「オマエの手で ②」
沢島美容院は建物の一階部分に店舗がある。今日は定休日だから、白いタイル張りのフロアはしんと静まりかえっていた。
こつこつと、二人分の足音だけが響く。
「中村、ここ、座って」
そう言って基樹は空色の椅子を一つ示す。
響は軽く頷いて、それに身を預けた。
前方に据えられた鏡に、自分の姿が映し出される。
それに思わず苦笑が込み上げた。
ー沢島の言う通り、結構伸びてる…。
自分自身さして気にも留めていなかったことだ。
それなのに、基樹は敏感に気が付いてくれた。
悪い気はしない。
響は笑みを浮かべて、基樹が準備している姿を鏡越しに眺める。
美容師になろうとしているのだから、当たり前なのかもしれない。そうかもしれないが、自分をよく見てくれているのだと、自惚れるのは自由だろう。
基樹がよしと小さく呟いて響を向いたから、こぼれそうになる笑みを瞬時に引っ込めた。
「中村、髪濡らすからメガネとって」
「ああ」
響はメガネを外して鏡台に置いた。それから、あまり良く見えない目を凝らして、鏡の中の基樹をじっと見詰めた。
「…くれぐれも失敗はするなよ」
「わーってるよ」
基樹は白い布をばさりと響にかけた。
「苦しくない?」
「ああ」
「そんなら中村、どんな感じに切る?」
そう訊ねながら、基樹は響の髪をしっとりと濡らしていく。
その手つきは壊れ物を扱うように丁寧だ。
その心地よさに、響の心臓は柄にもなく大きな鼓動をたてた。
「好きにしていい。ただし、僕が気に入るようにな」
そんな風にどぎまぎしているのを知られまいと、響は平静を装って答えた。
それに対して、鏡に映る基樹の顔が苦笑した。
「素直に、任せる、でいいじゃねぇか」
「任せる、だとプレッシャーにならないだろう」
「はいはい」
含み笑いをして、基樹は響の後ろ髪を一房、掬い上げる。
「じゃ、始めるぞ」
「ああ」
響はそう言ってゆっくりと目を閉じた。
カシャ、と基樹がハサミを取り上げる音が耳を打った。
「なあ、何でずっと目ぇつぶってんだよ?」
しばらくカットに集中していた基樹が、響の耳元で言った。
響は敢えて聞こえないふりをする。
「…何だよ、寝てんのか?」
基樹は呟いて、こめかみあたりの髪を切り始める。
「俺の雄姿見ねぇで寝るとはな」
苦笑交じりの基樹の言葉。
響は、ー…だって、と心中でほくそ笑んだ。
おもむろに響は目を見開く。
それに驚いた様子の基樹の姿を一瞥し、自分の髪を切る手を捕まえる。
それから基樹を引き寄せて、そっと触れるくらいのキスをした。
「なぁっ…!?」
面食らった表情の基樹に、響は口の端を曲げて笑う。
一生懸命な基樹の姿を見ていたら、理性がもたない。
こんなこと口が裂けても言えないから、響は何事もなかったかのように再び瞼を下げた。
ーオマエは僕の髪を他人に触られたくないって言ったな。
…僕だって、オマエ以外の奴に髪を触られるのは、ごめんだ。
「響」
「ん?」
「明日、定演だろ。切っとく?」
「ああ、風呂上がったら頼む」
「何なら風呂で切ってやるか?」
「襲うが?」
「……!さっさと入ってきやがれ!」
「はいはい」
ま、どっちにしろ後で…。
響は笑みを隠して風呂場に向かった。