君の名前は?
夕暮れ時に目覚めたセトマルは、背中から滲み出た冷や汗を落とすべくシャワーを浴びていた。どうやら少女と繋がれた魔法の鎖は部屋を移動するくらいなら自由に長さを調整できるらしい。
念入りに体を洗い寝室に戻るとダークエルフの少女が眠っていた。
やはり夢ではなかったと頭をかいて少女の顔を覗く。
「……に会いたい」
閉じたまぶたから涙がこぼれ落ちている。
セトマルは右手首につけられたブレスレットを眺めてから呪よけの手袋をはめて少女の首輪に触れた。『服従の鎖』主従関係を明確にするために使われる装備品で、趣味の悪い貴族や冒険者が自分の権威や力を見せびらかすために、捕らえられた魔族の奴隷に使うことがある。そんなものを同族の、しかもこんな幼い少女に装備して帝都を歩いていたグラディウスはそれ以上に趣味が悪い。
「もうひと仕事するか」
少女を起こさないように呟いて、たたんだパーカーを枕元に置く。これを着て下に降りてくるようメモ書きを残してセトマルは仕事場に戻っていった。
仕事場とは言っても受付の奥にあるバックヤードのことを指していた。ここには店頭に並べることができないいわくつきの装備品や武器が保管してある。
『吸血のオノ』そうラベリングされたガラスケースの中にある武器を手に取る。セトマルは呪い除けの手袋を外して柄手の部分を触った。
「これは思った以上に人の血を吸っている」
頭の中にイメージが流れ込んできた。それはこのオノの使い手によって無差別に奪われた命の無念と本来の用途とは違う意味で使われてしまったオノ自身の失望であった。
「お前は木こりのオノとしてたくさんの人々を笑顔にすることが仕事だった。可哀そうに自分を呪って……今解放してやるぞ」
古めかしい木椅子に座りテーブルに『吸血のオノ』を置いた。
呪徐の儀式が始まる。
セトマルは深呼吸をしたのち右手に魔力をこめて少しずつ柄手に流し込んでいく。
――呪は罪ならず
「大丈夫恐れなくていい、お前は必ず元の仕事場に戻れる」
セトマルは魔力を続けるとオノはぶるぶると震え始め、それに反響するように室内にあるアイテムもがたがたと振動を始めていた。
地震のような揺れを抑えるためにセトマルは右手から最大出力の魔力を流し込む。それを拒むようにオノは立ち上がろうとセトマルの右手を使って眼前に刃を向けた。
――きみ万事をせめることなかれ
大男に掴まれたと錯覚してしまうくらい強い力を右手に感じて左手で必死に抑えるも刃がついに額へ触れた。
呪い殺される。そう心で自覚した時、セトマルはもう一方の手で刃に触れる。
――あふれんばかりの祝福を糧に
「うおおおお!」
唸るように腹の底から声を上げて刃を押し返す。手の平の皮膚が裂けたところが熱くなるのを感じていたがそれ以上に魔力を消費していた。
――呪力よあるべきところへ帰せ。
そう心の中で唱えると、部屋から受けていた圧迫感が潮の満ちかけのように引いていく。先ほどまで意思を持って刃を向けていた斧が大人しく右手に収まっていた。
「ふぅ~浄化完了」
安堵の息を漏らしてテーブルに置く。数秒前まで漏れ出していた殺気は斧からきれいさっぱり消え去り、吸血のオノは、再びただの木こり用斧に戻ったのである。
――魔力を使いすぎたかぁ
せっかくシャワーを浴びて綺麗になったというのにもう大量の汗が噴き出していた。
「起こしてしまったかな」
セトマルは木椅子に座りながらバックヤードを窺う人影を眺め声をかける。
「大丈夫だからおいで」
優しく誘ってみるとダークエルフの少女が顔だけ出して中の様子を窺っていた。セトマルは何も言わずに辛抱強く待っているとパーカーを胸に抱えたままキョロキョロと歩いてくる。
「もしかしてそれ着ることができないの?」
少女は首を縦に落とす。
――もしやと思っていたが。
呪われた装備は一度装着すると容易に解除できない。少女はその原理の逆で呪われた魂が通常の装備品を受け付けないのかもしれない。
――しかしいつまでもすっぽんぽんのままでは目のやり場にこまる……そうだ。
「ちょっと待ってて、なんとかできるかも」
セトマルは少女にそう言い聞かせるとクローゼットからとある修道服を取り出した。
『血塗られた修道服』そうラベリングされた修道着は純白の生地が人間の血で赤に染まっていた。
「これはある教会から買い取った特別呪着なんだけど……どうかな?」
手渡してみる。常人なら手に触れた瞬間に発狂し気絶するほど強い呪力にあてがわられてしまうが、
少女の場合はまったく問題なかった。
「嬉しいかい?」
セトマルは思わずつぶやく。買い取って以来、初めて見せた修道服の感情に興奮していた。
少女は『血塗られた修道服』に袖を通す。そもそもが成人ようの大きさのためだぼついているが裸よりは数段ましだろう。
「きみ名前は?」
今度は少女に尋ねた。
あからさまな困り顔で首を傾げる少女にセトマルは質問したことを後悔した。
――知らない人にいきなりそんなことを言われても困るわな。ここに来た経緯もあるし。
沈黙を破るようにお腹の虫が鳴く。どうやら少女をお腹を空かせていたらしい。
「夕飯にしようか」
少女の首が縦に頷く。積もる話はご飯を食べながらじっくりしていこうとセトマルは笑った。