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赤とんぼ

 初枝は、兄が大好きだった。十五も年が離れていたけれど、五人の兄姉の中で、一番自分を可愛がってくれていた。長兄は、士官学校を出てから海軍に入り戦死していて、姉二人はすでに嫁入りしているため、六人兄弟のうち、高遠家には三人しか残っていない状況だった。三番目の兄も軍人を志していたので、すぐ上の姉と初枝はいつも一緒に寂しく過ごしていた。次兄が捕らわれ、処刑されたことが分かった時、年老いた父母も姉達も、地の底まで落ちたようだった。兄領一は何年か前に家と絶縁し、単身満州に渡って行った。そのお陰で、高遠の家へのお咎めは最小限で済んだのだと、ひっそりと皆が語り合っていた。お前は小さいからと、詳しい話しは誰も教えてくれなかった。跡継ぎの問題や、墓をどうするのかなど、大人たちのささやきが毎日聞こえてきたけれど、本当に兄を想う人など、誰もいないような気がした。戦争だから、と、皆が口を揃えて言った。

 末っ子なのに、『初枝』という名前が不思議だった。これは領一が付けたのだよ、と父に聞かされたことがある。小さく芽吹いた命が、一本の美しい枝に育つようにと、妹の誕生を一番喜んだ兄がそう付けたそうだ。幼い頃の記憶しかない。けれど、誰よりも可愛がってくれていたことは、いつもいつも胸に花を咲かせているのだ。

 兄が満州に渡ってから、時々に小澤歌子さんと言う名前で、初枝宛に手紙が届いた。女性の字で度々兄の近況や、妹を気遣う言葉が書かれてあり、初枝はそれが届くのをこの上ない楽しみとしていた。きっと、兄が隣で話した言葉を、彼女が丁寧に代筆してくれていたのだろう。その主人である兄の友人の小澤時彦さんの顔も、よく覚えていた。幼い頃は一緒に釣りや、海水浴に連れて行ってくれた。精悍な顔立ちの兄とは違い、優しいおだやかな顔をしていた。戦争に兵隊として行って、無事に帰って来た時は飛び上がって喜んだ。けれども、すっかり別人のようになり、あまり遊んでくれないようになった。兄より少し早く、結婚して満州に渡り、会うことがなくなったけれど、兄を随分助けてくれたのだろうと思う。歌子さんとは二回ほど会ったことがあるけれど、明るく快活で、ユーモアのある現代的な女の人だった。

 彼女が代筆の兄の手紙には、兄の恋人の名前が時折姿を見せた。一度も会ったことがないけれど、きっと誰より美しくて、優しい人なのだろうと、いつも想像した。小学校の先生だというから、頭も良くて、歌やオルガンが上手なのだろうな、そんな先生に習ってみたいと、まるで生徒になったかのような気分でいた。

 兄が他界してからは、ぱったりと手紙が途絶えた。戦局が悪化したこともあっただろうけれど、何より自分の身を案じてのことだろうと、初枝は悟った。分かってはいてもそれが寂しくて寂しくて、どうにかしてもう一度兄に会いたいといつも思っていた。本土は空襲が激しく、主要な都市が次々と爆撃で壊滅していった。隣町までが焼け野原となり、すっかり景色が変わってしまっていた。食べるものもなく、配給はすぐに底をつき、ひもじさと寂しさが入り雑じって毎日泣いた。泣いたら、毎日戦ってくれている兵隊さんに申し訳ないよ、いつか日本が勝てば、こんな思いしなくて済むよと、母が慰めてくれた。でも、兄は、日本に、兵隊に殺されたのに、と、矛盾で心が壊れそうだった。そんな日には、赤とんぼを歌った。兄が小さな初枝を背に負い、寝かしつけるため、近所を歩きながらいつも歌ってくれたのを思い出しながら。兄の優しい声を思い浮かべると、何だか本当に兄の背中にいるような、そんな気がした。死んで体が無くなったから、初枝のそばまで来てくれているのかもしれないと、素直に思っていた。


 戦後の動乱をどうにか生き抜いて、見合いをし、大阪の町にある窪田家に嫁に来た。良い夫に出会い、子供にも恵まれ、毎日を平凡に暮らした。苦労もあったけれど、ささやかな幸せを探しながら生きてきた。孫も出来て、そろそろ自分の人生も千秋楽を迎えようとしているなと、先立った夫に冗談半分で話しかけている毎日だった。もうそろそろ、兄がこの世を去ってから七十年になるという頃、とある音楽教室のチラシがポストに入っていた。手作りで、可愛らしいデザインのものだったので、ふと目に留まったのだ。歩いて行けるほどの場所にある、小さな楽器店だった。ピアノの講師の名前に、はっと驚いた。『小澤美並』と書かれていた。小澤・美並。何だか運命的なものを感じた。六十数年間追い求めた兄の面影が、ふいに目の前に現れたような気がして軽い目眩を覚えた。全く関係ない人かもしれない。でも、その人に、ピアノを習ってみたい。心臓の奥の方から、若い頃のような、爽やかなエネルギーが生まれてくる。強い衝動に駆られ、気が付くと楽器店へと駆け出していた。


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