私は疑っている訳ではないよ。これはあくまでも警察の人がどう考えているかっていうお話よ。なんにしても、私はお父さまとお母さまみたいにもっとしっかりしなくちゃね」サフィニアは意気込みの言葉を述べた。フレークは余裕の態度である。
「サフィはもう充分にしっかりしているように思えるけど、向上心はあるに越したことはないね」フレークは真面目な顔で言った。用事はすんだので、サフィニアはやがてフレークの部屋を辞した。
一人になると、フレークは本を読もうとした。ところが、フレークはしばしその前に沈思黙考をした。未来館の名義人はゼンジが亡くなったことにより妻であるオリーブのものとなった。
しかし、ゼンジの次男のフレークも大いに頼りにされている存在なので、先程のサフィニアのセリフではないが、フレークは自分も今まで以上にしっかりしないといけないなと思ったのである。
フレークはようやく読書に没頭することにした。この日のフレークは妻のアオナの作ってくれた夜食を食べに行くまで読書することで時間を過ごすことにした。
翌日である。サフィニアの家族は早朝からゼンジのお葬式場に向かうことになった。サフィニアの家族とはここでは未来館に住む全員という意味である。距離はそんなにはないが、お葬式場までは二台の車を使って行くことになった。その際はフレークとコリウスが運転手を務めることになった。一度は話に出ているが、ほぼゼンジのお葬式は家族葬みたいなものなので、葬式にはドリーム社の弁護士とゼンジのかかりつけの医師と探偵のロデアと執事のヘンルーダといった面々がゼンジの親族の7人以外では列席することになっている。
サフィニアの家族は式の始まる30分前に式場に到着したので、現在はその全員が控室で待機している状態である。列席者は当然のことながら皆が黒衣を身にまとっているが、雰囲気はそれ程に暗くはない。
「今度の機会にはアオナさんのお母さまとお父さまにお礼を言わなくちゃね」オリーブはやさしい微笑みを見せた。「私はあんなにも綺麗な花束を貰ってしまって本当にうれしいわ」
オリーブはここに来る際にちらっと見たのだが、ゼンジの遺影の横にはアオナの両親からの花束が進呈されていたのである。アオナは御曹司のフレークと結婚したのだから、言ってみれば、アオナの結婚は玉の輿である。アオナの両親はそのことを揶揄することなく素直に喜んでくれたのである。
「はい」アオナは言った。「父と母もお義母さまにそう言って頂けると贈呈した甲斐があったと思います。ですが、父と母は今日のこの式に出席しないことを申し訳ないと言っていました」
「私としては式に参列したかったというそのお気持ちだけで十分よ。私はそのこともアオナさんのご両親には言っておかなくちゃね」オリーブは言った。「おじいさまは死後でさえも色んな方々に気を使ってもらえて本当に幸せ者ね。そのことは私もうれしいと思うわ。おじいさまにはアオナさんもよくしてくれたものね」
「そうだといいのですが」アオナの態度はしおらしい。「私には至らないところだらけでお義父さまには迷惑をかけることもあったのではないかと今になって反省をしています」
「いいえ」オリーブはやさしい微笑みを浮かべている。「そんなことはないわよ。アオナさんは謙虚だから、そう言ってくれるけど、父の日にはプレゼントをくれていたし、おじいさまとはいつも話し相手にもなってくれていたから、アオナさんは十分におじいさまによくしてくれていたと思うわよ。おじいさまは『フレークはいいお嫁さんと巡り会えたものだ』ってこともよく言っていたしね」
「そうでしたか?」アオナは恐縮している。「私はそれを聞いてほっとしました。警察の方によると、凶行は正面から行われているそうですよね? つまり、お義父さまは犯人の顔を見ている可能性が高いという訳です。お義父さまはその人物を見てどんなことを思われたのかを考えると私は悲しい気持ちになります。ですが、犯人はお義父さまの知っている人だとすれば、ダイイング・メッセージはやはり犯人を示しているんですよね?」アオナは真剣な顔をして聞いた。「それなら、お義父さまはどうしてあのような不可解なものを残されたのでしょうか? お義母さまにはなにかお考えはありますか?」今のアオナはオリーブと粛々と話をしている。
「そうねえ」オリーブは考え込んだ。頭の切れは年老いても衰えてはいなかったから、おじいさまの場合はそればっかりに難しいものを残してしまったのでしょうが、そうだとしても、誰かしらは必ずおじいさまもメッセージの意味を解き明かしてくれると信じていたのだと思うわ。生き残った妻の私はむしろそれを理解してあげなくちゃいけないのかもしれないけど、今のところ、私にはこれといったものには思い至らないのよ」オリーブはなにやらすっかりと落胆してしまっている。「私はダメな未亡人ね」
「いいえ」アオナは否定した。「そんなことはないと思います。お義父さまのメッセージはお義母さまだけではなく警察の方に向けても発信されたものかもしれません。そう言えば、あなたはわからないの? あなたは事実上の長男なのだし、頭はお義父さまと同じくらい切れるでしょう?」アオナはオリーブの反対隣りに座っていた夫のフレークに話を振った。その時はすぐ近くにいたので、アオナとオリーブの話はフレークも聞くともなしに聞いていたのである。そのため、フレークはすぐに反応することができた。
「おいおい」フレークは言った。「アオナはあんまりおれのことを買い被らないでくれよ。仕事で社長をやらせてもらっている以上はそれなりの自信を持ってはいるけど、おれは推理するのが苦手なんだ。そのことはおれも色々と考えてはみたけど、よくわからなかったよ。しいて言うなら、おじいさまのメッセージは犯人のことを指しているんだから、犯人は三人もいたんじゃないかって推理をしたよ。とはいえ、凶行は一人いれば、十分な気もするけどね」フレークはお手上げのポーズをしながらも答えて見せた。フレークは絶対の自信を持ってはいないのである。それでも、オリーブは内心では十二分に感心している。
「うーん」アオナは沈思黙考してから言った。「それは当たっているかもしれない。一人は犯行をして二人が見張りをしていたんじゃないかしら? でも、そんなことをするくらいなら、犯行現場は初めからもっと人気のないところにすればいいような気もするけどね。あなたはせっかく考えてくれたのに、なんだけど、あなたの推理は微妙ね」アオナはあっさりと切り捨てた。フレークは肩を竦めた。「犯人は三人説」はやはりフレークにも自信があって唱えた訳ではなかったのである。フレークとアオナとオリーブは詰んでいる。サフィニアは話に加わって来た。サフィニアは机を挟んでフレークの正面の席に座っている。
「私達が一生懸命に考えても答えが出てこないのなら、その時は無理に考えなくてもいいんじゃない?」サフィニアは明るく言った。「警察の人はまだ言っていないけど、実はメッセージの謎を解いているのかもしれないし、今回の事件には私達の味方として推理力が抜群のヤツデくんだってついているのだもの」
父親のフレークと母親のアオナは賛同した。サフィニアの両親にはどんな時でも前を向いて生きて行こうというサフィニアの想いがしっかり届いたのである。
ゼンジの親族はやがて焼香をすませることになった。次は火葬である。近年では葬儀のあとに火葬か、もしくは土葬にすることが天地で行われているが、かつては場所によってそれ以外の弔い方が行われていた。
ここでは例を三つあげると、遺体を樹木や山頂にさらし風化させる風葬や遺体を川に流す水葬や遺体を樹木の上に安置し鳥に啄ばませる鳥葬といったものである。
ゼンジの親族は火葬が終わるまでの間にまたもや待合室で待機することになった。今度は式場ではなく火葬場の室内である。次のものは姉のカスミと弟のコリウスの会話である。
「まあ、とりあえず、火葬が終われば、今日の仕事は一段落だな。とはいっても」コリウスは沈み込んでいる。「この弔いは殺人によるものでなくせめて老衰だったら、どれだけよかったことか」
「それはどちらも本当ね。お葬式はもうすぐで終わりだし、殺人はもうまっぴらごめんだもの。まあ、今回はお兄さまとコリーがお葬式の手配をしてくれたから、今日はこんなにスムーズに事が運んだのよね。その点は感謝しないといけない」カスミは真心を込めて弟に対して謝意を表した。「ありがとう」
「おれは当然のことをしたまでだよ。それはともかく親父が荼毘にふされる前に涙を流したのはお袋と姉さんだけだったな」コリウスはそう言うと少し離れたところにいるアオナとサフィニアの親子を見た。
「お義姉さんとサフィはあたしとは違うのよ。お義姉さんとサフィは芯がしっかりと通っているからね。本当は犯人が捕まるまでは悲しんでばかりじゃいられないでしょう? それよりも」カスミは呆れたような口調である。「コリーは火葬の前に靴ひもを結び直していたけど、コリーって本当にマイ・ペースよね?」
「いや」コリウスは言った。「姉さんはやさしいから、マイ・ペースって言ってくれるけど、実態は自己中心的なだけだよ」コリウスの雰囲気は相も変わらずに暗いままである。「おれは本当にろくでなしだからな」
すると、カスミはお姉さんとして弟のコリウスのことをカバーしてくれた。ごくわずかとはいえ、トイワー国でも殺人事件は起きるが、本来はカスミのようにやさしい人ばかりなのがトイワホー国という国なのである。
お葬式と火葬の両方がすむと、ゼンジのお葬式の出席者は自動車で帰宅するため駐車場に向かうことになった。今度は夫のラルフと妻のカスミの会話である。
「お義父さんのお葬式はいいお葬式だったね。いや。お葬式にいい悪いがあるのかどうかは疑問だけどね。ぼくはちょっと不謹慎だったかもしれない」ラルフはカスミと一緒に歩きながら謝った。「ごめん」
「ううん」カスミは応じた。「私は皆に見送られてお父さまもきっと喜んでいると思う。あとは事件の犯人を見つけるだけね。私の力ではどうしようもないから、私はせめて警察の方とヤツデくんに協力しなくちゃね」
「へえ」ラルフは意外そうにした。「カスミはヤツデくんにも期待しているんだね。サフィちゃんはあれだけヤツデくんのことを高評価しているんだ。カスミだってそういう気にもなるか。ぼくも早くヤツデくんに会ってみたくなったよ。場合によっては今日にでも会えるかもしれないね。さあ。カスミは早く車に」ラルフは言葉を切った。「あれ?」ラルフは不思議そうにしている。「どうしたんだい?」
ラルフとカスミは歩きながら会話をしていたにも関わらず、カスミはいつの間にか立ち止って前に進まなくなってしまっていたのである。しかしながら、我に返ると、カスミはラルフのところへ小走りでやって来た。カスミはややつらそうにしているので、ラルフは心配そうにしている。
「カスミはもしかしてぼくのせいで機嫌を損ねた? だとしたら、ごめん。ああ。わかった。カスミはおならしていたんでしょう?」ラルフは真面目な顔で言った。これはラルフの得意なジョークである。
「バカね」カスミは小声で言った。「違うに決まっているでしょう。立ち止っていたのには大した意味はないから、それは秘密よ。それよりも」カスミは普段の口調で返答した。「あたしはもうヤツデくんとビャクブくんに会ったのよ」今のカスミの不自然さはなんとなく気にはなったが、おそらくは重大なことではなく本当にどうでもいいような話だから、カスミは何もしゃべらなかったのだろうとラルフは自分なりに解釈をすることにした。ラルフはそれ程に妻のカスミのことを信頼しているのである。その後はフレークと執事のヘンルーダの二人が一台ずつ車を運転しお葬式に出席した人たちはそれぞれの家や仕事場へ帰って行った。今まで話に出て来てはいなかったが、お葬式の最中のオリーブはずっと目を赤くしていた。
オリーブにとっては長年に渡り連れ添った夫の死はそれ程のショックだったのである。人はどうして生まれてきたのにも関わらず、死亡するのかについてはまだ哲学的に答えを導き出した者はいない。だが、人は誰かしらが亡くなり誰からも悲しまれないということはないということだけは確実に言えることである。言わずもがなかもしれないが、それはトイワホー国では特に顕著に表れる国である。
ゼンジのお葬式の行われていた頃の話である。ビャクブは珍しく早起きをしてドラッグ・ストアで買った医薬品をヤツデに白湯で飲ませた。とりあえず、今日一日は様子を見て明日も熱が下がらないようなら、ヤツデのことは医者に診てもらうということでビャクブとカラタチも同意した。医者は怖いので、ヤツデはビャクブとカラタチの二人の同意を得られてうれしい気持ちになった。
それに、喉は少し痛くても咳は出ないし、熱は37度台中盤なので、ヤツデには一日ほど休めば、風邪は治るような気がしている。ヤツデを寂しくないようにするため、カラタチはヤツデを自分の家で休ませることにした。カラタチは生まれてから一度も風邪をひいたことがないが、カラタチの自宅ではなぜか氷枕や氷嚢がヤツデのことを待っていた。ヤツデは風邪を移すと悪いと思ったが、カラタチは全く気にしていない。
そうすると、今度はビャクブの問題である。ビャクブはヤツデへの風邪薬を買ったあとコイン・ランドリーに行きカラタチへのクリスマス・プレゼントを買い元気一杯である。ところが、警察でもないのにも関わらず、ビャクブは殺人事件の捜査をおいそれと引き受けてしまったので、現在は少しばかり緊張気味である。
ただし、普段は寝つきが悪いのにも関わらず、昨日はすぐに寝られたので、ビャクブは「幸先はいい」と考えている。ビャクブにはすぐに眠れた次の日には必ずいいことやうまく行くことが待っているというジンクスがあるのである。ヘンルーダはビャクブのことをリムジンで迎えに来た。
「驚きましたよ」ビャクブはリムジンを見て言った。「まさか、おれはこんなビップな対応をして頂けるなんて思ってもいませんでしたから」ビャクブはおどおどして車に乗り込みながらも感嘆の声を上げた。
ヘンルーダはビャクブが席に着くと車を走らせた。当然と言えば、当然かもしれないが、ビャクブにとってはリムジンに乗るという経験は生まれて初めてなのである。
「わたくしはもう発車させてしまいましたが、ヤツデ様は風邪をひかれてしまわれたのですか?」ヘンルーダは聞いた。ヘンルーダの運転の技術は卓越したものである。ビャクブは「はい」と応じた。
「ヘンルーダさんはよくわかりましたね。雪は好きなんですけど、ヤツデは何分にも風邪をひきやすいから、冬は毎年のように風邪に翻弄されているんです。ヘンルーダさんはヤツデもいると思われたのですよね? だから、ヘンルーダさんはこの車で来て下さったのにも関わらず、どうもすみません。というか」ビャクブは遜った。「ヘンルーダさんとしてはおれが一人だけだと心もとないですか?」
「いいえ」ヘンルーダは打ち消した。「そんなことはございませんから、どうか、そのことはお気になさらないで下さい。それに、サフィニアお嬢さまからの情報ではビャクブさまも殺人事件には一役を買ったことがおありだそうですね? ですから、わたくしはビャクブ様のことも信頼をしております。しかし、それは重りになってしまいますか? だとしたら」ヘンルーダはビャクブに負けじと遜っている。「申し訳ありません」
「いや」ビャクブは言った。「問題ないです。おれはむしろうれしいです。おれはヘンルーダさんのおかげで自信がつきました。それよりも、ヘンルーダさんはゼンジさんのお葬式のあとにおれを迎えにきて下さったんですよね?」ビャクブは一応の確認をした。「ヘンルーダさんはお疲れのところをどうもありがとうございます」ビャクブは労を労ってからお礼を述べた。ビャクブには些細な気遣いもできるのである。
「いえ」ヘンルーダは恐縮した。「とんでもないです。ビャクブ様は心配して下さってこちらこそありがとうございます。それにしましても、ゼンジ様は皆さまに好かれるとてもやさしいお方でした。ですが、わたくしとしては残されたフレーク様とカスミ様とコリウス様なら、おそらくは兄弟の絆でこの壁を乗り越えることができるのではないかと思います」ヘンルーダは自動車を運転中ながらもやさしい顔つきをしながらしみじみとした口調で言った。ヘンーダは昔を懐かしむような顔をしているが、ビャクブはそれには気づいていない。
「なんだか」ビャクブは言った。「ヘンルーダさんのセリフは意味深ですね。それはただのおれの考えすぎですか?」ビャクブは問うた。ただし、ビャクブとしてはなんらかの根拠があって聞いている訳ではない。
「いえ」ヘンルーダは言った。「ビャクブ様は鋭いお方ですね。フレーク様とカスミ様とコリウス様の三兄弟は団結されて『絆ファミリー』の対象になったことがあるのです」ヘンルーダはさらりとすごいことを述べた。
「そうだったんですか」ビャクブは相槌を打った。「そのお話はぜひお聞かせ願いたいですね」ビャクブは弱腰である。「ダメですか?」弱腰の理由はいつものとおりヤツデが傍にいないからである。
「いえ」ヘンルーダは寛容である。「このお話はフレーク様たちの武勇伝ですから、わたくしとしてはこちらから願ってお聞きして頂きたいくらいです。ただし、当時はまだわたくしがゼンジ様にお仕えしていなかったので、このお話はかつて未来館で働かれていた家政婦さんからの又聞きになります。どうか、それはご了承下さい」ヘンルーダは「それではお話を始めさせて頂きます」と言うと前の車のブレーキ・ランプを見て安全のために自分も車を減速させた。車には尾灯というものもあるが、テール・ランプとは濃い霧や吹雪といった悪天候の時や夜間に他の運転手から自分の車両の視認性をよくするものである。
『絆ファミリー』とは家族との感動的で温かみのあるエピソードを投稿し許可があれば、その話は匿名でラジオや新聞などの媒体で公開されるものである。そのエピソードは家族が悲しんだり迷惑を被ったりするので、ある意味ではこれから犯罪をしようとしている者にとっては犯罪の抑止力になる訳である。
前置きが少し長くなってしまったが、以下はしばらくビャクブに対してヘンルーダが車の中で話した『絆ファミリー』のノン・フィクションのストーリーの内容である。
これは43年前の話である。つまり、当時のフレークは中学三年生だった。カスミは中学一年生だった。コリウスはというと小学校6年生の時の話である。
ここではそれぞれこの三兄弟はどのような人物だったかを紹介しておくことにする。次男のフレークはバイオリンをこよなく愛していた。一時期のフレークは音楽の魅力に取りつかれていたのである。今でも簡単な曲なら、バイオリンは弾けるが、現在のフレークはバイオリンについて言うとほぼ素人同然である。つまり、フレークは人生の途中でバイオリンを弾かなくなってしまったのである。
長女のカスミはアイロンかけを手伝ったりショッピングで荷物持ちをしたりするとても真面目な少女だった。ショッピングは母のオリーブとだけではなく父のゼンジと一緒に行くこともあった。
三男のコリウスは発明家を夢見る純情な少年だった。コリウスはなんらかの発明により一獲千金を夢見ていた。しかしながら、当時のコリウスは実験として手始めに飛行機の模型のキットを買ってもらってやってみたのだが、コリウスの性格は何分にも飽きっぽいので、結局は発明家の夢と共に模型の完成もあっさりと諦めてしまった。それは今でも変わりのない事実である。
ある日のことである。その日には一つのトラブルが発生した。コリウスは自分の提案で家政婦と一緒にお風呂掃除をしたのだが、これは失敗だった。なぜなら、父のゼンジは会社から帰ってきてすぐにお風呂に入ろうと思っていたからである。ゼンジはお風呂に入ってすぐに寝ることを予定していた。
しかし、このことは大事にはならなかった。父親のゼンジは息子のコリウスのことを怒らなかったし、なによりも、母親のオリーブには息子のコリウスが積極的に家事を手伝ってくれようとしてくれたことがうれしかったのである。ゼンジの性格は寛大なので、結局のところ、ゼンジは湯船にお湯が溜まるまでは仮眠をして待ってくれていた。落ち度は家政婦にもあったので、家政婦は謝罪の言葉を述べたが、コリウスはこの頃からすでに素直な子だったので「ごめんなさい」という言葉はしっかりと口にした。
別の日である。フレークは未来館の音楽室のソファで横になっていた。コリウスは同屋でぬり絵を楽しんでいた。カスミはそんな時に音楽を聴く目的でやって来てコリウスの正面の席に座った。
「ぬり絵か。懐かしいな。コリーはあたしにもぬり絵をやらせてくれない? そのキャラクターの服は深緑の方がいいよ。それじゃあ」カスミは「あたしは指導してあげる」と提案した。
「ありがとう」コリウスは感謝した。「でも、お姉さまは色を塗らないでね」コリウスは頑なに主張した。カスミはそれに同意した。その会話の内容は傍にいたフレークにもきちんと届いていた。
「その本のぬり絵には食べ物もあるみたいだね」兄貴のフレークはいつものようにして心配りをしてくれた。「おれはキッチンから料理の本を持ってこようか? 一丁」
「ありがとう」カスミはお礼を言った。「でも、キッチンにはあたしが自分で行ってくるよ。お兄さまはいいアドバイスをありがとう」カスミは言った。カスミはコリウスの顔を一瞥すると一旦はこの部屋を出て行った。フレークはその間も寝っ転がっていたし、コリウスはぬり絵に熱中していた。しばらくの間はこの部屋には沈黙が流れることになった。カスミはやがて一冊の本を持って帰って来た。
「おかえり」フレークはカスミに対して言った。「お目当ての本はあったかい? ん? カスミはそんなところで立ち止まってどうしたんだい?」フレークは怪訝そうにした。カスミは音楽室に入ったところで本を見たまま硬直している。コリウスはあまりカスミとフレークのことを気にはしていない様子である。
「ああ」カスミは我に返った。「大したことではないんだけどね。この本にはフライのページの右上に折り目がついているの。お母さまは本を折るのが嫌いだったはずなのに、不思議だなって思ったの」カスミは問いかけた。「お兄さまとコリーはそれについてなにか知ってる?」
ところが、フレークとコリウスは口を揃えて二人共「知らない」と答えた。謎は謎のままにして仕方なくコリウスから許可を得ると、カスミはぬり絵の手伝いをすることにした。
しかし、トラブルはそこで発生してしまった。カスミは何度もコリウスの配色に異を唱えたので、コリウスは気を害してしまったのである。フレークは異変をすぐに察知した。
「これはおれのぬり絵なんだから、お姉さまはおれの自由にさせてくれたっていいじゃないか」コリウスは不機嫌そうにしている。「お姉さまはそんなに注文ばっかりをつけないでよ」
「わかった」カスミは下手に出た。「ごめんね。あたしが悪かったよ。でも、あたしはコリーがかわいいから、コリーにはいい作品を作ってもらおうと思って注文しちゃったんだよ。悪気はなかったから、コリーは怒りを収めてね」カスミはやさしく言った。コリウスは渋々と大人しくなった。コリウスとカスミの二人は再びぬり絵の合作を始めた。やがてはぬり絵に飽きると、コリウスはこの部屋を出るべく立ち上がった。
「あーあ」コリウスは言った。「おれはやっぱり一人でやっている方がうまくぬり絵を完成させられたのに」コリウスは毒を吐いている。コリウスは机にぶつかりフレークのCDケースを落としそのケースに罅を入れてしまった。さすがのコリウスもこれはまずいと思った。
コリウスは「ごめんなさい」と小さくなって割れたケースを見せ兄のフレークに謝罪した。コリウスはふてくされてはいても子供ながらにきちんと良心は持ち合わせているのである。
「ああ」フレークは言った。「これくらいは別にいいよ。コリーはわざとやった訳じゃないし、すぐに謝ってくれたからね。心配しなくていいよ。コリーはすぐに忘れることだよ」フレークは次期社長になる素質の片鱗を見せた。ところが、コリウスは何も言わずに頷いただけだった。コリウスはやがてこの音楽室を去って行ったが、そのコリウスの姿は屈辱に燃えているようにも見えた。
その翌日である。事件はまたしても起きた。コリウスが失踪してしまったのである。ここでは正確に言うと、コリウスは通学のため家を出たが、学校には行っていないことが判明したのである。
トイワホー国では犯罪発生率が低いので、オリーブはコリウスの担任の先生から事情を聴いてもそれ程に殺人や傷害などの心配はしていなかった。それでも、母のオリーブはいても立ってもいられずフレークとカスミに連絡を取り家政婦には留守番を頼んで近場を探してみることにした。
フレークは昼休みに勝手に学校を抜け出しコリウスのことを探したが、結局のところはコリウスを見つけ出すことはできなかった。しかし、カスミだけはコリウスの居場所を見抜いた。学校が終わると、カスミはある場所へ直行した。トイワホー国では授業中にスマホを使うような悪い生徒はいないので、小中高の学生は基本的に学校にスマホを持って行ってもいいことになっている。コリウスは自分の秘密基地にて泥だんごで雪だるまのようなものを作っていた。それを見ると、カスミは少し安心した。
「お姉さまはどうしておれの秘密基地のことを知っているの?」コリウスはカスミを見つけると弱々しい声で訊ねた。コリウスは自分が悪いことをしているという自覚を持っている。
「それくらいは誰にでもわかるよ。ここらは意外と都会だし、コリーは以前『自分には秘密基地があるんだ』って言っていたよね? だとしたら、そのコリウスの秘密基地は自然に恵まれたこの公園じゃないかと思ってもなんら不思議ではないもの。今は冬だよ。今日は特に寒いから、コリーはあたしと一緒にもうお家に帰ろうよ」カスミは諭した。コリウスは立ち上がり帰宅することにした。本当はコリウスも誰かに見つけてもらいたかったのである。カスミは悲しげな顔をしてコリウスの顔を覗き込んだ。
「ごめんね」カスミは寂しそうにして話をした。「コリーはあたしのせいで学校をサボったんだよね? この間はあたしがコリーのぬり絵の邪魔をしたから、コリーはこういうことをしたんでしょう?」
「それは違うよ」コリウスは落ち込んでいる。「お姉さまは悪くない。だけど、おれはそう言ってくれているお姉さまを素直に許せないおれが許せなくて何もしたくなくなっちゃったんだ」
「そっか」カスミは応じた。「コリーはやさしい子だものね。あたしも人生経験はまだ浅いけど、人はきっとそういう挫折の繰り返しで大人になって強くなっていくんじゃないかな? だから、コリーは今回のことを深く考えないで自分を許してあげてね。そうしないと、コリーはかわいそうでしょう?」カスミは聞いた。
「うん。ありがとう。お姉さまはやっぱりとてもやさしいね」コリウスは涙を流しながら頷いた。
しかしながら、事態はこれで全てが解決した訳ではなかった。コリウスにはまだ隠し事があるし、最後の事件こそは最も重要な事件なのである。そのことはカスミにも見抜くことはできなかった。
フレークはコリウスを見つけ出したカスミのことを手放しで褒めたし、オリーブはオリーブで心配事が解消して安堵した。ゼンジは事の顛末を聞くとコリウスが無事だったことを素直に喜んだ。
結局のところ、コリウスのことは誰も怒らなかった。世界は愛で救えるかという問いに対して「イエス」と答えるのがトイワホー国の国民なのである。話を戻すことにする。
その事件はコリウスの失踪から三日後に起きた。その日のコリウスは父親のゼンジから友達と行ってくるようにと近場の演劇場のチケットを二枚ほど受け取っていたのだが、その日は熱っぽいと言ってチケットをカスミと家政婦の二人に上げることにした。ただし、家政婦は初め素直にチケットを受け取ろうとはしなかった。その日はゼンジが仕事だったし、フレークは部活で遅くなるし、オリーブは友達の誕生日パーティーに出席することになっていたので、コリウスは家政婦とカスミがいなくなると一人で広い未来館の留守番をしなければならなかったからである。それでも、コリウスは熱っぽいだけで本当に熱があった訳ではなかったし、最後はコリウスの必死の訴えに応え、家政婦はカスミと一緒に演劇を見て来ることになった。
コリウスは家で一人になるとキッチンへ向かった。コリウスは家政婦に熱っぽいと言ったが、それは狂言である。コリウスは初めからフレークのためにサツマイモとうてんの天ぷらを作りフレークを初めとした自分の家族の皆を驚かせようとしていたのである。一度は空とぼけていたが、実は料理本の天ぷらのページに折り目をつけていたのはコリウスだったのである。コリウスのチョイスはどうして天ぷらなのかというと、その答えは単純にフレークの好物は天ぷらだからである。予習は事前にしていたが、コリウスは予想以上に時間をかけて料理をすることになった。コリウスはやはり不器用なのである。
コリウスは炎の中に手ぬぐいを落としてしまうという重大なミスを犯した。火は見る見る内に大きくなっていったので、コリウスは家が全焼するのではないかと思い戸惑って涙を流した。しかし、救世主はこのタイミングで現れた。コリウスの兄のフレークはちょうどこの時に部活から帰って来たのである。
「家に入ってから妙に焦げ臭いと思っていたら、結果は案の定か。コリーはどいていてくれ」フレークは「あとはおれがなんとかする」と言うと消火器を持ち出しなんとかして鎮火させた。結局は火の中に落ちた手ぬぐいは燃えてしまったが、この事件はどうにかこうにか大惨事には至らなかった。
「コリーはどこも火傷していないか?」兄のフレークは心配した。「今日はなんでコリーの他に人が未来館にはいないんだ? それとも、誰かしらは二階にいるのか? それなら、コリーはなんでその人に頼らなかったんだ?」フレークはそう言いながらも真っ黒になった天ぷらを皿に移しコリウスのところへゆっくりとやって来た。コリウスはフレークに事の顛末を正直に話すことにした。全ての話を聞き終えると、フレークはコリウスの作った真っ黒の天ぷらを齧ったので、コリウスは大いに驚くことになった。
「焦げていないところだけを食べているから、コリーは心配しなくても大丈夫だよ。これらはすごくおいしいよ」フレークはやさしい笑顔を見せながら言葉を発している。「コリーはおれのために料理を作ってくれてありがとう」フレークは嫌そうな顔を少しも見せてはない。
「ごめん」コリウスは謝った。「でも、今日のお兄さまはどうしていつもよりもお家に帰ってくるのが早かったの?」コリウスは不思議そうにしている。現在のコリウスは涙目になっている。
「途中まではちゃんと部活をやっていたよ。でも、今日はこれを買うために早退してきたんだ。まあ」フレークは「これは早退というよりもさぼりだけど」と言うと手元にあった袋からホーム・センターで購入した額縁を取り出した。フレークはすでに食べられる部分の天ぷらを食べ終えている。
「コリーはカスミと色塗りをしていただろう? この間」フレークは言った。「おれはあれを入れるのにいいかもしれないなと思って買ってきたんだ。あの絵はお父さまやお母さまにあげるのもよし、あるいはどこかに飾るのもよしと思ったからね」フレークは平然としている。しかし、その言霊にはこれ以上ない程のやさしさが込められている。フレークの度量は果てしなく広いのである。コリウスは「ありがとう」とお礼を言った。「それじゃあ」コリウスは恐る恐るといったような感じである。「お姉さまのことはもうぬり絵のことで怒ってなんていないから、おれはお姉さまと一緒にぬり絵を額に入れてお父さまにあげるよ。お兄さまはなんでおれがこんなことをしようとしたのか、聞いてくれる?」
「もちろんだよ。コリーはなんでも話してごらん」フレークは相も変わらずに肝要である。「人は心配事を一人で抱え込んでいると精神衛生上もよくないし」フレークは目線で話を促した。
「お兄さまはおれのために絵を書いてカード・ゲームを作ったり楽器の演奏もできたりするし、お姉さまは家事の手伝いがうまいよね?」コリウスは料理をしようと思った動機を話し始めた。「それなのに、おれは模型も作れなくて家事の手伝いも碌にできない。本当はおれなんて生まれてこなければ、よかったのかなあ? おれはそれを考えると悲しくなっちゃったんだ」コリウスはすっかり意気消沈してしまっている。
つまり、コリウスはなんでも完璧にこなしてしまうフレークとカスミの二人を見て少しでも近づこうとしていた訳である。コリウスは喋り終えると、やがては俯いた。
「いや」フレークは否定した。「この世に価値のない人間は生まれてこない。だから、おれにはコリウスが生まれて生きていることはすごくすばらしいことだと思うよ。それに、家族は助け合って生きるためにいるんだ。おれはコリウスがどんな困難にぶつかってもコリーを助ける」フレークはやさしい笑顔を見せて言った。「それはきっとカスミも同じだよ。おれは絶対にコリーを守ると約束するよ。今回の場合は申し訳なかったけど、コリーはコリーだから、他の人とは比べなくてもいいんだよ」
それを受けると、コリウスはようやく顔を上げた。コリウスはその後も小さなトラブルを起こしてはいったものの、それはいずれも自尊心を喪失したことによるものではなかった。
カスミと家政婦はやがて帰ってきた。フレークは仕事ができるとは言え、その時はまだ消火器の泡を消すのに時間がかかってしまっていたので、事態はバレてしまったが、女性陣の二人はフレークからゼンジとオリーブへの口止めをされたので、オリーブは未だに天ぷらの一件を知らないのである。
それではどうして『絆ファミリー』の賞を取れたのかというと単純に名前を伏せてフレークが応募したからである。コリウスの件からもわかるとおり、人は背伸びする必要はないのである。
人は今の自分にできることを精一杯にやればただ、それでいいのである。人はいつでも他の人に頼ってもいいし、無茶ばかりしている必要も全くないのである。
ビャクブは以上の三兄弟の話を聞かせてもらい大いに感動した。今頃はパイプ・ハンガーと衣装ケースの隙間で寝ているはずのヤツデが聞けば、ヤツデはきっと涙を流すだろうなとビャクブは思った。
ヤツデの感性はものすごく豊かなので、ヤツデはよく涙を流すのである。ヘンルーダの方は初めから終わりまで誇らしげにして話をした。ヘンルーダはまるで自分のことのようにして話をしていた。
それは未来館に住む人々がヘンルーダにとってとても大切な人々だということを意味している。車はすでに未来館に到着していたが、ヘンルーダは未来館の敷地の車庫でビャクブに話をしていた。
ビャクブは話を聞くのに熱中していたし、そのことにはヘンルーダも気づいていたから、ヘンルーダはあえて車内で話をしてくれていたのである。ヘンルーダは執事をやっているだけあって人が何を考えているのかを読み取る能力に長けているの。ヘンルーダはその上で謙虚さを大切にしている。
「フレークさんとカスミさんとコリウスさんは兄弟の絆を深めるすごい過去を経験されたのですね」ビャクブは畏まっている。「ヘンルーダさんは大変に貴重なお話をして下さってどうもありがとうございました」
「どういたしまして」ヘンルーダは応じた。「わたくしには庭仕事がございますので、どうか、ビャクブ様はお先に未来館の中へお入り下さい」ヘンルーダは促した。ビャクブは再びお礼を言って長い道のりを経て玄関に辿り着いた。ビャクブが呼び鈴を鳴らすと、サフィニアはビャクブのことを出迎えてくれた。
「今日は昨日に引き続いて来てくれてありがとう」サフィニアは一方的に捲くし立てている。「あれ? ヤツデくんはどうしたの? まさかとは思うけど、ヤツデくんはご臨終なの? はあ。私は気絶しそう」サフィニアは胸に手を触れた。「私はせっかくヤツデくんのことをかわいがっていたのに」
「なんてね」サフィニアは微かに笑んだ。「ご臨終の方はもちろん冗談よ。それで?」サフィニアは興味津々の様子で聞いた。「ヤツデくんは本当にどうしたの?」
それにしても、ビャクブはサフィニアの口からご臨終という言葉が出てきたことには驚かされた。
しかし、まさか、サフィニアは実の祖父がつい先日に亡くなったことを忘れているという無神経さから先程の言葉を口にしたのではない。サフィニアの性格は明るくてやさしいので、サフィニアは自分が悲しみに暮れていても相手にも気を使わせないようにするためわざと明るく振る舞うことができているのである。
「ヤツデは風邪をひいて寝込んでいるよ。この非常事態に風邪を引くなんて神も仏もないな。そりゃあ、ヤツデも苦しいだろうけど、一番のとばっちりはおれだよ。なにしろ、今日はおれが一人で捜査しないといけないからな。サフィニアもおれ一人じゃ心もとないとは思わないかい?」ビャクブは言った。「ヤツデからは質問する内容を書いた紙は受け取っているけど」ビャクブはこの間にもサフィニアによって未来館に入れてもらった。外はあまりにも寒いので、実のところ、ビャクブは手袋をしていた。
「私はビャクブくんが頼りないとは思わないよ」サフィニアは意外にもビャクブのことを高評価してくれている。「それに、ビャクブくんはヤツデくんから聞くことをメモして貰ったのなら、それはますます鬼に金棒じゃない。それで?」サフィニアはヤツデの心配をした。「ヤツデくんの症状は重いの?」
「熱は37度5分だけど、ヤツデは少し喉が痛いって言っていたよ。だけど、ヤツデは風邪をひくと精神的にもダメージを受けるから、昨夜はカラさんにおんぶしてもらっていたけど」ビャクブは説明した。「この話はヤツデから聞いているかもしれないけど、カラさんっていうのはおれたちが会いに来た友達のことだよ。身長は二メートルを遥かに超えているし、カラさんは横にもでかいから、ヤツデのことは軽々と持ち上げていたよ」
「そうだったんだ」サフィニアは残念そうにしている。「私としてはビャクブくんだけでも十分にうれしいけど、本当はやっぱりヤツデくんにも来てほしいから、ヤツデくんの風邪は早く治ってほしいな」
「サフィニアはヤツデのミステリー・ツアーの成績を目の当たりにしていたんだから、それは当然の感想だろうな」ビャクブは早速に仕事を始めた。「話は変わるけど、おれは実を言うと一つヤツデからサフィニアにも聞いてほしいって言われていることがあるんだよ。事件の現場の駅にロッカーはあるかい?」
「現場はモスト駅だけど、ロッカーはないよ。ロッカーがないと不都合なことがあるの?」サフィニアは不思議そうにしている。大抵の人はそうだが、ヤツデの考えていることは読み取りにくいのである。
「いや」ビャクブは言った。「仮に、現場の近辺にロッカーがあれば、ゼンジさんはそこになにかを残している可能性も否定しきれないだろう? だから、おれは聞いてみたんだけど、どうやら、それは空振りみたいだな。まあ、実際にはダイイング・メッセージがあるんだから、おれたちはそれを解き明かせばいいだけの話だな」ビャクブは独り言のように呟いた。とはいっても、ビャクブには深い考えなんてものはない。
「ビャクブくんは前向きだね。今日は三人の人から話を聞くのよ。よろしくね」サフィニアは手招きした。「ビャクブくんはこっちについてきてくれる?」サフィニアは歩き出した。
ビャクブは了解の返事をしてサフィニアのあとをついて歩くことにした。サフィニアとビャクブが応接室に入るとそこでは一人の男性が読書をしていた。彼こそはサフィニアの父親のフレークである。
大学ではクルーザーで航海するクルージング部に在籍していたぼんぼんのお坊ちゃまが逞しくなり、今のフレークは社長としての貫禄を感じさせる男性になっている。