花見
その日は、例によって維心のお陰で晴れ渡っていた。
月の宮では昨夜まで降っていた雨の後を綺麗に乾かして、花見の席を滞りなく整えて皆の到着を待っていた。
今日は維月も花見の席に同席することになり、龍王妃を降りて以来、初めて公の場に妃として出ていくことになっていた。
龍の宮からは万華で仕立てられた着物が届いていて、あちらからしても維月のことは、妃として考えているようだった。
宮の仕事をできない女だと臣下が反対したとしても、維心が通っている時点でもう、妃なのであちらもそうするよりないだろう。
維月は、それでもその方が何やら気が軽かった。
龍王妃であった頃は、臣下のことも必死に見てそれは気を張っていた。
それが今ないので、とても楽なのだ。
維心に愛され、愛していたら良いわけなので、これほど楽な立場はなかった。
維心はこのままでも、王妃に戻したいといつも言っているが、なので維月はこのままで充分だった。
維心は前日の夜からここに居るので、到着を待つ必要もなく、維月はその仕度を手伝って、自分も着替えて皆の到着を待っていた。
「…懸念も消えて、良かったことよ。」維心は、自分の対の居間で、維月を横に座って言った。「志心から正式に、漸と話し合って、過去の遺恨もなく友好関係を築くため、犬神の宮から妃を迎えると皆に通達があった。つまりは、多香子が承諾したのだな。公にあの宮との婚姻は禁じておるから、宮と宮との友好のためと言えば、誰も文句は言えぬとそうしたのだろうの。」
維月は、見て知っていたが、頷いた。
「はい。皆様大層驚かれておりまして、月から見て十六夜と笑ってしまいましたわ。炎嘉様など、即白虎の宮に飛んでいらっしゃいました。焔様はやっとかと安堵なさっておって。珍しく皆に隠し事などあったので、気詰まりであられたようで。」
維心は、クックと笑った。
「あれは正直であるからな。まあ、後は様子見か。多香子は松に学んでから入内しようと考えておるとか。学びは進んでおるか?」
維月は、真顔になった。
「それなのですわ。松は確かにようできた皇女の様でありましたが、最上位の3位となるとまだ不安のようで。恐らく漸様から、本日維心様にお話が。私に残りは教育してもらえぬかと申して来ておりまして。私は維心様の妃であるので、一存では決められぬので、漸様から我が王に申して欲しいと返しました。私は良いのです。維心様には、よろしくお返事を。」
維心は、頷いた。
「良い。志心の妃であるからな。主なら我が宮でやっておったのだし、しっかり教えられよう。ならば頼んだぞ。漸にはそのように答えよう。」
維月は、頷いた。
「はい。任せてくださいませ。」
そこへ、侍女が入って来て頭を下げた。
「皆様お揃いのようでございます。龍王様には、どうぞ南の庭へお越しを。」
維心は、頷いて立ち上がった。
「参ろう。」
維月は頷いて、維心の手を取って歩き出した。
久しぶりの席に、さすがの維月も緊張していたのだった。
緊張気味に庭へと向かうと、そこには例年通り桜の下に赤い毛氈が敷き詰められていて、皆が座ってこちらを振り返った。
久しぶりに直に見るその様子は、皆の衣装が色とりどりに華やかで、それは美しく、また緊張を強いる品の良さだった。
妃達は皆、深く頭を下げているが、維月は龍王妃ではない。
維心の妃なので確かにそれなりの地位だが、そこまで厳格に維月が上、ということでももうなかった。
なのでこれは、維心が居るからなのだと己に言い聞かせて、維月はその正面の空いている上座に、維心と共に収まった。
ここは、初めての場のようにおとなしくしていよう。
維月は、思って扇を上げたまま、しっかりと目を伏せて黙っていた。
すると、炎嘉が言った。
「維心、こんな場へ維月を連れて参るのは久しぶりだの。それにしてもしばらく見ぬ間にやたらと他人神行儀に。」
維心は、言った。
「確かにの。」と、維月を見た。「そこまで初対面のふりをせぬで良いのだ。ここは身内ばかりのようなものであるし。」
維月は、ため息をついて目を上げた。
「はい、王よ。」
でも、ただの妃だもの、偉そうにはできないわよ。
維月は、内心そう思っていた。
漸が、言った。
「相変わらず物を分かった様であるのは心強い。というのも、多香子の教育を、松に頼んでおったのだが、松には最上位の中の上位の振る舞いなど分からぬと申して。良いところまでは教えたのだ。あやつはかなり物覚えが良いらしくて、この七日で見違えるほどにこちらの女のような動きをするようになった。他のことを、維月に指導してもらえないかと思うのだ。」
維心は、聞いていたことだったので、すぐに頷いた。
「良い。維月ならば細かい動きも務めも合わせて教えられるだろう。」と、維月を見る。「頼んだぞ。」
維月は、頷いた。
「我でよろしければ何なりと。お力になりとうございます。」
ここは定型文でお茶を濁しておこう。
維月は、思ってそう言った。
何しろ公の場での、妃の立場とは弱い。
王妃と違ってぽんぽん王に意見を言うのも立場を弁えないと言われてしまうので、以前とは違うのだ。
何やら勝手が違うのに、皆は居心地悪そうにしているが、これが本来の様なのだから仕方がない。
維心が、言った。
「維月よ、我からしたら主が正妃の心地は変わらぬのだから。確かに宮で同居しておらぬからと臣下は渋るが、本来戻したいのだ。鵬だって毎日宮にお戻りにさえなればと嘆いておるのに。」
維月は、息をついた。
「…はい。それでも公の場では弁えねば。我は宮に上がることができぬのですから。」
焔が、言った。
「維月が言うのはよう弁えたことぞ。無理を申すでない。そのうちにもっと闇が落ち着けば、戻るやも知れぬし。これで良いのよ。でないと宮での宴などに出るようになれば、もう降りた妃がまだ王妃のようにと陰口を叩かれるのは維月なのだからな。維月は、分かっておるのだ。」
焔が、やけに分かった風なことを言う。
維心は、ため息をついた。
「…確かにの。」
すると、綾があちらの翠明の横で何やら翠明に耳打ちし、翠明が渋い顔をしながら言った。
「…妃だけで桜を眺めて参るか?綾が皆で散策したいと申す。」
そちらを見ると、綾と目が合ってその目は微笑んでいる。
維心は、それを気取って頷いた。
「確かにの。」と、維月に言った。「言って参るか。」
維月は、頷いた。
「はい。お許し頂けますなら。」
維心は、またため息をついた。
「行って参れ。」
維月は頷いて、そうして完璧な所作で立ち上がると、他の妃達、綾、椿、桜、志穂、恵麻、明日香と共に会釈し合って、その場を離れて行った。
それを見送りながら、漸は言った。
「…維月はあれだけ強い気質の女であるのに、己の立場を分かって振る舞えるのには感心しきりよ。あれに任せたら、我が宮の評判も下がらぬかの。」
炎嘉、言った。
「常とは違うゆえ反って躊躇うわ。とはいえ、あれは意外だが妃の振る舞いも弁えておるとはの。ずっと王妃であったから、知らぬかと思うておったのに。」
維心は、答えた。
「それは長年龍王妃の座に居たのだし、妃のことも学ぶ機会はあったわ。だが、我としてはあれが卑屈になる必要などないと思うておる。我にとり、あれはいつなり我が正妃ぞ。肩書きなど関係ない。」
だが、世はその肩書きを気にするのだ。
志心が、言った。
「…漸は何を気にしておるのかの。別に慣れるまで公の場に連れて出るつもりはないし、そこまで構えぬでも良いと言うのに。」
漸は、むっつりと志心を睨んだ。
「主が宮と宮との友好とか大層に言うからぞ。お陰で宮の沽券に関わると、皆必死よ。己もこちらの王妃にとか言うておった女達も、多香子の様子を見てあきらめたほどぞ。何しろ激変しておるからな。元々体を動かすのが得意であるからなんとかなったが、何故に歩き方から頭の下げ方まで事細かに決まっておるのだ。松が自然にやっておったからそうは思わなんだが、あれはかなり厳格だぞ。」
渡が、苦笑した。
「だからこそ幼いうちから厳しくしつけるのだ。それで生まれや育ちを判断されるからの。主も良い機会だから一緒に学べば良いのよ。」
漸は、とんでもないと首を振った。
「あんなもの、我には無理ぞ。まあ、だからこそ何やら品良く見えるのだから、仕草は大切よな。」
駿が、言った。
「それにしても驚いたものよ。志心殿が友好のためとか書いて来たゆえ、もしや我も迎えねばならぬのかと焦ったが、あれは建前なのであるな。誠に…急なことであるから。」
志心は、答えた。
「まあ、我とて意外なことであった。何やらふと、娶ってみるかとあの時思うてな。話しておったように、若い娘は今さらで、共に話せるのは老いた侍女とか、そんなところであったから。娶る相手など居らぬわとあきらめておった。それを、多香子は頭の良い女であるし、何より芯が強く努力家ぞ。男ばかりの中で10位にまでなったのだからな。あれならうまく行くやも知れぬと、まあお互いに賭けよ。多香子も試してみようと嫁ぐことに同意したのだ。後は、来てみないと分からぬ。」
炎嘉が、息をついた。
「誠にそのように。我とて中身は爺で、体ばかりが若いゆえ、臣下に誰か娶れと言われても、相手にならぬのよ。肉欲すらどこへ行ったというほどついぞ湧かぬしなあ。」と、渡を見た。「そう考えると那佐は大したものよ。あれだけ若い妃を娶って。」
渡は、顔をしかめた。
「まあ、時に面倒に思うこともあるが、娶ったからにはの。そのうちに追い付くだろうと根気よく教えておる。最近は、ちょっと叱ってしもうてなあ。」
え、と翠明が驚いた顔をした。
「あれが何かやらかしたか。」
何しろ本来気が強い奴だったし。
だが、渡は首を振った。
「いや、大したことではない。我が政務へ出ようとすると、まだ居て欲しいと駄々をこねたり、戻って来たら纏わり付いて離れなんだりするゆえ、いい加減面倒になってな。最初は訓練場に行ったりと居間に帰らぬようにして避けておったが、我だって休みたい。ゆえ、叱ったのだ。そもそも、炎嘉も言うように、もう肉欲などそうないからの。若ければ嬉しかったのやも知れぬが。」
聞くものが聞いたら羨ましい限りで、何をのろけてと言うところなのだろうが、ここには生憎かなりの精神年齢のもの達しか居ない。
なので、皆同情気味に頷いた。
「それは大変だの。して、それで落ち着いたか。」
渡は、ため息をついた。
「寄って来なくはなった。だが、何やら拗ねておって口を利かぬ。静かで良いゆえ放っておるが、そろそろあれが何か文句を言うて来そうだなとは思うておる。」
放置しているのか。
皆が思って我がことのように顔をしかめると、志心が言った。
「やはりな。若いとそれがあるものの。我はもう、そういうのは疲れたのだ。多香子がそうでないことを願っておるよ。」
王達は、そうやって取り留めもないことを話して、時を過ごしていたのだった。




