番外編 ひとりを掻き消す色
ひとりで生きてきた。
ひとりで生きていけると信じていた。
私から「ひとり」を奪ったのは、あなた。
―――
「あーその……彼氏とか、作らないんすか?」
嫌になる。
「必要性を感じないので」
ばっさりと切る。おどおどと下から伺うように、遠回しに仄めかされたそれは、私をうんざりさせるだけだった。
あーそうですよねーだとか、曖昧な返事を返して、彼はそそくさとその場を去った。
本当に、嫌になる。
折角読んでいた本の世界が色褪せて見えて、私は大人しく家に帰ることにした。
机の色はもう赤い。
ふう、と一つ息を吐くと、赤い空間に青みがさした気がした。
と、その場にもう一つ、吐息の音が混じる。
赤いような吐息。
振り返ると、クラスメイトの女子が立っていた。
「……ほう……ほんと、眼福……」
うっとりと目を細める彼女は、たしか……
日暮小弥。
名前に似合いの赤い時間、彼女は赤に染まって私を真っ直ぐと見ていた。
「千才!かーえろ!」
「…………良いけど」
彼女の愛情表現は直線的。
全身で喜びを示すその姿に、少したじろいでしまいながらも、日々を過ごす。
「あーほんと美人……好き……」
「……っ、ちょっと……やめて……」
「照れてる?可愛いー!男に生まれたら絶対千才を口説きまくってたのになぁー」
そうだったら良かったのに。
言いかけた言葉を、慌てて飲み下す。
告白めいたことを、好意まがいのことを、空気だけで伝えようとされたことなら、幾度もある。
それは断るには面倒で、受け入れるには微かすぎて、ただ私の神経を削るだけだった。
同じく小弥に好かれている、私と似たあの男が言うには、「四宮がつんけんするから、おちおち告白も出来ねーんだよ。受け入れられないって分かってて素直に言葉を言えるのは日暮みたいな直情馬鹿くらいだ」らしいけれど。
それならば告白なんてされない方がいい。
伝える勇気もないくせに、雰囲気だけで伝えようなんて、甘えだ。
苛々が募って、そんな傲慢なことを考えてしまう。
女子に好かれたことなどなかった。
男子も女子も怯えてばかりで、何をするにも面倒くさい。
だから人と関わりたくなかった。それでもやっていけていた。これからもそうだと思っていた。
そんな私から、小弥はあっさりと奪った。
柊は私と同じだった。
だから、ある意味では誰よりもお互いのことが分かって、居心地は悪くないけれど、ある意味では誰よりも一番お互いが疎ましく思えるのかもしれない。
それでも、三人でいる時間はあまりに穏やかで、まるでずっと昔からの付き合いのように過ごした。
彼と彼女の性別は違うから、ごく当たり前のように彼らは付き合いだした。
それは悔しくも羨ましくもあったけれど、それで私が除け者にされるわけでもなかったから良かった。
口には出さずとも、彼らの幸せを願った。
そばにいられるだけで、一緒に笑えるだけで、それだけで私も幸せだった。
それだけで良かったのに。
彼女は突然彼女ではなくなった。
私に寄り添って、ともに笑ってくれた彼女はいなくなってしまった。
彼女は、大切な両親を守るために、私たちを捨てた。
憎かった。苦しかった。どんなにか詰りたかった。
彼女は勝手だ。私からあっさり奪った「ひとり」を、要らなくなったからって簡単にまた押し付けた。
「ひとり」は、かすかすに干からびて、最早私の安寧ではなくなっていたのに。
返して欲しい。あの居心地の良かった「ひとり」を。
私の方が失くしたい。彼女がくれた沢山の思い出を。
返して欲しい。明るく笑って、真っ直ぐに好きだと言ってくれた「一人」の彼女を。
彼女がいなくては、彼と私はひとりと変わらない。
彼はすぐには動けず、私は衝動的に動いた。
彼は考えた末、彼女を傷付けてでも幸せにすると誓った。
私は何も考えたくなくて、彼女を傷付けたくないから傷付けた。
壊れる、と思った。
そんな私の危惧をよそに、彼女はじわじわと彼に心を開いていく。
壊さないで。どんなに願っても、彼はいつも彼女にとどめを刺す。
どんなに繰り返しても、どんなに何度も傷付けられても、彼女はいつも彼を選んだ。
彼は何度も忘れられる。段々と彼への態度が酷くなっていくのに、彼は懲りずに繰り返す。
私は忘れられることはない。彼女はずっと、悲しそうに、苦しそうに私を見る。
彼女の記憶に絶えず積み重なるのは、私がした酷い行動ばかり。
憎かった。憎らしかった。憎々しかった。
「四宮」
私を見て、不機嫌な眉が一層しわを深くする。いつ見ても不機嫌だ。笑った顔など見たことがないかもしれない。遠くからしか。
「何かしら」
私はじょうろで土を湿らせながら、返事をする。
靴箱は、どんどん水浸しになる。ざまあみなさい。これで育った白詰草で一杯になって、靴を入れられなくなってしまえばいい。
「何してる」
「いじめ」
がし、と手を掴まれた。
私は行動を阻むその手の主を睨む。
「……文句でもあるの」
「……沢山ある。だがとりあえず……」
䒳原は、呆れたように息を吐いた。
「それはいじめとしてはズレてる」
―――
䒳原はいつも、私のやることにケチをつける。
やれ「いじめなんてするな」だの、「くだらないことをやめろ」だの、「嫌がらせがなってない!」だの、「……なぜ俺が駄目出しをしているんだ……」だの。
いじけた気分で帰路を歩く。
何故かいつも、気がつけば䒳原と帰っている。まあ、帰り道が同じ方向だからだけれど。
「だいたい、靴箱で草を育てるやつがあるか。しかも肝心の靴はきちんと外に出してるし。いじめる気あるのか」
「䒳原は、私にいじめをやめさせたいの?それとも正しいいじめをさせたいの」
「…………やめさせたい」
くどくど垂れ流される説教が、段々いじめの内容がおかしいという方向になってきて、私は突っ込む。䒳原は頭を痛めたように手を眉間にやった。
確かに、この人の言う通り靴を濡らすのは有効な嫌がらせかもしれない。
けれど靴が濡れれば靴下がべったりして気持ちが悪いし、靴が履けないから帰れなくなってしまう。それに靴が入っていてはうまく白詰草を育てられないし……。
濡らすという嫌がらせなら、濡れ雑巾を机の上に置くことでもうやった。被ってしまっては芸がないのではないだろうか。
䒳原の言うことを検討しながら唸っていると、彼は複雑そうに私を見ていた。それに気づいて、彼に視線を返す。
「なんでそんなに私にやめさせたいの?」
「……やめたら教える」
すい、と視線がそらされる。真っ直ぐ前を見ることにしたらしい彼の横顔は、逆光で暗い。
赤の中に、ひとりだけはっきりとその存在を示す黒。
そのシルエットが、あまりに彼らしくてなんだか笑えてくる。
「……なんでいじめなんてするんだ」
彼の言葉は直線的。まるで彼女みたいだけれど、真面目な彼の言葉に彼女みたいに冗談が含まれることは稀だ。
何度も繰り返されたその質問を聞きながら、なんとなくそう考える。
はっきり、きっぱり。
回りくどいことは一切ないその清廉な雰囲気は、憎しみに溺れる心を少し引き上げてくれる。
「憎いから」
端的に答えると、彼はいつも黙りこむ。
けれど、今日は少し違った。
「日暮と話した」
「……っ」
久しぶりに聞く名前。教師以外からは呼ばれなくなった名前。私のせいで。
「聞いたら、『私が何かしたのかもしれない』『あの子が本当は良い子だと知ってる』……だってさ。お前ら……」
「…………」
「……本当は、嫌いあってなんかいないんじゃないか?」
䒳原の言葉は、直線的で、真っ直ぐで、深く心に、突き刺さる。
「……なんで?少なくとも私は憎んでいるって言ってるじゃない」
「本当に?」
䒳原は多くを言わない。ただ一言そう聞いただけなのに、私はびくりと肩を揺らしてしまう。
「……私は、自分のためにしてるの」
あの子のためなんて言い訳して、あの子が心配だなんて取り繕って。
本当は、自分を守りたいだけだ。
似てなんかいない。
私は柊にはなれない。
何度も忘れられても、平気でいられない。
「……ねえ。もしやめたら、やめさせたい理由を教えてくれるのよね?」
「ああ。すぐにな」
「その理由って、私にとって良いこと?」
じっと見つめると、彼がこっちを見た。
夕日の染みるような光が、彼の影からはみ出して、その表情を照らす。
「さあな。ただ……お前がひとりを楽しむ時間はなくなってしまうかもな」
不敵に笑うその意味は、なんだろう。
あまりに魅力的で、不思議な引力のある言葉に、初めて、私の中の「ひとり」が揺れた。
「……そういう、回りくどい言い方は嫌い」
「お前がやめれば、こんな言い方はしない」
何かを期待してしまう鼓動。たった一言に神経を揺らしてしまうこんな面倒なやり取り。
珍しく、それが不快ではなかった。