Красноесолнце(クラースノエソーンツェ) 〈赤い太陽〉
春に芽吹いた泥の木があちこちで枝垂れて、枝先に付いた白い綿が、ふわっと宙を舞う季節になった。市橋美並は音楽室のピアノに向かい、ドビュッシーの〝月の光〟を演奏し始めた。下校後も子供たちの賑やかな声が残っているようだった。美並は、この時間がとても好きだ。自分の心が整理され、一日の様々な出来事を穏やかに見つめ返すことが出来るのだ。明日は、何を教えてあげようか、生徒達からどんなことを学べるだろうかと、胸が弾むのだった。嫌なことがあってもピアノを弾いている時間は、忘れていられる。
明日の授業の準備を終えて残っている職員に挨拶を済ませ、美並は学校を後にした。自宅までの道のりには、泥の木が並んで生えている。冬の間はただのゴツゴツした棒切れが地面からつきだしているだけなのに、春がやって来て蒙古風が吹くと、一斉に芽吹いてあっという間に大きな柳へと変わっていく。不思議で幻想的な木だと美並は思う。
夕暮れが近付いてきた。どこか、世界の向こう側へと真っ赤な太陽が落ちていく。この雄大な空を見ていると、本当に戦争など起きているのかと信じられなくなる。満州の空は黄砂の影響で黄色がかっていて、内地とはまるで違う空の色をしているけれど、同じように太陽が昇り、沈めば月が静かに大地を照らす。地球上で世界は一つに繋がっているのだ。ここは、満州人の土地だ。五族協和という虚像の世界で、日本人は我が物顔で暮らしている。誰も自分を疑ったりはしない。戦争という狂気の中で、皆生きていかなくてはならない。
「難しい顔をして、どうしたのさ」
美並はハッとして立ち止まり、声の方を振り返った。
「せっかくの美人が台無しだな」
「領一さん!」
そこにあったのは、世界で一番愛しい人の、美しい姿だった。
「どうしたの? しばらく大連にいるんではなかったの?」
「うん、先ほどこちら新京に帰って来たところだ。駅前ロータリーをぐるっと一周して来た。この街はアカシアが美しいね。そうするうちに、丁度君が仕事を終えて帰ってくる時間だと思ってね。ここで待ち伏せしてた」
普段はっきり開いた一重瞼の眼が、笑うと優しく細くなる、その勝ち気な笑顔が好きで仕方がなかった。二人はしばらく見つめ合い、どちらともなく並んで歩き出した。夕焼けに照されて、背の高いのと、それよりいくらか低いのと地面に二つの影が並んでいる。高藤領一は土産の泥美人を美並に手渡した。美並は嬉しくて、それを大切に受け取って子供のように頬擦りした。
「美並さん、少しだけあの泥の木の下の木陰で話そう。いいかい?日がくれないうちに家まで送るから」
ええ、と返事をして、二人は木陰で立ち止まった。
「小学校が夏休みに入ったら、ハルビンへ一泊旅行に行かないか?」
「ハルビンへ?」
美並の胸は踊った。ハルビンはロシア人が沢山住んでいて、とてもお洒落でエキゾチックな街だと聞く。一度は訪れることが夢だった。領一と一緒に旅行できるなんて、どれだけ幸せだろうか。
「だけど、二人で?」
領一とのことは親も公認で、気に入ってくれているけれど、婚約すらしていないのに親が許してくれるか……色々と考えて、美並は黙り込んでいると領一が秘密めいた口調で言った。
「大丈夫、アリバイなら作っておくから心配しないで。君をどうしても連れて行きたいんだ」
黄金の空気に、鼻筋の通った領一の顔が照らされて、艶めき輝いている。少し強引で、それでいて優しくて、なぜだろう、この人には逆らえない。美並は甘い溜め息を吐いた。そして、
「行きたいわ。八月になったら連れて行って。私、松花江でボートに乗りたいわ」
と、小さな決心を言葉にした。
領一は美並の腰に手をやり、ぐっと華奢な体を持ち上げて、くるりと回った。キャッと、小さな悲鳴が上がった。
「ありがとう。近々一緒に計画しよう。今日からしばらく新京に留まる。落ち着いたら連絡するよ。さぁ、じきに日が暮れる。送るよ」
差し出された手を取り美並はどきどきと打つ鼓動を悟られまいと、笑顔を作った。影が繋がった。紅い頬を誤魔化してくれた夕焼けに感謝した。この人が好きだと思った。一生ついて行きたいと思った。この帰り道がいつまでも続いてほしいと、願いながら家路に着いた。