おかえり
子供のころから台風が好きだった。
いや台風に限らず、悪天候が好きだったのかもしれない。カーテンの隙間から見える稲光だとか、木々を揺らす強風だとか、アスファルトを叩きつける豪雨だとか。自分には想像もしえないほどの大きな力に、幼いながらも畏怖しつつ憧憬の念を抱いていたのかもしれない。
そして高校生になった今も、そのわくわく感は消えていない。
台風の季節にはまだ少し早い8月中旬。南から今年で7つ目となる台風が迫ってきていた。
蒸し蒸しとした熱気と湿気。お盆休みの最中ということで学校の補講も部活もない。両親は父方の実家である鎌倉に帰っていて、家には一人だ。母から「雨戸を閉めること。無暗に外に出ないこと。食料を買っておくこと」という無骨一遍倒な指令がメールで入っていた。
友達と遊ぼうかとも思っていたが、台風が来ているなら仕方がない、と諦めて、あらかじめ渡された現金をもってスーパーへ買い出しに行った。
本格的に台風が直撃するのは今日の夜らしい。スーパーは帰省してきた子や孫のために買い出しに来た老夫婦や、台風に備え食料を買い込みに来ていた客でごった返していた。いっそ寒いほどに冷えたクーラーが今は心地いい。
一通り買いそろえて人ごみから吐き出されると、自動ドアの外はまるで亜熱帯だった。いや、亜熱帯など行ったこともないため知らないが、温室のような暖かさだった。
雨は降っていないが、風が強い街路樹が大きく撓み、しなる。
真っ白い入道雲と黒い雨雲が幾重にも層になって流されていく。
川の土手沿いを歩いているとすでに川の水は濁っていた。上流ではすでに雨が降っているかもしれない。少し流れの早くなった水面に、小汚いカモが浮く。果たしてこのカモ台風をどこでやり過ごすのだろうか。
何となく土手に降りてみると、水の匂いと土の匂いが強烈だった。深く息を吸い込むと、自分のいる場所が普段住んでいる街ではないように思えた。吹きつける強風と、凶悪な熱気、饐えたような自然の匂い。
天候が非日常だと、自分自身も普段しないことがしたくなる。買い物袋を適当にほっぽって土手に寝転ぶと、視界いっぱいに空が広がった。たった1秒の間にも、風に煽られ空は表情を変える。
子供のころは、こんな風に寝転んで空を見るのが好きだった。しかし高校生にもなってこんなことをしていたら不審者だと思われかねないし、同級生に見られでもしたら目も当てられない。
気の迷いだった。
「また、空見てるの?」
すぐ隣から声がして思わず弾かれるように振り向いた。
「……伊都?」
「そう! 君の仲良しさん伊都だよ」
きゃらきゃらとした笑い声とふざけたような自己紹介。上半身を起こすと、幼馴染の伊都が立っていた。
「いつから見てた?」
「いつも見てるよ?」
要領を得ない、というよりこちらを煽りに来ているとしか思えない答えにげんなりとする。
「宇京くんったら高校生にもなって土手に寝転がって黄昏てるの? ロマンチスト? 中二病?」
「どっかいけ」
「いかなーい。せっかく君に会いに来たんだもん。帰ってきたついでだけど」
「ついでかよ」
一人だったらもう少しいたかもしれないが、うるさい幼馴染が来てしまえば興も削がれる。立ち上がって服についた土や葉っぱを払い落とした。
「やだ、白Tで土手に寝転ぶなんて勇者なの? 馬鹿なの?」
「ほっとけ」
「草の汁で染物してるなんて知らなかったわ。新しい趣味」
伊都の言葉にぞっとして背中を手で触ると緑色の汁が付いて空を仰ぐ。自分の体重を舐めていた。ここまでひどいと先に手洗いしたり漂白剤につけたりしないと染みになるだろう。
「どこいくの?」
「家。帰る」
「ついていってあげようか?」
「いらん」
「私がいれば背中を隠してあげられるよ?」
ああ言えばこう言うという言葉がよく似合う。そういえば伊都は昔からこういうやつだったと思い出した。幼稚園から高校までずっと同じ学校に通っていたおかげで、その為人はよくわかっている。口八丁で相手を丸め込み、舌先三寸で印象操作。きっと口から生まれてきたに違いない、と子供のころから思っていた。小学校のころ通知表の「普段の様子」という欄に「明るく元気で物おじせずに誰とでも仲良くおしゃべりできる」と担任から書かれていて、「やかましい」という言葉をポジティブに書くとこうなるんだと、しみじみ思った記憶がある。
俺が歩き出せば、伊都は勝手についてくる。
5分もすると風が出てきて、周囲はぐっと暗くなる。空の雲の割合は雨雲が大半を占めた。無防備な鼻先に雨粒が落ちる。
するとそれを皮切りにしたように、まるでバケツをひっくり返したような雨が降り出した。まだ大丈夫だろう、と高をくくって傘を持ってこなかったずぼらさを恨む。
買い物袋を胸に抱え走り出す。走ると顔にこれでもかと雨が降りかかるが、背に腹は代えられない。
ようやく玄関前にたどり着き、ズボンのポケットから鍵を出す。
「びちょびちょになっちゃったねえ」
「……おう」
後ろから追いかけてきていた伊都を見て、逡巡する。
伊都は傘を持っていない。空は暗くなるばかり。雨が降り止む様子はない。台風は今からが本番。
今日は家に俺しかいない。
伊都は何も言わない。
ここで俺が「それじゃ」と言えばそれまでだ。
依然として風は強く、伊都の長い髪を荒々しく弄った。
「…………上がってけよ」
ようやく絞り出した俺の言葉に伊都は虚を突かれたような顔をした。
「いいの?」
「……おう」
「本当にいいの? 無防備過ぎない?」
「……いい。入れ」
どこか遠くで雷が光った。
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稲光が暗闇を一瞬眩く照らし、数十秒後に遅れてどこかに落ちたような音がした。その光をどこか名残惜しく思いながら雨戸を閉める。俺が家じゅうの雨戸を閉めて回っている間、伊都はシャワーを浴びていた。
何も考えないよう、無心になりながら雨戸を閉めていく。閉め終わったら買ってきた食料を仕舞っていく。でろでろに溶けたパピコをビニール袋から発掘し冷凍庫に叩きこむ。食料の片付けから先にすべきだった。完全に判断を間違えたとソファに項垂れながら、思った以上に動揺している自分に気が付いた。
台風、強風、豪雨。非日常に浮かされていた。
魔が差したのだ。
俺は伊都を家に上げるべきではなかった。それも誰もいない、窓も雨戸で覆われたこの状態で。
バクバクと心臓が嫌な音を立てる。考えてはいけない。これ以上余計なことに考えを巡らせてはいけない。これはすべて夢だ。しかしそう思い込もうとすれども、雨に濡れたTシャツは冷たく、草をすりつぶした背中は青臭かった。
がたがたと、風が雨戸を揺らす。
「ただいまーシャワーありがと。タオルも至れり尽くせりじゃん。モテるでしょ」
「……おかえり。モテねえよ。このシチュエーションは特殊すぎるだろ」
「あれ? じゃあ私は特別?」
舐めたようなことを言う伊都を適当に笑って流す。とにかく身体が寒かった。ふと、エアコンの温度を下げすぎたかとリモコンを確認して、目を逸らした。
「俺もシャワー浴びてくるから。好きにしてろ」
「宇京くんが先にシャワー浴びればよかったじゃん」
「それは、駄目だろ」
伊都はにんまりと笑う。
「やさしいね、宇京くん。変わらないね」
「……うっせ」
脱衣所でTシャツを脱ぎ捨て適当に漂白剤につけておく。
いつもよりシャワーの温度を上げて頭からかぶると、緊張していた身体が少しだけほぐれた。得も言われぬ寒気も和らいだような気もしなくはない。ただ台風間際のあの熱風が、今は恋しい。
シャワーから戻ってきた伊都を思い出してため息を吐く。
なぜ伊都を家に入れてしまったのか。
台風が来てるから。雨でぬれていたから。一人にしておけなかったから。どれもこれも違うことはわかっていた。
家に伊都が来ていたから。
理由はそれで十分だった。
彼女を家に連れ込んだことが間違いだったとわかっていても、俺はきっと同じ選択をしていたことだろう。
ぐ、と唇をかみしめる。
間違いだということはわかる。だがならば正しさとは何なのだろう。
リビングに戻ってくると、伊都はテレビもつけずソファに座っていた。
「あ、宇京くんおかえり」
「…………ただいま」
今日、こんなやり取りをすることになるとどうして想像できようか。
「そうださっきスマホ鳴ってたよ」
「ん、」
スマホを見るといくつか通知が来ていて、そのうちの一つが母からだった。
「誰から?」
「母さん。ミソハギの植木鉢を土間に避難させてほしいって」
「わあお、今から?」
「今から。放置したら俺もミソハギも命がない」
億劫だがやらねばならない時がある。
雨の中自転車で登校するようの雨合羽を雑に羽織って、庭のミソハギの植木鉢を救出する。鉢の中はすでに洪水状態だった。玄関では伊都がまちかまえていて、ずぶ濡れのミソハギをまじまじと見ていた。
「これがミソハギ? 初めて見た」
「俺もよく知らん。こいつの名前がミソハギって名前なのをさっき知った」
濃いピンク色の小さな花が鈴なりについていて、地味な名前のわりに派手だった。
合羽を脱いで玄関のノブに掛ける。本当は拭いたり乾かしたりした方が良いのだろうが、やる気が起きない。
「お母さん、元気?」
「元気すぎるくらい。お前の母さんも元気そうだな」
「……うん」
俺の母と伊都の母は仲がいい。いわゆるママ友というやつだが、俺と伊都が会わなくなっても、変わらず連絡を取っているらしい。伊都の家は近所だったが、2年前に県外へ引っ越してしまった。それでもうちの母親とだけはつながっているようで、たまに近況が漏れ聞こえる。
伊都は広くはない部屋の中で俺の後をついて回る。
「なにしてるの宇京くん」
「ポップコーン作る。一人の時はポップコーンとコーラで映画鑑賞するって決めてんだ」
「私もいるじゃん」
「お前は数えない」
伊都からの視線に気づかないふりをしながら、アルミ鍋を火にかける。数分もするとふたが膨れ上がり、中からぽんぽんと破裂音がしてくる。小刻みに振りながら楽し気な音が止むのを待つ。
「……できた?」
「できた」
フィルムのふたをキッチンばさみで切ると、ホカホカとしてポップコーンで姿を現す。独特な香ばしい香りに口元が緩んだ。
冷蔵庫で冷やしたコーラをコップに注ぎ、ソファの前のテーブルに置く。
「私の分もあるの?」
「いらなかったか?」
「いらない。太るもん」
「太らねえだろ」
もの言いたげな視線を無視しつつも伊都の前にコーラを押しやりつつ、テレビのリモコンを操作する。
「何観るの?」
「バイオハザード」
「なんで!? この天気も悪くて不穏な空気の中でなんであんなグロいもの観るの!?」
「雰囲気あるだろ」
「やな雰囲気だよ!」
キャンキャンと吠える伊都にため息をついて、仕方なく映画一覧を物色する。映画配信のサブスクを使っていてよかったと心から思う。
「あれ観たい! 原作小説でも話題になってた恋愛映画」
「却下。好かん」
「けち」
「恋愛映画以外で」
「……じゃあトトロ」
「トトロなら許す」
「許された」
再生ボタンを押すと軽妙な音楽が流れ出す。最初から最後まで内容を知っていても楽しめる、間違いのない映画だ。
ただ高校生が二人揃って観る映画かと言えば疑わしい。だが俺たちならそれでもちょうどいい気がした。
コーラを飲んで、ポップコーンに手を伸ばす。
伊都はそのどちらにも宣言通り手を付けていなかった。
「……食べないのか」
「うん。私には匂いで十分だよ。いい匂いがする」
「……そうか」
テレビの中では少女が怪物とともに大笑いをしている。平和で、楽しくて、夢のような世界だ。
ぼうっと見続けていると気が付けばもう終盤でメッセージの刻まれたトウモロコシを見て「今日のポップコーンはこのシーンのための伏線だったんだ」と言うと「雑に適当なこと言わないの」と伊都に笑われた。
しかし突如としてバツン、という音とともに部屋が真暗になった。思わず伊都と顔を見合わせる。いや、何も見えていないから見合わせていなかったかもしれないが、そんな気配がした。
「……停電?」
「だな。……あーあ冷凍庫の中身死んだわ」
「映画、もう少しでエンディングだったのに」
双方ため息を吐きながら、少しだけわらった。
ふと、暗闇の中から冷気が頬をかすめた気がした。
「ねえ宇京くん」
「なに」
「こっち向かないで」
「……向いて、じゃないんだ」
「向かないで。こっちを見ないで」
昔の俺だったら、やめてほしいと言われたことは積極的にしていた。しかし高校生ともなった俺は、ごくごく素直にそれに従って、伊都から背を向けるように座りなおした。
ポップコーンはもう冷めている。
「……なんで宇京くんは、私を家に入れたの?」
「お前が家まで来てたからだよ」
「無視すればよかったじゃん」
「無視できるかよ。そんな非道な奴だと思ってたのか?」
「……君は、私のこと覚えてないの?」
「覚えてなかったら家に上げるわけないだろ」
「覚えてたら、家には上げないんだよ、普通」
背筋をなぞるように冷たく、細いものが触れた。彼女らしからぬ、遠慮がちな手つきだった。
「嵐が来て、家に誰もいなくて、私が君の家の前にいる。……フラグでしかないでしょ」
「そういうタイプのフラグだとジャンル的に2種類あると思うが?」
「馬鹿じゃない。ジャンル的にはホラー一択でしょ」
細い指が、首にかかる。
「死んだ幼馴染が嵐に紛れてやってくるなんて」
シャワーの熱はとうに冷めた。
部屋のクーラーは最初からついていない。
真夏の台風の最中、この家の中は冷え切っていた。
「このまま君を殺すことも、今ならできる気がするの」
指が首筋を喉仏を顎を撫でまわす。
まるで怨霊のような物言いに吹き出してしまった。
「ふっははは、お前にそんなことできるかよ」
「できるよ。今なら。ここには誰もいない。君しかいない」
「できねえだろ。グロいのに耐性なくて、恋愛映画が好きな脳内お花畑にはできねえよ」
「ふざけないで!」
「ふざけてるのはお前の方だろ、伊都」
ぱっと、逃げるように首から指が離れた。
「最初から気づいてたよ。一昨年死んだお前がここにいるはずねえ。雑草の生えた土手を音を立てずに近寄って、雨の中走る俺を息もあげずに走って追って、招かれないと家に入れないってあからさまにアピールして」
「…………」
「幽霊が生きてるやつ驚かしに来るにはお粗末すぎると思わねえか、伊都」
「うるさい」
冷たい指が離れても伊都がすぐそこにいるのはわかった。本気ですねたような声色に喉の奥で笑う。また笑い飛ばしてしまえば、機嫌を損ねてそのままいなくなってしまう気がした。
「伊都、そっち向いていいか?」
「ダメ」
「なんで」
「ブスだから見られたくない。死んだ人間がきれいなままで戻ってくるなんて、生きてる人間の幻想だからね」
「停電してるから大丈夫だ」
「もう目が慣れてるでしょ。こっち見ないで。……お願い」
ぐ、と言葉に詰まる。
今、伊都がどんな姿をしているか想像がつかなかった。つい先ほどまで、伊都は生前の元気な姿で見えていた。だが同時にそう見えているだけとは気づいてた、その程度の違和感はあったのだ。明るい部屋が、俺に伊都をそう見せた。だがこの部屋は今なんの光源もない。今の伊都はきっと、あるがままの姿なのだろう。
「……宇京くんは怖がらないんだね」
「お前を怖がるなんてことねえよ。一生」
「いつか本当に君のこと道連れにしようとするかもよ。それでも君は、また私を家に入れるの?」
怖がっているのはどちらの方だろうか。
「入れるよ。俺はお前がここまで来てくれるなら、前みたいに話がしたい。リモコンに触れなくても、ポップコーンが食えなくても、お前と話せるならそれでいい」
紛れもない本心だった。
土手で姿を見た時は身体が凍り付いた気分だった。俺は確かに恐れていた。伊都はもう死んでいる。葬式にも行った。ならば目の前にいるこの伊都はいったい何者なのか。
けれど玄関を開けるころには、もう彼女が何者でもよかった。
伊都と同じ姿をして、伊都と同じように話をするなら、何者だってかまわない。
「ねえ、お願いがあるの」
「なに」
「朝が来るまで声を聴かせて」
「いいよ」
震える声は聴かないふりをした。
――真紀ちゃんと若葉ちゃんは元気?
「元気そうだよ。よく知らんけど。部活の練習しているのをたまに見る」
――中村先生はどうしてる?
「今年異動になったよ。退任式で号泣してた」
――私の部屋にあった机の中身、処分したとか聞いてる?
「そんなことさすがに聞いとらんわ。見られてまずいものでも入ってたのか」
――私を殺した犯人、見つかった?
「…………見つかったよ。もう捕まってる。余罪在り。死刑じゃねえの」
――そう、よかった。もう被害はでないんだね
「……良くねえよ。何にも良くねえんだよ」
――お母さんとお父さんがこの街から引っ越したのは、私のせい?
「お前のせいじゃねえよ。犯人と、メディアのせいだ」
――宇京くんは、私が死んで泣いてくれた?
「……なんでそんなこと聞くんだ」
――それだけ君が惜しんでくれたら、浮かばれる気がしたから。
「そんなんで浮かばれるなら今すぐ泣いてやろうか」
――やめよう。今日は泣かせに来たんじゃないんだもん。
「……お前は、恨んでるか?」
――何を?
「全部」
――何も。誰も恨んでないよ。
「じゃあなんで、化けて出た?」
――物忘れひどい? 言ったじゃない。“帰ってきたついで”だって。
「帰って来たって、」
――宇京くん、今はお盆だよ。
「あ、」
――お母さんとお父さんに呼ばれて、今は帰るところ。帰り道に君を見かけたから、寄ったの。今日なら、君にも見える気がして。
「……じゃあ次に来るのは来年か」
――そうだね。宇京くんは気づかないかもしれないけど、また君に会いに行くよ。
「見えるように気合入れて来いよ」
――死人に無茶言うじゃん。
「今日できたなら来年もできるんじゃねえの」
――君も気合入れて私を探してよ。
「ってかお盆の帰り道でここに来たなら、なすの牛に乗って来たのか」
――そうだよ。
「その牛どこに停めてきたんだ。路上駐車禁止区域に馬置いとくと路上駐車で罰金とられるらしいぞ。牛は大丈夫か」
――精霊牛で路駐取るためにはお巡りさんも精霊牛見えてないとだめだね。
とりとめのないことを、ぽつぽつと話し続ける。
背中越しの声がもどかしい。でも見られたくないというなら、声だけで満足するしかない。
言いたいことも、聞きたいこともいっぱいあった。それでも口から出てくるのは本当にどうでもいい軽口ばかりで。言いたいことも聞きたいこともたくさんあっても、実際俺が話したかったのは日常みたいなくだらない話だったのだろう。
朝が明けるまで、時間がない。
でも俺が雨戸を開けず、スマホで時間を確認しなければ、この時間は永遠に続くんじゃないだろうか。俺が動かなければ、永遠に朝を知りえない。
ふと気が付けば俺はソファで眠っていた。暗い部屋の中を見回しても、誰もいない。ソファの隣には誰の気配もなく、温かくも冷たくもなかった。肌がかすかに汗ばんでいるのに気が付き、エアコンのスイッチを入れ、時間を確認するためにテレビもつけた。問題なく稼働する双方にまた、停電はもう復旧したのかと狐につままれた気分になる。ニュースではすでに台風が通り過ぎたこと、道路の冠水があったことなどを伝えていた。
半ば呆然としつつも、きしむ体にむち打ち雨戸を開ける。部屋の中に眩しい光があふれた。雨戸についた雨粒が、俺の手を濡らす。
外に背を向け部屋を見た。
部屋の中には誰もいない。
けれど机の上にはグラスが二つ並んでいた。