夢見る心が苦しい
…………やっちまった。
何故だ、何故私は奴とあんな……あんなことしちまったんだ!
頭を抱えて机に突っ伏す。本当なら頭をがんがんと叩きつけたいくらいだ。あの時の光景と感触がフラッシュバックしてしまう。
そんなことを教室のど真ん中でしたら、ただでさえ低い私の好感度が別のベクトルで底辺に落ちてしまうので控えるが。
ひとしきり家でも悶えたし、なんなら一睡も出来てはいないのだが、それで消えてくれるような軽い経験ではない。
面倒な女だと笑うなかれ、乙女のファーストキスは重いのだ。……自分で言っていて馬鹿らしくなってきた。
しかし、冷静に考えてみれば、私があんなことをさせる義理は無いのではないか。確かに気持ちを知っていながら鈍すぎる態度を取ってしまったとは思う。だからといって代わりに唇を捧げるとか……!
そもそも、私は奴の告白を受け入れてはいないのだ。気持ちはどうあれ、一度断って以来、それを訂正したことは一度もない。というわけで、表面的に言えば、私は好きでもない男に簡単に唇を許すとんでもなく緩い女ということになるのではないか。つまりつまり、義理をたてたつもりで、その実とんでもなく不誠実なことをした尻軽女ということになるのではないか!!!
……幸か不幸か、柊は私を軽蔑するでもなく……いや、柊から強制しておいて軽蔑でもしやがったら即刻縁を切るが、それはともかく。寧ろ今までに見たことがないくらいの上機嫌で私の手を引いて家まで送ってくれたのだが。
手を引いて、も家まで送って、もかなり突っ込みどころではあるが、もうこの際それは良い。
ともかく私が声を大にして主張したいのは、本当に柊が謎すぎて手に負えないということである。
ここまで来たらもう言ってしまおう。奴が私に気があるというのはどうやら本当らしい。
自意識過剰なようで自覚するにはかなりの勇気を要する。が、前回学んだ。寧ろ彼の気持ちを信じない方が失礼なことだと。
なら何が謎なのかと言えばもうその全てである。
何故私なのか。
何一つ接点のない、別のクラスの、地味な上に軽く女子にハブられほんのり虐められている私なのか。
チキンで人目を気にしがちで我儘で頑固な私なのか、ということだ。
そりゃぁ奴に欠点が全くないかと言えば嘘になる。
何事も茶化しがちだとか、そこはかとなくナルシスト気味でウザいとか、小器用過ぎて苛々するだとか、無駄にきらきらしい顔だとか。
いや、後半は嫉妬がかなり混じっているけれど。
だからと言って、こんな私に似合うかと言えばそれは違う。
明らかに、異性としても、人間としても格が上で、有り体に言えば住む世界が違う。
そう。自分勝手で最低な私なんかとは。
柊はいつも優しくて。
一緒にいると楽しくて。
なのに私は、柊を『一番』にすることができない。
ずきり、と頭が痛む。
最近なんだか体の調子が悪い。
目玉のてっぺんがぐらぐら揺れるような違和感。気持ち悪い。
私は柊を一番にできない。
だって忘れちゃダメだから。
幸せになったら、楽しくなったら、笑ったら。
忘れちゃうから。
ずきん。ずきん。喉の奥が、くるしい。
ばん!と、勢いよく机が叩かれて、私は震えた。
見上げるとそこには、あの子がいた。
私を傷つけて、私が傷つけたあの子。
「ちょっと来なさい」
ぎろり、とにらまれ、私は校舎裏へ向かう彼女の後をふらふらとついていった。
「あなた、柊にキスでもされたの?」
単刀直入に言われ、少したじろぐ。
少し考えて、私は首を傾げた。柊とのことは関係ないと思っていたけど、やっぱり彼女が私につっかかるのは柊が原因なのだろうか。
私が無言でいると、彼女は私を観察するように目を細めた。
「……勘違いしない方が身のためよ。柊はあなたのことなんか何も考えちゃいないんだから」
「……どうして、そう思うんですか?」
「……知らないまま、離れた方があなたのためよ。柊は、近い将来必ずあなたを傷つける。ずっとそう。自分勝手で、自分のためだけにひとを振り回して……それが、どれほどひとを苦しめるか、分かっているはずなのに。そんなことを繰り返しているのよ」
そう言って詰るその表情は、必ずしも嫌悪感だけで満たされているわけではないようだった。
「だから、離れて。……私たちに近づかないで」
勝手だと思った。近づいて来るのはあんた達の方だと。
彼女の方も勝手だと自覚しているのだろう。それでも、言わずにはいられなかったのかもしれない。
私は何故だかやっぱり責める気にはなれなかった。
―――
「繰り返す、ねえ」
あの子の言葉を舌の上で転がすようにして呟く。
繰り返すということは、柊は今までも女子に思わせぶりな態度をとっては酷く切り捨てていたのだろうか。
あの言葉だけ聞くと、それが正解のような気がする。
けれど、もし、その今までというのが、私に対してだったら?
昔、私たちは会っていて、全く同じことが起きていたら?
何を考えているんだと、自分でも思う。なにせわたしの思い出の中にはそんなものはないのだ。
酷く空虚で、なんの起伏もない人生。
とても小さな頃は確かに友達もいたはずなのだが、ある程度の歳からは私の生活は何をしていたか思い出せないほど薄い。
そんな薄い人生にあんな濃い男がいたら間違いなく覚えているに決まっている。
あり得ない。
だけど、私は自分がそんな妄想じみた考えを思い浮かべる理由をもう知っている。
多分、私は独りでいたくないのだ。
私にはお婆ちゃんがいる。だけど、仕事仕事の父や母に寂しくなかった筈はない。
寂しかった。二人が大好きだからこそ、ずっとずっと寂しかった。
そんな私の寂しさをいつのまにか埋めてくれたのが、きっと柊なんだろう。
だから期待してしまう。
あの子の台詞を否定したがる。
柊は間違いなく私を好きで、柊が私を傷つけるはずかないと。
いくらあの子の言葉が真剣でも、信じたくない愚かな自分が、私と柊との関係を繋ごうと妄想してしまう。
ずっと昔から見ていたんだ。君だけなんだ。
そんなおとぎ話を、うっとりと夢見てしまう。
―――
ふわ、と感じる香り。
化粧品の香り。煙草の匂い。外の臭い。
それは私にとって母の香りであり、父の匂いであった。
ああそっか。帰ってきたんだ。
お帰り。
そう言いたいのに、まぶたも体も重くて声が出ない。
―――小弥。どうか、幸せに―――
頭を撫でられる。暖かくて、柔らかくて、少し硬い。
気配が遠ざかる。
声が、出ない。