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彼等が遺したもの

「おじいちゃん、お茶飲む? 水がいい?」

 時彦は、水、と、とても細い声で言った。美並はストロー付きのコップを手に取り、祖父のベッドを起こした。口許へ、そっと差し出すと、ごくりと一口飲んで、すぐに脱力し、後ろにもたれ掛かった。

 発表会の翌日、祖父は倒れてしまった。直ぐに近くの市民病院に運ばれた。医師の診断を仰ぐも、老衰だと、一言で片付けられた。念のため様子を看ると言って、二、三日入院することになった。病院に入った途端、病人のようになってしまった祖父を、美並は出来る限り看病した。「あんたには迷惑かけっぱなしやなあ」と、祖父は言った。

 部屋の花瓶に、向日葵と百日草を、差し込む。美並さんと、歌子さんが好きな花で、昨日初枝が置いて行ってくれたものだ。どちらも、庭に咲いていたらしく、「やっぱりご縁があったのねぇ」と、しみじみ言っていた。命が、終わりを告げようとしていることは、誰の目にも分かった。家族みんなが、よくもまぁ、九十五まで生きたなぁと感心しながらも、突然のことに心を揺らしていた。美並は、思う。祖父はきっと、今年の九月一日を迎えるために生きて来たんじゃないか、と。

「もうすぐ領一さん、来るから」

 時彦は、そうか、と言いながらも、目を閉じていた。母がつい先程やって来て、お茶や水や、祖父の好きなお菓子などを置いて帰った。

「あんたも仕事あるから、明日は弟君が付き添い変わるから」

 うん、と返事をしながらも、やっぱり空いた時間は側にいてあげたいと思った。そして、いつか、この母親にも、ちゃんと彼を紹介したいと思った。母として、無条件に喜んでくれるだろうか。私を応援してくれるだろうか。後姿を見ながら、想像した。


 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。どうぞ、と答えた。

「こんにちは」

 領一だった。

「ありがとう、来てくれて」

「これ、貰ってくれる」

 紙袋を差し出す。

「気い遣わんでいいのに」

「開けて、お祖父ちゃんに見せてあげて」

 何だろう。丁寧に包装を外し、中身を取り出す。ピンクの箱の中には、月餅が入っていた。

「これ……」

 うん、と頷き、時彦の側へと近付いた。

「時彦さん、高遠領一です」

 年老いた青年は、ゆっくりと目を開けた。そこには、誰よりも信頼を置いていた、そして、長年負い目を感じていた、無二の友の顔があった。七十年前とほとんど変わらない姿だった。

「……僕は、あなたに、恨みなどこれっぽっちも抱いていません。美並さんを、幸せにしてくれて、ありがとうございました。心から感謝しています」

 時彦は、その言葉を聞いて、おいおいと泣き出した。美並は、その肩を優しく擦った。

「おじいちゃん、これな、領一さんがおじいちゃんにって。大好きなんやろ?」

 箱から一つ取り出して、祖父に手渡す。皺だらけの痩せた手が、大切そうにそれを包む。

「月餅やんか……」

 涙声でそう言うと、しばらく裏返したり、匂いを嗅いだりしていた。まるで、記憶を探るように。

「仲秋節の時期は少し過ぎますし、まだ時間的に月も出てないですけど。多分、僕の知ってる時彦さんは、毎年月餅を楽しみにしていたと思います」

 祖父は、領一に向かって深々と頭を下げた。そして、小さく一口、それを口に含んだ。おいしいなあ、と、呟いた。

「わしは、領一君には本当に申し訳ないことをした。すまんかった」

 領一は、笑顔で否定した。

「僕自身の、望んだことです」

 二人は、言葉もなく、長い時間見つめあった。失った、七十年と言う年月を埋めるかのように。友情を、取り戻すかのように。


 叔母達が、祖父の古いアルバムを広げて、思い出話に花を咲かせている。モノクロの長方形の中に、若かりし頃の小澤時彦が様々な表情で存在していた。美並は、冷たい麦茶を運んで、ついでに腰を下ろした。

「あ、来た来た。ありがとう、美並ちゃん」

 祖父の娘、と言っても今年で六十七歳になる叔母が、美並を隣に座らせた。

「ほら見て。お祖父ちゃんも昔はなかなかのイケメンやってんで」

 写真の中の祖父は、優しそうで、とてもいい顔をしていた。

「ほんまやなあ。けっこう男前やな」

 美並が相づちを打つと、叔母は嬉しそうにあっはっは、と笑った。

「でも、見て、お母ちゃんもなかなかのべっぴんさんやろ。隅に置かれへんなあ、お父さんも」

 二番目の叔母が、追い討ちをかける。

「せやけど、美並ちゃんそっくりやなあ。お父さん、アルバム隠し持ってたから、あんまり見せてもろたことなかったけど。ほんまに似てる」

 叔母達が、美並と写真の祖母を見比べる。何だか気恥ずかしくて、美並は台所へ戻った。

 母が洗い物をしていたので、その隣で食器を拭く。

「おじいちゃん、幸せやったな。こんなにみんなに囲まれて」

 母は、そうやな、と微笑んだ。

「ええ人やったわ。私も嫁に来てから、大事にしてもろた。お姉さんらもみんな苦労してはるから、小姑に苛められることもなかったし」

 冗談めかして言う母に、美並はつい笑ってしまった。

「あ、そうやった」

 母が突然水道を止め、濡れた手をタオルで拭いた。

「あんた、ちょっと奥においで」

 何だろうと思いながらも、布巾を上に掛けて、後を着いていく。祖父の部屋に入り、引き出しの奥から、この前の木箱を取り出した。

「これな、あんたに渡すようにって、おじいちゃんが」

 美並は、母の手からそれを受け取った。

「中身は、空けてもないし、見てもないよ。お父さんが言うてた。あんたとお祖父さんは、特別な関係やねんてね。大切にしてあげてや」

 祖父の気持ちが、嬉しかった。これから先の人生を、領一と歩んでいくことを、本気で許してくれたような気がした。母は、とても幸せそうに、娘の姿を眺めていた。

「ありがとう、お母さん」

 心を込めて、そう言った。

「あんな、こんな時に言うのはちょっと不謹慎かもしらんけど、……お母さんに紹介したい人がおるねん」

 母は、そうなん、と微笑んだ。


 箱を、そっと空ける。開け放った窓からは、夜風が忍び込んで、部屋に僅な空気の渦を引き起こし、ミントグリーンのカーテンが揺れる。やっぱり十月が近づくと、少し違うなと思う。秋の真っ只中に居る。

 祖父は、九月十日、その生涯を終えた。波乱万丈で、苦労を重ねて、でも最期は、とても満足気だった。自分も、あんな表情で、最期を迎えたいなと思う。

 中身は、完太のおしめ、歌子さんの写真、それから、領一さんの軍服のボタン。祖父がどれだけ大切にしていたか分かる。傷一つない、当時のままの存在感がある。布おしめを手に取った。肌着を切り取って、拵えてやった。完太が死んでしまった時、自分も死んでしまおうかと思った。せっかく戦争を生き抜いたのに、苦労の中、喪われてしまった事が、悲しく、虚しかった。亡骸を抱いて、三日離せなかった。歌子に申し訳なくて、張り詰めていた糸がプツンと切れてしまったようだった。あの時立ち直れたのは、紛れも無く、懸命に生きる時彦さんの姿のお陰。歌子に夢で心配ないと言われた言葉を、信じることができたから、萎れてしまわずに済んだのだろう。それから十年もしないうちに、自分も病気で死んでしまったけれど、杭の無い、精一杯生きた人生だったと思う。

 閉めようとして、箱の蓋に、何か、封筒が貼り付けてあることに気が付く。茶色いそれには、同じような色の便箋に、手紙らしき文章が綴ってある。なぜ、こんなところに……。

 不思議に思っていると、封筒と蓋の間に、白い紙が挟んであるのが見えて、それを抜き取ってみた。そっと、開く。


『 美並さんへ


 これを読んでいる頃には、私はもう人生の幕を閉じたと言うことです。

 色々なことを打ち明けましたが、たった一つだけ、隠していたことがあります。

 嫁に行くまで黙っておきたかったけれど、それまで私が持ちそうにないので、こっそり箱の裏に貼り付けておきました。気付いたかなァ?


 この手紙は、領一くんから、あなた宛に綴られた手紙です。

 彼が、特高から逃れるため、雲隠れを決めた夜、私に届けた物です。私は、どうしてもこれが渡せなかった。彼が、生き抜いてくれると信じていたから。戦後も、もしかしたら、美並さんを探しにくるのではないかと、希望を棄てなかったからです。

けれども、美並さんには酷い仕打ちをした。彼は死んだから、諦めろと、自分に言い聞かせて来たことを、強要して、当てつけのように言い捨てた。

 自分でも、訳が分からんと思っていました。申し訳なかった。でもどうしても渡せなかった。


 まさかこんな形で、貴女方が再会するとは思わなかった。

 本当に良かったと思っています。


 もう、渡してもいいかなと思うので、読んで下さい。


 いつか、領一君と一緒になって、子供を沢山産んで、そのうち、孫にも恵まれて、どんな中も二人で力を合わせて、死ぬまで幸せに生きて行って下さい。


 貴女と、二度も人生をご一緒できて、私は本当に幸せだった。


 ありがとう、美並さん。


                        小澤時彦』


 美並は、子供のように声を出して泣いた。

「おじいちゃん、ありがとう」

 そう何度も言葉にした。

 一人で読むには、何となく勇気が必要だった。この手紙は、明日にでも、彼と読むことにしよう。お葬式の片付けもだいたい済んだし、叔母達も明日朝にはそれぞれの家に帰ると言っていた。きっと、寂しくなる。寂しくなれば、きっと、彼に会いたくなる。

 美並は、窓から身を出して、外の空気を吸い込んだ。あまり綺麗ではないけれど、産まれ育った街の匂いがした。自分が住むこの家の明かりを、今だれかが生駒山の頂上から観ているかもしれないなと、少し楽しい気持ちになった。

 一階から、お姉ちゃん、ご飯やでー、と、妹の呼ぶ声がした。はーい、と素直に返した。

 網戸を閉め、電気を消す。家族の元へ行こう、と思う。

 いつか自分もこうやって、自分達の家庭を持ちたい。神様が巡り逢わせてくれた、たった一人の人と。みんなが繋いでくれた命を、続けていきたい。様々なことが待ち受けているかもしれない。嬉しいこと、楽しいこと、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと。だけど、この世に無駄な出会いなどない。きっとすべての経験が、いつか自分を助けてくれるような気がする。例え失っても、自分が愛したら愛した分、それはどこかで活きてくる。すべてひっくるめて、幸せと呼ぶのだ。

 明日は、絶対に、彼に会いに行こう。美並はそう決めた。

 早くー、と急かす兄弟の声がする。当たり前のことが、嬉しくて仕方なかった。目頭に溜まったままの涙を指で拭い、ドアをバタン、と閉めた。美並は、この世界の空気をいっぱい吸い込むと、家族のいる場所へと向かった。



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