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ヴヴヴヴヴッ
握りしめていたスマホが震えて、お昼休みが終わる5分前を知らせた。
浅く眠ってしまっていたようだ。
慌てて立ち上がると軽く眩暈を覚えたけれど、必死に体制を保って耳にいれていたイヤホンを外す。
ぐるぐるとスマホに配線を巻き付け終えると、わたしは慌てて屋上の扉を開けて階段を駆け下りた。
午後の授業が始まる1分前になんとか自分のクラスに走り込み、慌てて着席する。
机の中から既に用意していた教科書とノートを取り出し、そこでようやく一息をついた。
「あれから何処行ってたの?」
「んーちょっと寝てた」
斜め前の席から振り返った友達のめぐみに、へらっと笑って返すと全くと呆れたように肩をすくめた彼女は、教室のドアを勢いよく開けて入ってきた先生の姿を見て、前に姿勢を正した。
教壇に立つのは、紫の髪がやけに色っぽさを醸し出す、フェロモン数学教師様。
勿論攻略対象の一人だ。
「じゃ前回の続きからな。……あー、このクラスはどこまでやったんだっけな?」
先生の言葉にクラスにどっと笑いが起こる。
誰かが何ページ目からですよと答えている。
授業の端々に笑いを入れるのを忘れず、1時間をまるっと集中させる彼の授業は評判がいい。
わたし自身、一番好きな教科は何だと言われたら、数学だと答えるくらいには好きだったりする。
キーンコーンカーンコーン
授業終了のチャイムの音とともに、黒板を埋めつくす数式をノートに書き終えた。
よしっとパタンとノートを閉じて、筆記用具も10分後には使うけれど、いったんしまう。
ガタッと椅子を揺らして立ち上がったところで、声をかけられた。
「織戸、ちょっと手伝ってくれ」
数学教師様からの声に、あからさまにむっとして顔をしかめてしまったのはしょうがない。
この休憩時間の10分の間に、皐月先輩がよくふらふらしている中庭に面した渡り廊下を見に行こうと思っていたのに。
羨ましそうにこちらを見る女子生徒数名の視線を避けるように、先生に近づくとその後ろについていった。
「……何かあったのか?」
まさかそんな言葉をかけられると思わず、わたしはぱちぱちと二度瞬きをして前を歩く先生の背中を見上げた。
それと同時くらいに、だるそうにこちらに視線を寄越す先生は、歩くフェロモンにふさわしい流し目で、ほとんどの女性徒はくらっとする。
わたしだって例外ではなく、ぐふうっと何かを耐えるような声を漏らしそうになった。
「何かって言われても、別に、ないです」
あえて言うなら、ここが乙女ゲームの世界だと知った事くらいだろうか。
この先生も攻略対象の一人で、そのうち生徒との恋愛で大人だからゆえに見せる余裕と葛藤を見せてもらったのだけれど、それを今口に出すほど頭は悪くない。
脳裏に蘇ったワンシーン、テスト勉強で夜更かししてしまった主人公が教室でうたた寝してしまったところに出くわして、思わずその頬に触れようとしてためらい……
『まだ、子供なんだよなぁ…』
って呟く先生の表情には、ばかっこのヘタレ!と悶絶した。
教師が生徒に手を出すのはご法度だけれど、ゲーム内なのだからいいじゃないか!というのが当時のわたしの感想だ。
そんな事を思い出して、笑ってしまったわたしはいきなり立ち止まった先生の背中に思い切り鼻をぶつけた。
ふごっと変な声を出して、鼻を押さえるわたしに対して、先生が慌てて振り返った。
「ああ、悪いっ。大丈夫か?」
「~~っ大丈夫じゃないです」
鼻の強打という生理的な涙をにじませて、先生を睨みつけると悪い悪いと頭にぽんっと手を置かれた。
「なんかいきなり大人になっちまった顔してるなぁって思ってだな」
言いながら、前かがみになってわたしの顔を覗き込んでくる。
じっと見つめられたので、こちらも思わず目を丸くして先生の顔をしっかり見ることになってしまったのだけれど。
美形な顔に見つめられ、見つめ返して、あっと思った時には手も一緒に動いていた。
つっと指先がそこをなぞる。
「そり残し」
ゲームでは先生にひげなんてなかった。
けれど今では、こういう発見があるのだと嬉しくなってしまった。
その手がぱっと取られて、先生が慌てて身を起こしたことで、はっと現実に戻ってきたわたしは自分の行動に愕然とした。
これは生徒としてはやっちゃダメな行動のはず…!?
「びっ…くりさせるな」
焦る先生が可愛いなんて、たぶん思っちゃいけない。
歩くフェロモン、大人の余裕、過去の影いろいろ彼には乙女ゲームらしい設定があるのだけれど、それにプラスして意外に純情というのが人気の秘密だ。
ハッピーエンド後のなかなか自分に手を出してこない先生にじれて、主人公の方から先生に手を出すというのがあるほどだ。
その後勿論たっぷりと大人の色気で攻められて、腰砕けになるのだけれど。
すいませんでした!と慌てて頭を下げて、時間も押している事だし、慌てて二人で職員室へ行き、先生が今の授業で皆に配る予定だったプリントを預かると慌てて教室へ戻った。
授業開始のチャイムが鳴るまで、机に突っ伏してしまったのはしょうがない。
教員用の男子トイレの鑑の前で、男は自分の顎の付け根に指をはわせて大きなため息をついた。
先ほどの指の感触が残っているようで、なんだかむず痒く感じる。
はあっ…と大きくため息をついて、男はその場を後にした。
大勢の女性徒の中から、彼の記憶に残る女生徒にランクUPした事を、彼女はまだ知らない。




