第四楽章 向日葵の咲く場所
舞は、領一の向かいの席に座った。顔色を変えず、冷たいレモンティーを飲み込む。
「好きなんですか?それ」
うん、と相づちを打って、チーズケーキにジャムをつけて頬張る。ふーん、と言って舞はその動作に意味ありげな視線を送った。
「それは?やっぱり、絵画ですか」
隣の椅子に置かれた紙袋を指差しすと領一は、
「ああ、これ」
と言ってフォークを置き、中身を取り出した。中には、シートにくるまれた絵画が入っていた。領一は丁寧に取り出し、テーブルの上に置いた。茶色い木枠の壁掛けになっていて、青空の元に、美しい、一輪の小ぶりの向日葵が咲いていた。
「綺麗……」
思わずつぶやいてからハッとして店内を見渡すと、様々な壁掛けに沢山の向日葵が描かれている。舞は確信した。
「今日が、約束の日だったんですね」
領一は、絵画に向かって頷いた。
「これ、もしかして、あの人の向日葵ですか?」
ああ、と呟くと、それを片付け始めた。
「オーナーに言うて、今日これも飾ってもらうことになってんねん。これが、最後の一枚。あの人の髪に差してあげた向日葵。……でも、ちょっとタイミングがズレたみたいやな」
絵画は、紙袋に仕舞われた。
「高遠さん、私、もうすぐ山下と中国の長春に渡ります。時間がないんです。どうしよう……。」
領一は、表情を変えずに腕を組んだ。そして、静かに言葉を放つ。
「正直、自分でも、どうするべきか判らん。彼女が気付かへんことには、どうしようもないけど、もし記憶がよみがえったところで、今の俺は今の俺でしかないし、今の彼女は彼女でしかない。なんぼ愛し合ってた記憶が遥か彼方にあったとしても、それは歴史の教科書を覗くのとおんなしようなことやろ。彼女には彼女の暮らしがあって、何も知らずに生きてきた。物心つく頃から、前世の記憶に苛まれて生きてきた自分とは違うと思う。いきなり受け入れられるとも思わへんし。それやったら、このまま何も知らんと、この交差点からまた別々の道へ進んだ方がいいんちゃうかなっていう気もすんねん」
「でも、そしたら、高遠さんはどうなるんですか!」
「……消えて無くなるかな。多分、死ぬ」
フッと憂いのこもった笑みを浮かべて、領一は軽く握った拳をテーブルに乗せた。俺はそのために生まれてきたから、と、ポツリと溢した。
「そんなんあかん!」
舞は小さく叫んだ。
「だって、だって私は、あんたらを結びつけるために生まれてきたのに」
かたかたと歯がぶつかる。ふるえる体を自分で抱き締めると、少し冷たさを感じた。クーラーのせいか、恐さのせいか分からないけれど、ひんやりとしている。
「お願いです、高遠さん、絶対にあの人を振り向かせて下さい。気持ちなんて、後からついて来ます。あんなに惹かれあった二人なんやから、出逢いに間違いなんかないはずです」
領一は、何かを考えるような顔をしてから、グラスのレモンティーを飲み干した。水滴がボロリと剥がれて骨ばった大きな手を濡らした。
「まぁ、やれるだけのことはやってみるよ。舞ちゃんと出会ったのも、偶然という名の運命やと思ってる。やっと自分の心を縛ってるものから逃れられるとも思えた。俺自身が、この世から消えて無くなってもいいと思えるほど、あの人のことが大切やねん。それだけやから……」
舞は、ありがとうございます、と、何度も呟くように言いながら頭を深く下げた。自分が彼女にしてあげられる最大の恩返しは、これだけなのだと、深く感じるまま、胸に刻み込んだ。自分のせいで、彼女の運命を大きく変えてしまい、自分の都合に括り付けて望みある将来を奪ってしまったのだ。どうか、今回は幸せになってほしい。結ばれるべき人と、幸せいっぱいに結ばれてほしい。私はそのためなら何だってする、と舞は思う。そのために、神様は自分に遠い過去の記憶を残してくれたのだから。
舞が店を出てから、領一は、一人考えた。確かに、自分は彼女を探していた。けれど、自分の中の彼女と、何も知らずに現世に生きている彼女は、別人ではないか。もう一度出逢えたところで、何の意味があるのだろうか。しかし、自分は彼女と再会して、愛し合わなければ、この世から消えて無くなるのだ。人魚姫のように、跡形も無く。
物心ついた頃から、前に生きていた時の記憶があった。戦時中の日本に生まれ、六人兄弟の次男として育った。妹を負ぶって、よく赤とんぼを歌ってやった。学校では成績優秀で、運動能力も人一倍高く、行く行くは陸軍士官学校へ入学することを父親が望んでいた。しかし、自分自身は写真を撮ることと絵画を描くことが大好きで、軍隊など以ての外であり、真実を追って世界を駆け巡る記者に憧れて、新聞社へ就職した。努力して、英語、中国語、ロシア語を少しずつ習得し、いずれは世界を又に掛けて飛び回りたいと夢を描いていた。戦争が激化して、従軍カメラマンとして日中戦争へ駆り出され、地獄を見てから、勢いよく反戦感情が高まった。そして、共産主義者や、反戦運動家と関わりを持つようになっていった。その頃、一人の女性と出逢うことになる。そして短い生涯をかけて、その人を愛した。やがて、投獄され、軍の機密として処分されることになる。
幼い頃は、特に気にも留めずに生きていた。家族構成もまるで違う。今の自分は、父、母、兄の四人家族。次男という部分は、共通していたけれど。十五歳になった頃から、毎晩夢を見るようになった。それは大きな河川の水面で、ボートに揺られる夢だったり、テーブルを2人で挟んでチーズケーキを食べる夢だったり、木造校舎の音楽室でピアノの音色に耳を傾ける夢だったり、向日葵の咲く場所でチョコレートを食べる夢だったり……。毎晩彼女が夢に出てきては、手の届かない世界へ消えてしまう、というもので、目覚めるといつも、泣いていた。無性に会いたくて、会いたくて、この世界のどこかに彼女が存在しているのではないかと、胸がざわめいた。
絵を描くのがやっぱり好きで、芸術大学に進学し、デザインや、絵画を学んだ。卒業後は、フリーで色々細かい仕事をしながら一人暮らし。どうせ探しても見つからないような人間に思いを馳せたところで仕方が無いし、それなりに恋愛もした。けれど、誰かを本気で愛したことなど、人生で一度も無かった。夢は、毎晩見たけれど。
卒業して何年か経って、たまたま母校の大学祭に訪れた。ふらっと入ったホールで、これからピアノ科の学生が演奏を始めるところだった。曲目は、ドビュッシーの〝月の光〟。拍手に迎えられ、学生が袖から出てきた。――頭の中が真っ白になった。
(あの人は、……夢の……)
ピアノの音が、胸を締め付けた。苦しくて、息が出来ないほどだった。曲が終わらないうちに、身体が勝手に走り出していた。全速力で控え室に向かった。途中何度も誰かにぶつかった。こんな近くにいたなんて。手が届くかもしれない。この距離なら。もう、あの夢を見なくてもいいかもしれない。控え室の前に辿り着き、へたり込んだ。少しして、彼女がやって来た。昔出逢った頃の彼女より、少し幼かった。そして、綺麗だった。
彼女は、まだ緊張していた。こちらを見ると、一瞬立ち止まったけれど、すぐに通り過ぎようとした。
(覚えて……へんのかな……)
悲しくて、全身の力が抜けてしまった。同じように、自分のことを探してくれていると思っていた。だが、違った。この曲は、僕のためにだけ弾いて欲しかった。虚しさと、怒りと、悔しさと、切なさがこみ上げて、
「この曲をなんでこんなとこで弾くねん!」
と、怒鳴ってしまった。彼女は怯えて、走り去った。もっと、伝えたいことがあったのに。もっと、言わなければいけないことがあったのに。ゆっくりと立ち上がり、大学を後にした。
その夜の夢は、いつもと違った。登場人物は、昔の、友人の妻だった。
「領一さん、あなたと、美並を、ちゃんと私が再会させてあげる。これから、足跡を探しに行って下さい。あなたの記憶にある、思い出の詰まった町へ」
女は、再会の日時と場所を伝えて、消えた。そしてその日から、美並の夢を一度も見なくなった。
その次の月に入って、自分の記憶にある、過去の高遠領一のルーツを探す旅へ出かけることにした。貯金を叩いて、なにかを見つけるまで帰らない覚悟で出かけた。生まれ育った町。そして、海を越えて中国へ。満州国と呼ばれた、彼の地へ。
大陸で見る太陽は、とても赤く、黄砂の影響で、景色は微かに黄色く染まっていた。高度経済成長で、記憶の中の土地の面影は少なく、とても近代的になっていた。田舎の方は昔と変わらぬ風景だったけれど、かつて新京と呼ばれた街は、別世界だった。満州を駆け巡り、やっとで仕事が落ち着いた時、美並の笑顔を見るとホッとした。昔ここに、一本の泥の木が生えていた。初夏、その木陰で、彼女の帰りを待った夕暮れ時。頬を、一筋の涙が伝う。もう、いい。これでいい。彼女の感触が、魂に触れた。それで充分だ。
思い出が詰まった土地を、ひたすら旅した。各地を訪れるごとに、美並が心に甦って来た。なんというか、心が納得したような感じだった。大学祭で、一目再開出来たことも、考えてみれば嬉しかった。
そして、数日後、偶然高校時代の後輩である山下に電話をかけた。日本に帰ってきた直後のことだった。写真に興味がある奴だったので、発展した中国を見せてやろうと思い、現像仕立ての写真を簡単なアルバムにして、話をしに家まで行った。結婚するという相手女の顔を見て、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。最後の夢に出てきて、再開の日を告げた女、記憶の中の友人の妻と瓜二つだった。もしかしたら――と、心の奥で期待始めた。話の流れで、ジャズライブに誘われたが丁度用があって行けなくなった、と聞いた。山下の彼女に、チケットを持っている本人の写真を見せてもらった。携帯の画面が目に飛び込んでくると同時に、身が引き裂かれるように、痛みと、ときめきと、苦しみと、恋しさが衝撃となって全身に渦巻いた。この人だ。あの女性だ。ずっと探していた、運命の人だ。直ぐ様チケットを譲り受けるように約束を取り付けて、ライブハウスで会う約束をした。
入り口に佇む彼女を見つけて、とたんに何を話せばいいのか分からなくなった。こちらを覚えているような素振りは全くなくて、完全に初対面同士だった。それに、姿形は記憶の中の彼女そのものなのに、やはり別人だった。違う人間だった。この人は、今回の人生を全くの真っ白の状態から歩いてきたのだと痛感した。自分とは違う。そう思うと、愛や恋がいったい何なのか解らなくなった。所詮人間は、一時の感情に突き動かされて生きているのだ、とも思えてきた。何のために、この世に生まれる遥か前のことなど覚えているのか。自分の寿命まで知らされているのか。ここで二人出逢ったことが、何になるのか。演奏など、一つも耳に届いて来ないでいた。彼女は隣で、楽しそうにジャズに耳を傾け、リズムに身を任せていた。その姿は、瞼の裏に微かに残る、月夜の下でピアノを奏でてくれたあの姿とよく似ていた。
その日の帰り道、ハルビンの向日葵畑で彼女が喜んでくれたことを思い出して、目に留まったコンビニでチョコレート(暑かったのでアイス)を買い、並んで食べた。幸せすぎて、ぶるぶる手が震えた。前付き合っていた男だという、ろくでもない奴を殴った時は、我を忘れていた。スイッチが入って、止められなかった。自分の不甲斐なさに、当たり散らしているようにも思えた。もっと早く見付けて守ってやれていたら、こんなに傷付けずに済んだのにと、どうしようもないことに腹が立った。あの瞬間、この人が誰であろうと何であろうと、愛していると確信した。けれど、彼女が別の男を想って泣いている横顔を見て、また分からなくなった。運命に向き合うというのは、残酷だ。
家の前で、彼女の祖父に出会った。ずいぶん長生きして、年を取っていたけれど、紛れもなくあいつだった。最期に全てを託した、親友だ。この姿を見て、酷く恐れていた。何かを隠すような、そんな顔をしていた……。
領一の頭の中を、様々な思いが巡っていた。いつの間にかテーブルの上は片付けられていて、綺麗に整えられている。客が増えて店内が賑やかになり、人々の話し声と食器の当たる音が落ち着いた雰囲気の中を騒々しく響き始めた。カウンターに立っていたウエイトレスが、『オーナーがお帰りになりましたので奥へどうぞ』と声をかけてきたので、バッグと絵の入った紙袋を抱え席を立つ。今日は、この店で、あの人と再会するはずの日だった。早まったせいか。それとも、もう会わない方がいいからか。なにかがズレてしまったのか。彼女が座るはずだった向かい側の席が、虚しげに存在していた。……それでも。もう一度、会いたい。領一は、ぎゅっと目を瞑って、流れに逆らってでも、彼女に会ってみようと、決めた。




