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同じ夜

 自分で誘っておきながら、美並はひどく後悔していた。面と向かって、何を話せばいいのかも分からないし、話題の引き出しも持っていないことを後から実感して、領一を待ちながらひたすら水を飲んではどぎまぎしている。どうしても会って、気持ちを確かなものにしておきたくて、とりあえず食事に誘うことにして『Подсолнечник(パトソールチニク)』へ彼を呼んだ。彼の描いた素敵な向日葵に囲まれて、彼と共に時間を過ごせば、何か見えない物語が見えそうな、そんな気がしたのだ。昨日メールをすると、しばらくして返事が来た。少し、彼も悩んだような感じだった。

 掛け時計が夜の七時を差した。時計の中の小さな小窓から美しいバレリーナの人形が現れて、切ないロシア民謡のメロディーに乗せて踊った。入り口のドアが開いた。気配で、もう分かる。案内しようとしたウエイターを軽く手で制止して、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。胸がどきどきと鳴った。

「ごめん、待った?」

 彼はテーブルの横に立って、声をかけてきた。美並はううん、と首を横にふった。それを確かめると軽やかに椅子に腰掛けた。

「決まった?」

「まだです」

 領一はさりげなくメニューを広げて、美並の方を向けた。皮のカバーの中にクリーム色の紙が綴られていて、すべて黒い文字で小さくロシア語を添えて書かれている。写真はなくて、その言葉で料理を想像する。緊張感と、普段からの優柔不断さが折り混ざって、なかなか決まらない。店内には、民族音楽のような優しい音楽が静かに響いている。ロシア語はさっぱり分からないけれど、心なしかロシアにでもいるような気分になる。何だか足許がふわふわする。食事に誘っておきながら、料理を食べる気などほとんど起こって来ない。そんな美並の様子を察して、領一が言った。

「おすすめがあるねんけど。それでいい?」

 美並は半分笑いながらだらしのない顔で頷いた。ウエイターを呼び止め、これを二つ、と伝えて、水をくいっと流し込んだ。今日はかなり暑い。夜になっても、昼間の熱気がアスファルトにこもっている。室外気やなにかのせいで、この辺は日本で一番暑い場所なのだ。

「あの……」

 美並の声に、窓の外を眺めていた彼が、正面を向いた。

「来てくれて、ありがとうございます」

 美並は、できるだけ気持ちをこめて言った。

「……こちらこそ、お誘い頂いてありがとうございます」

 領一は、頭を下げて、まっすぐな響きの言葉で伝えた。

 やがて料理が運ばれてきた。ボルシチと、パンと、サラダのセットだった。

「オーナーが、このボルシチのために開いたような店やねん。ここ。旨いで、食べてみて」

 まさか大阪で、ボルシチを食べることになるとは思いもしなかったけれど、本当に美味しそうな匂いに、食欲が出てきた。二人は、たっぷりとそれを味わった。

「ごちそうさまでした」

 美並は、しっかりと手を合わせた。領一は、微笑んでその姿を見つめていた。それに気が付いて、あわててナプキンで口許を拭くと、彼が、はは、と笑った。

「かわい」

 美並は驚いて、恥ずかしくて、真っ赤になりながらうつむいた。

「デザートは?」

「もうお腹いっぱいです」

「そっか。……どっか行きたいところある?」

 行きたいところ――。そんなこと、考えもしなかった。頭の中、思い巡らすけれど、浮かんでこない。

「とりあえず、出よか」

 立ち上がり、お会計を済ませる。払うと言ったのに、領一はいいから、と、すべて出してくれた。そのまま車に乗り込み、オレンジ色から深い藍色に変わったら空の下を走る。この前は海に出たけれど、今日は反対方向に向かう。相変わらず車内には、クラッシックがかかっていて、大人の匂いがした。

「まさか美並ちゃんから誘ってくれるとは思わんかったわ」

 赤信号で止まった。前の車線を、車が流れていく。

「こないだ、あんな別れ方やったから、もう会ってくれへんかと思ってた」

 冗談なのか、本気なのか、美並には分からなかった。でも、会いたいと思ってくれていたのかなと思うと、心がほっこりと温かくなった。

「私も、まさか自分から連絡すると思ってませんでした」

 領一は、あはは、と声を出して笑った。信号が青に変わり、アクセルを入れる。ゆるやかに、車が前進する。次の信号を右折すると、カーブの角度にあわせて体が傾いた。

「高遠さんは、何で向日葵を描くんですか?」

 美並は、前を向いたまま聞いた。領一は質問に答えなかった。きっと、触れてはいけない部分なのだろうと、質問しなかったことにしておいた。鞄からミントガムを取り出して、一つ口に入れる。ガム、どうですか?と聞くと、ありがとう、と言ったので、一つ口に入れてあげた。指先が熱くなった。

 車は、山の斜面を登っていく。このまま奈良にでも行くのかなと思っていると、通ったことのない道へ曲がった。

「今の俺が、一番好きな景色を、美並ちゃんに見せとこと思って」

 ピンと来て、美並は深く頷いた。

「スカイラインですね」

「そう!」

 領一は、にかっ、とした。


 バタン、とドアを閉め、駐車場から少し歩き、階段を登る。さらに一番高いところに行って鉄で出来た塔のようなものに登ると、目の前にきらびやかな夜景が広がった。暗闇の中に、道路や、建物の明かりが無数に散りばめられている。改めて、わざわざ夜景のためにここまで来ることがなかったので、この山の上の一画がこんな雰囲気になっていることを知らなかった。自分たちの他にも、カップルが数組訪れている。こういうところでプロポーズをしたりするんだろうなと想像する。きれい、と、素直に感激した。

「阪奈道路を降りる時にちらちら見える夜景が好きで、免許取ってからは一年に一回、一人で見に来るねん。寂しいやろ~。カップルばっかりやのに、いっつも一人で。夜の街を見てたら、人間の営みを肌に感じるというか、電気使ってるねんなー、文明やな、生活やな、とか、そんなこと考える。この世界に、小さいけど大きい世界に、自分の運命の相手が生きてるんかな、って。昔から、いつも考えてた」

 領一の横顔が、とても美しくて、美並はじっと見とれた。その声が、体の中に、じんと響いてくる。

「例え出逢うことがないまま生涯を終えても、この世界で笑って幸せに生きてくれてたら、それでいいような気もしたりして。戦争も、飢餓も、弾圧もない世の中で、この国で平和に暮らしてくれてたら、俺は、それで幸せなんかもしらん。……とか思ったりして。……なんか恥ずかしいからもうやめとくわなー」

 心が揺さぶられるような衝撃に、美並はなぜか流れる涙を堪えるのに必死だった。けれど、それでも、まだ分からない。私の心は、いったいなにを掴もうとしているのだろう。そのなにかを掴まなければ、もう二度とこの人と会えなくなってしまう。そんなのは嫌だ。私は……。

「大丈夫?」

 領一が慌てて美並の肩に手を置く。ますます胸が苦しくなる。思えば、あの日、始めて向日葵畑の公園で彼を見てから、少しずつ、自分の心にこの人が存在していた。あの男を殴ってくれた腕に、自分が守られたいと感じていた。優しい言葉や、仕草や、瞳が、自分のものになればいいのにと、願っていた。でも、私は恐かった。また恋をして、傷付いたり失ったりすることが恐かった。嘘に囚われるのが恐かった。見えないものが恐かった。でももう、隠せない。……この人が、好きだ。

 美並は、その場から動けないでいた。思いが交錯して体そのものを支配しているようで、領一の顔を見ると、すべてがこぼれ出してしまいそうで、下を向いて唇を噛んだ。領一は、心を探るようにして、肩の手を滑らせ、美並の手を握った。そして、もう片方の手でおそるおそる、背中を抱いた。

「ごめんな、困らせて。君が大切なだけやねん。なんもかも全部ひっくるめて。訳のわからんことは置いといて、俺、美並ちゃんのことが好きやから。今を生きる、君のこと、ほんまに好きやから」

 まるで少年のような領一を、美並は心底愛しく思った。できるなら、このまま彼の胸に飛び込んでしまいたい。けれど、思えば思うほど、失う恐さが膨らんでくる。

「私が思い出されへんかったら、高遠さん、消えてまうんやろ?」

 領一は、うん、と小さな声で答える。

「消えるって、それって、……死ぬってこと?」

 うん、と、哀しく微笑んだ。

「そんなんやったら、私ら、出逢わん方が良かったんちゃう?私、全然、なにも思い出せそうにないし……。お互いに、辛い思いする。高遠さんのこと、苦しめてしまう」

「そんなことない!」

 ぎゅっ、と、逞しい腕が、美並を抱き締めた。

「俺も、散々悩んだ。君を苦しめるぐらいやったら、何も知らさず、今を幸せに生きてくれてたら、このまま身を引いたほうがいいんちゃうかって。俺の存在に意味なんかないんや、さっさと消えてなくなってしまおうって。でも、美並ちゃんの顔を見たら……話したら、触れたら、隣におったら、どんな形であっても、この人と繋がっときたいって、心から思ってん。君の心に、自分を、この存在を刻み付けたいって。……だから、出逢わん方が良かったなんてことは絶対にない。現に今、抱き締められて幸せやから」

 美並は自分の腕を領一の背中に回した。懐かしい感触だと思った。

「私も、高遠さんが好きです」

 背中にまわされた腕が、更に強く美並を包んだ。この人を失いたくない、と、強く思った。領一は、優しくキスをした。美並は応えるように身を預けた。


 朝が来て、窓の僅かな隙間から光が射し込んだ。領一はゆっくりと体を起こし、冷蔵庫からパックのレモンティーを取り出してコップに注ぐと、ベッドに腰かけてそれを飲んだ。美並の寝顔をみて、幸せな気分に浸った。もう、自分はどうなったっていい。残された時間を、この人にすべてあげようと、心に誓う。長い間、こうなることを望んで生きてきた。今自分は、幸せの頂点に立っている、そんな気がした。


 こんなに近くに住んでいながら、どうしてこんなにも出会うのに時間がかかったのだろうと、美並は不思議だった。領一の家が、隣町の見慣れたアパートの一室だったので驚いた。ここが地元で、隣の小学校、中学校に通っていた。偶然すれ違ったりしたことがあったかもしれないなと、記憶を散歩した。そしてまた不思議に、美並の部屋のとそっくりなカーテンが掛かっていたり、布団やテーブルの色や形もよく似ていた。運命って、本当にあるのかなと、何となく思えた。

 領一に抱かれている間、ひどく切なくて、懐かしい気持ちになった。一つ一つの動作が、美並の心をくすぐった。それは、いつまでもそうしていたいような、今まで味わったことのないものだった。心が通じ合うとそれは、こんなにも気持ちよくて幸せなことなのかと、この年になって初めて知った。私は大した生き方をしてこなかったのだなと、痛感させられた。ふと目覚めると、ティーシャツにパンツ姿で領一がベッドに腰掛けたまま、ぼんやりしているのが見えた。美並は横になったまま、彼の綺麗な体の曲線を眺めた。無駄な肉が一つも付いていない。昨夜はあの体に抱かれたのかと思うと、急に恥ずかしさが込み上げてきて、うずくまった。領一がその動きに反応して、美並が起きたことに気が付いた。

「おはよう」

 そっと髪を撫でる手が、温かい。

「いつから起きてたん?」

 今起きたとこ、と美並は言った。

「よし、朝飯作ろう」

 ばっ、と立ち上がり、ジーンズを履くと、キッチンへと移動する。美並は散乱した下着や服をかき集め、一つずつ身に付けてからその後を追う。ボウルに玉子を割り、小麦粉や砂糖を入れて泡立て器で混ぜている。馴れた手つきだなぁ、と感心した。領一が、白いものを冷蔵庫から取り出した。

「それ、何ですか?」

 中身をボウルに入れながら、領一は答える。

「カッテージチーズ。牛乳から手作りできんねんで」

 ふーん、と美並は言う。

「美並ちゃん、冷蔵庫からマーガリンとジャム出してくれる?」

 シルバーの小さめの冷蔵庫を開ける。バター風味のマーガリンと、イチゴジャムを取り出してテーブルに置いた。

「いつもこんな感じで、手作りするんですか?」

 フライパンに生地が流し込まれるのを覗きながら聞いてみる。

「そやなあ。でも、いつもはだいたい、ご飯と味噌汁。バイトしながら絵描いてるから、あんまり時間に縛られることないから」

「これ、何て言うん? ホットケーキ?」

「みたいなもん。ロシア風チーズケーキ。スィルニキっていうねん。パトソールチニクのオーナー直伝の、簡単バージョンレシピやねん」

「よく作るんですか?」

「いやいや、特別メニューです。いつか、特別な人ができたら、特別にご馳走するために練習は重ねたけど」

 こんがりといい香りが部屋に広がった。簡単にベビーリーフのサラダを添えて、テーブルを挟んで朝食をとった。茶葉から出してアイスティーを作って、レモンの輪切りを浮かべる。いただきます、と二人は手を合わせ、最高の献立を味わった。

「これにな、ジャムとかサワークリームをたっぷり付けて食べるのが最高に旨いねん。けど、まさかこんな形で特別な人がうちに来ると思ってなかったから、サワークリームは切らしてます。ごめんなさい」

 領一手作りのパンケーキをそっと口に運ぶ。ほんのり甘く、優しく、とても懐かしい味が広がった。美並の記憶が、ざわっと音を立てた。奥の方で何かが蠢いている。私は、これを知っていると、はっきり感じた。そして、とてもこれを求めていた。いつか、こんな日が訪れることを、どれだけ夢見ていたか……。まただ。涙がぽろぽろ溢れてくる。自分の感情とは関係なく、いつの間にか体が反応してしまう。なぜ、こんなことになるんだろう。これは、誰の気持ちなんだろう。きっと、私がチーズケーキとレモンティーが大好きな理由が、そこにある。美並は泣きながら、一生懸命に食べた。領一は、とても優しい顔をして、美並を見守っていた。

 片付けを済ませると、それぞれ仕事へ向かうため、玄関を出た。少しでも多くの時間を過ごせば、記憶の扉が開くかもしれないと、なるべく会うようにしようと約束した。二人で、沢山したいことがある。行きたい場所も。話したいことも。けれど、自分達に残された時間は、あと僅か。運命に逆らうことはできなくても、運命に寄り添うことは出来る。   

じゃあねと手を振って、美並は駅へ向かった。生まれて初めて、これほど誰かを愛しく思えた。相手に、自分のすべてを捧げたいと思えた。私は、高遠領一に出逢えて良かった。美並は、青空に向かって思い切り笑顔を作って見せた。まるで一輪の向日葵のように。



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