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第三楽章 прощай(プロシャーイ) 〈別れ〉

 「先生さようなら」

 夕暮れがそこまで来ている頃、生徒たちが帰路に着く。美並はにこやかにそれを見送っている。戦況が悪化し、今や、竹槍の訓練や、油捻出のためのヒマの栽培、肥料の馬糞拾いなど、とても授業と呼べることは出来ないようになった。登校する生徒もまばらになり、学校全体が寂しくなってしまった。夕闇が迫ると、賑やかに校庭で遊び、自由に歌を歌い、ふ解らない問題に頭を抱えていた生徒達の残像が、微かに目に映るような気がした。

「市橋先生」

 ふと呼び止められ、美並が振り向くと一人の女子生徒が立っていた。

「あなたは、三年生の、渡辺範子ちゃんね」

 そう言うと範子はニコッと満面の笑みを浮かべ、手提げ鞄から便箋を取り出した。

「先生に、お手紙を書きました。読んで下さい」

 美並は、ありがとう、と、大切に受け取った。範子は大きく手を降って帰って行く。大きくなったなあと、その背中を見送った。戦争中でなければ、もっと健やかに、伸びやかに育つのだろうなと思った。

 範子の父親は傷痍軍人で、耳が聞こえない。旅順での戦闘中爆撃にやられたそうだ。彼女は歌がとても上手で、美並は担任ではないけれど、よく一緒に李香蘭の夜来香を歌った。聞こえないけれど、彼女が歌えば父親は嬉しそうに耳を傾けてくれるそうだ。三年生になってからは、あまり話す機会がなくて、手紙をくれるなど思いもしなかった。

 生徒が皆帰った後、職員室の机に座り手紙を読むことにした。封筒から、紙を取り出す。ゆっくりと開いて、文章に目を落とした。

『 市橋先生へ

   わたしは 明日から 学校へかよへなくなります。

   お父さんのつごうで

   家ぞくで内地に引き揚げることになりました。

   先生のピアノにあわせて

   おうたをうたうことが

   一ばんのたのしみでした。

   ずうつとわすれません。

   もしも内地にくることがあつたら

   広島にあそびにきて下さい。

                渡辺範子より』


 美並の胸が、じんと熱くなった。嬉しさと、寂しさが入り交じって、目頭が熱くなった。再び彼女と会える日がやってくるのだろうか。


 校門を出て、家路に着く。領一を思い出す。彼のいない夏は半分無意味で、時間だけがあっという間に過ぎ、別れてからもう一年以上になる。何の音沙汰もない。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。ここで、ハルピンに誘ってくれた。美並は吸い寄せられるようにその場にしゃがみ込み、目を瞑った。いつも彼が待ち伏せしていたこの道を避けていたのに、何故か今日は無意識に脚が向いてしまった。領一が恋しい。

 いつの間にか、真っ赤な夕陽が落ち始めていた。肌寒い季節は直ぐに通り過ぎ、満州に長い冬がやってくる。泥の木は再びただの塊に戻って、草花も眠りに着く。冬になれば、校庭に水を張り、スケートリンクを作る。今年も生徒達と滑ることが出来るだろうか。領一はスケートも上手だった。あの人は、何でもこなす人だった。一度校庭で、生徒たちに混ざって一緒に滑ったことがある。領一が先生で、あまり上手ではない美並は、生徒役だった。美並先生、お嫁さんにしてもらえばいいのにと生徒たちが冷やかした。恥ずかしくて、嬉しくて、二人で顔を見合わせて笑った。あの日々は、多分もう戻らない。このまま寒くなるに連れ、美並の中の領一の体温が冷えきっていくように思えた。


 家に帰ると、父親が待ち構えていた。口を真一文字に結び、難しい顔をしている。目の前に正座するように促され、その場に座った。心配そうにしている母が美並の後ろに座った。

「知ってのことか」

 何のことか分からず、首を傾げた。

「お前はいつからこれほどの親不孝者になったのだ」

 低い声が部屋に響き渡る。今にも飛び掛かって来そうな勢いと、深い怒りを感じる。母の方を見る。首を静かに横に振る。青年、と言うことは、おそらく領一のことを言っているのだろう。彼の身になにかが起こったということか。悪い予感がする。

「お父さん、私、領一さんとはもう会っていません。何の関わりもありません。……彼に何かあったんですか?」

 美並は正直に聞き返した。

「本当に会っていないんだな」

 しっかりと頷く。

「ならば、もう話すことはない。美弥子、夕飯の仕度にかかれ」

「何があったんですか! 教えて、お父さん」

「関係がないなら聞かなくていい」

 素早く立ち上がり、ピシャリと襖を閉めて行ってしまった。美並の体がわなわなと震えている。領一に何かあったに違いない。母である美弥子は、唇を噛んで俯いている。

「お母さん、教えて、領一さんがどうしたの?」

 両手で母の体を揺すり、詰め寄る。

「ちょっと、庭へいらっしゃい……」

 小さな声でそう言った。


 赤く大きな太陽が一日に終わりを告げようとしている。辺りが金色に染まり、草花が切な気に母なる光に顔を向けている。もうじき闇が世界を覆う。母美弥子(みやこ)は、ゆっくりと庭にある白く塗られた木の椅子に腰掛け、美並を手招きした。そっと手を握り、深刻な顔をして娘を見据えた。いつの間に、こんなに大きくなったのかと、美弥子は思った。傷付く顔を見なければならないことがとても辛く、しかし事が大きくならずに済んだという安堵の気持ちもあった。あの青年は、どうして突然に美並のそばを去ったのだろうか。こうなることを承知して自ら身を引いたのだろうか。市橋家に迷惑をかけまいと。去年の夏が過ぎる頃から家の中ので美並は笑うことが少なくなった。領一の話をしなくなったのもその頃からだ。美並の口から何かが語られることはなかったが、母親の直感で、何となく事の成り行きが分かった。彼になら美並をやってもいいとも思っていただけに、じわじわと美弥子もショックを受けていた。彼が憎らしく思えた。けれど、その感情は今回のことで形を変えたのだ。あのくっきりとした眼差しに込められた思いが、何となく輪郭を描き出した。

 美並は今にも泣き出しそうな表情をして、美弥子を見つめている。拳が握られ、ぐっと気持ちを押し殺すように母に訊ねた。

「ねぇ、知っているんでしょ、お母さん。領一さんがいったいどうしたの」

 母と娘を、しばらくの黒い沈黙が包んだ。二人の影は、互いを探りあうように伸びている。少し冷たくなった風が嫌な物を運ぶように庭に流れ込んできた。美並は歯を食いしばって、涙を流す代わりに、皺が増え始めた母親を睨み付けた。美弥子はその白い顔の痩せたまぶたをぎゅっと閉めて、娘を哀れむ気持ちを暗闇に溶かした。そして、力を込めてまぶたを押し上げた。

「高遠領一はね、特高に捕まって獄死したそうよ」 

 美並の体中から血の気が引いた。

「あの人は、心の中で、この家を馬鹿にしていたのよ。あなたのことも火遊び程度にしか思っていなかったのよ。お父様に唾を吐き、天皇をこけにした酷い男。情けない男。美並、良かったわね。目が醒めたでしょ。もう忘れなさいね、何もかも」

 捲し立てるように、美弥子は言葉を投げつけた。沈黙は、きっと決心を揺るがす。美並が、領一のことをできるだけ嫌いになってくれればいい。若い私の娘には、別の人生があるのだ。

「お父様の気持ちを考えてごらんなさい。うちは軍人の家庭なのよ。あんなくだらない男に掻き回されてたまるものですか。あなたが非国民扱いされなくて良かった。傷物にならずに済んで良かった。さぁ、じきに冷えてくるわ。家に入りましょう」

 美弥子はそそくさと立ち上がり、なるべく冷徹に見えるように振る舞いながら、家の裏口へと消えて行った。力いっぱい歯を食い縛りながら。


 美並は、茫然と佇んでいる。体が思うようにならない。指先ひとつさえ、どうやって動かせばいいのか分からなかった。ただ、〝獄死した〟という言葉がぐるぐると頭の中を巡っていた。これは、きっと、いつもの夢だと思った。毎晩のように見る、領一の夢の一場面だと。何の根拠もない。証拠もない。何かの間違いで、いつかまたひょっこり姿を現すのだ。大連やハルピンからこの街へ帰ってきて、またあの帰り道でこっそり待ち伏せをして、私を驚かすのだ。やぁ、全ては僕の道化だよと、おどけて見せるのだ。

 美並は、どうしても信じられなかった。信じたくはなかった。両親は、私に嘘を付いているだけだと、思い込もうとした。けれど、彼の最期の言葉がそれを打ち消すのだった。

(美並さん、ありがとう。Ты(トィ) моё(マヨ) счастье(シャースティエ)。どうか幸せになって下さい)

 まるで永遠の別れを言い渡すようだった。彼はこうなることを分かっていたのだろうか。私を、そして家族にさえ迷惑をかけないように、縁を切り、離れて、自分の往くべき道を進んだのかもしれない。けれど、本当に彼は死んでしまったのか。もう二度と会えないのだろうか。あの手で私に触れてもらえないのだろうか。強気な笑顔で見つめてくれないのだろうか。優しい声で名前を読んでくれることも、甘い口付けをしてくれることもないのだろうか。考えているうちに、美並の頬を涙が伝い、嗚咽が止まらなくなった。

 誰もいない庭で、美並は泣き続けた。泣くことしかできないと思った。私は彼の家族でも何でもないのだから。死んだということを知らせてすらもらえないのだ。どうやって、命は絶たれたのだろう。ひどく拷問されたのではないだろうか。きっと、痛い思いを沢山したはずだ。これほどない屈辱も味わっただろう。苦しんだろう。私は、事態が起きている最中、何一つ知らないまま平凡に過ごしていた。悔しい。悲しい。兵隊になって前線へ出たわけでもない。彼は、平和な世の中を望んだだけ。ただそれだけの、一人の記者でしかない。こんな最期があってたまるか。泣いても泣いても、この悲しみが埋まることはないだろう。彼は私の一部で、この愛は永遠に消えない。戦争が憎い。国家が憎い。彼を殺した人間が憎い。軍が憎い。軍人である父が憎い。

 美並の心を、どす黒いものが支配し始めた。これからこの気持ちを抱えて、どうやって生きていけばいいのか分からなくなっていた。彼が死んでしまったのなら、生きる意味がない。少しの希望さえ喪われてしまった。

 やがて日が暮れ、大きな太陽は地平線の向こう側へ行ってしまった。何か、神様に置いてきぼりにされたような、そんな気分だった。


 奉天が爆撃され、満州にもいよいよ戦争の色が充満していた。ソ連兵が国境付近で待機していると噂が立った。

 美並は心を亡くしていた。どうせいつか死んでしまうのだと無防備に暮らしていた。父や母と言葉を交わすこともなく、ただ時間だけが過ぎ去って行った。兄は出兵したきり行方がわからず、妹達は毎日軍需工場へ勤労奉仕に出かけた。

 美並は、庭に佇んで、空を見上げる時間が多くなった。何も考えず、ひたすら空気に溶け込もうとしていた。花を観ても美しいと思えないようになってしまった。自分が別の所からもう一人の誰かを見ているようで、時々自分自身が三つに分かれて見えりした。一人は以前の生き生きとした自分。一人はただ愛に生きる女としての自分。一人はどろどろとした真っ黒な自分。それを少し遠くから、眺めている心という自分。本当の人格がどれなのか考えれば考えるほど分からなくて、一つになろうとしてもすぐに失敗してまた別々になってしまう。苦しむことも忘れてしまったようだった。自分はきっと、泥美人にでもなってしまった、ただの置物なのだと思うようになった。

「美並、体を冷やすわよ」

 美弥子が手編みのブランケットを持ってきて、美並の肩にかけ、家の中へ入れようとする。美並はそれを無視して、瞑想に更ける。

「ほら、行きましょう」

 無理矢理手を引いて、中へと入れられる。毎日がそんなやり取りだった。

「お嬢様、郵便でございます」

 ペチカの前でソファーに横たわる美並に、使用人の小夜子(さよこ)が一通の手紙を美並へ手渡した。小夜子は忙しそうに自分の用事に戻る。差出人は、旅順にいる小澤歌子だった。美並はぼんやりする頭をどうにか機能させて手紙の封を切った。直感的に両親にも誰にも見られてはいけないような気がして、急いで二階の自分の部屋にかけ上がった。美並はドキドキしながら封筒から紙を取り出した。

『 市橋美並様

   寒気は冴えかえる中、いかがお過ごしでせうか。

   来月弥生の中頃 子供が産まれます。

   一度旅順の我が家をお尋ね下さいませ。

                           

 小澤歌子』

(歌子に、子供が……)

 その丸い文字に目を通したあと、美並は、心に決めた。領一は、小澤夫妻を頼るようにと言い残した。旅順へ行けば、何かが分かる。きっと、彼の想いに出会える。今まで霧がかかっていた心が、すっきりと晴れたような気がする。

 トランクに荷物を詰め始める。これから先に必要のありそうなものを、全て明日までに準備することにした。こっそり、口の堅い信頼の置ける女中の小夜子を呼びつけて、彼女にだけ本当のことを言っておいた。私は旅順にいるから心配するな、なにかあったらここに連絡を、万一なにかが起こっても私は帰らないから、ここで待たないように、と。年の七、八才の頃から市橋家で奉公していて、美並と年のあまり変わらない彼女は、涙ながらにそれを聞き入れた。美並は本当の妹のように思い、また小夜子は姉のように慕っていた。小夜子は美並の胸のうちを察し、手を貸すことを喜んだ。

 その翌日。小夜子に先に駅までトランクを運ばせ、何食わぬ顔で家を出た。駅でそれを受け取り、すぐに汽車に乗る。

「小夜子、ありがとう。私、本当の自分を取り戻しに行ってくる。いつか、また会えたらいいわね。では」

 美並は涙をこらえ、笑顔を作り手を降って車両を移動し、座席に腰を下ろした。小夜子は約束通り見送りせずにすぐに駅を去った。

(私は、まだ死ねない。きっとやるべきことがある。領一さん、待っていてね)

 汽車が新京駅を出発した。ガタンゴトンと音を立て、得体の知れない未来に向かって。



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