年の差と執着
綾は、王の居間で文を降ろして膝に乗せ、息をついた。
隣りの翠明が、それに気付いて言った。
「…何ぞ?維月は何か言うて来たか。」
綾の膝の上には、これでもかと美しい文字の文が乗っている。
綾は、答えた。
「…はい。美穂のことですわ。龍王様から、お話をお聞きになられたようで。案じて御文をくださったのです。」
翠明は、顔をしかめた。
「ああ、会合の後の宴でのアレか。主にも話したよの。」
綾は、頷く。
「はい。あれから美穂には文を出しましたが、花見の折に話したことを思い出せと叱責するような内容であったせいか、返事がありませんでしたの。どうにも意固地になっておるようで…どうしたものでしょうか。」
翠明は、息をついた。
「緑翠にも話して、あれからも文を送ったようだったが、それから我に報告がない。恐らく聞く耳を持たぬでいるのだろうの。困ったことよ…渡はそれでも面倒は見てくれると言うておるが、こちらとしては気詰まりでな。まだ年若い女神であるから…子供を嫁がせるには渡は年上過ぎたのだ。」
綾は、同じように息をついた。
「はい。我も浅はかでありました。美穂にとりこれ以上の縁はないとまで思うておりましたものを。渡様には女神を大切にしてくださるご性質。それで上手く行かぬのなら、他など無理ですわ。」
翠明は、言った。
「若い皇子ならば問題なかったのだ。お互いに常情熱的なら上手くやったであろうし。渡にしても、孫のような歳の娘であるからな。同じようにはできぬだろう。我には分かるが。主以外は無理よ。」
綾は、苦笑した。
「まあ、王ったら。前世嫁いだ折はそうそうご執心でもないようでしたのに、その内にお部屋へ帰してくださらぬようになりましたのに。今とて毎夜お部屋へ上がらねばご機嫌がお悪くなりますでしょう?」
綾がフフと笑ってからかうように言うと、翠明は慌てて答えた。
「それは主であるから。片時も離しとうないのは仕方がないわ。」
肩を抱く翠明に、綾はまた息をついた。
「…そういうことなのですわ。きっと、美穂には分かるのです。」
翠明は、片方の眉を上げた。
「分かる?何をぞ。」
綾は答えた。
「渡様がそこまで己に執着しておらぬことが。そも、歳は言い訳なのではと思うてしまいます。龍王様とて、長く維月様と沿われて別居していても毎日お通いになるほどご執心。結局は、想いの強さということでしょうか。とはいえ、その想いを引き寄せるためには、相手に合わせてお互いに歩み寄り、心を通わせる必要がございます。美穂が上がった折からそれをしておりましたら、恐らく渡様は居心地の良さを感じられて、執着も深くなられて今も美穂は寵愛されておりましたでしょう。若く美しいだけではならぬのですわ。難しいことではありますが…誠に、こればかりは一度拗れると、解きほぐすのに時も手間も掛かります。」
その通りかも知れない。
翠明は、維月に返事を書こうと侍女に命じて準備をさせている綾を眺めながら、思っていた。
結局は、心なのだ。
自分だって、美しい綾に最初はここまで執着してはいなかった。
今は幸せである翠明は、己を捉えて離さない綾に、感謝していたのだった。
維月は、綾からの文を読んでため息をついていた。
そう、綾が言う通り、結局は歳よりも心なのだ。
きっかけは見た目であろうとも、後はお互いの性質のすり合わせがそこからの関係を決めて行く。
美穂は、それを見誤ったのだろう。
維心のように、最初から愛して何もかもを手取り足取り教えて育てる王など、神世には稀だ。
維月も、だからこそ励もうと必死に維心について学んで今があった。
維心は、何があっても愛してくれた。
何を望んでも叶えられる龍王であるにも関わらず。
維月は、また夜に来るのが分かっていたが、そう思うと居ても立ってもいられなくなって、維心に文を送った。
早くお会いしたい…そちらへ上がれぬ己の身が恨めしい、という意味の、歌を書いて。
「…月の宮へ行く。」え、と鵬達臣下が目を丸くする。「今から。」
維心の手には維月からの文が握られていた。
「え、あの、王妃様には何か問題が。」
今は会合の真っ只中だ。
そんな時でも維心は維月からの文ならば読むので、臣下は控えていたところだった。
いつものように文を開いたかと思うと、見た瞬間にこれなのだ。
何かあったと思うのが普通だろう。
ちなみに維月は正妃ではなく妃だが、それでも維心は宮の中では維月を王妃と呼ぶように徹底していた。
「…とにかく、参る!主らは適当にやっておれ!」
「え、王!」
維心は、そのまま着替えもせずに窓から飛んで出て行ってしまった。
残された鵬達臣下は、もう本当に維月に宮へ戻って欲しいと思っていた。
維月が自分の部屋で返事はまだかなぁと呑気に座っていると、いきなり空から何かが降って来た。
え、と庭へ視線をやると、そこから低空を飛んで維心自身がいつも政務に出る時に着ていた、着物を着てそこに居た。
「…え?!」
維月が仰天していると、維心はそのまま部屋の窓を開いて矢のような速さで維月の前に来て、その手を握った。
「淋しい想いをさせてしもうた。すまぬ、会合に出ておってな。」
維月は、その手に自分が送った短い歌だけの文があるのを見て、読んですぐに飛んで来たのだと悟った。
…そうだった、維心様はそんなところがお有りなのに。
会合の最中であったなら、今頃臣下が困っているだろう。
維月は、焦って言った。
「ま、まあ、申し訳ありませぬ。私が我儘を申したばかりに維心様のお仕事のお邪魔をしてしまい申して…。」
維心は、首を振った。
「良い、我が妃が我に会いたいと思うて何が悪いのだ。本日は謁見もなかったし、会合が終わればこちらへ来るつもりだった。ゆえ、良いのだ。」
でもまだ終わってなかったのでしょう。
維月は思ったが、自分のせいなので黙っていた。
維心は、維月を抱きしめて言った。
「離れておるのがつらいのは我も同じ。いっそ我がこちらで政務を執り行えば良いのだが。臣下にこちらへこさせようか。」
維月は、ブンブンと首を振った。
「そんな!そこまでなさらなくとも良いのです。あの、誠に私が浅はかでありました。維心様にご心配をお掛けすることになってしもうて。あの…昨夜申された美穂様の件で。綾様に御文を遣わせて、お返事が参りまして。それを読んで恋しく維心様を思い出しただけですの。」
言われて見れば、維月が座る大きなソファの上には、綾の手で書かれた文が置いてあった。
維心は、維月の肩を抱きながら隣りに座り、言った。
「読んでも良いか?」
維月は、頷いてそれを維心に手渡した。
「はい。ご覧になってくださいませ。」
維心は、それにザッと目を通した。
そして、ため息をついて維月にそれを返した。
「…まあ、確かにの。渡はそもそも、そこまで妃が欲しいとは思うておらなんだ。それを回りがあれこれ手を回して、美穂自身が渡を気に入り今がある。渡はそこまで言うならと美穂を受け入れた形ぞ。中身が子供であったとて、育ててまでという気概はない。渡自身がそう申しておったからの。綾はよう分かっておるわ。」
維月は、深刻な顔で頷いた。
「はい、私もそのように。とはいえ渡様はそれぐらいで離縁など考えられないお気質。年を経て美穂様が落ち着けば、良い夫婦になるのではとも思うのです。ですが…それまで美穂様が堪えられるのかと案じるのですわ。これが私なら…維心様に疎まれたまま、何年も耐えられなかったと思うのです。」
維心は、維月の肩を抱いた。
「我は主を愛して迎えたし、分かっていて無理を申したのに神世に馴染ませるのも我の役目だと思うておった。何をしても愛おしかったし、成長を見守るのも楽しく思うておった。我と渡はその始めから違う。それに主は、努力をしてくれたしの。そこが主と美穂は違うのだ。」
本当に。
維月は、思った。
何しろ維心は、何も知らなかった維月が暇にあかせて庭の池で高価な錦鯉を釣り上げた時も、咎めることなく針を抜いて池へと返し、ここは釣りをする池ではないと教えただけだった。
それもひとえに維心の愛情ゆえだったと今なら分かる。
だが、それを美穂に話して分かってもらえるとも思えなかったし、渡が拗れた仲をどうにかしようと思っていないのも問題だった。
「維心様…私は維心様に導かれてここまで参りました。陰の月の私が何を申したのかもう覚えておりませぬが、誠に失礼なこと。私は維心様の御恩に報いるためにも、精一杯お仕えして参りますわ。」
維心は、維月を抱きしめて首を振った。
「何を申す。我も悪かったのだ。そのことはもう、気にするでないぞ。愛する主が我を愛してくれることが、我には幸福で嬉しく感じられてならぬのよ。この上は…またいつか、共に暮らせたら良いの。」
それには、龍の宮へ行かねばならない。
維月は、確かに維心と共に居たいのに、と、月の宮を出るべきなのか悩んだのだった。




