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ピアノの音色

 気が付くと、自分の部屋の小さなテーブルに突っ伏していてミントグリーンのカーテンの隙間から、朝の光が射し込んでいた。テーブルの隅には、いくつかの酎ハイの空き缶が積み重ねられている。頭が痛むのはおそらくそのせいだ。焼酎とは相性が悪い。時計を見ると、針は既に午前十一時を指していた。

(やってもた……)

 今日は十一時三十分からレッスンの予約が入っていたことを美並はすっかり忘れていた。慌てて飛び起きて仕度を始める。仕事先のピアノ教室までは、自転車で十分。メイクを十分で済ますとして、洗面、歯磨き、トイレ、着替え、五分でこなして、今朝も母が作ってくれているであろう、朝食の味噌汁だけ飲んで行こうと心に決めた。家の中は、もうみんな出掛けて、九十五歳になる祖父しか残っていないようだ。父は会社員で、母は老人ホームで介護の仕事、パン屋で働く妹と、大学生の弟。祖母は若くして亡くなったので、美並は会ったことがない。小夜子という名で、祖父はほんのたまにだけ、さよちゃんが、さよちゃんがと言って祖母の話をする。けれど、本当に少しだけしか祖母の話はしない。そんな彼は男手一つで父と、その姉二人を育てて来た苦労人で、未だにとても逞しい人だ。脚が悪く、少しだけ引きずりながら歩いているけれど、それ以外は健康そのものでとても九十歳半ばとは思えない。

「おい、美並さん、やっと起きたんか」

 のんびりとした口調で訊ねてきた。美並はわかめと豆腐の味噌汁に火を入れながら言った。

「昨日ちょっと飲みすぎてん。遅刻しそうやからごめんやけど話しかけんといて!」

 祖父は、そうか、とのんびり言い返し、台所を去っていった。ほんのり温まった味噌汁を茶碗へ移し、わかめがひっかからないか気にしつつも一気に飲み込む。二日酔いにはこれが一番いい。洗いものもせず、大急ぎで赤いティーシャツとスキニージーンズに着替え、その他の準備を済ませ外へ飛び出した。

 自転車のペダルを思い切り踏むと、美並の体はぐん、と空気の中を進んだ。今日は雲ひとつなく空は青く透き通っていて、とてもいい天気だ。

 大急ぎで自転車を漕ぎ、ピアノ教室に着いた。教室といっても、二階に、ブースが二つ、スタジオを一つ設けてある、店長とその他三人の店員(みんな何かしら楽器が出来る)で切り盛りしている小ぢんまりした楽器店だ。そこで年齢を問わず募集している生徒に、ピアノの他にも、ギター、ベース、ドラムなどを教えている。店長と舞が知り合いで(彼女は顔が広い)、就職活動中に紹介してもらった。自転車を半分放り投げるようにして降り、鍵をかけ、建物に急いだ。

「すみませーん!」

 しんと静まり返った店内の奥から、顎ひげを蓄えた背のひょろ長い店長がひょこっと出てきた。

「美並ちゃん、ギリギリやん、珍しいな。三分前。生徒さん、中でまってはるで」

「ちょっと昨日飲み過ぎまして……行ってきます!」

 店長は、急げ急げとジェスチャーをして美並を送り出した。

「ごめんなさい、窪田さん、お待たせしました!」

 ブースの中では、既に窪田(くぼた)初枝(はつえ)が練習を始めていた。美並に気づくとその老女は、にっこり微笑みたちあがってお辞儀をした。

「待ってませんよ、全然。お陰さまで予習させて貰えましたから」

 そう言うと、再び椅子に腰かけ、楽譜を捲った。

「先生、私ねぇ、ここがちょっとうまいこと弾かれへんのですわ」

「あぁ、ここですか。ここは、スケールをしっかり練習したらいいですよ」

 美並は交替して椅子に腰かけ、その箇所を演奏してみせた。

「さすが先生、素晴らしいですね」

 窪田は感激のあまりため息を漏らした。

「そんな、褒められるほどのことはありません」

「いいえ、私、先生の演奏が大好きやの。なんというか、懐かしい、美しい響きがあって……。ずっと聴いていたくなる」

 なんだか照れ臭くなって、美並は立ち上がり、窪田を椅子に座るよう促した。老女はゆっくりと腰を下ろした。

「そんなに素晴らしい才能を持ってはるのに、なんでプロのピアニストにはならなかったの?教師もいいわ、先生には子供に教える姿が似合う。勿体ないですよ、こんなとこで数人の人間に教えてるだけなんて。もっと沢山の人に聴いてもろたらええのに……」

 学生の頃、同じことを言われたことがある。美並にとって、ピアノはそういうものではない。芸術家や教師は、人に伝えなければならない。自分の心を掘り起こして、何らかの意思をどうにかして形にしていく。私には、それはできない、と思う。弾くことは好きだ。芸大に進むぐらいに、ハマッていた時期もある。でも、自分には他にするべきことがあるような気がして、大人になっていく中で、音楽をを中心として世界を造り上げることを避けたかった。もっと、違う形を求めていた。小澤美並イコール音楽家、ではなくて、小澤美並の中にある、たった一部が音楽家であって、もっと別の誰かの、なにかのために生まれてきたような……。

 レッスンを終え、窪田は帰って行った。八十歳になるとは思えないほど若々しく、バイタリティーに溢れている。身形も小綺麗で、いつも清潔感が漂っている。あんなふうに歳を取りたい。いつもそう思うのだった。今日は彼女のレッスンのみだったので、明日の生徒と時間帯を確認して、帰る仕度を始めた。

「美並ちゃん、ご苦労さん」

 レジに座っていた店長が声をかけてくれた。

「いいえ、遅刻寸前の出勤で、すみませんでした。今日は窪田さんだけやったんで、そろそろ帰ります」

 うん、そうして、と店長が微笑む。くしゃっとして仔犬のようだ。元々バンドマンで楽器という楽器ならだいたい何でもできるこの人は、すごく人が良くて、誰でも仲間にしてしまう。歳はだいたい四十ぐらいで、本人はアラフォーだといつも言っている。ゆるりとしたところが、私の性に合っているのか、約五年、ここで仕事を続けている。

「あ、そうそう。今度な、ミニライブすんねん。美並ちゃん、良かったら、誰かと聴きに来て」

 そう言って、チケットを二枚手渡してきた。今回はジャズバンドで演奏するようだ。

(舞でも誘って行こっかな)

「いくらですか?」

 美並が訊ねると、

「ええ、ええねん、金はな。社員サービス。その代わり、サクラ頼むわな。観客集めんと話にならんからな」

 なるほど、と美並はヘラヘラ笑い、お礼を言って裏口から外に出た。

 早速、舞に誘いのメールを打った。自転車に跨がり、家路に着く。ふと、昨日の向日葵の公園での出来事を思い出した。

(私、何であんなに動揺したんやろう。あの人全然知らん人やのに……。やけ酒みたいなことしてもたし。わけわからんわ)

 ペダルをこぐスピードが速くなってくる。考えるだけで、胸の鼓動が強くなるのがわかる。心がもやもやしてどうしようもない。このまま家に帰る気になれなくて、美並は方向を変えた。 

 ティーシャツに汗がにじんできた。信号が赤になったので、交差点をそのまま左に曲がった。すぐ右横を三車線の道路が通っていて、排気ガス臭い。怪しい大人のグッズの自動販売機を通り過ぎ、最近建ったばかりの大手の電気屋を通り過ぎ、向かいからベルを必要以上に鳴らしながらやって来る自転車おばちゃんを避け、力いっぱいペダルをこぎ続けた。少しお腹が減った。そういえば、今朝は味噌汁一杯で済ませたんだった。時計が午後二時を指しているのを確認すると、更にお腹が空いてくるような気がした。左手側にショッピングモールが見えて来たので、そこで一休みすることにした。

 何年か前に流行り始めた、箸で食べる和風なパスタの店でチキンクリームのパスタを頼み、ペロッと平らげると、隣の建物に移り、本屋へと足を運んだ。普段から、本はよく読む。自分の世界に籠ることができるのが好きなのだ。特にあてもなく、店をぶらぶらしてみる。わざわざ買ってまで読みたいものもありそうにない。もう帰ろうかと思い始めた時、携帯電話がポケットで振動した。

(舞から返信かな?)

 取り出してチェックする。そして、一瞬、体が固まった。なんと、この前別れた彼からのメールだった。強張った指で文章を開く。

(今さら、なんやろう……)

『久しぶり。元気にしてますか?会って話したいことがあんねん。今さらかもしらんけど、どうしても会いたいから、明後日の午後5時、いつものコンビニで待ってるから』

 その日は店長の、ライブの日だった。


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