лунный свет(ルーンヌイー スヴィエート) 〈月の光〉
領一と美並は、夜の小学校へと忍び込んだ。こっそりと音楽室へ入り、美並はピアノの前に座った。窓から美しい月が柔らかな光で辺りを優しく照らしている。自分の部屋から持ってきた色褪せた譜面を開き、台に乗せる。ポロン、と、軽く鍵盤を弾くと、悲しみに満ち溢れた音がした。領一は窓辺にもたれ掛かるようにして立っている。その姿は、儚く、透けてしまいそうに見えた。美並は深く息を吐き出し、そのあとゆっくりと空気を体に取り込んだ。そして、美しく、優雅で、どこか切ない旋律を奏で始めた。領一への思いが指に乗り移り、微かに振るえるのを感じながら、全身で、二人の思い出の情景を、愛を描いた。領一は、表情を変えず静かにそれを聴いていた。
総ての音符を弾き終えると、美並はゆっくりと立ち上がり領一の方を向いて抑揚のない声で言った。
「領一さん、もし、平和な世が訪れたら、何をしたいと思う?」
少し考えて、領一は、真っ直ぐに美並を見つめて応えた。
「僕は、名もない絵描きになりたい。そして、向日葵を沢山描くんだ。何枚も、何枚も」
月光が、美しい彼の横顔をしっとりと照らしている。
「全ては、君に出逢うために。この世で再会出来ないのなら、未来で出逢えばいい。何度生まれ変わっても、君を探し出す。だから、君は、ずっとピアノを弾いていて欲しい。僕はその音色を頼りに君の元へ行くから」
どちらともなく歩みより、きつく抱き締めあった。美並は泣きそうなのを堪えて、領一の胸に顔を埋めた。今のは、もう二度と会えないと、彼なりの別れの言葉。この人のいない人生など、何の意味があるだろう。生きて、戦争が終わったらもう一度会おうと、どうして言ってくれないのだろう。
「僕は、日本男児として、誇りを持って天から与えられた使命を全うする。人々が自由に主張し、自由に歌い、自由にものを見ることの出来る時代の為に、命を捧げる覚悟をした。分かっておくれ」
領一は胸の中の苦いものを噛み潰した。そして、優しく笑った。
「美並さん、今日は僕の為にありがとう。素晴らしい演奏だった。一生忘れない。いや、死んでも忘れない」
「口付けしていいかい」
美並は目を閉じ、全てを任せた。そして、情熱的で熱く、寂しさを含んだそれに、精一杯応えた。
しばらくの間、寄り添って月を見上げた。明日もどこか別々の場所で、二人同じ月を見上げることができるだろうかと美並は考えた。たとえもう二度と会えなくても、この地球の上で呼吸してくれていれば、それでいいとさえ思えた。領一の目が、眉が、鼻が、口が、耳が、手が、脚が、愛しくてたまらなかった。
「そろそろ時間だ。帰ろうか」
美並は頷けなかった。領一は彼女の白く細い手を取り、ダンスのステップを踏む。華やかなワルツに乗せるかのように、しなやかに、軽やかにリードした。何年か前には、ダンスホールへ出かけたこともあった。領一があまりにも素敵で、周りの女の子の目が気になってダンスどころではなくなった時も彼はこんな風にステップを踏み、美並を自分の世界へ誘い込んだ。そしていつも、歪みのない愛を伝えてくれた。優しくて、真っ直ぐで、誠実で、でも少しだけ意地悪な彼が、美並はいつだって大好きだった。今も変わらずに。
いつの間にか音楽室の入口に立っていた。そのまま領一に手を引かれ、外に連れ出され、馬車に乗り込んだ。満州人が馬をむち打ち、暗闇の中家路へ向かう。一言も言葉を交わすことなく、家に到着した。
「多児銭」
短いやり取りの後、領一が財布から少し多目にチップを渡すと、馬車はそのまま去って行った。
「車で仲間が迎えに来ているんだ。だからここで」
美並は、一分一秒先の事は何も考えたくなくて、馬車の行った後をずっと眺めていた。口を開けば、全てが終わってしまうような気がしていた。角に停めてある、あの車に乗せられて領一はきっと手の届かない世界へそのまま連れ去られてしまう。
「美並さん、ありがとう。Ты(トィ) моё(マヨ) счастье(シャースティエ)。どうか幸せになって下さい」
領一は、優しく涼しげな顔を崩すことなく、手を振って、背を向けた。
(行かないで!)
美並は心の中で叫んだ。
(あなたを失いたくないの!)
胸につかえて、言葉が出ない。少しずつ領一の姿が闇に溶けていくのを見つめながら、その場で泣き崩れた。これから何が起きようとしているのか、体中、恐ろしくてたまらなかった。