第二楽章 月夜とベンチ
まだ迷っている。家に帰ってそのまま三時間以上、夕食も食べずに自分の部屋にこもっている。会うべきか、やめておくべきか。あんなに簡単に終わりを告げたくせに、今さら何の用があるというのだ。未練がないと言えば嘘になる。でも、合わせる顔がない。いっそのこと、コミカルなお面でも被って行ってやろうかと思う。でも、待ち合わせと全く同じ時間に、店長のジャズライブが始まる。せっかく貰ったチケットを返せるわけもない。舞からの返事はまだないし……こういう時、誰かが答えを言ってくれれば楽なのに。
美並は勢い良く立ち上がり、メモ帳を二枚破り、そこに青いサインペンで『行く』『行かない』と書いた。それぞれ規則正しく四回折り畳んで、ベッドの上に登って立ち、目をつむって心を無にした。そして三十秒数えて、同じ高さから二枚の紙切れをポイッと落とした。ぱさりぱさりとそれらは床に落ちた。ゆっくりベッドから下りて、先に落ちた方の紙を握りしめ、後になった方をごみ箱に捨てた。その時、着信音が鳴り響いた。美並は急いでテーブルの上の携帯電話を手に取り、メールを開く。舞からだ。
『返事遅れてごめんな。今まで彼氏と話をしてました。あっちについていくことにしたよ! ほんで、店長のライブ、めっちゃ行きたいねんけど、明後日は急きょ彼氏の家族と会うことになってその時間は動かれへんから、あたしの代わりにチケットあげてほしい人がおるねんやん。番号とアドレス教えとくから、当日ライブハウスの入口らへんで手渡してあげて。』
美並は、祝福の言葉と、チケットの件了解と返事をした。幸せそうで良かった。山下君との長い長い年月が、無駄にならずに済むのだ。きっと、何かと忙しいのだろう。何せ急なことだ。チケットがもったいないことにならなくて良かった。いったいどんな人がチケットを欲しがっているのだろう。そうとなればライブに行かなければ。
はっとして、手に握ったさっきの紙を開くと、そこには『行かない』と書かれていた。
当日、美並はライブ会場の入口で待ち合わせしていた。あれから舞の知り合いの人の連絡先を受け取り、当日ここで待ち合わせしようと言うことになった。男の人で、年齢は多分五つくらい年上。服装で判断出来るように、彼は、白いティーシャツにジーンズ、黒いスニーカーを履いて来ること、美並は、レモンイエローのワンピース、ヒールのないサンダルを履いて行くことになっている。その人は舞の旦那になる人の友人で舞もそれほど親しい訳でもないらしく、売れない画家であることと、鼻筋の通ったそこそこの男前であるということしか分からなかった。元彼の誘いを断って、別の男と会う約束をしている自分が、何だか不純な気がした。開演まであと三十分。あいつは今頃どうしてるだろう。まだあのコンビニで、私を待っているのだろうか。
人が徐々に増え始めた。待ち人を見つけることができるだろうか。三十分前には来ることになっているから、そろそろだと思う。チケットを渡したら、すぐにその場を去ろう。今は初対面の人と関わるのは面倒だ。こんな日は一人でいたい。美並は白い月を見上げ、ぼんやり考えた。あいつは、いったい何の話をしようとしたのだろう。まさか、よりを戻したいなんて思っていたのか、全く関係ないことだったのか。どちらにしても、あいつの口から発せられる言葉を今の自分は聞けない。きっと私達は、運命の糸では結ばれていなかったのだ。
美並のまえに、人影が立ちはだかった。ふと視線を運ぶと、白いティーシャツが目に飛び込んで来た。
「電話してんけど、反応がなかったから」
あわてて携帯を確かめると着信があった。
「すみません、気がつきませんでした」
「美並ちゃん、でよかった?」
あ、はい、と言って顔を上げた。そのまましばらく時が止まったような気がした。美並の体を電流のようなものが突き抜ける。
(この前の、ひまわりの公園で見た人や……)
私、この人を絶対に知っている、と確信した。でも、どこの誰で、いつ知り合ったか、全く思い出せない。脚がガクガクして来て、その場に立っているのがやっとだった。あわてて焦げ茶色のバッグからチケットを取り出す。
「あの、これ、渋谷舞に言われたやつです」
ありがとう、と、その男は言った。じゃあ、と美並が言いかけると、
「どうせやし、一緒に聴こう」
と、有無を言わせない感じで美並の手を引いた。ドクンと心臓が飛び跳ねた。身体中の意識が、そこに集中してしまう。どうしてだろう、何故こんな気持ちになるんだろう。この人はいったい何者なんだろう。
会場に入って、真ん中ぐらいの列の、右の方に座った。何を話していいかわからず、無言のままとりあえずついて歩いて、腰を下ろした。気まずいけれど、嫌ではない。暗闇の中バンドのチューニングが行われている。店長は確かサックスを吹くはずだ。プロコルハルムの『青い影』をリクエストしておいたけれど、演奏してくれるだろうか。
「ジャズが、好きなんですか?」
何か言わなくてはと、美並は思いきって口を開いた。
「いや、全然」
会話は、そこでまさかのストップをした。全然好きじゃないのに、何でわざわざチケットを譲り受けて、見ず知らずの女とこんなところにおるんや!と、心の中で叫んだ。変わった人だ。いや、でも前に絵を描いていたのも見たし確か画家のはしくれだと聞いたし、イメージを膨らませたりするのに音楽は必要なことなのかもしれない。ピアノを演奏する場合には、逆に絵画を観に行ったりする。
「舞に画家やって聞いたんですけど、やっぱりイマジネーションを広げるためには、音楽って必要ですよねぇ」
「そうかな」
それだけ言うと、男は再び黙ってしまった。
(何で私、この人と一緒におるんやろう……)
美並は泣きたい気持ちになってきた。今日は踏んだり蹴ったりだ。もういい。この人と話をするのはやめようと、明日のレッスンについて考え始めた。明日は、また窪田初枝のレッスンが入っている。曲の前奏がどうしても詰まるから、もう一度テンポを半分に下げてリズムをメトロノームに合わせてきっちりとやってもらおう。頭で鍵盤をイメージして、膝で指を動かした。滑らかに、スラーの切れ目はここ、アクセントを入れてペダルを踏む。
「あんた、ピアノやってるん?」
突然話しかけられて、美並の空想がプツンと音を立てて消えた。急に興味が湧いたような口調になり、今までの無機質な感じが薄れ、美並の肩に男の手が触れた。その部分だけ、やけに熱く感じられる。
「まぁ。ただの小さな教室で、趣味程度で講師やってるだけですけど……」
「得意な曲は?」
「えっ、うーん。ドビュッシーの月の光、かなぁ。好きなんです。あの曲って、彼が日本をイメージして創作した作品って言われてて。もちろん、別の解釈もあって、ほら、ピエロとか……」
男は、何か考え込むようにして両手で顔を覆った。美並の肩が少し寂しくなった。
「音大とか出てるん?」
「いえ、私は芸大なんです」
「え、俺もやで」
突然盛り上がり始めたので話を進めると、どうやら同じ大学にに通っていたらしい。学年は入れ替わりで、会うことはなかったようだ。
「それでか……」
何が?と美並が聞き返す声は、ジャーンというスタンドシンバルの音にかき消されてしまった。ライブが始まった。なかなかレベルの高い演奏で、美並は満足しながら聴いていた。店長のテナーサックスが小刻みに音階を行ったり来たりして、まるで客席にステップを誘うようだ。リクエストの曲も、ちゃんと取り入れてくれていて、明日は店長にお礼を言わなければなと思った。男は、何かを考え込んでいるようで、ほとんど上の空で、演奏などまともに聴いていなかった。
帰り道、蒸し暑いので、コンビニでチョコアイスを二つ買ってくれた。近くの公園のベンチに並んで腰掛け、アイスを食べた。
「チョコレート、大好きなんです。ありがとうございます」
俺もやねん、といいながら美味しそうに食べる姿が、さっきまでと打って変わって可愛らしく見えた。そのお陰で少しだけ、気分が楽になった。暗くて気が付かなかったけれど、ここはこの人が向日葵を描いていた公園だった。不思議な事もあるものだと夜空を見上げると、さっき白かった月が、黄色く輝いている。前にもどこかで、こんなことがあったような気がする。こういう背格好をしている好きな人と公園のベンチに座って空を眺めたり、甘いものを食べて甘い時間を過ごしたり。でも、そんな気がするだけで、思い出せるような記憶でもない。ふと、噴水の向こうに人影が見えた。途端に美並は、ひどく同様した。あれは、間違いなく、今日私を呼び出した元彼だ。隣に座っている男も、美並の様子がおかしいのに気がついたようで、静かに様子を伺っている。元彼氏と、その友人らしき男が歩いて来る。美並はその場を動けなくなり息を潜めて俯いた。
「今日、美並ちゃん来ぇへんかってんて?」
「そうやねん、ほんま当てが外れたわ」
「ははは、ようやるわほんま」
「まあな、あいつのことは元々遊びやったし。でも向こうがなんか真剣な感じやったから、もっかいひっかけたら行けるかな思てんけど、俺が甘かった」
「やりたいだけやろ?」
「あたりまえやん、だれがあんな女に本気になるか。体の相性だけは良かったからな~。もう一回ぐらいやったろと思ってんけどな。セフレのまま捕まえといたらよかった」
「うわー、えげつな。怖い男やな」
「あ、電話。すまん。はい、俺。え、マジでか! 行く行くー。今日は収穫無かったから、たまってんね~ん。うそうそ、一番好きなんはお前やって。うそやって、ほんま。愛してる。うん、一時間後な、家まで行くから。うん、ばいばーい」
「お前、それみんなに言うてるやろ」
「え? なんのこと~?」
「もうええわ、ほんでお前、美並ちゃんはもういいん?」
「どうでもええし! は? 誰それ。」
「ええっ」
「ぎゃははは。おもろ」
胸が苦しくて、そのまま消えてしまいたくなった。二人がこちらへやって来る。どうしよう、脚がすくんでやっぱり動かない。それでも立ち去ろうと脚に力を入れた瞬間、隣の影がスッと動いた。そして、バキ、と鈍い音が響いた。美並には、今何が起こっているのか分からなかった。しばらく呆然としながら見守った。何かを言い争っているのが聞こえる。
「けっ、ええ身分やんけ。もう新しい男おるんかい」
そう言い捨てて、二人組は去って行った。多分、あいつの顔を殴った。どうして、何も知らないはずなのに、私なんかのためにこんなことをするんだろう。知らぬ間に、目から涙がポロポロと流れ落ちていた。
「なんで……」
男は再びゆっくりと腰かかけ、ポケットからセブンスターを取り出して、サッと火を点けた。
「あれ、あんたの男?」
美並は嗚咽を堪えながら言った。
「違う。この前、別れたとこです」
男は、煙草をふかしながら、その煙を月に向かって吹き掛けた。
「あほやなぁ。あんな男につかまって」
すごく失礼だと思ったけれど、その反面優しさも含まれているような言い方に聞こえた。美並が泣き止むまで、二人はしばらくそこに座っていた。あんなふうに思われていることは、心のどこかで分かっていたのかもしれない。だから、今日は他にこじつけの理由が見つかって、ほっとしていた。多分、もう一度口説かれたら心の弱い自分は、あのどうしようもないやつに再びなびいてしまっていただろう。好きだとか嫌いだとか、そんなことよりも、私はきっと、誰かに必要とされたいのだと思う。美並は、ふと夜空を見上げた。ずっと堪えていた辛さや情けなさ、苦しさ、悲しさが涙と共に流れていく。男は何も言わず、ゆっくりと隣で煙草を吸っている。まるで心をすべて見透かされているようで、じわじわ恥ずかしさが襲ってきた。あわてて涙を手でぬぐい、ごめんなさい、と謝った。男は無表情のまま言った。
「本気で誰かを愛することなんか、誰にもできひんのちゃうかな」
否定するでも肯定するでもなく、美並は夜空を見つめた。このまま吸い込まれてしまえば楽なのに。
男は、美並を自宅の前まで送った。もう会うこともないんだろうなと、玄関先で立ち尽くした。ふと気が付くと、また涙を流していた。寂しいわけでも、悲しいわけでもない。はぁ、とため息をついて、男は美並の頬に手をやり、そっと涙の筋をなぞり
「しゃーないな。……気付いてくれへんかっても」
と言った。
その時、玄関のドアがカチャリと鳴って開いた。あわてて触れられた手を押しやり、振り返る。祖父がちらりとこちらを見たかと思うと、血相を変えて、何かを声にならない声で叫んでいる。いつも穏やかな祖父の、こんな引きつった顔を美並は初めて見て、恐ろしくなった。何が起こったのかと男の方を振り返ると、深く深く、頭が地面に届くかと思うほど上半身を折り曲げている。そのまましばらく時間が止まった。やがて祖父は少し穏やかさを取り戻し、涙を浮かべてこちらを眺めた。今この周辺だけが別世界となっていた。誰にも言葉はなかった。男は静かに頭を上げ、祖父を一直線に見据えた。そして、力強く敬礼した。
「高遠領一、只今戻りました」
それだけ言うと、無表情で身を翻して、夜の闇へ去って行った。祖父は胸前で、わなわなと震える手で合掌し、何か思い詰めたように、月を見つめていた。