第五楽章 発表会
日が、一日一日過ぎて行く。二人に残された時間は、もうほぼ無くなっていた。ほんの半月の間に、色んな場所へ出かけた。そして、色んな話をした。大学祭で文句を付けて来た男が実は領一だったこと、好きな食べ物や、これまでの人生について。愛しさが増して、お互いにますます惹かれ合った。けれど、美並の記憶の奥深くが解き放たれることはなく、八月三十一日となってしまった。苦しくて、どうにかなりそうだった。こんなに誰かを愛したのは、生まれて始めてのことだった。もしもこのまま領一が消えて無くなるなら、自分も後を追って逝こうと思う。それが宿命のような気がするのだ。
発表会のリハーサルが行われた。楽器店の二階にあるミニホールを飾り付け、三人で確認しながら演奏を進めていく。他のスタッフ達も手伝ってくれて、賑やかな感じになった。どうか初枝の思いが、お兄さんに届きますようにと祈った。
通しが終わり、店長がお疲れ様でした、と言った。美並は、祖父から手紙を預かっていたことを思い出して、慌ててバッグから取り出した。その葉書には、『赤とんぼ』の歌詞が書かれていて、絵手紙になっていた。祖父は案外そういうことが好きで、今回も初枝を応援する気持ちで作ったのだろう、今朝手渡された。
「これをなあ、窪田さんに渡してくれるかいな」
にこにこと笑いながら、差し出した。美並は、分かった、と言って受け取った。彼女の喜ぶ顔を想像した。明日来るなら、自分で渡せばいいのに、と思ったが、急いでいたのでそのまますぐに家を出た。
「これ、うちの祖父からです。こういうの趣味で、窪田さんにって。おじいちゃんも、赤とんぼに思い入れがあるらしくて、明日の発表会、めっちゃ楽しみにしてました」
どうぞ、と、初枝に差し出すと、とても喜んで受け取ってくれた。しかし、ほころんでいた顔が、だんだんと蒼白に変わるのを、美並は見逃さなかった。初枝がよろめいたので、みんなが慌てて手を差し伸べる。
「どうしたん!」
店長が慌てて体を支える。大丈夫、と、体勢を立て直し、自らピアノの前の椅子に座った。みんなが驚いて、老女を気遣う。水を持ってくる人や、慌てすぎて救急車を手配しそうになる人がいた。ごめんなさい、大丈夫、と落ち着いた口調で謝った。
「小澤先生、あなたのおじいさん、おいくつ?」
「今年、九十五歳になりました」
おぉ、と周囲から歓声がもれた。
「……そうですか。おざわ、ときひこさん……。元々、大阪の方?」
「いえ、元々は関東の人で、戦争中は満州にいたらしいです。引き揚げて、友人を頼って東大阪に住み着いたと聞きました。今ではすっかり、大阪のおじいさんですけどね」
そうか、初枝の兄は満州にいた。もしかしたら、何か接点があったのかもしれない。
「明日、楽しみやわ!お祖父様に、宜しくお伝え下さいね」
美並は、笑顔で頷いた。
初枝は、不思議だと言っていた。兄の恋人と、私の名前が同じだと。まさか祖父のことまで知っているかもしれないなんて、これも、運命というやつかもしれない。
美並は自宅に帰って、部屋にこもった。携帯電話を取り出し、領一にメールをしようとする。
〝会いたい〟
文章を打つ。でも、送れない。自分には、彼に会う資格がない。
机に向かい、ノートパソコンを立ち上げる。メールをチェックすると、舞から久しぶりにメールが届いていた。受取ボックスを開く。中国のメールやネットは、全部検閲されていて、ヤバイことは消されたり、下手をすると捕まるとか言っていた。自分たちにはあまり関係ないけれど、日本も戦争中なんてもっと酷かったんじゃないかなと思う。
『 久しぶり。元気にしてる?美並宛に写真を送りました。
あの、小学生の時の指輪、謎のイニシャルの答えを教えてあげます。
お楽しみに。
私は幸せにやってるよ。
こっちに来て分かってんけど、どうやら赤ちゃんを授かったようです。
高遠さんとはどう?
そのうち二人で遊びに来てな。』
赤ちゃんか……。当然向こうで産むんだろうな。中国の出産事情って、どんなふうなんだろう。
舞には、領一とのことをまだ話していない。どんな結末を迎えるかわからないから。もし、何も無かったことになってしまえば、どうなの、と聞かれても、さあね、で片付けられる。自分から、自分のせいで領一が消えてしまったとは言い出せないと思う。
領一からも、連絡はない。明日の初枝の発表会のことは伝えてある。なぜだか彼にも来て、聴いてほしかった。行けない、と言っていた。もう会えないかもしれない。ピアノに向かい合った。美並は思いを込めて、月の光を演奏した。懐かしく、透明な音色が響いた。
翌日、運命の日。楽器店は、初枝の家族や、友人、スタッフで賑わった。ささやかだけれど、楽しいステージになりそうだった。九月に入っても、相変わらずじりじりと太陽は照り付け、暑さは変わらない。子供達が、二学期をスタートさせている。わくわくしながら、ちょっぴり夏休みに後ろ髪を引かれながら、学校へ行ったことを思い出す。お客を椅子へと誘導し、そろそろ始めましょうか、という頃に、祖父が到着した。仕事の休みだった父が連れてきてくれたようだ。父はそわそわしながら、祖父にそっくりな目をきょろきょろさせている。この店の二階、こんなんやってんな~、と、浮ついた声で何度も繰り返している。
「もう始まるで、おじいちゃん。座って」
祖父はにこにこしながら、パイプ椅子に腰掛けた。初枝に声を掛けに、隣の控え室へ急ぐ。ドアを開けると、薄紅色のドレスを着た、とても八十には見えない女性が、凛として鏡と向き合っていた。自分自身に何かを言い聞かせるような顔をしていた。声をかけるのをためらうほどに、空気が張り詰めていた。美並は軽く深呼吸して言った。
「窪田さん、時間です」
初枝は、はっと息を飲んだ。
「ごめんなさいね、考え事をしてました。……先生、今日は宜しくお願いします」
しなやかに頭を垂れる。
「こちらこそ。お兄さんに届くように、精一杯やらせてもらいます。リラックスして、全部出しきりましょう!」
初枝の手をぎゅっと握る。二人は目を合わせ、うん、と頷いた。
初枝が会場に入ると、盛大な拍手が起こった。満面の笑みを浮かべ、一人一人に頭を下げて歩く。
「さて、お待たせ致しました。只今より、窪田初枝さんの、ピアノ発表会を始めさせて頂きます」
司会であるオーナーは、蝶ネクタイの角度を最後まで気にしていた。そして、心なしか緊張している。美並はシャンパンゴールドのドレスを身にまとい、いつもよりきちんとメイクをした。ヘアサロンで髪を上げてもらったのも大学のコンサート依頼で、何だかいつもの自分ではないようでドキドキした。
店長がギターを担ぎ、勢いよくかき鳴らそうとしたその時、控えの椅子に座ろうとしていた初枝が、一番隅にちょこんといる祖父に気が付いた。素早く立ち上がり、足早にそこへ歩き出す。驚いて、ギターは止まる。みんなの視線がそこに集まった。初枝は跪き、祖父の手を取った。
「ちっとも変わってない。ときひこおにいちゃん、昔のまんま。私です、初枝です。高遠初枝。領一の妹です。あぁ……こんな形で再開できるなんて……」
高遠初枝?領一の妹?美並の心臓がバクバクした。あの、新聞記者で、祖父の友人の、高遠領一の妹が、窪田初枝だということ……。
祖父小澤時彦は、初枝の手を優しく握り返した。
「はっちゃんこそ、変わらへん。あの頃の面影がちゃんとあるなぁ。歳を取りました。お互いに。まさかあんたが、美並さんの生徒やなんて、思いもしませんでした。元気にしてはりましたか?」
初枝は今にも泣き出しそうだ。ええ、ええ、と、何度も頭を下げては答えている。
「何度も、満州から兄の手紙を送って下さって、本当にありがとうございました。感謝し切れないほど感謝しています」
「わしらには、それぐらいしかできひんかったよってな」
「いいえ、誰でもできることじゃありません。あの時代に、あそこまでして下さった。あなたのことは、後にも先にも、兄のように思っております」
時彦は、初枝の頭を撫でた。
「領一君が、特別にはっちゃんを可愛がっていたからね。私も同じように、あなたを妹のように思っているよ」
とうとう堪えきれず、初枝の目から涙が流れた。約七十年分の涙だった。あちこちで、鼻をすする音が聞こえてくる。
そうか、そういうことか。運命の糸が、少しずつ繋がっていく。自分を囲むすべてが、事前に準備されていたのかもしれない。そんなように思えてきた。
「戦後にあなた方を探しましたよ。でも、いくら探しても見付からなかった。まさか、こんなに近くにおられたなんて。運命のいたずらとは、このことですね。……そう、歌子さんは、ご健在ですか?彼女の名前で、何度も手紙を頂きました」
時彦は、微笑みを絶やさず、首を横に振った。
「歌子は、満州で亡くなりました。産後の患いで、とてもあっけなく。間に子供も一人、完太というのがおりましたけれども、戦後の混乱の中で、三歳で逝きました。食べるものも無く、お金も無く、どうしようもなかった」
初枝は、顔をしわくちゃにして、戦争でしたからね、と言った。そして、そのあと少し考えるような素振りを見せた。
「では、時彦さんの子供さんやお孫さんは、いったい……」
とうとう、話す時が来たか、とでもいうように、時彦は美並を側へ手まねいた。足が竦んでしまいそうだ。パンドラの箱を開けてしまうかのような、複雑な気持ちになる。なにか、なにかが動こうとしている。
「美並さん、あんたには、今までお祖母さんは、小澤小夜子さんやと言うて来たな。若くして結核で亡くなった」
祖父の真剣な眼差しを、美並はじっと受け止めた。
「お祖母さん、ほんまは、小夜子やない。満州から引き揚げてこの地に住み着こうとした時、博多の港に置き去りにしてきた、大切な人を忘れないために、名前を変えたんや。名前だけでも生きて欲しいと、自分の親からもろた名を捨てて、その人の名を名乗ることにしはった。わしも止めへんかった。可哀想やったからな、小夜子さんが」
美並は、祖父の口から始めて語られる事実が、さほど昔のことではないように思えた。何となく、知っている出来事のような気がする。
「では、その小夜子さんを名乗った奥様は、いったいどなたなんでしょうか……」
初枝が不安げに時彦の瞳を覗く。
「はっちゃん、あんたには、本当に申し訳ない。そして、あんたの兄さんには、詫びても詫び切れん。……後生やと思てお聞き下さい」
ゆっくりと深呼吸する。長い長い時間に感じられた。目を固く閉じ、胸の前で合掌すると、その薄くなった唇を開いた。
「その人は、市橋美並さんと言います。歌子の幼馴染みで、領一君の恋人でした。領一君が処刑された翌年、子供が生まれる頃彼女はやって来て、亡くなった妻の代わりに、子供の世話をしてくれた。引き揚げの前に夫婦になり、東大阪の地で共に暮らしたけれども、その息子完太は亡くなって、そのあと三人もわしの子を産んでくれて、無理がたたって死んでいった。……末息子の長女が産まれたとき、腰を抜かすほど驚きました。あの人にそっくりやった。それで、美並と名付けました。生まれ変わりやと思てね。ほんまにそっくりや。年を重ねるごとに似通ってくる。せやからわしは、あんたをよう呼び捨てにせん」
美並の脚は震えた。私が、祖母の生まれ変わり……。そんなことが、現実にあるのだろうか……。
「親友の恋人を、我が物にしてしもた罪悪感は、何十年かかっても拭い切れるもんやなかった。苦しんで、自分を責める日もあった。それでも脚の悪い私を一生懸命支えてくれた美並さんを、私は心底愛してしもた。あの人の心から、高遠領一が消え去るように、祈り、願い、必死であったと思う。領一君は、許してくれへんやろなあ。自分は失意の中で死んでいった。全てを託したわしに、まさか美並さんを奪われるとは。……はっちゃん、すまんな。申し訳ない。堪忍してや。堪忍してや。堪忍……」
初枝は、強く強く時彦の手を握った。
「良かった。良かったです、私」
時彦は、小さくうずくまってしまい、動かない。
「大好きなお兄さんの最愛の人が、大好きなときひこおにいちゃんと幸せになっていたのなら。嬉しい。本当に良かった。お兄さんが死んでも、幸せに生きてくれた時間があったのなら。ありがとう、ありがとうね、ときひこおにいちゃん。今日はね、兄の命日なんです。きっとどこかで聴いていてくれると思います」
初枝は、ゆっくりと立ち上がった。そして、美並の手を取った。
「先生の生徒になることが、小さな私の夢でした。今日は、精一杯頑張ります。よろしくお願いします」
涙で顔はぐちゃぐちゃになっていたけれど、とても美しいと美並は思った。
「さあ、始めましょか。お兄さんが、どこかできっと聞いてくれてはりますね」
店長は軽快に、ギターをかき鳴らした。盛大な拍手が沸き起こった。
発表会はとてもスムーズに進行していった。急きょ初枝の希望で、美並がラストを飾ってほしいということになった。
「お兄さん、聴いてくれてますよね。私、美並さんにピアノを習いました。上手ではないけど、赤とんぼを弾きます。お兄さんの背中で聴いた、赤とんぼです。どこかで聴いててね。妹は、片時も兄を忘れずにいます」
みんな目頭を押さえながら演奏に耳を傾け、やがてそれぞれの思いを抱えながら合唱した。それは、とても美しく、心のこもった時間となった。
美並の出番になった。手脚が小刻みに震える。私は恐らく、今日この日のために、ピアノを弾き続けて来た。今この場所で、ドビュッシーの月の光を演奏するために。どうして今まで分からなかったのか。色々なものごとの辻褄が、全て繋がっていく。セピア色だった世界が、じわじわと色付いていく。気付かない振りをしていたのか。忘れようとしていたのかもしれない。そうすることで、心の均衡を保っていたのかもしれない。けれど、だんだんと記憶の中に景色が描かれてくる。歌子さんが、出逢わせてくれた。そのバトンを、舞がもう一度手渡ししてくれた。きっと、領一さんはどこかで聴いてくれている。窪田さんの赤とんぼも、私の、月の光も。すべてなんて分からなくても、今、私が彼を好きだという気持ちさえあれば、運命なんて変えられるような気がする。領一さん、私はあなたが、愛しい。過去や未来など関係なくても、あなたを失いたくはない。
美並は呼吸を調えて、鍵盤に指を乗せた。
「中にどうぞ」
スタッフの一人に促された。静かに首を横に振ると、入口ドアの隣の壁にもたれ掛かった。微かに中から音が聴こえてくる。初枝が一生懸命弾く、赤とんぼ。みんなの歌声が合わさって、涙腺を刺激した。この世に生を受けて、本当に有り難かった。後悔はない。領一は体を起こし、階段に向かおうとした。その時、再びピアノの音色が聴こえてきた。
「この曲は……」
とても美しく、切なげな旋律が、魂に響いてくる。領一はその場に崩れた。堪えていた思いが、一気に溢れてくる。美並と出逢えたことは幸せだった。幸せ過ぎて、恐かった。いつか彼女を失わなければならないことが辛くて、別れは定められていても、抗ってみたかった。離れたくない。自分の腕の中から、逃したくない。美並を、愛している。
メロディーはやがて終わりを告げた。領一は、歩き出した。自らの最期を迎えるために。
発表会は無事に終わり、胸がいっぱいなまま、片付けまで済ませて家路に着いた。初枝は最後まで何度も何度もお礼を言った。みんなの顔が幸せに満ち溢れていて、この会を開いて本当に良かったねと、店長と言い合った。
すっかり着替えを済ませ、いつもの美並に戻り、自転車に跨がる。領一はどうしているだろうかと、気にかかる。まだ、今日は終わっていない。電話は通じないし、メールの返信もない。早く伝えたい。この七十年分の愛と、今を生きる私の気持ちを、一刻も早く。
家に戻ると、祖父達はまだ帰っていなかった。郵便受けに美並宛のエアメールが届いていた。直ぐにその場で封を切り、中身を取り出す。手紙と、写真が入っていた。
『 美並へ
今頃、困っていると思うので、この手紙を送ります。手に入れた幸せ を、失わないで。
向日葵の咲く場所で、彼は待ってるはず。
舞より』
写真を見た。その瞬間、視界から一枚のフィルターが抜き取られたように、本物の世界の色を初めて視ることができた。私は私であって、他の誰でもない。ただ、ずっと昔から、私であるだけなのだ。再び自転車に跨がり直し、スピードをつけてこぎ出した。
今度は、私があなたを探し出す。必ず、あなたをこの世界から見つけ出してみせる。
山下と舞が寄り添って写っているその写真には、松花江の川辺が優しげに写り、端の方にアルファベットで〝Ryouichi〟と書かれていた。
汗まみれになりながら、ペダルをひたすら漕ぐ。一駅分ほどは走った。まずは、カフェ
Подсолнечник(パトソールチニク)へ。自転車を投げ捨てるようにして、店内へ雪崩れ込む。話しかけるウエイトレスも目に入らず、足早に店の中を探し歩く。いない。どこにも。ふいに視線を上げると、向日葵の壁掛けは全て外されていた。
「あの、ここに沢山飾ってあった向日葵は……」
給仕をするウエイターを無理矢理呼び止め、問い詰める。
「あ、ああ、あの、製作者の都合で、全て外すことになりました。オーナーが今度個展を開くと言うことで、良ければそちらの方に……」
軽く会釈をして、急いで店を出る。倒れた自転車を起こし、風を切る。だったらあそこしかない。私と彼が、初めて会った、いや、この世で再会したあの場所。向こう側からやってくるおばちゃんをかわす。
「危ないやんか!」
胸の豹の顔さながらに、どぎつい声で怒鳴られた。横に広がる茶髪の男子高生をよけて、細い車道の脇を行く。息切れしそうなほど、胸が苦しい。信号待ちが煩わしくて、イライラしながら車の流れを睨む。青に変わった瞬間にペダルを押し込み、目的地を目指す。どうか、どうか間に合いますように。
公園の入口が見えた。自転車を下りた美並は鍵もかけず、走り出した。背の高い向日葵が、沈み始めそうな太陽に顔を向けている。その向こうに領一を見つけた。ずっと昔の思い出が心の奥底から溢れ出してくる。皮膚に、まぶたに、彼の存在が甦る。初めて出逢った喫茶店での彼。手をつないで歩いた、小川のほとり。満州に渡って再開を果たしたことがとても嬉しかったこと。二人並んで、糖胡盧を頬張った。校庭でのアイススケート。泥の木の木陰で、私を待ち伏せする。いたずらに笑う。初めて、キスをした日。ハルビンへの、小旅行。チョコレートの味。初めて、抱かれたこと。彼に作ってあげたかった、チーズケーキのレシピ。ボートに乗って、揺られたこと。月夜の下、彼だけのために〝月の光〟を弾いた。日の光に輝く、茶色がかった髪、鼻筋の通った、凛々しい横顔。そして、真っ直ぐな瞳。私は、彼に恋をしていた。……そして、確かに、約束した。生まれ変わったら、もう一度、逢おうと。
「領一さん!」
腹から声を振り絞る。
「そこにおって! 動かんといて!」
こんなに走ったのは何年ぶりだろう。全速力で駆ける。心臓が止まりそうだ。やっと巡り逢えた。やっと。そばに駆け寄る。立ち止まると汗がどっと流れ出した。ハァハァと、息が上がる。
領一は驚いて、目を見開いた。
「なんでここが……」
美並は呼吸を調えた。汗を拭いながら、まっすぐに領一の視線を捉えた。
「すべては、偶然という名の、運命やから」
二人を、夏の夕暮れが包み込む。満州の赤い夕陽ではない。日本の空の色だった。
「領一さん、ごめんね、今まで、ごめん。やっと分かった。思い出した。どれだけあなたのことが愛しいか。大好き。大好き。大好き」
直ぐ様、美並を抱き締めたその腕の中は、とても温かかった。
「色んなことがあって、辛すぎて、領一さんのことを忘れてしまおう、忘れてしまおうと、生きて来たみたいやわ。あなたのことを、遠い世界に、置き去りにして来た。私。でも、やっと思い出した。やっと逢えた。逢いたかった。逢いたかった」
大粒の涙が、頬を滑り落ち、ぽたぽたと地面を濡らす。
「良かった。もう、なんも失わんでいいんやな。君と生きて行けるなんて、夢みたいや。美並さん」
強く、美並を抱き締めた。やがて、二人の影が重なった。唇を、覚えていた。睫毛の長さを、覚えていた。腕の逞しさを、覚えていた。永遠に醒めない夢を見ているようだった。




