ВС СССР 〈ソ連兵〉
耳をつんざくような悲鳴と、激しい銃声が響いた。美並は慌てて完太を抱え、家の中から入れる地下の防空壕へと身を潜めた。この轟音は恐らくキャタピラーだ。ソ連兵がとうとう旅順にもやって来たのだ。どうかこの子が泣きませんように、喚きませんようにと祈りながらぶるぶると震えた。見つかったらどうなるか、想像して血の気が引いていくのが分かった。玄関の方からドカッという音がして、上から足音と、聞きなれない言葉が耳に届く。玄関を蹴破られたようだ。ダワイ、ダワイと言っている。おそらくソ連兵達がこの家に押し寄せて来たのだろう。時彦は仕事場に出掛けている。大丈夫だろうか。お願いだから今は帰ってこないでくれと、ひたすら祈る。家の中が物色されている。きっとあちこち開けたり、蹴り倒されたりしているのだろう。激しい物音と聞き慣れない言葉が上から降ってくる。歌子の着物や、時計や、時彦の万年筆、他にも何かしら目新しいものは恐らく全てといっていいほど持って行かれるだろうなと、ぼんやり考えた。
どれくらいの時間が経っただろうか。辺りが静まり帰ったので、床上へ戻った。完太は身を硬くしたままいつの間にか寝静まっていた。部屋の中は荒れ放題で、物らしい物は持って行かれてしまった。歌子の思い出の品。満州に渡って築き上げてきた生活が、根こそぎ奪われてしまった。沢山の足音がしていたから、恐らく、満州人や朝鮮人もどさくさに紛れて入って荒らしていったのだろう。彼らが抱いている憎しみは、こんなことでは和らぐはずもない。地下に忍ばせてあった非常用の食糧などが、辛うじて手元に残った。時彦にどんな顔をすればいいのか、そればかり考えた。完太が腹を空かしてむずかり始めたので、乾パンを出して食べさせた。虚しくて、涙が頬を伝う。駄目だ、命があっただけでも感謝せねばと、自分に言い聞かせる。ふと、父や母の顔が浮かんだ。無事に生きているだろうか。予期せぬ悪夢は、突然の雹のように降り注いだ。逃げられない。きっと満州のどこへ行っても、がんじがらめになる。美並は衣服の中が脂汗でじっとりと濡れていることに気が付き、くちゃくちゃになって箪笥からはみ出していた手拭いで汗を拭いた。
夜になっても、時彦が帰ってこないので、美並は地下の防空壕で眠った。直ぐに食べるものも底を付きそうだ。今日一日で、強奪にあったり、強姦されたり、無惨に殺された人が山のようにいる。今まで恨みや憎しみを抱えながらも大人しくじっと耐えていた人々が、堰を切ったかのように暴動を起こし、ソ連兵が鬼のように乱暴を働き、まるで地獄のような光景に生きている気もしなかった。駅の方はどうにか逃げ出そうとする日本人が殺到して、ものすごい人だかりが蠢いていて、混乱を極めているようだ。しばらくこの地獄絵図が町を支配することになるのだろう。
美並には、時彦を待つことしか出来なかった。完太を抱えている限り、自分の判断ではどうにも動けない。恐ろしくて、身動きも取れない。それに、歌子の暮らした家から脱け出すことなど、考えたくもなかった。脱出した所でこの降りやまない恐怖から逃れることも、出来そうにない気がした。
突然、ガタン、と物音がした。またソ連兵がやってきたのかと、美並は身が竦んだ。しかし、物音は裏口から聞こえて、それ以上近付いてくる気配はない。どうしたのだろうと、恐る恐る覗くと、血まみれになった時彦が、土間に倒れ込んでいた。
「時彦さん! どうしたの? 何があったの!」
慌てて手拭いを水で濡らし、時彦の血を必死に拭う。気を失いかけている。恐ろしいのと、不安なのとで美並は心臓を押し潰されるようだった。洗っては拭き洗っては拭きを繰り返す内に、手拭いが赤く染まってきた。どうやら頭と脚に怪我を負っているようだ。つかまり立ちを始めた完太が心配そうにこちらを伺っている。
「大丈夫よ、お父ちゃん、少し怪我をしただけだからね」
美並は優しく声を掛けた。
どうにか止血出来そうな帯紐をダンスの端に見つけて、膝下をぐっとしばり、木箱に脚を乗せて高くした。頭は血が止まったので、水に濡らした布で冷やした。状態が少しだけ落ち着き、美並は湯を沸かそうと立ち上がった。完太が時彦の横へ行き、そのまま隣に寝転がった。時彦の体を撫でている。うーん、と呻き声が聞こえたので、あわてて側へ駆け寄った。
「時彦さん、気が付きましたか!」
額に手を当てると、その手をそっと握り返した。
「ここは……」
「家ですよ、あなたの、家です」
ぼうっとした顔で辺りを見回すと、そうか、と納得したようだった。完太が一生懸命話し掛けるので、時彦は額にあるのと反対の手で優しく息子の頬をなぞった。
「大丈夫だったんだな……。美並さん、完太、生きていてくれて、ありがとう」
小さな声だった。
「会社は、酷い有り様だ。社員たちを皆逃がして、最後に命からがら、身を潜めながらどうにか並木道を通り抜けて、そこの角まで帰って来たんだ。ソ連兵がマンドリンを持ってうろうろしていた。見つかったら帰れないと思って、身を潜めて夜を待った。……ここにも?」
美並は弱々しく頷いた。
「多分、満州人たちも、一緒になって色々持って行きました。申し訳ありません。何も守ることが出来ませんでした。私は完太と壕に隠れていましたから、見付からずに済んで……。お隣や、向かいも、大変なことになっているようで……」
時彦は、悪夢に苛まれるような顔をしてきつく目を閉じた。
「いいや、完太を守ってくれた。……すぐそこに家が見えた。知ってるだろ?俺の会社の、満州人の社員の楊。家族ぐるみでずいぶん懇意にしていたんだけど。あいつ、俺を待ち伏せしていた。油断していたんだ。にこにこしながら近付いてきたからな。突然ナイフで切りつけて来たんだよ。脚を。とっさに交わしたら、頭を何かで思いっきり殴られてね。それでこの様だ。茫然とする俺をみて、あいつ、怯えた顔して逃げて行ったよ。……可愛がっていたんだけどなぁ」
時彦は、涙を浮かべてしくしくと泣き始めた。美並は、その気持ちが痛いほど分かった。あれはいつのことだったか。満州人の生徒に指を指され、『日本鬼子』と、面と向かって言われたことがある。そう言った彼女は、哀しげな瞳をしていた。分け隔てなく可愛がっていたつもりだった。あの子は私を通して、日本民族へ訴え掛けたのだと思う。しばらく御飯が喉を通らないほど落ち込んだ。教鞭を取る資格がないと、自分を責め立てた。けれど、どれだけ歩み寄っても、隔たる壁があるのだと、そう悟るしかなかった。民族感情は、思っているよりも深く、強いものである。そんな時、領一は美並の肩を抱いて言った。
『僕が、そんな壁はぶち壊してやるさ。世界中の人が互いを認め合い、笑い合える世界を作るんだ。そして美並さん、その中心で愛を振り撒くのは、君だよ』
領一の笑顔が、鮮やかに甦って来る。そうだ。あの人は、私の中で永遠に生きているのだ。決して消えることはない。愛している。ありがとう、いつまでも忘れない、と、美並は心の奥に思い出を一つずつ仕舞って行った。
体を震わせ、哀しみに包まれた時彦に、美並は言った。
「大丈夫よ。私が着いているわ。世界中の人が互いに認め合える日が、いつか、必ずやってくるのよ。時彦さん、共に生きて往きましょう」
時彦はゆっくりと涙目を開き、美並の顔をじっと見つめた。お互いの瞳の中には、決心が浮かんでいた。これからは、この人と生きていくのだ、と。
八月十五日、日本は、敗けた。玉音放送を、ラジオで聞いた。戦争が、やっと終わった。美並は正直、安堵で一杯になった。それから少しして行われたソ連兵のパレードを境に、兵士たちが増えた。そして恐ろしい暴動、略奪が絶え間なく起きた。毎日のように、女性の悲鳴が聞こえた。
満州では立場が逆転し、軒並み中華民国の晴天白日旗が翻り始め、あらゆる日本人は家を追われ、逃げてどこかへ行く人、町の隅に追いやられていく人が、憐れさを身に纏って生きていた。旅順から大連へと人波が流れて行った。
美並たちも僅かなお金と食糧、衣服を持って、移動した。途中、鉄道が機銃掃射を受け、何人もの人が命を落とした。無事に大連へ辿り着いても、殺されたり、生きる場所が無かったり、飢えや極度の疲労で死んでいく人が大勢いた。学校などが収容施設となり、多くの日本人はそこで生活した。食べるものが無く、薄い高粱粥や、とうもろこしの粉末で飢えを凌いでいた。そうでなければ、煙草や饅頭を売り歩いたり、満州人の店で雇ってもらったりしながら、人々は何とかその日をつないでいた。お金に替えて、切なる願いで子供を手放す人もいた。生きていくには、全てが仕方のないことだった。
惨めで、虚しくて、どうしようもなかったけれど、生きているだけ、まだいい方だと美並は思った。小澤家も例外ではなく、敗戦後すぐに家を手放した。小さいながらも温かい家庭のあったあの建物には、満州人が我が物顔で住み着いた。大連へ出発する前に、一度だけ盗み見たことがある。あれは多分、時彦を傷付けた楊成順の家族だった。仕方のないことだった。かつて日本人も、同じことをしたのだ。彼らの生活を奪ってまで、虚像の世界をこの地に作り上げたのだから。今までの立場が完全に逆転し、さらに中国人の内乱で、凄惨を極めていた。
時彦の脚は日に日に良くなったが、思ったよりも深く傷付いていたため、右足を軽く引きずって歩かなければならなくなっていた。それが煩わしくて、時々癇癪を起こす彼を宥めるのに美並の労力が必要だった。出歩けない主人に代わって、美並は働いた。必死に探した古びたアパートのような建物に住み、その近所の飯店で頼み込んで雇って貰った。満州人の店だった。女将の來來は、完太を養子にくれとしつこく言ってきたが、それだけはできないと言い張った。真冬の厳しい寒さの中、水仕事をしたり、饅頭を売り歩いたりしたせいで、手があかぎれだらけになってしまった。白く、しなやかに長かった指は、ぼろぼろだった。もう二度と、ピアノを奏でることができないような気がした。生徒達に囲まれて、童謡を歌った日々が、何百年も昔のことのように思えた。領一の隣で演奏したことなど、他人の記憶の一部のようになっていた。時々思い出しても、まるで、誰かの夢を覗いてしまうかのような気持ちになった。
悲しくなると美並は、完太を思い切り抱き締めるのだった。体温が伝わると、生きる力が湧いてくる。すっかり皆やせ細ってしまったけれど、なんとか食べていけることがありがたかった。普段は美並が働き、時彦が完太の面倒を見た。食べるものがなく、お金もなく、一歳を迎えての初節句もしてやれなかったけれど、なんとか育ってくれていた。完太が笑うと、家の中が明るくなる。それだけで、この厳しい暮らしも、乗り越えようと思える。美並は、時彦の妻として、彼を支え、完太の母親として、子を養った。安らいだり、思い出に浸る時間は、夢の中以外に無かった。
季節が二度も巡り、内地ならば、春の訪れをほのかに感じる季節となった。満州の冬は長く、厳しい。いつになったら、あの故郷日本の懐かしい空気を味わうことができるのかと、よく夢を見た。泥の木が芽吹く時期が、そこまで来ている。
一日の仕事を終え、家路に着いた。日本人は皆、後ろ指を指され、汚い格好をして、俯いて歩いている。広場を通り抜けて、通りに出た。目の前を、みすぼらしい女性が横切った。あまりに汚く、年齢も分からないほどだったけれど、その女性が顔を上げてこちらを見た瞬間、美並は心臓が止まりそうになった。
(小夜子!)
それは、紛れもなく、新京の家に残してきた、使用人の小夜子だった。いつも小綺麗にして、清潔感のあった彼女だったけれど、髪は乱れ、垢まみれで肌の色さえ識別できないほどだった。瞳だけが、以前のまま、麗らかに水分を保っていた。声を掛けようとするけれど、息が上手く出せない。女の目が、美並の目を捉えて離さない。驚きの余り、二人の周辺だけ、時間が止まってしまったかのようだ。怯えた小夜子は、何故か逃げようとした。美並はそれを制止しようとした。痩せ細っていて力を込めたら折れてしまいそうな彼女の腕を掴み、骨だけになった身体を自分に抱き寄せる。とたんに、わあっと声を上げて泣き崩れた。美並は何も言わず、彼女の頭をなでてやった。気力のない小夜子をアパートに連れ帰った。湯を沸かし、体を拭いてやる。小さな女はずっと泣き続けている。さぞや辛い目に合ったのだろう。この娘がここにいるということは、市橋家はどうにかなってしまったということだ。父や母は、生きているのだろうか。兄達は、どうなってしまったのか。他の使用人も、小夜子と同じ様に浮浪者となって彷徨っているのだろうか。
美並は、小夜子に茶を淹れてやり、いつでも横になれるよう、自分の薄い布団を敷いた。時彦に事情を説明すると、快く受け入れてくれた。隣の部屋で完太を寝かし付けてくれている。
「小夜子さん、辛かったわね」
そう言うと、小夜子は叫んだ。
「申し訳ございません! 私、私……」
美並は突然の大声に驚いたけれど、小夜子を抱き締めて、うん、うん、と頷いた。身体は小刻みに震え、皮膚が直接骨を包んでいて、それはまるで小鳥の羽のようだった。
「今日はもう休んで。また話はゆっくり聞くから」
そっと小夜子を横に寝かせて、布団をかけてやった。寒いだろうと、自分も隣に横になって抱きしめた。一緒に布団に入ると子供の頃を思い出す。こうして共に眠ったことが、幾度となくあった。内地にいた頃も、満州に渡ってからも、美並は親のない小夜子を可愛がり、小夜子も美並を慕っていた。夢を語り合ったり、初恋の話をしたりした。私は、自分の幸せのために、この娘を見捨ててしまった。こんなことになるなら、そばにいて、運命を共にしてやれば良かったと、後悔の念が押し寄せた。あの日、私を旅順へと見送ってくれた小夜子。背中を押してくれた小夜子。家の中で咎められはしなかっただろうか。もしや追い出されて、こんなところにいるのではないかと、今まで蓋をしていた罪悪感がとめどなく溢れだしてくる。
「ごめんね、ごめんね……」
美並は何度も何度も呟いて、二人はいつしか眠りに着いていた。
次の日、來來に事情を話して、一日休みを貰った。小夜子のそばにいてやりたかったのだ。その娘に食べさせてやりなさいと、餅子をお皿に一盛り分けてくれた。戦争で傷付いたのはお互い様だからと、親切にしてくれることが、とても有り難かった。アパートに帰ると、小夜子は完太をあやしていた。その微笑みを見て、少し安心した。ただいま、と言ってドアを開け、寒いので急いで閉めた。時彦が完太を抱き上げ、「お父ちゃんと遊ぼう」と言って、気を利かせて隣の部屋へ移動した。
美並は小夜子に、餅子をすすめた。申し訳なさそうに、一つ手に取り、少しずつ口に入れたので、ほっとした。お腹がふくらんで安堵したのか、小夜子の口から緊張がほどけるのと同時にぽろぽろと言葉がこぼれだした。
「……お嬢様、私、死のうと思っていました」
どきん、と心臓が鳴った。
「旦那様は終戦間近、最前線に兵を率いて国境の護りに着かれました。その後は音沙汰がありません。美弥子奥様は、市橋の家を守るのだと、屋敷から一歩も外にはお出になりませんでした。例え殺されようとも、私はここで主人の帰りを待つと……。軍の関係の方が移動するよう説得に来られましたが……何かあればお前たちはこの家を出て、それぞれに身を潜めるようにと……。そうこうしているうちに終戦を迎え、新京になだれ込んだソ連兵や、暴徒と化した満人から逃げて逃げて、恐ろしい光景も山ほど見て……」
小夜子の顔は青ざめ、その瞳は、地獄を通り抜けた色をしていた。美並は、黙って一つ一つの言葉を拾い上げた。恐らく、この先、父母に再会できる可能性は、無い。自分が捨ててしまったのだ。悔やんでも、仕方がない。幼い頃、美並を膝に乗せ、母に御酌されながらにこにこしていた父。手を繋いで、縁日に出かけ、金魚すくいが上手くできずに泣く美並を、慰めてくれた時の大きな手のひら。煮物を作る母親の横顔。ピアノを教えてくれる時の、厳しい口調。教師になることを、誰よりも喜んでくれた、あの日の笑顔。次々と思い出が浮かんで、胸が苦しくなった。けれど、自分が選んだのだ。縁を切る覚悟で、家を飛び出したのだ。
「旦那様も奥様も、お嬢様が旅順にいらっしゃることをお気付きになっておられました。あの子が行く所は、歌子さんのところしかない、と……。口ではあのような言い方をなさったり、冷たい振る舞いをなさいましたけれど、お嬢様の痛みを、理解した上でのことでした。私は、問い詰められることもなく、ただ、何かあった時は、美並の元へ行って欲しいと、それだけを……」
ここのところ、涙をすることも忘れていた美並は、嗚咽を止められなくなった。苦しくて、どうしようもなかった。きっと父は、ソ連との国境で戦い、苦しみながら死んでいったのだ。母は暴漢に襲われるか、それとも自ら命を絶ったか、きっと恐ろしい最期を迎えただろう。信念を持って、私の未来を思って、敢えて厳しく突き放してくれたのだ。けれど、ごめんなさい、それでも、領一さんを慕う心を抑えられなかった。私にとって、何よりも強い思いだったのよ、と、美並は心の中で詫びた。
「お嬢様に会いに、何とか旅順へと思いました。南西を目指して、奥様の計らいで列車にも乗せて頂いて……。探しても探しても見付からず途方にくれました。……途中、自分を入れて五人のご婦人と共に行動を取りました。皆、根こそぎ動員や、ソ連兵に強制連行されて夫や父を失ったりした方で。空き家を見付けて、隠れていたのです。みんな髪を刈り込んで、炭などを顔に塗り付けて、なるべく男性に見えるように努力していたのです。中には乳飲み子を抱えた方もいらっしゃって……。三日ほど経って、どこから嗅ぎ付けたのか、三人のソ連兵がやって来て……マンドリンを突き付けて、脅したのです。赤ん坊を連れていた人は、裏の茂みに急いで隠しました。私たちは抵抗することができなくて……。なされるがままに……」
「もういいわ、言わなくていいわ。ごめんね、辛かったでしょう、ごめんね」
「一人は、激しく抵抗したために、見せしめにその場で銃殺されました。一人は、兵隊がさった後、持っていた青酸カリを飲んで自害しました。赤ん坊の母親は、いつの間にか逃げていて……。私ともう一人の奥さんは、何とか生き延びて、二人でここまでやって来たんです。彼女は親戚と出会うことができたので、私は黙って自ら去りました。もう死んでしまおう。死ねば楽になれると。……あなた様に合わせる顔がありません。旦那様や奥様に、最期までお仕えするのが道理でした。こんなところにのうのうと生きていてはいけない……私は卑しくて、汚らわしくて、卑怯な人間です。ロスケに操を奪われました。お嬢様、いっそその手で私を殺して下さいませ!」
小夜子は勢いよく腰を上げ、美並の両腕を力一杯掴んだ。感情が高ぶり、別人のような顔をしている。その姿がまるで夜叉のようで、美並は小夜子の背に無数の怨念を垣間見た。金縛りのように動けず、何も言えなかった。小夜子は美並の腕をぶんぶんと振り、泣きながら殺して下さい、殺して下さいと叫んでいる。女として一番恐れていたことから、今のところ何とか自分は逃げ切れていることが、まさか妹のような彼女の身に起きていたとは。一瞬、自分も小夜子と一緒にいたら同じ目に合っていたかと思うと、良かった、と思ってしまったことに酷く卑しさを感じて、自らの頬をひっぱたきたくなった。
目の前の女は憐れで、生命の光を失いかけていた。受け止めてやるしかない。叫びを、ひたすら受け止めてやるしか。そうすることでしか償えない。もし、私が見えない影を追ってまで旅順に行かなければ、もっと別の道があったかもしれない。共に傷付いてやれたかもしれないのだ。ごめんね、と、小さく言うことしかできなかった。
時彦が、足を引きずりながら隣の部屋からやって来た。落ち着いた顔で、完太を抱いたまま言った。
「小夜子さん、ちょうど子守りを探していたんだ。明日から頼むよ。煙草売りに出掛ける事にしていたんだ」
それを聞いた瞬間、小夜子は息を飲んで、わあっ、と泣いた。美並も、小夜子の手を握り返して、泣いた。




