午後の河原
電車は駅へ着いた。
ここで降りなければならないのに、腰を上げる気が湧かなかった。そうこうしている内にアナウンスが入り、扉が閉まって電車は動き出した。
こんなこと前にもあった気がする。
あれは確か……
「そこでわたしが乗ってきたのね」
「そう。学校帰りの君を一目見たら、目が離せなくなっちゃったんだ。折角最寄り駅についたというのに、そのまま君につられて何駅も先まで行ってしまったよ」
「そんなにいうなら、声をかけてくれれば良かったのに」
「初心だったんだ。それに、僕はそういうタイプじゃなかったからね」
「そうなると、随分と変わったのね。こうして私と話しているのだから」
「いや、何も変わってないよ。何一つとして僕は変わってないんだ」
電車は住宅街を抜け田畑の中を走っていた。午後の柔らかい光が、畦に咲いた菜の花を照らしていた。
少ない乗客は、駅へつくたびに一人、二人と降りていき、最後は僕らだけになった。
「私たちも降りる? それともこうしていたい?」
「降りよう。少し歩きたい気分だ」
僕らは近くの土手へ上った。空は雲一つなく晴れていた。雲雀が鳴いて、暖かい日差しの中を、彼女と手をつないで歩いた。
そんな僕らを、元気な笑い声をあげて子供が追い抜いていった。そうかと思うと、子供は足が絡まり僕らの前で転んでしまった。
あわてて彼女は駆け寄り子供を起してやった。
「ほら、もう大丈夫。いい子だから泣かないの。そんな顔していると、このおじちゃんに笑われちゃうよ」
そういって彼女はいたずらな笑顔を僕に向けた。
うん、と鼻をすすりながら振り向いたその子は、小さな頃の自分だった。
小さな頃の自分を真ん中に、僕らはまた手をつないで歩き出した。これで彼女があの頃の姿のままでなければ、若い親子連れに見られたかもしれない。
少し行くと開けた河原があった。行ってみましょうかという彼女に僕は頷くと、丈の低い草を掻き分けて土手を降りていった。
並んで座れる大きさの流木があったので僕らは腰を下ろした。川面はガラスを砕いたように日の光を照り返していた。
退屈なのか、小さな頃の自分は落ち着きがなかった。見かねた彼女がいった。
「遊んでおいで。だけど、川には入っちゃ駄目よ」
小さな頃の自分は勢いよく駆け出していった。
彼女はその後ろ姿を見守りながら、目を細めて微笑んだ。
「可愛いものね。あなたにもああいう時期があったのね」
「今じゃ大分薄汚れてしまった」
「あら、でもさっきは変わってないって言ったけど」
「言葉の綾さ。そりゃあ勿論、表面的なことは変わってるが、本質は何も変わってないんだ。季節に合わせて、服を着替えただけだ」
小さな頃の自分は水きりを始めた。しかし石は一度も跳ねることもなく川に沈んでいた。手首のスナップが足らないのだ。
僕は足元の石を拾うと川に放った。石は一回二回と跳ねていき、七回目で沈んだ。
「それで、何があったの」
「愛は、他人を理解したいと熱望する、心の動きに他ならない」
「誰の言葉」
「忘れた。だけど大事なのはその後だ。愛は、他人を傷つけるんだ。それもどうしようもなくね。俺はそんなのが嫌になったんだ。あいつも、俺なんかと出会わなければ良かったんだ……」
「だからわたしたちを呼んだのね」
「違う」
咄嗟に否定をしてみたが、本当にそうだと言い切る自信はなかった。
彼女はしばらく黙っていた。膝の上に行儀よくおかれた白い手が静かにあがった。
「ねえ、あの子を見て。とても誰かを傷つけるようには見えないわ。あなた、さっきこう言ったわね。自分は何も変わってないって。あの子もね、今のあなたになるかもしれない。だけどそれは同時にこうも言えなくって? あなたも、あの子になれるのよ」
「それは」
君の感傷だよ。
僕がそう言い終わる前に彼女は立ち上がると、ゆっくりと首を振った。
彼女は小さな僕を呼んで手をつなぎ、さよならも言わずに僕から遠ざかっていく。
風が吹いた。
水面を揺らした。
光が僕の眼をよぎる。
二人が消えるには、それだけの時間で十分だった。
さて、帰ろうか。だけど、どこへ?
行き先も分らぬまま、僕は河原を後にした。




