来訪
維心が、月の宮にやって来た。
蒼が出迎えて挨拶してから、維心は維月が待つ自分の対へと向かった。
そこで、維月と対面した維心は驚いた…維月は、昔龍の宮で対していた時のような、気を抑えた状態で待っていたのだ。
維心は、言った。
「…本日は、様子が違うようだの。」と、手を差し出した。「これへ。」
維月は頭を下げてから、その手を取った。
「はい。十六夜が、神と接する時は等しく気を抑えておくべきだと申すので。」
十六夜は知っているから。
維心は、思った。
「そうか。確かにの。我も、主と約したことを違えてはならぬし、その方が良いかと思う。」
維月は、頷いてそのまま、手を引かれるままに維心と隣り合わせで、椅子へと座った。
「それで、何か変わったことは?」
維月は、答えた。
「特にありませぬ。ルシウスが十六夜に言われて、私の仕事を肩代わりしてくれておるので、今はとても楽になりました。なので、あまり月に昇ることもなく、裁縫をしたり、時に降りて来た十六夜と過ごしたりしておりますわ。ですが、私はやはり月の眷属ですので…時に闇達に指示を出したりはしております。」
維心は、言った。
「この二十年で、すっかり月の眷属のような様になったと我も思う。前は、やはりどこか人や神のような動きをしておったもの。今は、心の底からこちらの命か。」
維月は、頷いた。
「はい。やはり、それが楽なのだと感じました。同じ眷属なので、気を遣う必要もないので…蒼ですら、私の気にも全く動じませぬし。何かしてしまっても、十六夜やお父様がすぐに何とかしてくれますし。今は、ルシウスも遠くから見ていて補佐してくれますの。気楽に過ごさせてもらっておりますわ。」
つまりは、龍の宮では気を遣いっぱなしだったのだろう。
何かやったら十六夜や碧黎を呼び出さなければならないし、しょっちゅう呼ぶわけにも行かない。
維月には、今の暮らしが一番向いているのだろう。
「…やはり、主は昔我が宮で無理をしておったのだな。やはり同じ眷属の方が、確かに主も楽であろう。我が人世で生きるようなものであろうし。」
維月は、そう聞いてふと、思い出した。
前世、あまりにも十六夜と維心が諍いを起こすので、維月はもう無理だと神世を出て人世に姿をくらましたことがあった。
その時、維心は維月を追ってやって来て、維月がそこに残るのなら、自分もそこに残ると言い、人世での仕事のことまで考えて来ていた。
あの時の維心は、維月とならどこで暮らしても良いとまで言っていたのだ。
今の維心は、どうなのだろう。
維月は、思って維心を見上げた。
覚悟と言えば、確かに覚悟はしてくれている。
だが、一度心が壊れたのは維心も同じなのだし、そこまで深くは思ってくれていないのではないだろうか。
当初、こちらへ通うようになった時は、そんなに深い感情は感じなかった。
だが、こうして見ると十六夜が言っていたように、何やら術の気配がして、維心は自分の気持ちを隠しているようだった。
維月は、よし、と覚悟をして、言った。
「…維心様は、もし私が今、龍王位を降りてこちらで暮らして下さいませと申したら、どうなさいますか?」
維心は、驚いた顔をした。
「それは…つまり夫婦に戻ってということか?」
維月は、頷いた。
「はい。私はやはり、正式に龍王妃にはもう、戻ることはできませぬ。何故なら、もう月の眷属として生きることに、満足してしまっているからですわ。つまり、このままでは永遠に、私達は夫婦には戻れませぬ。今の状態では、維心様は新たな龍王妃を定めることもおできにならないし、ずっとご不自由をお掛けすることになります。ですが、維心様が王位を捨ててこちらに来られるのなら、夫婦に戻ることもできますでしょう。どうお考えになりますか?」
維心は、答えに窮した。
維月はやはり、もう戻るつもりはないのだ。
月の眷属として生きることを決めて、それに制限がかかる龍王妃を続けるつもりは、もうない。
だが、維心が望むなら、王位を捨ててこちらに来るかと。
維月は、維心の心を試しているのだろう。
そして、そこまででないのなら、もうこの中途半端な関係を、終わりにしようとしているのを、維心は感じた。
龍王位など、いくらでも捨てられる。
維心は、思った。
だが、自分が居なくなった後のことはどうなるのだろうか。
…宮では、維明が跡を継ぐ。その後維斗が第一王位後継者になり、その子の維知が第二王位後継者となるだろう。
先は続く。
神世はどうだろう。
会合では、変わらず炎嘉が回す。他の王達も維明を補佐して回る。
世は、新たに序列を再編した直後より、ずっと落ち着いていて面倒も少なくなった。
闇や霧の調節で、人も穏やかになり、世界の神は全てが一つになって地上を守っている。
月と闇は和解している。
志心が言っていたが、未だかつてないほど、世は穏やかに落ち着いて回っているのだ。
今、自分一人が居なくなったからと、どうなることはない。
そもそも死ぬわけでもあるまいし、困ったことがあればここに聞きに来るだろう。
維心はそれに気付いて、目を瞬かせた。
「…確かにの。」え、と維月が驚いた顔をすると、維心は続けた。「そうよ、主があちらへ戻れないなら、我がこちらへ来れば良いのだ。これまで、王座を降りることなど考えられないと思うておった…何しろ、黄泉から急いで戻らねばならないほど、必要とされていたからの。だが、今の世はどうよ。維明も維斗も維知も居るし、かつての神も戻って未だかつてないほど安定した編成ぞ。月と闇が共存し、地上は平穏そのもので、我一人が居なくなったからと、どうにかなる様ではもう、なくなった。我は王位を降りられる…今なら、降りることができるぞ!」
え、マジで?
維月は、自分で言っておきながら焦った。
だが、常維心は王座など要らぬと言っていた。
結局自分が居なければ、神世が回らなかったから降りられなかっただけで、今なら行けると思ったのだろう。
「え、え、維心様、王座を降りるのですか?王位を捨てて来られると?」
維心は、維月の手を両手で握りしめて何度も頷いた。
「元から王位など要らぬと思うておった。主と気楽に過ごせたらと、昔から何度も考えたが叶えられなかった。今なら、それができる。何しろ、今の世はこれまでとは比べ物にならぬくらい落ち着いておるのだ。主を窮屈な地位につけぬでも、我はこちらで主と暮らして行ける。そうしよう、維月。我は龍王位を降りる。」
ええええー!!
維心は、維月を嬉々として抱きしめている。
維月は、思いつきで言ったのに、と、どうしようと十六夜と碧黎の気配を探って視線を宙に動かした。
空間からは、碧黎と十六夜の、呆れたような気が伝わって来たのだった。
それから、維心は譲位のことばかりを話していて、できたら七夕で公表しようかとか言い出したので、維月はそれは止めた。
まだ、仮に譲位するにしても、引き継ぎもあるし皆に納得させるだけの理由が要る。
維心からしたら自分が譲位を決めたのだから譲位だと言うのだろうが、維心ほどの健康で若い神が、あっさりと王位を降りると言って、はいそうですかとは、臣下は納得しないのだ。
臣下どころか、炎嘉や志心、焔や箔炎など、最上位の中でも昔から共にやって来た神達が、それを許すかという事なのだ。
恐らく、否だろうと思われた。
炎嘉など、維心がそう言うなら自分も譲位するわとか言って、さっさと炎月に代を譲ってしまいそうで怖かった。
箔炎だって次の代はもう居るし、あの中で次の代が居ないのは、志心ぐらいのものだった。
志心が拗ねて、だったら宮を閉じるとか言い出したら、また面倒な事になる。
維月は、つくづく浅はかだったと自分の勢いに任せた言動を悔いた。
そんなウキウキとした様子の維心をなだめてから、碧黎に挨拶をして来ると維心の対を下がった維月は、一目散に自分の部屋へと走った。
十六夜に、何としても話しておかなければならないからだ。