足利家の場合
さて、室町幕府の将軍になる足利家ですが、鎌倉時代に源氏将軍家に連なる御家人として、特に優遇されていたか、というと昨今の研究の深化によって、否定的な見解が広まっているようです。
鎌倉時代に足利家は得宗家とつながることで、御家人の中ではそれなりの家と周囲から見なされてはいましたが、あくまでもそれなりの家というに過ぎず、例えば、下野の御家人の結城(小山)朝光が、宝治合戦の直後の頃に、足利義氏と自分とどちらが格上かという相論を引き起こした際には、幕府はこの二人は同格であると裁定しています。
更に追い打ちを掛けるようなことを言えば、鎌倉時代の足利家当主の代々の官位ですが。
足利義氏が正四位下、足利泰氏が正五位下、足利頼氏が従五位下、足利家時は無位、足利貞氏は従五位下といったところで、足利貞氏の嫡男が足利尊氏ということになります。
(もっとも、鎌倉時代の足利家当主は意外と若死にが多いので、それを差し引く必要がありますが)
そうはいっても、足利義氏を例外として、五位止まりであり、足利尊氏にしても元弘の変で功績を挙げるまでは、従五位上にしかなっていませんでした。
(ちなみにこの時、尊氏は27歳でした)
そして、元弘の変で六波羅探題を陥落させる大功を挙げた尊氏は、従三位という父祖の官位からすれば破格の官位を賜ることになります。
こうした尊氏への恩賞について、後醍醐天皇は余りにも薄すぎた、だから、後々で尊氏が恨みに思って、謀叛を起こしたのは当然だ、と説かれることがありますが。
私はそれは間違っていると考えられてなりません。
それこそ後知恵が、余りにも入っていると考えるのです。
この後、南北朝の争乱が起き、更に観応の擾乱が起き、という流れの中で、
「正平の一統」
という事態が起きます。
この時、直義党の攻勢に苦しんでいた尊氏は、南朝に全面降伏して、三種の神器を南朝に引き渡して、北朝を全面否定する事態にまで至ります。
更にこの後で、北朝の今上陛下や上皇陛下までが、南朝に確保されるという非常事態が。
とはいえ、こういった非常手段を講じたことによって、尊氏は直義党を打倒して、室町幕府を確立させる道筋を作ることに成功しますが。
その一方で、このことは北朝と室町幕府の権威が大幅に毀損されることにもなります。
何しろ、尊氏自身が南朝こそ絶対的に正統だ、と認めて、三種の神器まで渡したのです。
これによる北朝と室町幕府の権威失墜は、極めて大きなものがありました。
そして、この権威回復の為に、室町幕府と北朝は二人三脚と言っても過言ではない協力体制を築いて共闘することになります。
その中で、足利家は源氏将軍家と縁が深く、鎌倉時代から特別な存在であったという神話、伝説を室町幕府と北朝は流布することにもなります。
それこそ嘘も百回言えば、真実になるという言葉がありますが。
室町幕府と北朝のこの宣伝は徐々に効果を挙げていき、それこそ戦国時代の頃になると、征夷大将軍になるのは源氏将軍家と血の近い一族、具体的には河内源氏の中でも源義家の末裔しかなれない、という神話、伝説が成立することになります。
そして、それを承けて、松平元康は、足利家(新田家)の一門である得川家の末裔だと仮冒して、徳川家康と名乗るような事態にまで至るのです。
でも、実際には鎌倉幕府の将軍を見れば自明ですが、南北朝動乱の頃に足利尊氏が征夷大将軍になろうとする等、家格無視と言われても仕方のない話だったのでは、と私は考えざるを得ません。
とはいえ、現代では足利家は鎌倉時代の頃から特別な家格だったという神話、伝説が自明のようになっている現実に至ってます。
本当に何とも言えない話です。
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