混線
混線
トイレットペーパーが直に置いてある。
駅のトイレはいつも汚く見える。
山田マネキはそう考えながらエスカレーターを下った。
電車に乗っている時に電話が鳴った。いつものことだからマナーモードにしておくのを忘れていたのだ。マネキはそのまま鳴りっ放しにしておいた。
どうせそんなに混んでない電車だ、ガラケーが恥ずかしかったのもある。皆が鳴り終わるまで白い目で見ている。
降車駅で確認すると知らない番号だった。留守録も入っていない。
「お客様ご案内中です」ホームでアナウンスが言っている。見ると目の不自由な女の子が電車に乗るのを手伝われているところだった。
それっきり電話のことは忘れていた。
夜になってまた電話が来た。
出ると、「ああ、・・ああ、・・山田くん? 私、飯川舞」同級生にそんな人いたかなあ。
「私、クランケなの」
「クラゲ?」
「んん、クランケ。今、何やってるの?」
「おう、普通に。清水何やってるか知ってる?」
「そんな人、知らないよ」
「ごめん、飯川って誰だっけ」同窓会か何かの連絡かと思った。
「今、私は患者でね、手術を待ってるの。聞いてる? 山田くん」
「いや、知らない」誰だ、こいつ。
「中学? 高校?」
「私に会ってほしいの」
出会い系?
「あなた、誰なんですか」
「私、ドナーになってるから」
それでその電話は終わった。向こうから切れたのだ。
マネキは自分のガラケーを見た。この携帯にはGPSが付いてない。
また、今度はマネキから電話をかけてみた。
「・・ツーツツツー・・」
「あれえ?」通じない。マネキは自分の電話帳を見ていた。
少しもしない内にまた同じ番号からかかってきた。
「私、飯川舞」
「すいません、出会い系とかそういうの?」
「違うの、ともかく聞いて。切らないで。お願いよ。私に会って」
「君に会うって、どうやって? そろそろスマホに変えるからその時・・」
「いつ廃止されるの、この携帯」
「ガラケーは・・、22年3月まで」
「私、多分それまで生きてないから。このままにして」
「それどういう事? ねえ、これ一体何?」
「お願いよ。私に会って」舞はそれだけ言うだけで、なかなか切ってくれなかった。
やっと電話が終わってマネキはため息を吐いた。
お願いよ。私に会って、か。
ドナーの臓器の提供を受けた人はレシピエントというらしい。
忘れていた頃、また舞からの電話がかかってきた。
「携帯ぐらい持ってないとだめだから」と舞は言った。
「明日、手術」それから、舞からの電話はかかってこなかった。
空が青いのは朝の内だけ。
マネキはとにかく、スマホにするのはもう少し待っていようと思った。
忘れていた頃、駅でまたあの女の子に会った。ピンクのミュールを履いたコゼットのような娘だが、今日はほうきを持っていない。
どころか、自分の足で歩いている。目が開いているのだ。
見えるようになったのか。レシピエント、レシピエント・・。マネキは頭の中で呟きながら、思わずその子を二度見した。
「すいません、もしかして飯川舞さん?」
その娘はハッと振り向いて、首を振った。
「木場愛ですけど」
「ああ、」すいませんと頭を下げて、マネキは引き下がった。
愛を乗せた電車は遠ざかっていった。マネキには偶然のような気がしなかった。
それから駅に行く時には愛の姿を探すようになった。
ある日、ホームのエスカレーターに載っていると上を見るとピンクのミュールが人の足の間から見えた。
マネキは右側に寄り、上に歩いていった。
「すいません、木場さん?」
愛は驚いたように振り返った。
「ああ、いつかの・・」
「君って、・・もしかしてレシピエント?」
失礼なことを言われたように愛は顔を赤くした。
「見えるんだよね?」
「何なんですか、あなた」二人とも上り切ったエスカレーターにつまずきそうになった。
「話、聞かせてもらえないかな、実は知り合いが・・」
愛は同情するような目になって、「どうかされたんですか」
駅の中のファストフード店で一緒に食事をした。
「信じられないような話ですけど・・」話を聞いた愛は口ごもりながら言った。
「その飯川さんって方が、私の・・?」
「そうとしか思えないんだ、いや、僕の早とちりだけど」
「10代の若い子だって聞いてますけど」愛は濡れたコースターを押した。
「この番号にかけてみてくれる?」マネキは取っておいた黒いガラケーの中身を見せた。
「あ、これ、ガラケーって奴ですよね? ちょっと見せてくれます」
愛は物珍しげにガラケーを撫でたり触ったりしていた。
コーラをストローで吸いながら、マネキは「久しぶりに見える世界はどう」
「何も変わってないわ」意外に冷たい声で愛は言って、ガラケーを返した。
「ここの番号にかければいいんですか」
「僕にも分からないんだけど」
愛は自分のスマホを耳元に当てていた。
「ツーツツツーってならない?」
「いや、どこかに通じてますけど」しばらく耳に当てて、「出ない」
「ごめんね、変な事に巻き込んじゃって」マネキは首の後ろを掻いて、そろそろ帰ろうかという気になっていた。
その時、コースターの上で愛のスマホが鳴った。慌ててマネキが取ろうとしてしまった。
「・・新世界病院?」
電話を聞いている愛の目はキョロキョロ動いていた。
マネキと愛は同じ電車に乗っていた。舞はその新世界病院に入院していたらしいのだ。死ぬまで。
二人はやっと来た舞の関係者だと思われたようだった。
「電車に乗っているとあのね、あのねって話しかけてくるの」愛は暗闇の頃、何かの声を聞いた話をしている。
「点字の練習に行ってたんだけど、・・自分が幼い頃のこととか」その愛も今は窓外を見ている。
「ゆっくり聞かせてくれるかな」
川の向こうに新世界病院の建物が見えた。夕靄は黙っているよう。
新世界病院の中は昼のように明るかった。
案内されたのは引き取り手がいない遺体安置所だった。
「いつまでもこうしてる訳にもいかんし。自治体がやってる無縁仏で火葬にしてもらうか。お役に立ったご遺体だから・・」緑っぽい白衣を着た男はマスクの中で言った。
飯川舞の遺体は青白かった。
愛は舞の財布の中の保険証を見せてもらっている。
「あ、ホントだ。眼球・・」
マネキは舞の携帯電話を見せてもらっていた。
舞の電話帳は0になっている。自分で打ったのだろうか。
「山田さん、これ見てくださいよ」愛が見せた保険証の裏には備考の欄に「手放したくないもの 心」とわざわざ書いてある。
「住所が書いてありますけど」マネキは白衣の男に聞いてみた。
男は困ったように、「ここは病院だからね、探しに行くわけにもいかないんだ。それは警察の仕事」
火葬の時には呟くように小雨が降っているものだ。
マネキと愛の二人は二人だけ舞の遺体の火葬に付き合った。
もう技術の進歩で煙は出ないけど今、舞の残った体が灰になっているのだ。
「ねえ、行ってみましょうよ。阿含市」
それは舞の保険証にあった住所だった。
阿含に向かう電車の中でマネキは座って今日見た夢のことを考えていた。
今日は確か、タモリが保険外交員で2200万円稼いでいて他の芸人から羨まれるという話だった。その後、タモリは北海道の屋根を塗り直す仕事に文句を言って倒れるのだ。それを僕が助け起こして病院へ行く。
夢のかけらを今日も食べていく。今日、見た景色もいつか夢で見ることになるだろう。
降りた阿含は曇り空が落ちてきそうだった。
「飯川さんの家に行くの? 仏さんの近道の方が早いよ」おじいさんが教えてくれた。
仏さんの近道というのは寺の境内を通る道だった。
蜘蛛の巣のように街が入り組んでいる。
「里芋岩」と書かれた岩が寺の池に沈んでいる。
雪交じりの雨が降ってきた。
マネキも愛も傘を差して舞の家に向かった。
「家、ないなあ」住所に書かれていた所には舞の家らしき物はない。
人の手ほどもある羽根が階段に落ちていた。同じ階段には女が煙草を吸っているのか細い吸殻がいくつもあった。
「あの人に聞いてみよう」愛は傘の中から手を伸ばしておばさんを指差した。
「あんたたち、知らないの? どこから来たの?」おばさんは手を口に当てながら話した。
「お父さんが奥さんもお兄さんも殺して家に火をつけたんだよ」
ビルの上に月が出ている。
二人は舞の父が勾留されているという刑務所に来ていた。
マネキが持ってきたカステラを舞の父は受け取って、一切れをその場で食べた。
汚れた口がザラメを噛んでいる。
二人は舞の死を告げたのだ。
「私の死体は解剖に回してくれと言ってあります」父親は顔を見ずに手で口を拭きながら呟くように言った。
「あれから一度も会ってません」
入れる墓もないし、とまた呟いた。
「やっぱり女の子は殺しきれなかった・・。舞が出かけてから・・」
舞の父親は目を上に向けて考えていた。
「どうしてかなあ・・、意味なんてあったのかなあ」頬をさすって、
「寂しかったからかなあ」暖かかったからと言うように、無精髭を一本、引き抜いて笑って言った。
「あの家には悪霊が憑いてるから」と舞の父親は終わり間近になって言った。
「行ってみようよ」愛はマネキの手を引いた。
「やめよう。あいつに付き合うことない」マネキは首を振った。
終わりがなくなる。
終わりにしなくてはならない。
「僕にとっては君の方が大切なんだ」マネキはいきなり、言った
「え? どうしたの、いきなり・・」
マネキは愛の手を取った。
「さ、行こう」振り向いた
舞の影がついて来るような気がした。
愛も振り向いた。
「え? どうしたの、いきなり・・」
その口は笑っていた。
人の一生なんて割り切れるものだろうか。これからは舞が僕に伝えたかったことを聞く番だ。どう生きてきたのか、とか僕のことをどう思っていたかとか。人生に「もし」はないのだから。
新世界病院の裏の丘に座って気が付くとマネキと愛は手を握り合っていた。
マネキの持ってきていたガラケーにはもう圏外だというのに着信履歴が残っていた。
「どこから電波を受け取ってるの」愛が言っているのか舞が言っているのか分からなかった。
丘の上から見る沿線はいくつも電車が交差していて、走る度にパンタグラフが光る。昼のように明るい車内には舞が座っていて、きっと、舞からの電話も架線が間違えて運んで来たのだろう。
帰り道に、耳に舞の喘鳴の声が聞こえてきた。
振り返ると薄明かりが立っていた。車除けに寄りかかっているように。
「行かないで・・私の心」
マネキはごま塩スウェットで汗を握った。
100年後も星のように遠く新しい誰かを呼んでる。
舞が本当に欲しかったのは本当の明日だったんではないか。
無数の星のように六花が。