やべー敵が現れました
――《身体強化》
静けさの透き通るような森の中。
相対する悪魔から異質な力が溢れ出す。
「え。え? うそ!」
物理体を持たない悪魔は、燃えカスを逆再生するように肉体を創造していく。
目の高さは私と同じ。
目の色も私と同じ。
赤髪は暗く、唇は皮肉げに吊り上げられている。あざけるように目元が歪んだ。
悪魔は、私の姿になって立ち現れた。
「ふん。大した力だが、所詮は物理体にのみ作用するものか。底の浅い能力だな」
悪落ちした私っぽいもの――悪魔が、不敵な笑みでとんでもないことを言う。
「ちょ、ちょちょちょ! おまえ、なにをした!?」
「だが全てではないな。"夢"を受け入れると言わなかったから取り逃したか。……まあいい。どうせ後はカスだけだ」
人の話を聞いちゃいない。
「ちょっと! 話聞けってば!」
「あぁ、残りカスはくれてやる。もうお前に用はない――《武の極地》」
反応できなかった。
気づいたときには、全身ばらばらにされそうな激痛と一緒に空中に浮いていた。
え。
と思った次の瞬間には腐葉土に跳ねて、木の根に蹴っ飛ばされて、地面を転がって倒れた。
天を覆って茂る枝は、逆光で黒に見える。
「えっ?」
痛すぎて、飛びすぎて、意味がわからない。混乱がなにより先に出た。
痛い。なにがあった? たぶん吹っ飛ばされた。腕で振り払われたんだろう。
全身痛いけど、それどころじゃない。
「――えっ?」
奪ったぞ、と悪魔は言った。
肉体を持たない悪魔が、怪力と武練を誇る身体を手に入れた。まるで誰かに与えられたみたいに。
「……奪われた?」
誰から? 私以外の誰もいない。
より正確には、私に与えられていた神様の力に。
痛みを押して飛び起きる。
「《身体強化》っ!」
私の叫びは虚しく消えた。
耳鳴りは起こらない。肉体は強化されてない。
女神のスキルが発動しない。
血の気が引いてクラクラする。
奪われた──!
「リル……リル? リルはどこ? 無事!?」
ハッとして森を見回す。どこまでぶっ飛んだのか、悪魔の姿は見えない。
林立する木々に遮られて見通しが悪い。でもすぐに見つかった。
「ぅう……ゥグ……」
「リル!!」
リルは木陰に倒れてうめき声を上げていた。
二の腕を庇うように背中を丸めている。腕の骨が折れているかもしれない。
「腕を打ったの? いや、……そっか。リルが庇ってくれたんだね」
私にひっついてたリルが、私と一緒に吹っ飛んできた。これだけの距離を吹っ飛ばされたのに、私に大きな怪我はない。
リルが私を庇ってくれたんだ。
「すぐ治す! 【ヒール】」
魔法で傷を癒やす。リルのうめき声は和らいでいった。治癒魔法で魔物も癒やすことができるらしい。
ホッと息をついて周囲を見回す。
木々、枯れ葉の積もった腐葉土、カビっぽい森の匂い。あの悪魔の姿はない。
「なんだろう、追ってこないのかな。もう用はないって言ってたけど」
物音に耳を澄ませても気配は感じない。
《身体強化》は単に運動能力や強度だけでなく視力聴力も向上させるから、こういうときにあったら良かったんだけど……言っても仕方がない。私はスキルを奪われて……
あ、と声を出してしまった。
「私、まだ《魔術の神髄》の効果が残ってるじゃん」
ステータスを開く。HPやMPなどおなじみの表記のほかに、女神から受けたスキルも羅列されている。
だけど《身体強化》《武の極地》はモザイクになって読み取れない。《魔力強化》《マナ無尽》もバグ表示っぽく文字の一部が欠けている。
でも、《魔術の神髄》と《鑑定》の二つだけは残っていた。
どうやら悪夢の中で使わなかったスキルを奪われたみたいだ。
しかし──。
「どうしよう」
取り返すべきだ。取り返さなきゃいけない。
でも、相手は私が散々使ったスキルを使ってくる。悪魔自身も魔法に精通しているだろう。
「どうしよう、勝てないかもしれない」
リルが私を見上げてくる。
また夢に呑まれて、今度も見破れるとは限らない。今度こそ魂まで噛み砕かれてしまうかも。
逃げたい。
そうだ、逃げよう。逃げるべきだ。逃げたほうが絶対に賢い。だって私にはまだチートスキルが残されているのだから。
「ぅぐぐ……リル、」
リルを助け起こして歩き出す。
街に向かおう。街道に戻って、街まで行って門番に頼れば、きっともう大丈夫だ……。
──おい! すごい音したぞ、大丈夫か……あれ?
そんな声が木々の合間から漏れ聞こえた。
「お前、あれだな。酒場で見たことあるぞ。フォルトだな? 最近デカい魔物を食いまくってる」
「知り合いか?」
「いや、話したことはねぇ。どうした? また何か大物でも現れたのか?」
リルが、不思議そうに私を見上げてくる。
私たちは森の真ん中だ。辺りには誰の姿もない。
行きがかりの冒険者は、森の向こうで誰かに大声で声をかけた。私だと思うような何かに。
私の姿を再現した夢魔に。
リルを抱き上げて走る。耳を澄ませてうっすらと聞こえる。
「……なんの力もないカスだが、まあ、魂には違いがないか。食らえば腹の足しにはなる」
「おい、何を言って──」
「なっ!? お前、仲間に何をし──」
どさり。そしてもう一つ、どさり。土に倒れる音がする。
腕の中でリルが暴れた。落としそうになって立ち止まる。
遠く、木々の隙間から悪魔の赤髪が見えた。
その足元に倒れる冒険者も。
様子を見通せるギリギリの距離。
私は木の幹に肩を押しつけて耳を澄ませる。
超然と立つ私の姿をした悪魔は、余裕の振る舞いをふと止めた。
「……肉体が邪魔だな。魂に食らいつけん」
てしてしと軽く叩いて、身体が冒険者の肉体を通り抜けないことを確認している。悪魔は気にする様子もなく肩をすくめた。
「物理体というのも面倒だ。まあ、後でまとめて食らえばいい。街まで行けばいくらでもいる」
ぞわりとした。
街に向かう……?
二人組の冒険者を見る。まるでスイッチを切ったようにばったり倒れて、深い眠りに落ちている。
反応する間もなく眠らされたんだ。
私のときだって、魔術をかけられたことに気づけなかった。
この早業で、結界に守られた平和な街を闊歩されれば──対応できるわけがない。
仮にもし犯人がこの悪魔だとわかったとしても。あいつには《身体強化》と《武の極地》の重ねがけが備わっている。並みの相手では立ち塞がることさえできない。
(全滅……)
否応なくその言葉が脳裏に浮かぶ。
「逃げなきゃ……」
抱きかかえているリルが、私を見上げた。
「逃げなきゃ。勝てないよ。勝てるわけない。せめて、街に警告してから」
首を振った。
「無駄か。今の私に《身体強化》の俊足はない。あの悪魔にある。間に合わない……」
どんなに急いでも時間の余裕は稼げない。
しかもいきなり「悪魔が来るから逃げて」と訴えたとして、通じるか? 説明を求められている間に追いつかれたら?
リルを抱く腕に力を込める。
「死にたくない……」
私は一度死んだ。
痛みも苦しみも、なにより自意識がほどけて消えていくあの感覚は、もう二度とゴメンだ。あのまま本当に死んだらどうなるのかと思うと、なおさらに怖い。
死ぬのは怖い。
あの悪魔にまた目をつけられたら、今度こそ死ぬ。
なら、関わるべきじゃない。逃げなきゃいけない。
「リル……行こう……」
震える声でささやいて、街とは反対のほうに足を踏み出す。
ぐい、と。
リルが私のえり首を引っ張った。
「ぅるる」
リルは少し怒ったような顔で、街道を振り返る。
悪魔の姿は見えなくなった。街道を進んで森の木々に遮られている。悪魔は街に向かって歩きだしている。
リルが本気で私を引っ張った。力が強すぎてつんのめる。
「わ、ちょ──えっ?」
倒れた私を支えるのは、青いバイクに変じたリルだ。私はまんまとバイクにまたがって、グリップを握って立ち尽くしている。
「……」
私を乗せておきながら、リルはなにも言わない。
エンジンのない偽物のバイクは、生命の温かさを持って静謐に待っている。
なにを? ……私の答えを。
リルを頼れば、逃げ切ることもできる。──悪魔の先回りをすることも。
──どうするの?
リルは私に問いかけてくる。
ずいぶんと間が空いてしまって、申し訳ございません……!




