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記憶

 昨日彼と別れてから祖父に声をかけてみたけれど、そのことについては、まるで反応がなくて、自分だけ夢でも見ていたのかと思うほどだった。あれはいったい何だったのだろう。明らかに、彼に対しての反応だと思えた。恐ろしい何かを見るような……。

「小澤せんせ、どないしはったん?」

 窪田が美並を覗きこむ。

「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事を……。失礼しました」

「まあ、珍しい。先生がそないしてぼーっとしてはるのん、初めて見ましたわ」

 口を開いたまま心配そうな彼女の視線を振り切るように、美並は慌ててピアノの上の楽譜に目をやった。

「窪田さん、前回より、だいぶ上達してはりますね、かなり練習されたんとちがいますか?」

 窪田はパッと顔を明るくして喜んだ。

「ええ、毎日コツコツ練習しましたから!先生に褒めてもろたら、ものすご嬉しいわ」

 美並もつられて笑顔になった。

「この曲ねぇ、どうしても完成させたいんです。あのね、先生。来月、兄の命日やの。幼い頃に、二人してよく歌った。兄はもうこの世にいないから、だから、せめて兄の魂に聴かせてやりたいんですわ。報われなかった魂やからね……」

「報われなかった?」

 老女は、ふっと小窓の外を見上げて何かを思い出すように目を細めて、再びピアノに視線を戻した。その目尻に刻まれた皺が美しいと思った。

「昔はね、戦争があったでしょ。うちは、兄が三人、姉が二人、私の、六人兄弟でね。産めよ増やせよの時代だったから、みんな沢山兄弟があったの。二番目の兄が新聞記者をしてたんやけど、満州へ渡って、あることから家族と絶縁して、思想が悪いと言われて捕まって、そのまま骨になってしまった。まだ若かったのにねぇ。時代が時代やったし、仕方なかったんやけど……。でも、兄はね、反戦を唱えて、自分の意思を貫いて、死んでいった。家族が非国民扱いされんで済むように縁を切ったっていうことは、後から分かってんけどね。一番仲が良かったから、私には色々話をしてくれてたんよ。……あぁ、ごめんなさい、長々と。昔を思い出すとついつい。年よりは話が長いからかなわんな。さ、練習練習」

 美並は、自分の胸の奥底で、何かが疼くような気がした。ぎゅっと音を立てて、胸が高鳴る。彼を初めて見た時と同じように。窪田はピアノに向かい、一生懸命『赤とんぼ』を練習し始めた。動揺を隠すように、美並は膝を打って淡々とテンポを取る。素直で美しくて哀愁のある音色は、この人の兄を想う心だったのか。切なさが溢れだし、涙が頬を伝った。ごめんなさい、と心の奥が叫んだ。

「せんせ!どないしはったん?大丈夫?」

 窪田が慌てて美並に寄り添った。自分でも訳がわからず、ただただ涙が溢れて止まらなかった。アイボリーの壁が涙で滲んで、窓やら壁掛けやらがぐちゃぐちゃになっている。

「す、すみません。自分でもなんで泣いてるか分からないんです」

 その皺々の柔らかい、苦労を重ねた手が、幼子をあやすように美並の肩を抱いた。

「そういうこと、私も時々ありますよ。大丈夫大丈夫」

「レッスン中に、申し訳ありません」

「気にせんといて。私ね、何でかものすごい嬉しいんです」

 そう言うと、窪田も目を潤ませた。

「そや、先生。どうせやからもう少し、お婆さんの昔話に付き合うて貰えますか?」

 美並はそっと頷いた。


 来週中国に渡ると舞から報告を受け、この前のカフェでと、慌てて会う約束を取り付けた。遅れるというメールを読んで、美並は先に舞のアイスコーヒーと自分のアイスレモンティー注文をして、連れが来てから運んで貰うように言っておいた。今日は曇り空で、少しだけ暑さが和らいでいる。店はクーラーが程よく効いていて心地がいい。ぼんやりと、ここ数日間の出来事を思い返した。自分の感情とは無関係に、体が反応してしまうことが度々ある。あの高遠領一とは、何者なんだろうか。彼の姿を思い浮かべてみる。背が高く、割りと筋肉質で、しなやかに伸びた手足。自然に茶色い髪が太陽の光でキラキラと輝く。意志の強そうな眼差し。高い鼻。笑うと左に口角が少し上がる。素敵な人だと思う。けれど、よくわからない人でもある。掴めない。スルリと、逃げてしまいそうな……。

「ごめーん、遅なって」 

 十分ほど遅刻して、舞がやって来た。手をふって呼び寄せ、ウエイターに持って来て貰うように伝えた。

「仕事片付けるのにちょっと時間食っててん。電車一本逃してもて」

 白とグレーのボーダーのバッグを下ろしながら、舞は言った。額にうっすら汗が滲んでいる。きっと駅から急いで来てくれたんだろうなと、美並は申し訳なくなった。

「だいぶ早まってんなぁ、転勤」

「そうやねん、なんかバタバタで。手続きとか色々ややこしくてなー」

「籍もちゃんと入れてんな。改めて、結婚おめでとう。これ、ささやかやけど……」

 美並は小さな箱を手渡した。

「ありがとう! ぃや~、嬉しい! 開けてもいい?」

「うん、どうぞ」

 舞は丁寧に黄色いリボンをほどき、淡い緑の箱を開けた。

「うわー、ありがとう、かわいい」

「海外行くし、あんまりかさばったらあかんなと思って。ずっとそばにおったから、これからも一緒やでという意味をこめて。」

 中には小振りのムーンストーンが付いたシルバーの指輪が入っていた。舞は心底嬉しそうで、目尻に涙をためて喜んだ。

「思い出すわ~。小学生の頃、美並にイニシャルの指輪贈ったよなぁ」

「そうそう。そのお返し。でもな、あれ私のイニシャルじゃなかったやん?自分で解読してって言われて、結局何のことか解らずじまいやねんけど……。Rってどういうことなん?」

「いいよ、わからんままで。内緒!」

「えーーーーっ」

 二人は顔を合わせて笑った。結婚指輪より大事にするわ、と、舞は冗談めかして言った。美並は喜んでくれて良かったと思ったけれど、少し寂しさもあった。今まで、なんだかんだ言いながら、時には喧嘩したり色んな時期がありながらも舞を頼りにしてきた分、背中を押したけれど、海を隔てる距離を感じてみると、もう会えなくなるんじゃないかと思うほどだった。

「なんかあったら、スカイプやな!便利な世の中やわ」

「ほんまやな」

「美並はこれからやもんな。いい人見つけて早く結婚しいや。ちょっとでもなんか進展あったら絶対連絡してや。あんた自分から全然教えてくれへんねんから」

「ふん、もう男はええわ。こりごりです」

 美並はあの夜のことを思い出した。苦さと痛みが少しよみがえったけれど、少し楽になっていた。きっと、彼が殴ってくれたから、スッとしたのもあると思う。そして、その拳の張本人とはあれ以来一度も連絡を取っていない。でもなぜか、アドレスと番号は消せずにいる。

「……どうやった? 高遠さん」

 いつ来るかと構えていた質問に答えを準備できずにいたため、思わずゲホゲホと飲み物にむせてしまった。汚れた所を慌てて紙ナプキンで拭く。

「やっぱりなんかあったん!」

 舞が立ち上がるとガタリと椅子が音を立て、店中の客の視線がそこに集中した。すみません、と頭を下げ、恥ずかしそうに縮こまる。二人とも顔が真っ赤に染まった。

「なんもないよ」

「嘘や。嘘ついてる顔してる。なんもなくないやろ、ほんまのこと言うてみ」

 美並はふぅとため息をつき、観念してライブの夜のこと、祖父のこと、窪田のことを話始めた。全て聞き終わると、舞は思いっきり眉間にシワを寄せ、まるでどこかの占い師のように、運命やな、と断言した。

「おおげさな」

 美並はレモンティーの残りをストローでズッと吸い込んだ。

「いいや。おおげさちゃうって。なんかあると思っててん」

 コーヒーの二杯目と、リンゴのタルト、そして美並のためにチーズケーキを注文すると、「私のおごりや」と偉そうに言って目を輝かせ、興奮して話始めた。

「あんな、たまたま山下くんとおるところにあんたからメールがあってん。中国の新居について相談してたとこに。ほんならな、たまたま山下くんの先輩から電話がかかってきてん。たまたまライブの話をしてたとこに。先月中国行ってたって言わはるから、ほんならちょっと話を聞かせて貰おや、ってなって、そうなん?すぐ近くやから俺行くわ、ってなって、来てん。ほんで、ライブのこと言ったら、友達どんなこ? って言うから、こんなんでそんなんで小澤美並言いまんねん言うたら、チケットちょうだいな、俺行くわ、って言うねん。ジャズ好きなんでっか~聞いた、全然。って言うねん! こら美並のこと狙ろてんなー! 思てん。……でもあんたから何も言うて来えへんし、なんもなかったんかなーとも思ってんけど。男前やし、なんか美並にめっちゃ合いそうな人やな~と思って。やっぱり好きになった?」

「な、なってへんし!」

「怪しい」

 注文した品々が運ばれてきた。ウエイターはそれらをテーブルに置くと、逃げるように去って行った。舞がすごい勢いでタルトを頬張る。美並の心はぐるぐると渦巻いていた。好きになった?そういう感情ではないはず。訳のわからない種類の痛みや胸の鼓動は起こるけれど果たしてこれが、愛だの恋だの、そういうものであるのかと二択にしてみると、今のところ答えはノーだと思う。

「まぁ、時間の問題やな。美並、あんなええ男、絶対に放したらあかんで」

 確かに見た目も雰囲気もかっこいい人ではあったと思う。それ故、私には不釣り合いだとも美並は思う。

「放すも放さんも、あれ以来連絡すら取っていないのに、そんな次元じゃないわ」

「メールしたらいいやん」

「用事ないもん」

「そんなもん、あろうがなかろうが関係ないわ! 早く! 今!」

「もう、アホなこと言わんといて……」

 頭の中をあの日の言葉が蘇る。『本気で誰かを愛することなんか、誰にもできひんのちゃうかな。』と、彼は言った。私と恋愛する気など、まるでないような口振りだった。私だって、もうあんなに傷付くのは辛い。好きだとか、愛しているとか、そういう気持ちで誰かを見たくない。美並は、頬杖を付き曇り空を見上げた。舞は何かに取り憑かれた様な顔をして、美並の肩を揺すった。

「美並。だからやな、違うねんって。高遠さんは、運命やねん。絶対に運命やねん。何かな、あたしな、時々頭の中から声がするねんって」

 舞の話しもそこそこに、フォークでチーズケーキを小さく切って、口に運ぶ。ふわっと口の中に優しい甘さが広がる。きゅん、と胸が切なくなる。心の奥底に何重にも重なったベールが、一枚ずつ剥がされていくような気がする。そう、本当は彼と出逢ったあの日から、何かが少しずつ動き出すような気配がしているのだ。自分が自分でなくなるような、いや、むしろ本当の自分を知ってしまうのを恐れているかのような。

「あんたは、あの人と出逢わなあかんようになってんねんやと思う。あの人は、ずっと待ってんねん、美並を。はっきり分からんけど、その時期やねんって」

 勢い付いてしゃべるだけしゃべって胸の内を吐き出すと、舞は疲れたようで、しばらく沈黙した。美並はケーキを少しずつひたすら口に運んだ。カチャカチャとフォークとお皿が当たる音がしている。それはなぜか、胸が痛む音と重なった。

 ふと視線を上げると、店内の白い壁にいくつかの絵が飾ってあった。

(この前来たとき、こんなんあったっけ?)

 どれも向日葵が描かれている。可愛らしいものや、リアルなもの。変わったタッチのものもある。そして、何気なく濃い茶色の円形のテーブルの上にある、手元の白い長方形のメニューに目をやる。そこにはお洒落な字で〝Подсолнечник〟と書かれてあった。

「なあ、舞、これ何て書いてあるん?」

「ん、ああ、『パトソールチニク』。ロシア語で向日葵のことやねんて。ここのオーナーがロシアに住んでたことがあって。だからチーズケーキもロシア風やねんて。そうそう、向日葵ってロシアを代表する花らしくて。この前はなかったやろ?つい最近、なんか向日葵のオブジェみたいなんないかなって探し出した時にたまたま一人の画家のことが気に入って、全部その人の作品らしいわ」

 突然美並の脳裏に、誰かのシルエットが甦った。その人は多分微笑んでいて、一輪の小振りの向日葵を美並の髪に差し込んだ。美並はとても幸せで、その人が大好きだった。

 そこでプツリと記憶は途切れた。何だか少し頭痛がする。私には、こんな思い出なんてない。ドラマや映画でもない。モノクロの、古い時代の映像の中にいるような感じだった。それは私であって私でない誰かで、向日葵だけが黄色く色付いていた。


 余韻が通りすぎ、入り口の方で人の気配がしたので新しい客かと思い、一生懸命タルトを食べている舞の肩越しにドアの方を見る。その瞬間、美並は、息ができないんじゃないかと思うほど苦しくなった。胸の中のベールがまた一枚、はらりとはがれた。舞は全く気が付かない。これは、本当に運命なのだろうか。

 カウンターで声がする。

「オーナーいたはりますか」

 レジ係りが応える。

「少々お待ち下さいませ」

 内線電話をかけて、オーナーに取り次ぎ、受話器を渡す。

「あ、ありがとう。……もしもし、絵を持って来させて貰いました。どうも。はい、はい。わかりました。ほんなら、しばらく待たせて貰います」

「こちらへどうぞ」

 受話器を受け取ると、ウエイターがレジ係りに代わって美並達に背を向ける位置へその人を案内する。椅子に座り、じゃぁいつものをお願いします、と言った。ウエイターは会釈し、一旦下がると、少ししてお盆にそれを乗せて運んで来た。

「お待たせいたしました。チーズケーキとレモンティーでございます」

 馴れた手付きでお皿とカップを並べていく。

「こちら、ジャムとサワークリームもお持ちいたしました」

「ありがとう」

 ウエイターに向かって、その人は微笑んだ。とても優しくて、美しい笑顔だった。美並は、その人から目が離せなくなった。心が言うことを聞かない。

「さ、そろそろ出よっか。……美並? どうしたん?」

 どんな顔をしているのか、自分では分からなかった。ただ、舞の声が遠くに聞こえていた。舞は心配そうに美並の顔を覗き込んでいる。

「なぁ、美並?」

 名前を呼ぶ声が聞こえたのか、向こうにいる彼がこちらを振り向いた。一瞬がとても永く感じられた。彼の視線が美並の視線を捉え、心を見透かすような眼差しを向けた。時間を何者かに奪われたようだ。美並は必死にそれを振り切って、小さな声で、用事思い出したから先に行くわな、とだけ言って足早に店を出た。それを寂しそうに見送ると、彼はくるりと前へ向き直り、オーナーを待ちながらロシア風チーズケーキを口に入れた。


 舞が首を傾げながらレジへ向かう。会計を済ませ、外へ出ようと、店内を見渡しながら進むと、自分達と真反対の席に、見知った男を見付けた。

(やっぱり)

 近付いて、声を掛ける。

「めっちゃ素敵な向日葵の絵ですね。なんというか、彼女みたいに。ねぇ、高遠さん」

 領一は、静かに頭を下げた。



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