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玉手箱

 何も手につかない。ピアノの前に座るも、全く旋律が進まない。美並の頭には、昨日の夜のことが焼き付いて離れていかなかった。何がなんだか分からない。いったい自分は、何事に巻き込まれているのだろう。みんなして、見えないものを信じて、泣いたり、懐かしがったり、面白がっている。どうしてこんなに追い込まれなくてはいけないのか。私は、高遠領一のことなど、何も知らないのに。


 昨日の夜。話の糸端を全く掴めすらしないまま、すぐに領一は美並を家に送り返した。あのまま、どうにかしてくれれば良かったのに。強引に、ホテルかどこかに連れ込んでくれれば、こんなに悩まなくて済んだのだ、と思う。正直、心の隅で期待していた。嫌いなわけじゃない。惹かれているのは確かなのに、戸惑いが胸で燻っているだけ。あのまっすぐな瞳で見つめられるのが、少し恐いだけ。このもやもやが、抱かれてはっきりと恋や愛に変われば、それで納得がいくはずだった。でも、彼はこの距離を保とうとする。お互いに、苛々しているのが分かるのに。

「もう、どないしたらええねんな」

 美並は、胸のうちを吐き出すように、深くため息を吐いた。

 台所へ行き、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぐ。リビングのソファに腰掛け、テレビのスイッチを入れたけれど、ろくな番組がなくて結局スイッチを切った。テーブルに、父の読みっぱなしの新聞が広げてあったので、それを広げてみた。ふと、端の記事に目が止まった。『戦時中の非公開写真』というものだった。とある従軍カメラマンが日中戦争で撮影したものが、新聞社の古い倉庫から出てきたという内容だ。そのカメラマンは行方不明になって後、スパイ容疑にかけられ、当時の関東軍に処刑されてしまったらしい。名前を高遠領一(たかとおりょういち)……

 頭にズキンと痛みが走った。美並の胸のべールが、また一枚、強引に引き剥がされたような気がした。もう、向こうが透けて見えそうなのに、まだ届かない。歯がゆさが胸を締め付ける。高遠領一、なぜ彼の名前がこんな所にあるのだろうか。ただの同姓同名なのか、それとも、これも歯車の一つなのか。

わざと音を立てて廊下を進む。手には新聞を握りしめ、祖父の部屋にずかずかと入り込む。物凄い勢いの孫娘に祖父は驚くこともなく、何かを書いていた筆を下ろして、優しく微笑んだ。

「なんや」

「これ、この人、おじいちゃんの知ってる人やろ!」

 美並は新聞を畳みに叩き付けた。祖父はゆっくりと老眼鏡を掛け、記事に目を通した。口を真一文字に固く結び、眉間に皺が寄っている。もう言い逃れはさせない、と、美並には変な意気込みがあった。祖父はふうと息を吐き出して、新聞を丁寧に畳んだ。そして、それを美並に手渡した。どんな答えが返ってくるのか、ドキドキと心臓が鳴る。間違いない。何か、繋がりがある。そう確信していた。

「そや。間違いない。そのカメラマンは、わしの友人やった人や。戦争中に満州で処刑されはった。無二の友人や」

 祖父は、笑っていなかった。とても苦しそうな顔をしていた。けれど、美並は止められなかった。

「何があったんよ!なんでこないだあの人を見た瞬間、あんな顔したん?その新聞の人あの男と、おんなし名前やし。ちゃんと教えてくれな、あたし、わからへんねん、自分でも、ようわからんけど、おじいちゃんしか突破口がないと言うか……」

 祖父はしばらく黙って何かを考えるようにしたあと、箪笥の引き出しから、木箱を取り出した。それを美並の前に置き、丁寧に箱を開けて、一つずつ大切に取り出していった。

「お前さんに、いつかは見せなあかんと思てた。そやけど、なんやわしも恐わぁてな。中々立ち入る勇気がなかったんや。すんまへんな」

 美並は、毀れ物を扱うような祖父の手をじっと見ていた。目が離せなかった。中からは、白い布きれのようなもの、一枚の写真、一つのボタンが出てきた。

「この布は、死んだ子供の形見。この写真は、わしの一人目の家内。ボタンは軍服のボタン。日中戦争の時のやっちゃ。わしのやないで。領一君のや」

 祖父は懐かしそうにそれらを眺めている。

「お前とこないだ玄関先におった子、わしの知ってる高遠領一君と瓜二つでな。びっくりしてしもた。名前まで一緒やねんて?わしを追い詰めに来よった亡霊かと思たわ。不思議なことがあるもんやなあ」 

 祖父は思い出し、少し怯えた顔になった。そうだったのかと、あの場面については少し納得がいった。そんな不思議な事があるものかと、疑問も生まれた。同姓同名で、しかも顔まで同じだなんて、まるで幽霊みたいだ。彼は、もしかして幽霊?いや、山下君の先輩なんだから、そんなはずはない。けれど、無二の友人に会えたのに、なぜこんなに恐ろしがるのだろう。これ以上は心の痛みに触れるような気がして気が引けたので、美並は質問を変えた。

「……死んだ子供って?」

「一人子供を亡くしてなぁ。戦後のなんもない時やったよって、栄養失調やった。物があらへんから、おしめぐらいしか残されへんかってん。せやから、これが形見。これが、その子を産んでくれた人や。一緒に満州で暮らしてたけども、産後に体を患ろうて亡くなった。写真は、領一君が撮影してくれて、贈ってくれたものや」

 そんな過去があったことを、美並は初めて聞いた。自分の知らない苦労が、祖父には山ほどあったのだ。のうのうと生きている自分が少し恥ずかしくなった。美並は、手作りの布おしめを手に取った。なぜか涙が溢れて止まらなかった。

「……今、わしがお前さんに言えるのはこれだけや。申し訳ないけどな、お前さんが嫁に行くまでは、これ以上しゃべらんことにしてある。わしも、辛い思い出やさかいにな。お父さんらも、知らんことや。言うてないねん」

 祖父が品々を再び箱にしまい始めたので、美並は手に乗せた布おしめを祖父にそっと渡した。そして、ありがとう、と言って部屋を出た。


 ミント味のガムを噛みながら、自転車のペダルをこぐ。景色がぐんぐん動いている。何年か前に子供じみた名前が付いた慣れ親しんだ商店街を走り抜けていく。中学時代、友達と話しながら通った部活の帰り道。大好きな人を待ち伏せした曲がり角。美味しいと評判で、母親が気に入っていたパン屋。友達のおばあちゃんがやっているたこ焼屋。幼い私を作り上げたこの町は、何年経っても同じ空気の味がする。いつか、ここを出ていくことになるんだろうか。私が嫁に行くまでは、話さないと祖父は言った。結婚なんて、永遠にできない気がする。舞のように、幸せになってみたいけれど、その時私の隣にいるのは、どんな人なのだろう。あの男は、タイムリミットを伝えてきた。もし、本当に、九月一日までに私が何も分からなければ、彼はどうなってしまうのだろうか。私のもやもやした気持ちも、中途半端のまま抱えて生きていかなければいけなくなるのだろうか。

 美並は、ペダルをこぐスピードを上げた。生暖かい風が起こった。商店街を抜けると、同級生の親がやっている洋品店を通りすぎた。喧嘩別れしたまま中学卒業以来一度も会っていないけれど、今どこで何をしているのかなと思いながら、踏切を目指す。どこへ往くあてもなく、とりあえず線路を越えて行こうと決意する。かなりの遠回りだけど、レッスンの予約時間までは充分に時間があるから、この世界を巡ってみようと思う。彼は、どこで、どんなふうに生きて来たのだろう。どんな子供で、どんなことを考えながら大人になったのだろう。今まで、どんな恋愛をしてきたのだろう。どんな人を愛したのだろう。気が付くと頭の中が高遠領一でいっぱいになっていた。美並は思い切り左右に首を振り、更に速いスピードで風を切った。



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