Харбин 〈ハルビン〉
車窓から大陸の美しい景色が流れていくのを、美並はうっとりと眺めていた。まさか本当にこんな日が来るなんて。朝早く新京駅を発ち、列車に揺られながら北を目指している。膝の上には、一泊分の荷物を詰めたお気に入りの焦げ茶色をした皮バッグを乗せ、頭の先から足の爪の先まで手入れを行き届かせて、精一杯のお洒落をした。よそ行きのレモン色のワンピースを纏って、髪を高く一まとめにして団子に結い、薄く口紅と頬紅を差してある。領一の喜ぶ顔が見たい一心で一週間も前から悩みに悩み、今日の装いを決めた。駅では生徒や知り合いに会わないかハラハラし、車内の座席で待ち合わせしていたため、そこに落ち着くまで気が気でなかったけれど、領一の顔を見た瞬間、細かいことはすべて吹っ飛んだ。ただ嬉しさと愛しさで心が満たされてしまったからだ。
「お気に召しましたか、特急アジア号は」
じっと美並を見つめながら、領一が言った。
「もちろん。大満足致しましたわ」
美並はニコッと微笑み、照れ隠しにプイと横を向くと、それと同じように彼も微笑みながら窓の外に目をやった。
「無理矢理に連れ出して、すまなかったね」
いいえ、と美並はやんわりと否定した。今回は友人夫婦に協力してもらい、彼らが住む旅順に行くことになっている。まだ少し後ろめたさはあるけれど、どうしても領一と一緒に行きたかった。
「ハルビンまであとどれくらいかしら?」
「そうだなぁ、おそらくあと二時間ほどで着くよ。お腹も空いてきたことだし、食堂車へ行こうか」
二人は二つ後ろの車両へ向かった。座席はほぼ満席で、家族連れや、仕事で移動しているような男性や、自分たちのような、男女二人の乗客もいる。日本人は皆幸せそうで、どこか優越感を感じているように見えた。乗客は、日本人ばかりではない。満州人もいれば、ロシア人も利用している。それぞれの様々な思いを持って、このアジア号に乗り、ハルピンを目指しているのだ。共通して言えることは、皆不安を抱え戦争の時代を生きているということ。この穏やかな時間がいつまで続くのか、誰にも分からなかった。
モダンな食堂車には色々なメニューがあって、美並は迷った。ハンバーグやオムレツ、ビフテキなど、魅力的な洋食が沢山だ。中には親子丼もある。洋食が苦手な人のためかもしれない。うーんと小さく唸りながらメニューとにらめっこしていると、向かいからくすくす笑う声が聞こえてきた。
「相変わらず、優柔不断だね」
美並は恥ずかしくなり、視線を逸らして俯いた。
「だって、全部美味しそうなんですもの……」
「僕が決めてあげるよ」
領一はメニューを奪い畳んでしまうと、手を挙げ、ロシア人の美しい給士係を呼び止め、
「ビフテキを二つ。パンとスープを付けて」
と日本語で言った。馴れているな、と感心した。この人は仕事柄、あちこちを飛び回るのだ。そうでなくてはいけない。
「あの給士係、とても素敵ね」
おそらく白系ロシア人が働いているのだろう。スラッと背が高い女性で、肌の色は透けるように白く、目は大きく長いまつげをしていて鼻筋のスッと通った顔立ち、微笑んだ顔が尚更華麗さを引き立てていた。金髪の長い髪も美しい。制服もよく似合っている。美並は、なんだか自分が劣っているようで恥ずかしくなった。一張羅のこのワンピースだって、彼女が着た方が、絶対に似合うに違いない。自分といえばいかにも日本人的な顔立ちで、背格好も平凡で、おそらく領一の隣にいることも周りから見れば釣り合いが取れていないように思われているのではないだろうか。たまらなくなって、俯いたまま顔を上げることができなくなった。
「どうしたんだい? 気分でも悪いのか?」
心配そうに領一が顔を覗きこんだ。美並は、そんなことないわ、と呟き、黙ってしまった。領一は、再び軽く手を上げて男の給士係りを呼び止め、ロシア語で何かを伝えた。しばらくするとビフテキが運ばれて来た。とてもいい匂いがする。ありがとうと彼が給士係に言った。ふいに、美並の耳の横に何かが当てられた。視線を上げると、領一が言った。
「Подсолнечник(パトソールチニク)。向日葵だよ。美並さんにとても似合っていると思って、入口の花瓶のを彼に持って来させたんだ」
そっと耳の後ろへ小降りの花の、その茎を差し込むと、美並の顔がパッと明るくなった。
「さあ、冷めないうちに食べよう。なかなか美味しいぜ、ここのビフテキは」
領一は、座席に座ると、うとうとし始めた。このところ忙しくて疲れが溜まっている様だ。
最近は、あまり仕事の内容を話してくれなくなった。記者という職業柄、常に気を張っている。きっと、心の休まる時間がないのだろう。美並は、その子供のような姿を見て幸せを感じながら、さっきくれた向日葵の花びらを一つずつ数えていた。まるで、新婚旅行みたいだと思って、一人で少し照れた。いつか本当に、新婚旅行に行けたらいいなと想像した。このご時世だから、贅沢は言わない。ささやかでいい。領一と家庭を築けたら、どれほど幸せだろうか。
しばらく列車に揺られるとハルビン駅に着いたので、二人は駅に降り立った。夢にも見た、ハルビンに、最愛の恋人と来ることができたのだと思うと、身体中に鳥肌が立った。街には、ロシア人が多く、満州とも、ヨーロッパとも日本ともつかない不思議な街並みが広がっていた。あちこちに、満州語、ロシア語、日本語の看板が建ち並び、様々な店で様々な珍しい物が売られていた。美並はため息を漏らした。なんて素敵な街だろう。様々な文化が混ざり合っていて、本当に魅力的だ。二人は、街道を練り歩き、店を訪れ、景色を楽しんだ。
だいぶ長い時間歩いたので美しいヨーロッパ調の造りの公園で、脚を休めることにした。木のベンチに並んで腰掛け、共に空を見上げると、広大な大陸の空がのんびりと広がっている。
「こんなに穏やかな時間がこの世にあるんだね」
領一は目を閉じて、深呼吸をした。
「従軍カメラマンとして徴兵された時のことを話したよね」
戦場を、体で知っている人の顔だった。
「約半年、僕はおぞましいものを見続けてきた。心がおかしくなりそうだった。目の前で沢山の人間が死んでいった。敵も味方も、狂気に取り憑かれいた。僕はこの世の地獄を味わったよ。あちらこちらに死体が転がって、死体の浮いた水で飯を炊いた。どこの国の人間であっても、どんな思想を抱いていても、男でも女でも、老人でも子供でも、軍人でも、死ねばそれまでだ。闇の中を必死で駆け抜けて、命懸けで撮った写真は、国の検閲を受け、不許可となり闇に葬られた。不思議だよ、八百長などできる状況ではないのに、時々こちらが恥ずかしくなるほどにおあつらえむきの画が向こうからやって来る。そういう時はシャッターを切るしかない」
美並は、真っ直ぐに領一を見つめた。彼の瞳は、遠い空に何かを映し出している。突然彼の声色が恐ろしいものに変わり、不安になった。ここまで来て、現実に引き戻されるようで、心が曇った。
「僕は、新聞社を辞めた。本当にやるべきことが、他にあるような気がしたからだ。だがそれは同時に、危険を伴うことになった」
それは、美並にとってあまり聞きたくない話のような気がした。分かっているけれど、これ以上言葉にしてしまうと、領一がどんどん遠ざかってしまうのではないかと、悲しくなった。それを察したのか領一は、自らラジオのスイッチを途中で切るかのようにして池に小石を投げた。ぽん、ぽん、ぽん、と三回跳ねて、石は沈んでしまった。
「好きよ、領一さん」
何も言わず、領一は静かに美並を見つめ返した。
「そうだ、これを君に」
ポケットから小さな箱をそっと取り出すと、美並に渡した。甘い、いい香りがふわっと鼻をかすめた。
「これは?」
「チョコレイトだよ。さっきの店でこっそり買っておいたんだ」
箱を開けると小さな一口ほどの大きさのチョコレートが、綺麗な銀紙に包んであり、可愛らしく梱包されている。美並は嬉しくて、何だか切ない気持ちになった。
「可愛らしい。ありがとう、一緒に食べましょう」
二人は並んで、丁寧に銀紙をはがして、小さな甘いものを口に入れた。
「甘いね」
それは、儚い初恋のような味がした。
「……僕は、美並さんの、真っ直ぐで優しいところが、大好きだ。君は、まるでピアノの音色のように美しい」
ありがとう、と美並は半分照れながら答えた。
「今日はいつもより格別に綺麗だね。一番に言おうと思ったのに、何だか照れてしまって、今まで言えなかった。甘味の力を借りなければならないとは、僕も大して甲斐性がない男だ」
そのまま、優しく口づけをすると、二人の影が重なった。
美並の為に領一は、ハルピンの夜景が見渡せるホテルを予約した。赤ワインで乾杯し、今日一日の思い出を語り合った。楽しかったこと、可笑しかったこと、美並がふてくされたこと、街並みの美しかったこと。一晩では足りないと美並は思った。ずっとこうしていられたらいいのに。ふと会話が途切れると、どちらからともなく口づけをした。熱く、長い時間をかけた。そしてそのまま横たわり、領一は初めて美並を抱いた。優しく労るように。本当は、壊してしまいたいほどだったけれど、二人にとってかけがえのない時間を少しも苦しいものにしたくなかった。一晩中、二人は何度も何度も肌を重ね、結ばれた。
朝の光が、薄く明るい黄緑色のカーテンから射し込んでいる。美並はゆっくりと目を開けた。領一の日焼けした筋肉質な腕が首の下にあった。顔のすぐそばに厚い胸があった。昨晩のことを思い出すと、恥ずかしくて、ほんの少しの罪悪感に苛まれながら、顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。ハァ、と軽く息を吐き出し、服を探すためにベッドから這い出そうとした瞬間、領一が目を開けた。
「お、起きていたの」
どぎまぎして、目が泳いでしまった。あわてて布団にもぐりこもうとする美並の腕を、ぐっと掴み、その胸に抱き抱えた。
「もう少しだけ、このままで」
美並は目を閉じた。痛いほどに幸せだった。
空が明るくなったので、服を着替え、ホテルのレストランで朝食をとることにした。ヨーロッパと中国が混ざり合ったようなお洒落な内装で、美並はとてもそこが気に入った。運ばれて来たのは、見たことのないパンケーキだった。
「僕のおすすめのロシア式の朝食だ。白系ロシア人の知り合いに教わってね。スィルニキと言って生地にフレッシュチーズが沢山入っているんだ。このサワークリームと言うのと、ジャムをたっぷりかける。これが美味い。紅茶はレモンティーがいい。さあ、召し上がれ」
領一が美味しそうに食べるので、美並も口いっぱいに頬張ってみた。優しくほんのりとしたチーズの味がして、とても美味しい。
「これ、家でも作れるのかしら」
いつか、領一の為に作ってあげられたらいいと思った。
「聞いてみようか。後でレシピを貰ってきてあげるよ」
領一も、同じことを思ってくれていたのだと思う。ほんのりと、二人の将来に優しい灯りが燈るのをかんじた。とても嬉しそうだった。
荷造りをして、ホテルを後にし、馬車で松花江へと向かった。季節のせいもあって、観光客や地元の住人でごった返している。皆ここへ泳ぎに来たり、ボートに乗ったりと、涼みに訪れるのだ。水浴びよりも、美並はボートに乗りたくて仕方がなかった。恋人と松花江でランチボートに乗り、語らうのが、満州に渡ってきてからの夢だったからだ。
「さあ、行こうか」
領一が美並の手を引いた。川から吹く風が、白いスカートを揺らしていった。
「どこへ?」
「決まってるじゃないか、ボートに乗るんだよ。その為にここへ来たのに」
自分の些細な夢を覚えていてくれているか気になって、領一の口から聞きたくてわざといたずらな声を出した。
ボートに乗り込み、水の上を進んで行く。天気も良く、何て素敵な雰囲気だろうと、美並は心から満足した。キラキラと太陽が水面に輝いていて、まるでお伽噺の世界にいるようだと思った。領一は楽しそうにボートを漕いでいる。風、水のせせらぎ、ボートを漕ぐ櫂の音、愛する人の声、耳に届くすべてが美しいセレナーデのように聴こえる。頭の中でピアノを弾く。領一さんと、私の曲。
「出逢った頃を思い出すな」
目を細目ながら、領一は言った。
「そうね、こんな季節だったわね」
美並は歌うように応えた。
四年前の夏、領一は内地にいた。年頭に戦場から帰還し、その後も編集作業に終われていた。美並は来年の春に父の転勤で一家が満州に渡ることになっていたので、向こうでの就職先を探している時期だった。
美並はその日、友人の山根歌子と会う約束をしていた。真夏の陽射しが白い肌にちりちりと照り付け、空には雲一つない青空が広がっていた。近くの喫茶店で待ち合わせをし、先に着いた美並は席を取り、冷たい珈琲を注文した。頬杖を付き、窓ガラス越しに空を見上げた。吸い込まれそうだと、美並は思った。満州ってどんな所だろう。こんなに美しい青空が、彼の地にもあるのだろうか。色々と思いを巡らせていると、カランと入り口のベルが鳴った。歌子かな、とその方を見ると、歌子と、その後ろには一人の男性が立っていた。彼を見た瞬間美並の体に電流が走り、その姿に釘付けになった。
「ごめんなさい、遅くなって。先に来ていたのね、美並ちゃん」
歌子は満面の笑みで、連れの男性を席へと促し座るように伝えると、自分も席に着いた。
「こちら、新聞記者の高遠領一さん。私の友人なの。どう、素敵な方でしょう?」
そして二つ冷たい珈琲を注文し、じっと美並の反応を待っていた。美並は困惑した。精悍な顔立ちの中にも色気があり、微笑しながら真っ直ぐにこちらを見るその人に、一目で恋をしてしまったのだ。歌子はいったいどういうつもりでこの人を連れてきたのか。彼女の好い人なのか。返事ができずに口許だけが弛んで微かに震えた。それを見透かすように、歌子はニヤリと笑った。
「領一さん、こちらが市橋美並さん。ピアノがとても上手なの。得意なのはドビュッシーよ。綺麗なお嬢さんでしょ。自慢の親友なの。気に入った?」
何も言えずにいる美並の傍ら、領一が澄ました顔でこくりと頷いた。
「よろしく」
そう言って差し出された右手は骨ばっていて、強そうで、しなやかにも見えた。訳がわからず、とにかく美並も手を差し出し、そのままふんわりとした握手を交わした。いつまでも握っていて欲しくなった。その瞬間パッと手は離され、ネガの整理があるから、と、領一は珈琲が来るのを待たずに喫茶店を去った。
狐につままれたようで、しばらく二人の間には変な沈黙が流れ、どちらもなにを語るでもなくただただ珈琲を飲んだ。運ばれて来たにも関わらず余ってしまったグラスが汗をかいて冷水を滴らせ、コースターがぐっしょりと濡れていた。扇風機の音が、時折カタカタと鳴る。美並の頭の中は、先程の高遠領一という青年のことでいっぱいだった。歳はいくつぐらいなのか、どんな記事を書く人なのだろうか、あの手でどんな風にカメラを持つのだろうか、なぜ私に紹介されたのか――我慢しきれずに沈黙を先に破ったのは、美並だった。
「ちょっと、歌ちゃん、どういうつもり?」
動揺を隠すように、わざと強気に出た。
「いきなりあんな見ず知らずの男の人を、何の前置きもなく連れて来られたら困るわ」
歌子はけらけらと笑った。
「ねぇ、何で連れて来たと思う? 彼、すごくいい男でしょう。私の恋人に見えた?」
美並は肩をすくめ、さあ、と惚けて見せた。
「あのね、美並ちゃんにぴったりだと思って!」
「……何が?」
「もう、鈍いわね。」
歌子はあからさまに顔をしかめて美並のおでこを弾いた。
「あなたに恋人候補を紹介してあげたのよ。この人だ!と思ったの。私の大好きな美並ちゃんを幸せにしてくれるのは、この人を置いて他にないと」
一瞬、歌子の言っている意味がわからなかった。
「こ、恋人候補なんて、私は……」
あの人と、恋をしてもいいのだろうか?美並の胸は高鳴っていく。
「というのもね、美並ちゃん。私、結婚することにしたのよ。今日はその報告をしようと思って。あなた、春には渡満するんでしょ? 私、彼と一緒になって、満州で一旗上げるつもりなのよ。領一さんは、その相手の時彦さんの友人で、中国の地で知りあったんですって。そしてまた領一さんも、来年から仕事で満州に滞在することになっているの。数奇な運命を感じない?」
「ちょ、ちょっと待って、時彦さんという人のこと、今まで一言も聞いてないわ。どうして黙っていたの。」
歌子はぺろりと舌を出し、ごめんねと言った。そして、勢い良く話し始めた。
「先月親の勧めで見合いをしたの。でも、どうせ断るつもりだったから、誰にも言わなかったのよ。ほら、私、ミシンを習ってやっと洋裁の仕事が軌道に乗ってきたじゃない?洋服だって流行し始めている。女は家庭に収まるものだっていう常識にも嫌気が差していたし。一緒独身でもいいわ、なんて思っていたしね。蝶のようにヒラヒラと誰にも捕まることなく生きていこうと決意していた。だけど、彼に会った瞬間、すべてが変わったの!私ね、出逢ってしまったのよ、運命の人に。この人になら、自分の人生を捧げても後悔しないって、確信したわ」
美並はぽかんと口を開けたままになっねて、扇風機のカタカタ、だけが、相変わらず響いている。
「秋には結納を済ませて、婚儀は年末になるわ。ほら、それまでの間私達の友情がひび割れたりしないように、美並ちゃんにも相手がいればもっと素敵なのにと思っているところに、彼から領一さんを紹介されてね。雷が落ちるような衝撃を受けたの。だから、結婚の報告と併せて美並ちゃんに贈り物をしたかったのよ」
それからは、よく四人で遊び回った。美並と領一は少しずつ距離を縮め、いつしか交際が始まった。そして、まず歌子夫婦が満州の旅順へ旅立ち、間もなくして市橋家族が新京へ移り住み、美並は小学校の教員となった。領一はその年の夏、満州の支社へ赴任した。
両親もとても彼を気に入って、二人の交際を快く受け入れてくれていた。忙しく飛び回る領一とはなかなか会えなかったが、それでも手紙のやりとりをしたり、忙しい合間を縫って愛を育んだ。冬には公園や校庭のスケートリンクへ出かけ、仲秋節の頃には子供のように糖胡盧を食べながら並んで座り、移り行く空を眺めた。
「ねぇ領一さん、あの時私のことどう思ったの?」
美並はふわっと風になびくスカートの裾を押さえながら訊ねた。
「あの時?」
「歌子が、あなたを無理矢理に喫茶店に連れて来た時。」
「あぁ」
ふふっ、と笑ながら、領一はボートを漕ぐ手を休めた。
「正直、初めは、どうでもよかった。歌子さんが強引に引っ張るからね。行くだけ行こうかと。仕事に打ち込んでいたし、女はいらないと思っていたからね」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
聞かなければ良かった。
「でも一目見て、どうしようもなく好きになった。どうしてもこの娘の心を掴みたいと、そう思ってしまったんだ。だから気を引こうと、手を直ぐ様離してみたりした。作戦だよ。恋の駆け引きさ」
もう、と美並はふくれて見せた。
「今も、あの頃と変わらない。いや、あの頃よりも君を愛している」
ハルビン駅へ向かう途中、大きな向日葵畑があった。皆申し合わせたように太陽に向かって咲いている。まるで天国のようだと思った。ふと、領一が立ち止まったので、美並は躓きそうになった。
「どうしたの?」
「本当に、君に良く似合う花だ」
領一の目は、花ではないどこか遠くを見ている。
「もし、無事に戦争が終わったら、僕と結婚してほしい」
戦争が、終わったら。……終わらなければ、私達は共に生きられない。
「いや。すまない。結婚は出来ないかもしれない。僕にもしものことがあれば、旅順の小澤夫妻を頼って欲しい。まあ、君には家族があるから、最悪の場合だけど。もし」
「嫌よ! 何故そんなことを言うの?」
美並は言葉を遮った。大粒の涙がぽろぽろと流れ出した。こんな日が来る予感はしていた。でも、それ以上先の言葉は聞きたくない。
「仕事がどれだけ忙しくてもいい! 帰らない日も辛抱するわ。だから、そんな悲しいことを言わないで。私は妻としてあなたを支えて生きていきたい。」
「これは現実だ。目を背けてはいけないよ。」
領一は美並を力一杯抱き締め、震える声で言った。
「僕は、多分もうじき・・・・・・美並さん、もしも僕がこの世から消えたら、僕を忘れて幸せにおなりよ。」
いや、と、美並は力なく反抗したが、それは声にならなかった。
「だけど、今、生きている間は、君を精一杯愛するよ。きちんとお別れを言うから。それまでは恋人でいて欲しい」
涙が溢れて止まらない。怖い。私はいったいどうやって生きていけばいいのか。目の前が真っ暗になってしまった。
市橋家の玄関へたどり着くと、領一は美並を馬車から降ろした。そして自分自身も、ひらりと降りた。
「ありがとう。楽しかった。小澤夫婦には僕から連絡しておく」
美並は何も言わず、領一に背を向けた。胸が張り裂けそうで、溢れてしまいそうな想いを堪えるのに精一杯だった。今振り返れば、理性を失いそうな気がする。
「君のピアノを、最期にもう一度だけ聴きたいんだ。ドビュッシーの月の光を、僕のためだけに演奏してくれないか。明日の夜七時、迎えに来る」
領一はそう言い残し、暗闇へと消えていった。いつまでもその残像が、美並の胸を掻き乱していた。