разрыв с прошлым(ラズルイーフ ス プロースルィム) 〈過去との決別〉
誰もが憔悴し切っていた。どんよりした空気が、暗い船内に充満していた。時折呻き声や、子供の泣き声が聞こえてくる。傷付いた者、失った者、未来に困惑する者、過去を振り返る者が、ひしめき合っている。祖国に捨てられ、どうにか命を拾って生きていた。自分達も、その一部だった。
引き揚げが決まり、何とか時彦のつてを頼って小夜子も一緒に内地へ連れ帰れる様にして貰った。美並は嬉しくて、飛び跳ねんばかりに喜んだ。しかし、いざ内地に帰るとなると、この奇妙な家族は、何を頼りに生きていけばいいか、考えあぐねるところがあった。美並は、時彦の正式な妻ではない。完太の実母でもない。我が身のために家を捨ててしまった自分は、市橋家の親類など頼れない。小夜子は、市橋の父母に拾われた身で、身寄りはない。たとえ小澤家に身を寄せることができたとしても、小夜子までは受け入れて貰えないだろう。内地は戦火に焼け爛れ、とても住める状況ではないと聞く。きっと幼少時代を過ごしたあの建物も、無くなっているか、誰かの手に渡っていることだろう。アメリカの占領地となりゆく環境で、私達は果たしてやっていけるのだろうかと不安が募っていった。
泥の木が芽吹き、そろそろ白い綿が飛び交う季節、出発前に、持ち物を焚き火で燃やした。税関で取り上げられると聞いたからだ。大した物は無かったけれど、苦労や悲しみ憎しみを、灰にしてしまいたかった。持参金は、一人千円までだった。かき集めて隠し持って置いたのが馬鹿みたいだと、時彦は怒った。美並は、來來に残金を渡した。この人のお陰で、ソ連兵や地元民の脅威から少なからず守られたことを思うと、涙が溢れた。彼女も、よかったね、よかったね、と、共に泣いてくれた。最後まで完太を置いて行けとせがんだが、神様から預かった大切な人だからと断った。
天井のない列車で出発し、胡盧島へ向かった。景色が流れて行く。領一を、満州に置き去りにするようで、胸が痛んだ。二人の思い出が詰まった、大陸。赤い太陽。ハルピン。特急アジア号。向日葵。新京の街並み。ピアノの音色。月光。数え上げたら切りがないほどに、脳裏に、まぶたに、体に甦ってくる。それは切なく、苦しく、恋しく、胸を締め付ける。一つずつ、この地に置いて行こう。そして、忘れてしまおう。私は、新たな人生を歩むのだ。歌子とその家族のために、尽くしていくのだ。これから先、きっと苦難が山ほど待ち受けている。それを乗り越えていくために、別れを告げるのだ。……さようなら、領一さん。
真っ赤な太陽が、一日の終わりを彩っていた。美並はいつしか、〝赤とんぼ〟を口ずさんでいた。
隣の夫人が、完太をしきりに見つめていた。やはりその人も同じように、痩せこけていて、髪を短く刈り込んで、男物の服を来、顔を炭で黒く汚していた。自分よりも少し年上に見えた。美並は、小声で話しかけた。
「あと、どのくらいでしょうね」
夫人は完太を見つめたまま、さあねぇ、と言った。
「どちらにいらしたんです?」
「奉天よ」
微笑みとも、泣き顔ともつかない表情をしている。美並は、そうですか、とだけ言って完太の頭を撫でた。
「お子さん、いくつ?」
「三つになります」
「そう……」
心なしか、夫人の声が震えたように聞こえた。
「あなたは、どちらから?」
「私は、大連です。お互い、無事で何よりですね」
更に顔を曇らせた。それぞれ、言うに言われぬ苦労がある。余計なことを言ってしまったような気がして、美並は後悔した。
「引き揚げの最中に、子供を亡くしたの。結婚七年目、やっとで授かった一人息子でね。ちょうど、あなたのお子さんと同じくらいだった」
美並は、いたたまれない気分になった。一人の命がここにあること自体が奇跡のようなものなのだ。もう少し、自分の態度を考えるべきだったと反省した。
「ごめんなさいね。……思い出してしまって」
もう、泣く気力もないという感じだった。
「主人はね、三年前に兵隊に徴られてしまった。たとえ生きていても、恐らくシベリア行きでしょうね。どうしているか、全然分からない。一人で子を抱えて、一緒になった人達と大連を目指す途中に、ソ連兵や暴漢から身を隠すために、泣かせまいときつく胸に抱き締めて口を塞いだのよ。必死にね。……しばらくして、兵隊はどこかへ行って、ようやくの思いで我が子を胸から離したの。その時にはもう息をしてなかった。何度呼び掛けても返事もない。そのまま冷たくなってね。どこの土地かも分からないところに、埋めてやることすら出来なかった……」
完太を見つめる彼女に、どうぞ抱いて下さい、とは言えなかった。そのまま取られてしまいそうな気がしたからだ。罰が悪くなり、美並は完太を抱いて立ち上がり、奥にいる時彦の側に場所を移すことにした。誰もが悲劇の主人公なのだ。私だって、生きていかなければならない。
日本列島が見えたと、人々は歓喜した。ある人は叫び、ある人は手を振り、やっとのことで祖国の地を踏めるのだと、喜びを噛み締めた。近付くにつれ、懐かしい日本の山々が見えた。美並は心が震えた。帰って来たのだ。すべては、夢だった。満州という、夢の国の物語だった。私は、生きていく。祖国日本で生きるのだ。
小夜子の手元に、一枚の紙が回ってきた。
『不法な暴力と脅迫で体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容し健全なる体にする』
そのようなことが書かれてあった。そっとお腹に手を当てた。どうすればいい。どちらにしろ、彼女たちに迷惑をかけ、足手まといになる。気付いていたけれど、一言も口にせず、悟られまいとしていた。そろそろ、隠せない時期にもなってきた。私がいないほうが、きっと上手く生き抜ける。小夜子は一人、静かに決意した。
引き揚げ者達は、博多港に降り立った。DDTの消毒といって全裸になり白い粉を頭から掛けられた。皆が、自らの行く末を思い、不安を抱えていた。話し合いの結果、時彦の友人を頼って、東大阪へ向かうことになった。九州も大阪も、美並にとってはまったく縁のない土地で、まるで異国に足を踏み入れるような感覚だった。都市は壊滅状態で、外地から帰還した人間は、誰かを頼らなければ生きていけそうもない世の中だった。
取り敢えず収用施設で身体を休め、連絡が取れ、算段が着いたので、そろそろ出発しようということになった。小澤一家が荷物を抱え、移動し始めようとすると、小夜子が立ち止まった。
「小夜子、どうしたの?行きましょう」
美並が声をかけると、小夜子はつぶらな瞳を潤ませた。
「……お嬢様、今までありがとうございました」
そう言って、頭を深々と下げた。
「どういうこと?」
完太を時彦に預け、小夜子の元に駆け寄る。
「一緒に行きましょう、大阪へ行けば、時彦さんの友達がなんとかしてくれるようになっているのよ」
小夜子は、かぶりを振った。
「私、どうやら、妊娠しているようです」
ハッとした。まさか。美並の背筋を嫌な汗が流れて行く。言葉に詰まっていると、小夜子の方が口を開いた。
「そうです。あの時のソ連兵の子供です」
体が、がたがたと震えた。何故気が付いてやれなかったのだろう。どれだけ一人苦しんでいたことか。美並がかける言葉を探しているうちに、小夜子がきっぱりと言った。
「私、市橋家の女中としての勤めを、全うしたかったんです。旦那様や奥様の変わりに、お嬢様を無事に内地へ送り返したかった。だから、黙っていました。折角拾って頂いた命を、あなたの為に使い切りたかった」
美並は必死に首を横に振る。身が千切れそうだ。だめ、どうするつもりなの。
「子供は、産めません。育てられません。あの時の恐怖が甦って……。きっと我が子を抱けば悪夢を見る」
小夜子の顔が歪んだ。
「お嬢様、覚えておいて下さい。私という、後藤小夜子という人間がいたということを。戦争という理不尽の中で、生きて、死んでいく女のことを。ただ、あなたを姉のように慕い、大好きだった妹がいたことを。……本当にお世話になりました。時彦さんにも……。完太ちゃん、大きくなってね。無事に育ってね」
くるっと体の向きを変え、小さな身体が走り出した。美並は、慌てて後を追う。すぐそこのトラックの荷台に、あらゆる年齢の女性が身を潜めている。皆、男のような身形で、汚く、疲れている。小夜子はそこに乗り込む。必死にすがり付こうとしたけれど間に合わず、トラックは発進してしまった。小夜子は、こちらを眺めていた。まるで、絵画をぼんやりと覗き込むような目付きをしていた。美並は何も言えなかった。今度こそ、体から、魂が抜けてしまったような気がした。どうして女なのだろう。無上の喜びであるはずのことが、地獄の苦しみになる。誰が戦争など起こしたのだろう。何のために。誰のために。酷すぎる。惨めすぎる。なぜこんな時代に生を受けなければならなかったのか。ささやかな幸せすら奪われなければならないのか。小夜子は、きっと死ぬつもりだ。なぜ、女であるが故に命を絶たなければならないのだろう。どうにか助かって、生きてほしい。彼女の心に僅かな望みはないのだろうか。私の身勝手が招いてしまった。だからこそ、共に生きていこうと思っていたのに。
その場に崩れ落ちた美並の元に、時彦はゆっくりと歩み寄った。優しく肩に手を置いた。それから、何も言わず、頭を撫でてくれた。美並は初めて時彦にすがって、おいおいと泣いた。
やがて立ち上がり、とぼとぼと駅へ向かった。いつか暮らしが落ち着いたら、必ず小夜子を探しにここへ戻って来ようと心に誓った。そうだ、広島にも行こう。渡邊範子ちゃんが生きているかもしれない。私を待っているかもしれない。故郷も、いつか訪ねてみよう。誰かが、帰ってきて、待っているかもしれない……。荒れ果てた美並の心に、小さな小さな、花の芽が顔を出そうとしていた。
ちゃあちゃん、と、完太が美並の服を引っ張った。そうだ、私は、この子を育てなければならない。歌子から預かった、この子を。美並は思いきり完太にほおずりした。
戦争のない、平和な日本で、この子に大きくなってほしい。どんなに苦労したっていい。家族や恋人を殺されるなんて、あってはならない。人間が人間に襲われる恐怖など、存在させてはならない。祖国を愛し、人を愛し、また愛する喜びを知ってほしい。強く、優しく、幸せに育ってほしい。
願いは泉のように溢れ、美並の心を埋め尽くした。




