第96話 あなたのお名前は?
アーヴィンの頭を撫でていた火竜の手が、何かを思い出したようにピタッと止まった。
そして、声を震わせながら、ほとほとと涙を流し始める。
『どうしよう……。ぼく、話しちゃった。ママ、殺されないよね?』
攫った犯人に脅されていたことを思い出してしまったらしい。
「ごめんね、嫌なこと思い出させたね。話してくれてありがとう。大丈夫よ、あなたもママのことも守るからね」
正直なところ、必ず守れるような策はまだない。しかし、安心させるにはこう言うしかなかった。
抱きしめると、アリアの胸に顔を埋めながら、小さな足でギュッとしがみついてくる。じわじわと胸元の布が湿っていくのを感じた。
(小さな子に、こんなこと言わせるなんて――。絶対に許さない。何が何でも守らないと)
目を閉じて思考を巡らせていると、スッと右目にハンカチが当てられた。
驚いて目を開くと、ロードもアリアの左頬をついばむように舐めている。
気づかぬうちに、アリアも涙を流してしまっていたようだ。
無意識に奥歯を噛み締めるアリアをなだめるように、アーヴィンが彼女の髪をゆっくりと梳く。その感触が心地よく、アリアは肩の力を抜いた。
「すみません、私がこんな調子じゃ駄目ですね。一番辛いのは、この子なのに……」
『ね、これ、ぼくが食べても良いやつ?』
泣きやんだ火竜が、大根おろしが入った器を示して笑った。
「うん。あなたのよ」
(あぁ……、もう。本当に駄目ね。この子にまで気を遣わせて)
自身の不甲斐なさに落胆しつつも、それを顔には出さないようにして器を手に取った。
「はい、あーん」
はちみつ入りの大根おろしをスプーンで火竜の口に入れると、彼は両前足を頬に当てて目を細めた。
「あまーい! おいしいね!」
(食べてくれて良かった)
はちみつには殺菌効果があり、傷ついたのどを癒やし、保護してくれる。
のどを酷使する売れっ子声優が、現場ではちみつを舐めているという話を聞いたことがある。
「あとで、はちみつのキャンディも作るね」
「わぁ!」
火竜が嬉しそうにブンブンと尻尾を振る様子を見て、アリアは安堵の息を吐いた。
「ロード、森のほうも落ち着いたって言ってたよね? この子のお母さんも大丈夫? かなり怒ってたでしょ」
「怒ッテタネー。デモ、ソレハ他ノ動物モ、同ジデショ? 産卵期トカ、子育テ中ニ近ヅクト危ナイカラ、気ヲツケテネー。コノ子ハ、ボスノ子ダカラ、サラニ気ヲツケナイトネ」
「え、そうだったの?」
「ソウナノ。次期ボスダヨー。ダカラ、スッゴク大事」
(そっか。『坊』って、『坊ちゃま』とか『ぼんぼん』っていう意味で呼んでたのね)
王妃や王子の名を呼び捨てにしているロードが、火竜の子どもを丁寧に呼んでいるのは少し不思議な感じもする。
そういえば、まだ火竜の名前を聞いていないことに気づいた。
いつまでも「ねぇ」や「あなた」と呼ぶのは、少し話しにくい。
「よかったら、あなたのお名前を教えてくれる?」
『ないよ?』
「え?」
人間と会話が成り立つほどの知能を持っているが、個体に名前は付けないのだろうか。
「ママたちは、あなたのこと何て呼んでるの?」
『んーとね、“坊や”とか“坊っちゃん”とか。ロードは“坊”って呼ぶよ』
「そうなんだ。でも、男の子は他にもいるでしょ? 紛らわしくない?」
『うーん、ちょっとだけ。名前がいるなら、アリアが付けて?』
「え!? ダメダメ、お母さんたちに悪いよ」
『アリアなら良いんだって。ぼくもアリアに付けてほしい』
こちらの会話は、母竜にもリアルタイムで聞こえているため、名付けの許可もすぐに出てしまった。
「えぇ……。でもなぁ……」
『おねがい』
「後悔しない?」
『しない!』
火竜は元気よく頷いた。
「じゃあ……。サーちゃん!」
サラマンダーの“サ”から取った。
「ネーミングセンス……」
テーブルに頬杖をついていたアーヴィンが、わざとらしくガクッと項垂れた。火竜は、きょとんとしている。
「だから、言ったじゃないですか。――ちなみに、昔飼ってたカナリアの名前は『レモン』です」
鮮やかな黄色のカナリアに付けた名前は、家族には可愛いと好評だったが安直には違いない。
「あー……」
「その目、やめてもらえます? そういう殿下は、何か案があるんですか?」
「んー、そう言われると難しいな。『ラン』は女性名だし――」
『ランは嫌だ!』
火竜が食い気味に拒否した。
そして、なぜかアーヴィンも『サラマンダー』縛りになってしまっている。
「やっぱり嫌か」
「もう少し、男の子っぽい名前のほうが良いのかもしれませんね」
「じゃあ……、太陽の『サン』はどうだ? 赤みがかったオレンジ色のうろこだから」
「殿下のセンスも、私と似たようなものですよ。まぁ、君主……ボスらしくて、良い名前かもしれませんね。……どうかな?」
火竜は首を傾げて少し考えたあと、こくこくと頷いた。
『良いと思う! ママも気に入ったって!』
「そう、良かった――」
結局、名付け親はアーヴィンになってしまったが、本人と産みの親が気に入ったのなら、それが最善だろう。
「じゃあ、決まりだな!」
アーヴィンが高い高いと持ち上げると、きゃはは、とサンが幼い声で笑った。
彼はひとりっ子の王子だが、子どもの扱いが上手いように感じる。
「そういえば、ロードの名前の由来って何ですか?」
以前から、少し気になっていた。
スズにも尋ねたことがあるが、彼女も知らないらしい。
アーヴィンの返事がなく、そんなに難しいことを尋ねただろうか、とアリアが首を傾げると、彼は渋々といった表情で口を開いた。
「――――アレクの家が公爵家で、リラは侯爵家の娘なのは知ってるよな?」
「はい」
二人の名前が出て、アリアはさらに首を傾げる。
「…………こいつに、それに準ずる力を与えたいと思ったからだ。そうすれば、危害は加えられないだろう、という子どもの浅知恵だよ。今では小憎らしいが、幼鳥の時は平均よりも生命力が弱かったから」
「Lord……、男爵から侯爵までの敬称ですね。侯爵に近いなら『伯爵』でしょうか?」
そうだ、とアーヴィンは苦笑しながら頷いた。
伯爵なら、侯爵に次いで高い身分となる。
斜め上の発想のようには思うが、名前から強い愛情を感じた。
「当時、国王だった祖父も面白がって、『ロードに、一代限りの爵位を与えようか?』と、冗談なのか本気なのか分からないことを言いだしてな……」
(アルフォンス様、わりとお茶目だからなぁ)
「まぁ、さすがにそれは実行されなかったし、結局、襲われてしまったがな」
アーヴィンとロードはお互いから顔を背けるようにして、視線を落とした。
(あぁ、そうか……)
最初、二人の間に感じていた、どこかよそよそしい空気の原因がわかった。
アーヴィンは、ロードを死なせてしまったことを今でも悔やんでいる。
そして、ロードは自分が死んだことで、アーヴィンを悲しませたことを負い目に感じているのだ。
魔獣になってしまったことについての善し悪しは別として、またそばにいられるようになったことは、二人にとって救いなのかもしれない。
(でも、たしか、犯人って見つかってないんだよね。…………まさか……ね。だって何年前の話よ、それ)
一瞬、寒気がするような可能性が浮かんだが、アリアは首を振って考えを追いやった。
お読みくださり、ありがとうございました。
ロードの名前の由来をやっと出せました!
バロン(男爵)と迷いましたが、ジブリアニメに有名にゃんこがいるので、こちらはロードに。
いや、でもいつかバロンも使ってみたい。
すぐに投稿できると思っていたのですが、推敲で加筆修正しまくっていたら、思っていた以上に時間が……。
1話で4000文字を超えるのはちょっと……と切り目を探っていたら、トータルでは、さらに文字数が増えたという(-_-;)
ここ数日、夢の中でも執筆していました(苦笑)
次話は一週間以内に投稿できるかと思います。
またお付き合いいただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




