もう
次の日の朝、維心は結局答えも出ないままに、炎嘉に心配そうに見送られて、月の宮へと向かった。
その輿の中で、自分にしっかりと術を掛けて、維月に自分の欲など気取られないようにと、しっかり装った。
義心から、途中道すがら、龍の宮に七夕の客が入り始めている、と報告を受ける。
今年の七夕は、西や東の大陸からも多く呼んでいるので、時差もあってあれこれ面倒になるので、その一週間前から龍の宮に滞在することを許していた。
とはいえ、皆そんなに暇でもないし、今日は島の会合でもあるので、明後日の七夕を前に、そこまで多くの神達は、まだ集まっていないはずだった。
恐らくほとんどの神は、明日か、明後日の当日朝に来る事になるだろうからだ。
維心は、今日は月の宮へ行き、そこで泊まって明日の朝、維月と共に龍の宮へと帰って七夕の準備をすることになっていた。
…王妃として宮へと帰って来るのは否でも、通い婚という形だったらどうだろうか。
維心は、考えた。
箔炎も言っていたが、龍王妃という地位はやたらと面倒だ。
だからこそ、何事にも不自由ないと言えばそうだが、維月は月の眷族で、月の宮で充分に何不自由なく暮らしていけていた。
わざわざ、龍の宮に籠められる生活に、戻ろうと思うかと言われたら、維心なら否だった。
ならば、回りが思っている通りに、通い婚という形にまで戻るという事を、提案してみたらどうだろう。
維心は、輿の中で小さく言った。
「…ルシウス。龍の宮へ入るのではなく、このままの形で婚姻関係に戻るというのはどうであろうか。」
ルシウスの声が、答えた。
《…それなら、大丈夫ではないかの。婚姻関係というのは、結局のところ肉体関係があるかなしかということであるのだろう?我らの意識では、そっちはそう重要な事ではないから。それぐらいなら、これまでだって、主が我慢などせずとも別に維月はできたのではないかと思うが。》
そうなのか。
維心は思ったが、複雑だった。
「…それは、主らのその意識を我も持てるようにと堪えておっただけなのだ。維月の信頼の問題ぞ。」
ルシウスは、言った。
《ふーん、まあ主らはそうか。だが結局は、それを求めておるわけであるよの。》
そう言ってしまったら元の子も無い。
維心は、ため息をついた。
「…分かった。ここまで堪えたのだし、今少し様子を見る。結局、主らにとって婚姻など別に意味はないわけであるな。」
ルシウスは、頷いたようだった。
《その通りよ。今さらに理解したのか?たかが体を繋ぐだけのことで。まあ…口づけるのは確かに心地よいゆえ、体を繋ぐのも良いのだろうなとは思うが、それほど悩む事でもないしなあ。我は、口付けだけでも充分良い。》
維心は、むっつりと言った。
「…それはつまり、主は維月としておると?」
ルシウスは、あっさり言った。
《しておる。顔を合わせる度にな。主だってしておるのではないか。体と何が違うのかと我は思うが、そんなものなのだろうの。維月も、これ以上は神世で面倒な事になるから、お互いに必要ないならやめておこうと申すから、我もそれに従っておるのだがの。我は別に、どっちでも良いし。》
また、どっちでも良いか。
維心は、この眷族たちのこの境地には、本当にまだ、達してはいなかった。
なぜにどっちでも良いとなるのだろう。
「…我らが正式に婚姻関係に戻ったら、他とはそういう事も制限されるとなると、主も否と思うのでは?」
維心が少し、イラっとしてそう言うと、ルシウスはクックと笑った。
《何を言うておるのよ。主に我らを止めることができると思うておるのか。我は主が居る宮の中へでも入って行って、気取られずに維月に会うことができるぞ?陰の月が居る所へなら、我はどこへでも出現できるからの。主らが言う、奥で我らが体を交わしておろうと、主には気取ることもできぬわ。主がそんなことを言うておられるのも、我らの善意からだとまだ分かっておらぬのだな。そんな事では、維月はあの宮に帰らぬ。主の意識は、二十年前から変わっておらぬということだからの。今度こそ決定的に別れることにならぬよう、維月を望むのなら慎重になるが良い。今の主では、あれの望みを叶えることはできぬ。》
維心は、ムッとしたが、言い返すことができなかった。
執着が、やはり愛情が復活して来ると自分には湧き上がって来るのだ。
維心は、フンと鼻息を吐くと黙り込み、やはり今回は、維月に再婚の事を言うのはやめておこう、と思ったのだった。
維月はといえば、まだ悩んでいた。
維月から見て、維心は愛しているのだが、昔のように何をもとりあえず深く愛しているわけではない。
それは、あの話し合いの時に壊れてしまった何かが、まだ復活していないということだ。
こんな時に、維心と体の関係に戻ることで、また龍の宮で奥に引きこもって一心不乱に励むのは、難しいと思われた。
今のまま、ここで恋人関係のように過ごすことで良いなら、別に体の関係を持っても良い。
今の維月は、それにそこまで重きを置いていないからだ。
だが、維心から見たらそんなに軽いことではないはずなので、簡単には元に戻ることはできそうになかった。
今の維月にとっては、十六夜も、ルシウスも、維心も同じように愛していて、誰が一番か決めろと言われたら十六夜だ。
十六夜は、こちらの我が儘も、こちらの価値観も、全てをまるっと受け入れてくれる懐の深さがあって、誰を愛したとか、誰と口付けたとか、別に気にすることはない。
あの、闇との共存に向けての話し合いの時でも、一番闇に対して心に嫌悪感を持つ十六夜だけが、維月の話を聞いて、理解しようとしてくれた。
いつの時も変わらず、十六夜は維月の一番の理解者なのだ。
十六夜は維月の心を自分の心のように考えてくれるところがあって、深く説明しなくても、分かってくれるのだ。
今の維月の心境では、十六夜だけに縛られると言われた方が、まだ受け入れることができた。
十六夜は、そもそもそんなことは言わないのだが。
維月がため息をついていると、十六夜が言った。
「維月。維心がこっちへ向かってるぞ?そんなとこで座ってて良いのかよ。」
維月は、十六夜を振り返った。
「…あのね。ほら、維心様との関係の話。私、まだ無理だわ。別にここで体の関係になるだけなら良いのよ。でも、そうすることでまた、正式に王妃として戻ることになるのなら、私にはまだ無理。龍の宮で、維心様だけにお仕えして生きる気持ちには、どうしてもならないの。あの時壊れた何かは、私の中で復活してないわ。多分、あの時感じたように、二度と復活しないんだと思う。」
十六夜は、今は直径一メートルほどになった縁を見つめながら、息をついた。
「まあなあ。それはそうかもな。」
何しろ、あの頃の縁は直径数十メートルはあった。
お互いに長い間、深く想い合って培った縁の太さだった。
今の縁の太さは、維心からだけの気持ちでここまで来たようにも見える。
ちなみに、十六夜と維月の縁の繋がりは、その昔から変わらない。
パッと見たらその辺り一帯に広がる光のようにしか見えないぐらい、太いものだった。
しかし、それに気付いていない維月は、怪訝な顔をした。
「…なに?分かってたみたいに。」
十六夜は、答えた。
「お前からの気持ちがまだ、そこまで復活してなさそうだからよぉ。お前はじゃあ、どうしたい?神世の理は知ってるよな。今、維心が復縁しようって言って来たら、断るのか。」
維月は、渋々頷いた。
「ええ。昔のようにお仕えできないわ。今のように、必要な時だけあちらに帰って王妃をするならできるけれど。それは、務めだと思っているから。正式に離縁していないのだし。」
十六夜は、息をついた。
「だな。分かった、まあ、維心はそこまで強くは出て来ないと思うぞ。一昨日オレが言いたかったのは、維心の頑張りも考えてやれってことだ。会う時は、昔みたいに気を抑えた方がいい。今の維心には酷だと思うぞ、お前の気。」
言われてみたらこの二十年、公式に出て行く時以外は気を抑えたことがなかった。
「…分かったわ。気を付ける。私には…まだ、維心様のご希望には応えられないから。神の価値観は知ってるし、また他の男がどうのと言われたら、私も困るもの。別にね…誰かと婚姻とか、考えていないの。十六夜が居るし…お父様だって。ルシウスも、私から見るとあなたととても似ていて、接するのがとても楽なの。もう、神の王達とそうやって過ごすのは、無理かもしれないわ。やっぱり私は、月の眷属なのよ。」
一度壊れたものは、やっぱりもとには戻らないか。
十六夜は、そう思いながら、やはり新しい形が出来上がってしまっているのだなと少し、寂しく思っていた。