子
キリルは、外へ出て人型になった。
回りの霧が、何やら敵意を持っているように、身に痛い心地がする。
自分は闇なのに、こんなに霧に敵意を向けられるのは、初めてだった。
生まれて初めての敵意にブルブルと震えてそこに浮いて、このままだと父上に母上を助けてくださいと言えないと困っていると、急に目の前の霧達がグアッと集まって大きく反り立ったかと思うと、それがみるみるうちに人型になり、維月よりも遥かに大きな人型の、男が目の前に現れた。
「…!!」
キリルは、初めてみるその姿と、膨大な気の圧力、そして何より、自分への敵意の強さに弾け飛んでしまいそうな気持になった。
「…お前か。お前が我から維月を奪い、隠しておるのか!」
その相手は、キリルが吹き飛んでしまいそうなほど、強い声で叫んだ。
キリルは、言った。
「我は!我は父上にお会いしなければならないのです!母上を、母上を助けてもらいたいから!闇の王の、ルシウスという名の闇に伝えて欲しいのです!」
ルシウスは、目を真っ赤に光らせながら、言った。
「…我がその、ルシウスぞ。」と、キリルを睨んだ。「我には子など居らぬわ!嘘を吐くでないわ!」
ルシウスは、手を上げる。
回りの霧が、キリルに巻き付いてグイグイと締め付け始めた。
「は、母上が…!我の、我の記憶を読んでもらえと…!!」
ルシウスは、ギリギリとキリルを締め付けながら、言った。
「うるさい!何故、維月を攫ったのだ!取り込もうとその姿か?!姑息な!どうやって術を解く!殺せば良いのならすぐに殺す!」
キリルは、気が遠くなりながらも、必死に声を絞り出した。
「我の…気配を…波動を…母上が、父上のお側で居た霧が我なのだと…それで、我を生み出したのだと…。」
気が遠くなって来る。
ギリギリと締め付けている力は、容赦なくキリルの気を奪っていて、その力がどうやら、締め付けられていると感じるようだった。
「波動…?」
ルシウスは、ようやくキリルの言葉が耳に入って来て、ふと自分が奪っている気を読んだ。
…確かに、この闇の気はここらの霧ではない。
しかも、その中にはルシウスと維月の陰の月の気が混じり合い、それがこの闇を構成しているのだと分かった。
「…主、」ルシウスは、力を弛めた。「維月の気と我の気が混じっておる…?」
キリルは、フラフラと浮いていられなくなって、岩肌に落ちて、言った。
「母上の、お名は、維月。我は、母上をお助けするために、膜から出られない母上の代わりに、隙間から出て参ったのです…。」
力が、出ない。
キリルは、その場にフラッと倒れた。
だが、岩肌に叩きつけられると思った体は、もっと柔らかい何かに受け止められた。
「…記憶を見よと申したの。」間近くで聴こえた声に驚いてキリルが顔を上げると、赤い瞳がこちらを覗き込んでいた。その目は、もうこちらを睨んではいなかった。「見せてもらおうぞ。」
ルシウスの手は、維月よりも大きくて、それでも優しくキリルの頭に触れた。
キリルは、気が遠くなって行くのを感じたが、これで母上が助かる、と、ホッと力を抜いて、目を閉じて気を失ったのだった。
維月は、遠ざかるこれまで居た場所に、なぜかまだキリルが居るような気がしていた。
…ルシウスは、キリルの話をきちんと聞いたのだろうか。
維月は、案じてじっと遠くを見ている。
多香子が、進む先に目を凝らしていたが、言った。
「…維月。」維月が振り返る。多香子は続けた。「無い。ルキアンが入っていた、膜が見えぬぞ。どこか別の場所に運ばれたのか、それとも我らが見えておらなんだだけで、我らだけが運ばれて、あの場所辺りに放置されておるのやもしれぬ。何しろ、霧が多かったゆえ、視界が全くなかっただろう。今は、少し霧が透けて来ておって、よう見えておるのだ。」
維月は、頷いた。
確かに、多香子が見ている先は、段々に視界がクリアになって来ていて、灯りがなくとも神の目には、ある程度見通せる。
霧があったら、それが阻むので見えないのだが、この膜は、段々に霧が薄い地域へと向けて、運ばれて行っているように思えた。
とはいえ、回りには誰も居ないように見えるのに、膜が動いているのは奇妙だ。
それが出来ているとしたら、どう考えても霧がやっているという事になるので、やはり闇が、やっているという事になるのだろうか。
維月が眉を寄せてまた、後方へと目をやると、後方から真っ黒な中、物凄い速度でルシウスがやって来るのが見えた。
「…ルシウス!」
維月は、思わず叫んだ。
多香子が、振り返ってそれを見て、そして驚いた。
ルシウスらしいその人型は、それは凛々しい浅黒い肌の、美しい顔立ちの男だったのだ。
前に、声だけを聴いて何と深い良い声なのだろうと思ったものだったが、あの声の主がこれなのかと思うと、多香子は我知らず顔が赤くなるのを止められなかった。
…とはいえ、これは闇なのだ。闇相手に、何を動揺しておるのか、我は。
多香子が首を振っていると、維月はルシウスの腕にキリルが抱かれているのを見て、ホッと胸を撫でおろしていた。
「良かった…ルシウスは、キリルの話を聞いてくれたのね。」
ルシウスは、維月と多香子が入った膜の真上で止まり、回りをキョロキョロと見回している。
膜の移動に従って、ルシウスも飛んで移動するので、どうやら膜がどこにあるのかは、分かっているようだった。
キリルが、下を指差して、何やらルシウスに言っている。
ルシウスが、うんうんと頷いてそれを聞いているので、二人がきちんと意思疎通をできているのがわかる。
維月は、膜の天井に手をついて、必死に言った。
「ルシウス…見えないのね。でも、ここに膜があるのは分かってくれているのだわ。」
ルシウスが、キリルを抱いたままこちらへ降りて来て、スッと手を差し出すと、膜の辺りを探るようにした。
どうやら、膜があるとキリルに聞いて、触れてみようと思ったようだった。
維月は、それを見てルシウスの手が触れた場所へと移動して、その手に膜の中から手を合わせた。
「ルシウス…私はここ。ここに居るの。」
ルシウスが、ハッとしたような顔をした。
そして、維月の頭の中に、声が聴こえた。
《維月、ここに居るのだの。聴こえるぞ。主の声、我に聴こえる。》
維月は、膜の中から膜ごとルシウスの手を握るようにして、急いで言った。
「聴こえるの?ルシウス、あのね、私、闇を作ったの。あなたの送り込んでいた霧が、あそこで籠められていたのよ。それが意思を持っていたので、私の気で力を籠めてみたの。そうしたら、闇ができて。その子は良い子なのよ。私の子。私達の子よ。お願い、この膜を何とかして欲しい。その子の記憶の中に、私の記憶を混ぜておいたわ。見た?」
ルシウスは、その膜を握り返して頷いた。
《見た。最初、これが事を起こしておると思うてしもうて。つらい思いをさせてしもうた。だが、波動を読んだら主と我の気がしたゆえ。我が子ということになるのかと思うた。維心も志心も来ておるが、十六夜と地上に居るはず。次に止まったら、あれらに術を破る術を試させる。浄化の炎と言うておった。利くと思うか。》
維月は、首を振った。
「分からないわ。ベンガルの術が混じっておるのは確かだろうけど…」と、ハッとした。「そうだわ!ルキアン、あの、行方不明だったベンガルのルキアンも、別の膜に籠められて一緒に居たの。でも、膜が移動し始めてから、姿を見ていない。はぐれたのか、それともどこかに放置されておるのか分からないわ。あの子の力を、何らかの方法で利用されておるのではないかしら。王族の末だって言ってたし…。」
ルシウスは、頷いた。
《知っておる。こちらも、いろいろ動いておるのだ。主に神達がなのだがの。我らは、碧黎も共に探るしかなかった。だが、碧黎は天黎に止められて、手を出すことができておらぬ。ゆえ、我らが来たのだ。これが闇の仕業であったとしたら、我を膜へ籠められるような闇は居らぬ。我に術を放った瞬間、その繋がりを伝って相手を取り込んで終わりぞ。相手もそれを分かっておるから、我の事を案じる必要はないが、神は違うからの。安易に維心と志心をこちらへ来させて良いのかと、今迷っておる次第ぞ。十六夜だけの方が良いのではないかの。》
維月は、何度も頷いた。
「私と違って、十六夜ならば闇が関わっておるのならあなたと同じで繋がった途端に相手を浄化浸食して消してしまうから、膜へ籠められる事はないと思うわ。でも、維心様と志心様は、来ない方が良いと思う。十六夜に言って欲しいの。浄化して欲しいって。」と、キリルを見た。「キリルは、私が基本的な事を少しだけ教えてあるから、相手を取り込んだり浸食したりはしないわ。もう、怖い想いをさせたくないから、ここから連れ出して欲しい。私はこの子を、我が子だと思うておるから。私が生み出したのだもの。」
ルシウスは、膜を握る手に力を込めた。
《分かっておる。我と主の気が間違いなく混じっておる、我らの子ぞ。我も最初戸惑ったが、そう思うて育てる事にする。我がこの子を守るゆえ、案じるでない。主は、己の事を考えよ。》と、キリルを見た。《キリル、母は主に先に地上に逃れておれと申しておる。後は我が何とかするゆえ、主は地上に。》
キリルは、目を丸くしてブンブンと首を振った。
何やら、パクパクと口が動いているのを見ると、ここに居ると言っているようだ。
ルシウスが、言った。
《我とて、何かあったら戦わねばならぬやもしれぬのだ。主と母を守って戦うのは無理ぞ。母を守って欲しいなら、主は安全な地上へ参れ。分かったの。》
キリルは、下を向いた。
そして、こちらを見て、小さな手をルシウスの手の上に乗せた。
《母上、我は父上のように強くありませぬ。ここに居たら足手まといになるので、地上へ参ります。でも、きっと戻ってください。》
維月は、必死に言うキリルに、涙が浮いて来て、頷いた。
「分かっておってよ。キリル、良い子。必ず戻るから。父上を信じて、待っておってね。あなたが無事だと思うたら、私もとても安心するの。分かったわね。」
キリルは、涙を浮かべながら頷く。
ルシウスは、言った。
《誰が聞いておるか分からぬから、ここでは方法は明かさぬが、我は主らの位置を追える。一度地上へ戻って来るが、また参るゆえ。主は、安心して待っておれ。分かったの。》
維月は、見えないのを承知で頷いた。
「待っているわ。ルシウス…キリルをお願い。」
ルシウスは頷くと、グッとまた維月の手を膜越しに握ってから、キリルを抱いてその場から霧となって消えて行った。
維月は、これで膜から出られるかもしれない、と、まだ進む膜の中で思っていた。




