空の場所
そこにある霧を食べ尽くした後、確かにキリルは、少し大きくなった感じがする。
とはいえ、まだ全く足りていないようだった。
維月は、じっとキリルを見つめて、言った。
「…もう、人格が固定されておるわね。こうなったら、少しぐらい性質の悪い霧を取り込んでも、あなたは変わらないわ。良かった、安定してくれて。」
多香子は、言った。
「そんなものなのか?」と、じっとキリルを見た。「我には分からぬが。」
維月は、頷いた。
「こうなることを望んでおったから。闇として安定しないと、簡単に他に染まるから意思の強い闇なんかに簡単に取り込まれてしまうところだったの。だから、これで一安心ね。」と、天井を見上げた。「後は、より多くの霧を摂取するよりないのよ。次に膜が開いたら、一気に引き込みましょう。私が居る限り、霧に勝手なことはさせないし。」
キリルは、言った。
「では、我はまた石を動かす練習をします。」
維月は、積極的に頑張ろうとするキリルに、微笑んで頷いた。
「良い子ね。頑張って。」
そんな様子も、ルキアンは黙って膜の中に座って見ていた。
だが、維月はそんなルキアンを完全に無視すると決めているらしく、そちらを気にしている素振りも見せない。
だが、多香子は膜の中で何もできないと分かっていながらも、先ほど見たキリルを見る目が気になって、チラチラとルキアンの方は気にして見ていた。
ルキアンは、じっと座り込んで下を見ていたが、ふと上の方を見た。
どうやら、あちらの気が無くなって来て、膜が開いたようだった。
霧も流れ込んで来るので、ルキアンは警戒しているのか、そんな霧を手で払うようにしている。
すると、霧は膜の上へと押し出されて、中へ入って来ることはなかった。
こちらから見ている限り、力の波動は感じられないが、かなり遠いとはいえ王族の血を引いているので、恐らくそこそこの力を持っていて、だからこそあっさりと追い出せるのだろう。
が、何やら膜の回りがそれで押し出された霧に囲まれて来て、向こうの中まで見えなくなって来た。
多香子が、睨むようにして目を凝らしていると、維月がそれに気付いて、言った。
「…どうしたの?」
多香子は、答えた。
「いや、あちらの膜がの。」と、ルキアンの方を示した。「開いたようで、中の霧をルキアンが押し出しおったのだ。それゆえ、あちらとこちらの膜の間に霧が充満して、よう見えぬようになったゆえ、気になっておった。」
維月は、そちらを振り返った。
確かに、霧が舞っていてあちらが全く見えなかった。
「…本当。膜の外まで、私には霧に指示を出せないから。出来たらとっくにルシウスに知らせを送っているものね。でも、中へ入って来ないのだから、あちらも大丈夫でしょう。」
多香子は頷いたが、ふと、膜が揺れるのを感じた。
「…?」
多香子が回りを見回すと、維月も膜がフッと浮いて、どうやら移動しようとしているように感じた。
途端に驚いて動揺するキリルを、維月は急いで抱き締めた。
「…どこかへ、また連れて行かれるのかしら。」
維月が言う。
キリルが、維月に抱かれながらじっと膜の外を見ながら、言った。
「…母上、どうやらもう一つの、外の膜が無くなったように見えまする。」
維月は、え、と外を凝視した。
維月には分からないが、キリルは何かを見ているようだ。
「…分からないわ。あなたには見えるの?」
キリルは、頷く。
「はい。なぜかわかりませぬが、外の膜の中に籠められておった霧達が、急に動き出したかと思うとスッと消えたのです。今、膜の回りを取り囲んでおるのは、別の霧です。」
膜の中に籠められていた霧が消えて、他の霧が流れ込んで来たの…?
維月には、わけがわからなかったが、自分を包んでいる小さい方の膜が、移動して行くのは見えた。
それも、前に移動していた速さとは、比べ物にならないほど速い速度だ。
「…何を急いでおるのだろうの。」
多香子が言うのに、維月も警戒して外を見る。
すると、背後の方から何やらぼうっと光るものが近付いて来るのが見えた。
「…あの光。」維月は、膜の最後方へと寄って、じっとそれを見つめた。「…十六夜?十六夜だわ、霧が触れた端から消えて行く!ああ十六夜、私はここよ!」
だが、その声が届くことが無いのは分かっていた。
膜は、十六夜の光から逃げるように、かなりの速度でその場を移動して奥へと進んで行っていた。
十六夜とルシウス、それに維心と志心がその、地下の長い洞窟の中を進んで行くと、先頭を飛んでいたルシウスが、ハタと止まった。
そして、回りを見回して、言った。
「…霧が充満しておる。」と、十六夜が来たからか、大混乱であちこち退いて行こうとする、霧を手を翳して引っ張った。「待たぬか。見せよ。」
十六夜は、霧を手にじっと何かを見ているルシウスの近くへと寄ったが、霧がびくびくしているのを感じて、そこで止まった。
ルシウスは、眉を寄せて、霧から手を離した。
霧が、サーッとあちらこちらの岩の隙間から、どこかへ散って逃げて行く。
ルシウスは、言った。
「…あの霧は、我らがここへ近付くほんの数分前にこちらへ流れ込んで来ただけのようぞ。急に、門が開いたかのようにここへ流れ込めたようだの。つまり、ここに膜があったとしたら、それは逃げたということぞ。まだ、それほど時は経っておらぬ。」と、暗闇に目を凝らした。「…あちら。範囲は狭いが、小さく霧がない場所が移動して行くのを感じる。こうして見ると、霧が充満しておる場所ならば、そこに何もないことで、そこに膜があるのだと気取れるゆえ良いな。」
維心が、後ろから言った。
「ならば、もしや十六夜ではないのか。これが居るから、それを気取って必死に逃げておるのでは。つまりは、維月を籠めたのは、闇なのではないのか。」
ルシウスは、眉を寄せたが反論しなかった。
何しろ、膜の中は全く見通せていないので、そうではないとは言いきれないのだ。
十六夜が、言った。
「そう言うが、オレが居ないと膜を破る浄化の力はどうするんでぇ。」
維心は、答えた。
「我と志心が居るゆえ、浄化の炎ならばできる。」と手を上げた。「もし、これで利くならばであるがの。」
維心の手の上には、紫色の炎が浮いた。
それを見た、ルシウスが目を細めた。
「…嫌な気ぞ。消されはせぬが、それで攻撃されたら我らでも無傷ではおられまいな。あまり傍に居たくない。」
十六夜が、むっつりと言った。
「…てぇことは、オレは来るなって?なんか知らん相手が逃げるから。」
ルシウスは、十六夜を見て、頷いた。
「その方が良いやもな。主の気配、我らにはかなり遠くであっても気取るのだ。何より天敵であるからの。」
維心は、言った。
「主は地上から我らの気配を追って見ておってくれぬか。そうよ、我の目を使え。それを許すゆえ。」
十六夜は、ジトッとした目で維心を見た。
「…分かった。お前がそこまで言うなら、外から追ってる。お前の目を使うぞ?後で文句言うなよ?」
維心は、何度も頷いた。
「良いというに。とにかく、あれらを追ってこの浄化の炎が利くのかどうか試してみぬことには。」と、ルシウスを見た。「ルシウス、どの辺りぞ?」
ルシウスは、じっと真っ暗な穴の先を見つめて、言った。
「速度を上げておる。ま、どこまで逃げても、回りに霧が充満しておるのに、不自然に無い場所などすぐに見つかるわ。行くぞ。」
志心は、先を見て顔をしかめた。
「いくら憑かぬと分かっておっても霧の中に突っ込んで行くと思うと良い気はせぬの。」
維心は、言われてみたら全く見えない真っ暗な中を、ルシウスだけを頼りに進むのは心もとない、と思ったが、しかし引き返す選択肢はない。
「参るぞ。ルシウスが居るゆえ、霧は我らに憑かぬだろうが。ここが我慢のしどころよ。」
ルシウスが、飛んだ。
「参れ。我の気配を追って。」
ルシウスは、何のためらいもなく目の前の真っ暗闇へと飛び込んで行く。
維心と志心も、覚悟を決めてその、霧の海の中へと飛び込んで行ったのだった。




