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運命の交差点

 カウンターに座って椅子をくるくる回転させながら、美並は楽譜を眺めている。今日は生憎雨模様で、客入りも少なく、レッスンの予約もない。こういう日は店番をしながら有意義に時間を潰す。

「ドビュッシー?」

 店長がコーヒーカップを二つ持ってきて、ピンクの薔薇の模様の方を美並の前にコトリと置いた。中から湯気が立ち、ドリップ仕立てのいい薫りがふわっと鼻に届く。美並はお礼を言うとそれを用心深く口に付けた。

「たまにはコーヒーもええやろ」

 店長はカエルの柄の可愛らしいカップを口に運ぶと、熱そうに唇を尖らせた。

「そうですね」

 ついついレモンティーばかり飲んでしまうので、久しぶりにコーヒーという飲料を体に入れると、何だか恋人以外の人と浮気するようなイヤらしい気分になった。

「店長は、運命ってあると思いますか?」

 店長は目を点にして、美並の顔を見たかと思うと、大袈裟に驚いて見せた。

「美並ちゃんから恋愛相談? びっくりするやん! このまま雨が嵐になるか思うやん!」

「大袈裟な!」

 素朴な質問だっただけに、美並は恥ずかしくなり顔を真っ赤にしてあたふたとうろたえ、あやうくコーヒーを溢しそうになってしまった。店長はごめんごめんと軽く笑うと、急に真面目な顔になり、声を低くして言った。

「そやなぁ。運命や!と思う恋もあったけど、結局実らんかったりしたな。今の奥さんやないよ。もっと若い頃の話な」

「……そうなんや。ちょっと聞きたいです、その話」

 パタンと楽譜を閉じて、ねだるような目を店長に向けた。

「えー、内緒やで」

 にやりと少年のように歯を剥きだしてて笑い、顎鬚を人差し指と親指でいじりながら、昔を懐かしむように語り始めた。美並はわくわくして、子供のように頬杖を付いた。

「まだ二十歳の頃。ものすごい好きな女の子がおってん。お互い自然に惹かれ合って。その女の子は、ちょっとした傷を心に持ってて、僕はそれを癒してあげたい一心やった。燃え上がるように時間が過ぎていったけど、いつしかすれ違って、住む世界が違うかったり、目指す所が変わってきたりして、結局別れを選んだ。そのあとは一切連絡取ったりしてない。でも、不思議と街中ですれ違うねんなー。何回も。お互い結婚して、別々に生きてるのに、その現在の姿で出会う。でも気付かへん振りすんねん。向こうはどうか知らんよ。なんか、一瞬だけ世界が交錯する、みたいな。そのたびに心がざわざわなんやしらん音を立てるけど、それすら知らん振りをする。そらそうやな、お互い家庭もあるし、もう昔話やから。でも僕は、なんか不思議な感覚が未だにあるよ。これが恋心かどうかは判らへんけども」

「……店長、詩人ですね」

「なんかリアクション古いな! 昭和やん!」

 二人は笑い転げた。お腹を抱えながらやっとのことで声を振り絞る。

「でもそれって、やっぱり運命なんですかね」

 美並は、再び真面目に訊いた。店長がうーん、と、唸る。

「どうかな。分からへんけど」

 そして、少し冷めたコーヒーを一口飲んだ。

「こんな話聞いたことあるで。結婚相手はな、前世から約束されてるねんて」

 前世から……。美並の心は、なぜか胸のベールの一番奥を想像した。

「人間関係って、前世で関わりのあった二、三百人の中で構築されてるらしいわ。ほんで、その中で一人、最も見つめ合って生きなあかん人と一緒になるようにできてんねんて。どこで聞いたか忘れたけど、そんな感じちゃう? 運命って。約束? みたいな」

 店長はフフーンと鼻歌を歌った。美並もつられて心の中で続きを歌った。

 その時、雨音が店内にザーッと流れ込んできた。入り口のドアが開いたのだった。そこには、窪田が立っていた。

「こんにちは~。あれ? 初枝さん今日はレッスンないんちゃうかったっけ?」

 店長が首を傾げながらも、どうぞどうぞと奥へ案内した。傘を畳み、レインコートを脱いで専用のバッグにしまいこんでから、ゆっくりとした動作で中へ入る。

「ごめんなさいね、ちょっとお願いしたいことがあって」

 美並は窪田のためにタオルを準備し、熱いコーヒーを淹れた。窪田はタオルで濡れたところを丁寧に拭き、美味しそうに温かいカップの中身を口に入れた。

「先生、上手に淹れはりますねぇ。温まるわぁ」

 ふうふうと息を吹き掛ける様子が、少女のように可愛らしく見えた。美並は微笑んでそれを見つめた。

 窪田がコーヒーを飲み終えて一息吐くと店長が言った。

「初枝さん、お願いってなんですか?」

 そうそう、と美並も相槌を打つ。窪田はにこやかに、二人に胸のうちを語った。

「来月、九月にね、発表会を開いてもらわれへんやろか」

 その目はキラキラしていて、何故かどことなく、向日葵の向こうに佇んでいた彼の眼差しを思い出させた。美並は心が波打つのを感じた。まただ。どうして訳も無く私の心に入り込んで来るのだろう。今は、何一つ彼とは関係のない時間を過ごしているはずなのに。

「お兄さんの、命日に、ですか?」

 窪田は、静かに頷いた。そして店長に、兄の話を始めた。店長は黙って、一言ずつ胸に染み込ませるように聞き続け、そして、うぅ、と唸って少しの間を置くと、

「よっしゃ、そら、協力さしてもらお。うちのスタジオでよろしいか? 準備段取り、きばらせてもらいますわ」

 と力強く言った。美並も、力をこめて頷いた。窪田は満面の笑みでありがとうございます、とお礼を言った。

「せっかくやから、プチコンサートみたいにしましょか? 初枝さんの演奏と、僕のギターと、美並ちゃんと、それぞれソロ弾きも入れたりして。あと、一曲セッションやな。初枝さん、なんかあります?」

「ええっ、先生らも演奏してもらえるんですか?嬉しい~。でも、私は赤とんぼで精一杯やさかい……」

 美並に有無を言わさず、まるで学校の文化祭の出し物を決めるかのようにワイワイと二人の間で話が進んで行く。

「ほんなら、赤とんぼを初枝さんがソロで弾いて、そのあと美並ちゃんのピアノと僕のギターで伴奏するんで、初枝さん、赤とんぼ歌ってもらえます? お兄さんへのメッセージを添えて」

 そうね、来てくれた方みんなで歌いましょうかと、すっかりプログラムが出来て、盛り上がっている。店長は、弾き語りをするからと張り切っている。美並は何を弾こうかと、ぼんやり考えた。

「小澤先生」

 窪田がにこっとした。

「はい」

 つられて笑顔になる。

「先生は、ドビュッシーの〝月の光〟で決まりですね」

 ドキッとした。――気のせいだろうか、いつか、そういう日が来るのを、知っていたような気がする。

「まだちゃんと聴いたことないわ。美並ちゃんの〝月の光〟。それ、やろうや!」

 さっきまで開いていた、カウンターの上の楽譜を、店長は指差す。

「私、物凄く楽しみにしてます。先生、よろしくお願いします」

窪田は、深く深く頭を下げた。


 美並はピアノに向かう。楽譜を睨む。この曲を人前で演奏するのは、大学生以来だ。あれは、確か三回生の文化祭で、半分無理矢理に出演させられたものだった。五百人くらいの観客の前でかなり緊張しながら演奏した。あの時、本番が終わって見知らぬ男の人に声をかけられて、「この曲をなんでこんなとこで弾くねん!」と文句を言われた。訳が分からないのと緊張の糸が一気に切れたのとで、まともにその人の顔も見ずに無視して楽屋に入った。あれは、いったいなんだったのか……。それ以来、なんとなく敬遠してこの曲を一度も人前で弾いたことがなかった。でも大好きな曲なので、譜面を見たり、一人でこっそり弾いて世界に浸ったりしていた。あの時文句を言ってきた人の顔がどうしても思い出せなくて、ずっと悶々としている。この曲に触れるたび、そいつのことが浮かんで来て少し嫌な気分になるのだ。少し切なくてもどかしい。でも、仕方ない。今回に限っては、窪田のためだ。私のちんけな演奏でも喜んでくれる大切な人のために頑張ろう。

 美並は鍵盤に指を落とし、柔らかに弾き始めた。美しい音色が、家中に響き渡る。壁を越え、町に、地球に流れていく。とても気持ちよくて、久々に最後の終止線まで弾き終えた。パチパチと、手を叩く音が聞こえたので、後ろを振り返ると、祖父がドアを開けて拍手を送ってくれていた。

「ええなぁ。いつの間にそんなに上手に弾くようになったん」

 驚きと嬉しさが入り交じったような声をもらして、部屋に入ってきた。美並は体を回転させ、祖父の方を向いた。

「ありがとう、おじいちゃん」

「わしはピアノはよう弾かんよって。美並さんはすごいなあ。頑張って芸大行かはっただけのことありまんなあ」

 にこにこしながらピアノを見つめる。その視線はまるで愛しい人に向けられたもののようだった。

「おじいちゃん、小夜子おばあちゃんてどんな人やったん」

 祖父は、愛でるようにピアノに手を置いた。

「……おばあちゃんか……」

 そして、それの向こうに懐かしき昔を見いだすようにして目を細めた。

「そやなぁ。あの人は、このピアノのような人やったなぁ。美しゅうて、繊細で、真っ直ぐで、ちょっとのことでは曲がらないような」

 祖父は、思い出の中を旅している。きっとまぶたの裏に、愛した祖母を思い浮かべているのだろう。そっと目を閉じている。美並は、そんな彼の世界を壊さないように、少し遠いところから見守った。

「わしらは、戦争真っ只中の満州で出会うたんや。色々とあったけど、わしのとこ着いてきてくれてなぁ。子供三人も産んでくれて。あんたのお父さん産んですぐ死んだけどもな。芯の強い人やったで。感謝してまんねん、ほんまに」

 祖父は涙目になった。

「おじいちゃん、おばあちゃんのこと今でも愛してんねんな」

 そうや、と、冗談めかして答えた。祖父は、あまり昔の話をしない。特に祖母のことに関しては、自分から口に出すことはない。こんなふうに祖母の生きていた感触を味わうのは、初めてのことだった。その時、ふっと窪田のことを思い出した。

「そうそう、おじいちゃんも、満州におってんな。うちの生徒さん、八十過ぎのおばあちゃんやねんけど、その人のお兄さんも満州にいてはったらしいわ。でも、反戦を訴えて警察?じゃないんか。なんかそういうのに捕まって、拷問されて獄死しはったそうやねん。なんか、ご縁があるな」

 祖父は、一瞬で表情を消した。

「……そのおばあさん、何て名前や」

 能面のような顔のまま低く震えた声で、探るように言った。

「えっ、く、窪田初枝さん、やけど……」

 美並はひどく動揺した。さっきまであんなににこやかだった祖父が、恐ろしい鬼のように見える。彼の顔を見た瞬間の、あの夜のような。祖父は押し黙った。クボタハツエ、と呟き、今にも崩れ落ちそうな体をピアノに置いた手でささえているようだ。まるで、祖母にすがるかのように。

「美並さん、わしなぁ、多分その人知ってるで。せやけど、数奇な運命やなぁ。……その人は今幸せそうにしてはるか?」

 美並は、うんと頷いた。

「そうか……」

 そう言うと祖父は堅く目を閉じて、穏やかになった。

「おじいちゃん、その人な、来月お兄さんの命日にピアノの発表会をしはるねん。うちのスタジオで、ささやかなものやけど、良かったらおじいちゃん、来て?私も前座で演奏するし、なんか、多分窪田さんも喜ぶと思うねん」

 祖父は、ああ、とだけこぼして項垂れて、そのまま自分の部屋に帰ってしまった。足音が不安定なリズムで廊下にこだました。

 

 窓の外にはまだ雨が降っている。このまま空の下に出て、雨に思い切り打たれてもいいかもしれない。心がミシミシ音を立てている。気分が悪い。少し頭痛もする。やはり祖父は、私の周りに起きている事態に何かを感じている。私一人だけ、自分を取り囲む世界から取り残されているような気がする。一面カラー写真の中で、私だけが色を取り戻せずに、物悲しいセピア色をしているかのように。

 突然、携帯電話に着信があった。馬鹿馬鹿しいメロディーが鳴り、バイブがブーンと音を立てた。着信画面を見て、美並は怯んだ。出ないでいようと思う自分と、出たくてたまらない自分が頭の中で戦う。しかし結局は、体が意思を拒めずに通話ボタンを押してしまう。喉の奥で言葉が絡まって出てこない。受話器を震える手でようやく持って、恐る恐る耳に当てる。

「――もしもし」

 ハスキーな声が届くと、胸の奥がじんとした。

「出てくれへんかと思った」

 切ない思いがどこからかぐっと込み上げる。この声を……ずっと聞きたかったのだと確信する。

「今から、ちょっと時間ある?」

 素直に答えられずに唇を噛む。痛いから、これは夢ではないのだと自分に言い聞かせる。

「なぁ、なんか言うてぇや。こんなんただのイタズラ電話やん」

 ふざけたような調子に、思わず美並はぶっと吹き出してしまった。領一もくすくす笑っている。一気に緊張感が消えて我に返り、いつもの自分に戻るとようやく受話器の向こうに話しかけた。

「ごめんなさい。大丈夫です。ありますよ、時間」


 雨が上がり、綺麗な夕焼けが青を真っ赤に染めている。すぐに日が暮れそうだ。これが昼間なら虹がかかるかもしれないなと、美並は助手席の窓から空を見上げた。車内には、メフィストワルツのピアノ演奏がかかっている。リストが好きなのかな、と想像してみる。この曲のエキゾチックな感じが、この人によく似合う。

 まだ、自分でも分からない。最近は、本能的に、どうしようもなくこの人に愛されたいと思ってしまう。でも自分自身の気持ちとして、恋心があるのかははっきりとしない。どうしていいか分からなくて、引き込まれるのが恐くて、距離を保とうとするのに見えない力に糸を手繰り寄せられるようにして近付いてしまうのだ。そのたびに心は揺れ動き、叫びを上げる。なぜ、私はこの人と出逢ったのだろう。なぜ、こんなにも苦しくなるのだろう。

「山下夫婦、元気でやってるん? 連絡ある?」

 領一はバックミラーを気にしながら問いかけた。

「はい、仲良くやってるみたいですよ。案外親日の方が多い土地みたいで、楽しんで生活してるみたいです。山下君は、仕事も順調で喜んでました」

「そうなん。良かったな。色々心配しとったけど何とかやっていけてんねんな」

 彼の顔が少しほころんだ。

「高遠さん、確かこの前中国に行ってはったんですよね?」

「何で知ってるん?」

「舞に聞きました。あの子らが行った辺りですか?」

「……そう。そこを中心として、色々と」

 カーブを曲がると、体が右に軽く傾いた。滑らかにハンドルを回す領一の腕が、妙に恋しくて、触れたくなった。そんな気持ちを悟られないように、美並は続ける。

「へぇ、ほんまに舞たちが行ってるとこに行ってはったんですね。そこで何をしてはったんですか?」

 領一は少しだけ困ったような顔をして、ルームミラーに目をやった。少しの間言葉を口の中で転がすようにして、起伏のない声でさらりとそれを放った。

「足跡を探しに」

 足跡?と、聞き返すと、領一はこくりと頷いた。なんの足跡ですか、と質問しようとすると、言い終わらないうちに話題をすり替えられてしまう。

「美並ちゃんは、何回もおんなし夢見たことある?」

「夢、ですか。ん~」

 美並は記憶の引き出しを開ける。

「覚えてる限りでは、ないかな。いつもあんまり夢自体覚えてませんね。よう寝てるんかな」

 メフィストワルツが終わりを迎え、次の曲に切り替わる。軽快なリズムに乗って、ゴリヴォックのケークウォークが流れ始めた。ドビュッシーの曲は、やっぱり好きだ。美並は、足でリズムを取った。

「高遠さんは?見るんですか、おんなし夢」

 膝を鍵盤にして、指を踊らせる。

「……見るよ」

「どんな夢ですか?」

 子供達がコロコロと遊ぶように指先が弾む。車は阪神高速へ上がっていく。

「昔の夢。俺が生きてないはずの時代の」

 ふーん、と言って、美並は考えた。以前、見たこともない光景がフラッシュバックしたのを思い出した。もしかしたら、同じような時代かもしれないと思ったけれど、根拠も何もないから、言うのをやめた。

 陽が完全に沈んで、辺りは紫ががった暗い青色になり、数々のライトが点灯して切な気なイルミネーションのようだ。気が付くと美並の手は止まっていて、音楽も何曲か通りすぎていた。黙ったまま時間だけが過ぎていく。車の心地よい揺れが、まるで汽車のようだと思った。遠い昔、こんなことがあったような気がした。けれど、美並は汽車に乗ったことがない。気付かれないように、運転席を盗み見る。暗闇で領一の横顔が美しい曲線を描いていた。なぜか懐かしい気持ちになった。そっと前を向き直し、車窓から白く光る月を眺める。この前のカフェでの気まずい出来事を思い出してしまいハッとする。

「あ、あそこのチーズケーキ、めっちゃ美味しいですよね」

 誰も責めていないのに一人で弁解するかのように取り繕う。

「ああ、ロシア語で〝向日葵〟さんな」

 料金所が近付いたのでスピードが緩まる。通り抜けるとETCが平坦なアナウンスを流した。

「あそこの絵、見た?」

 美並は、壁掛けの絵画を思い出した。沢山の、色んなタッチの向日葵たち。

「はい。見ましたよ。向日葵がいっぱい。また見に行きたいなと思ってます」

「向日葵、好きなん?」

「大好きです。なんか、自分とは切り離せないものというか……」

「へぇ」

 車を走らせているうちに海が見えてきた。巨大な観覧車が佇んでいる。海沿いの道をぐるっと走り、港を目指す。

「あの絵な、全部俺が描いてん」

 軽いカーブで車体が傾き、美並は体を任せる。頭の中であの時公園で遭遇した光景と、絵と、領一が重なった。一面の向日葵畑が脳裏に甦る。どこか遠いところにある微かな記憶の一片が、またフラッシュバックした。悲しくてたまらない自分と、それを抱き締める男の腕の温みが感じられる。

 ハッと我に返ると車が止められ、領一が美並の腕を掴んでいた。強く、何かを訴えるように力をこめて。暗くて、彼がどんな顔をしているのか分からない。ただ、体温が、切ないような、苦しいようなもどかしさを伝えている。胸が痛いほどドクドクと心臓が鳴り、全身が痺れたようになって、美並は動けないでいた。そのまま抱き寄せられる。一秒、二秒、三秒と濃密に時間が流れていく。このままどうにかなってもいいとさえ思ってしまう。ふいに、領一は美並を体から離して言った。

「自分からは、何も言われへんことになってんねん」

 ドアを開き、そのまま外に出る。あわててその後を追う。さっきの言葉の意味が解らず、戸惑いながら、速足の領一に着いていく。急に立ち止まったので、ぶつかりそうになった。領一は黒く波打つ夜の海を見つめた。港に、ベンチが二、三ならんでいるのを見つけ、美並はそこに腰かけ、立ちすくむ彼を見つめた。長いような時間が過ぎた。

「わけわからんと思ってるやろ」

 領一が振り向いて言った。美並は素直に頷いた。二メートルほどの間を保ったまま、会話をする。これは、今の二人の距離のように思えた。いつの間にか雲が現れ、月明かりは閉ざされてしまっている。

「俺には、時間がない。君が全てを悟ってくれへんと、もう二度と俺らは再会でけへんようになる。今日呼んだのは、他でもない。そのことを伝えるためやねん」

 混乱する美並を無視して、領一は話し続ける。

「来月の、九月一日。その日を過ぎたら、俺は君の前から姿を消す。だから、それまでに、君自身が思い出してくれ。神様は、もう、カードを切った」

 ザブン、と静かな波の音が響いた。


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