Ep1:沈黙の宇宙(そら)と、壊れた羅針盤
冷たい。
それが、意識を取り戻した私の最初の感覚だった。骨の髄まで凍みるような、絶対零度の冷気。息を吸おうとしても、空気が存在しないかのように肺が空っぽになる。
「……っ、さむ……!」
声にならない声が、かろうじて喉から漏れた。三十二年生きてきて、こんな寒さは初めてだ。
目の前に広がっていたのは、見慣れた湖の穏やかな景色ではなく、底なしの闇と、そこに無数に散りばめられた、ダイヤモンドダストのように冷たく輝く星屑。そして、ゆっくりと回転する、巨大な青いビー玉のような……地球。
「……うそ……」
混乱と恐怖で、思考が停止する。隣を見ると、凪くんが目を大きく見開き、同じように呆然と宙に浮かんでいた。二十七歳の彼も、家で着ていたラフなスウェット姿のままだ。その表情には、いつもの穏やかさのかけらもなく、純粋な驚きと、そして私と同じ……恐怖の色が見えた。年下の彼とはいえ、いつもはもっと落ち着いているのに。
「ワフッ……キャン!」
足元で、コロが小さく震えながら悲鳴のような声を上げた。寒さと、この異常な状況におびえているのが伝わってくる。
「な、凪くん……! これ、なに……!? コロが、寒いって……!」
パニックになりながら、凪くんに助けを求める。でも、彼は私と同じように、ただ目の前の非現実的な光景に圧倒されているようだった。
「わ、からない……あおいさん、大丈夫……じゃないよね、これ……」
彼の声も震えている。いつもの落ち着きは、どこにもない。その事実に、私の不安はさらに増幅した。彼だって、私と同じように、この状況に戸惑い、おびえているんだ。
その時、握りしめていた右手が、じんと熱を持った。
見ると、あのひび割れたビー玉が、青白い光を放っている。ヒビの隙間から漏れる光は、まるで壊れたネオンサインのように不規則に明滅し、痛々しい。でも、不思議なことに、この光だけが、この絶対的な虚無の中で、唯一の「確かさ」を持っているように感じられた。
『……行かなくちゃ』
どこからか、声が聞こえた気がした。ビー玉の声? それとも、私の心の奥底の声?
『……お前のヒビを、見つめる場所へ』
その言葉と共に、ビー玉の光が一層強くなり、私たちの前方に、ぼんやりとした、赤黒い渦のようなものを示した。それは、星雲のようにも見えるが、どこか禍々しく、不吉な気配を漂わせている。穏やかな星々が並ぶ中に、そこだけがポッカリと空いた傷口のようだ。
「な、なんだ、あれ……」
凪くんが、警戒するように呟く。
私も、本能的に「行ってはいけない」と感じた。あそこには、きっと、見たくないものが待っている。向き合いたくない現実が。
でも、ビー玉は、まるで壊れた羅針盤のように、頑なにその不吉な渦を指し示している。そして、私たちの体は、意志とは無関係に、ゆっくりとそちらへ引き寄せられ始めている!
「いやっ! 行きたくない!」
必死に手足を動かして抵抗しようとするけれど、見えない力には逆らえない。凪くんも、私とコロを守るように抱き寄せながら、なすすべもなく渦へと流されていく。
「あおいさん、しっかり捕まって!」
彼の声は必死だ。その腕の力強さに、ほんの少しだけ安心するけれど、恐怖は消えない。
これが、宇宙旅行?
キラキラした冒険なんかじゃない。じゃあ、これは一体……? まるで、私の心のヒビが、この景色を引き寄せたとでもいうのだろうか。
渦が、すぐ目の前に迫る。吸い込まれる寸前、ビー玉が再びささやいた気がした。
『逃げるな。お前の痛みは、そこにある』
青白い光が弾け、私たちの意識は、再び暗転した。次に待っているのが、安らぎではないことだけは、確かだった。