клятва(クリャートヴァ) 〈誓い〉
美並は小さな赤ん坊を抱きながら、青く澄んだ空を見上げている。今日は雲ひとつない。まるで、かつて松花江の川面であの人と見上げた空のようだと思う。そして、真夏のうだるような暑さが世界の美しさを際立たせている。その中に、くすんで色落ちしてしまった絵画のように、自分と領一がぼんやりと存在しているような気がした。季節は巡り、アカシアの甘美なる香りがいつしか過ぎ去って行き、彼が姿を消してから二度目の向日葵が咲いた。
赤ん坊が乳を欲しがって泣きはじめたので、母親の元へと連れて行くことにした。子供の成長は本当に素晴らしいものだ。笑ったり、寝返りを打ったり、座ったり、何でもない一つ一つの歩みがまるで何億年分の奇跡のように思えるのだ。
「ありがとう、美並ちゃん。おしめ洗って下さったのね。ほんと助かるわ」
歌子はゆっくりと体を起こし、赤ん坊に乳を含ませた。その姿は、キリスト教の聖母マリアのように見えた。彼女は産後体調を崩し、八ヶ月経った今も寝たり起きたりを繰り返している。酷く難産だった。産まれた子供は何とか命をとりとめ、今では順調に育っている。美並が大連の小澤家に世話になるようになって三ヶ月ほどして赤ん坊が産まれたので、そのまま大連に住み着いて、歌子と赤ん坊の世話をするようになった。子供は男の子で、父親の時彦に完太と名付けられた。太く生きて、何事も完遂する男になれという思いが込められている。母親に似てくりくりと目が大きく、とても可愛らしい顔をしている。自分もいつかは、こうして自らの子をこの胸に抱いて乳をやりたい。愛しさで押し潰されそうになりながら、その口を吸ってやりたい。それが愛する人との子供なら尚更だろうなと思う。
洗濯物を畳みながら、歌子をぼんやりと眺めた。この人は、幸せ者だ。好きな人と一緒になり、男の子を授かり、家庭を創り上げてている。時々激しい嫉妬心が湧き出てくることがあるけれど、すぐにそれは灰のように崩れ落ち、風に飛ばされてなくなるのだ。私にはもう何もない。この家族に依存しなければ、きっと生きては行けない。心が死んでしまう。
「嫌な噂を聞いたのよ」
すっかり寝入った完太を自分の布団の隅に横たわらせ、歌子が顔をしかめて言った。美並は手を止めてその顔を見つめた。
「ソ連兵が、国境で待機しているそうよ。……戦争に負ける時が来たら、私たち、この満州にいる日本人は、皆殺しだって」
生ぬるい風が、縁側から吹き込んだ。背筋がぞくりとして、手が震えるような気がした。普段は大人しく振る舞っている満州人たちにどれだけの恨みを買っているか、美並は知っていた。日中戦争でどれほどおぞましいことが行われたかも理解していた。戦争が終わるということは、負けるということ。全てのしっぺ返しがやってくるということだ。皆殺しというのも、強ち過剰ではない表現だ。
「ねぇ、美並ちゃん、もしもこの大連で何かが起こったら、私を置いて、完太を連れて時彦さんと逃げてね」
歌子の目は真剣だった。その意を決した眼差しに、金縛りに合ったかのように恐ろしくなった。けれど美並は軽く笑って見せた。
「そんなことできるわけないじゃない。歌子ちゃんは完太の母親なんですもの。何としてでも完太を守らなくちゃ」
ふふ、と歌子がため息とも笑いともつかない声をもらしてうつむいた。
「多分、私の体、冬まで持たないと思う」
それだけ言うと、再び横になり、完太と共に眠りに就いた。美並の心には、虚しさだけが取り残された。歌子まで失ってしまったら、自分は本当にどこに行けばいいか分からないではないか。すべてを受け入れてくれた、たった一つの存在を失ってしまったら……。
「高遠領一君が処刑されたことは、紛れもない事実だ」
小澤時彦は、静かに言った。
「なにか、なにかあるはずなんです!彼が私に遺したものが、なにか……」
木製の机に肘をついて、眼鏡の奥から悲しみの宿った鋭い目付きでこちらを見る。
「軍にスパイ行為を働いた危険人物とみなされ、拷問を受け、結果死に至ったそうだ。無念でならない。けれども、彼は、覚悟の上だった。日本とソ連の架け橋になろうと働きかけていた。赤に染まっていたわけではないんだ。将来の為に外国語を学び、国民の為に反戦を唱え、危険な組織と手を結んだ。それだけのことだ」
感情を押し殺しているのが分かるほどに時彦は唇を噛み締めている。けれどその瞳は冷たく光っていた。
「言われたんです、彼に。何かあったら、旅順の小澤夫妻を頼るようにと。だから、ここに来れば、なにか彼の欠片とでも出会えるんではないかと……」
美並は硬直してしまいそうな自らの頬を無理矢理に動かして、半ば叫び声のようなものを出して必死に訴えた。二人の間には、固く、ざらざらとした空気が張り詰めていた。
「いいかい、美並さん。奴は死んだんだ。遺骨もない。遺書もない。何もないんだよ。高遠領一という男は、この世から抹殺されたのだ。僕にとっても、奴はかけ換えのない友人だ。最期に挨拶にもやって来た。君を、頼むと。君にとっても、二人とない男だったろう思う。けれどね、死んだ人間は戻って来ない。ご存知の通り、今は人の命がとても軽い時代なんだ。命令一言、爆弾一発で簡単に何人も殺されちまう。……いつまでも過去に縛られ、帰らない人を思っても、何にもならないのさ。前に進むしかないのだよ。亡霊に取り憑かれていては、死んだも同じことだ。そう思って、領一君も君に敢えて別れを告げたのではないか。君が生きることを願って。……それでも君は、あいつの帰還を信じて待つことができると言うのかね。……喪われたものを、待ち続けて生きると」
優しいのか残酷なのか分からない言葉が、美並の耳にこだまする。しばらく頭がくらくらして、美並は壁に体をもたせかけて目を閉じていた。せめて、誰彼に当てた文章の一端でも拝めると信じていたのに。こんな結末があるだろうか。今まで張り詰めていた糸が突然弛むようにして、美並から再び生きる力が抜けてしまいそうだった。コンコン、とドアが鳴った。時彦が、どうぞ、と言うと歌子がお茶を持って入ってきた。その腹は膨らみ、美しき曲線を画いていた。
「美並ちゃん、座りなさいよ。顔色が良くないわ。ほら」
歌子は、美並の青くなった顔色を見て心配そうに椅子を差し出した。美並は促されるままにそこに腰掛け、淹れてくれた紅茶を飲んだ。カップが熱くて、危うく火傷しそうになる。歌子そっとレモンの薄切りを入れてくれた。
「ハルビンのカフェーではこうするんですってね」
レモンの香りがふわっと広がると、それに誘われるようにして、美並の目から涙がポロポロと流れ出した。領一が恋しくて、胸が千切れそうだった。いっそのこと自分も死のう。死んで、向こうの世界で会おう。手が震えて、カップを持てなくなった。体から、魂が抜けてしまいそうだった。もう、ここにいる理由もない。海にでも身を投げてしまおう。誰にも迷惑はかけまい。この身はフカか何かが喰らうことになるか、いずれにしろ魚がついばんで海の藻屑となり、消えていくだろう。――彼と同じように。美並はそのまま力なく、ふらりと立ち上がりかけた。
「美並ちゃん、死のうなんて思っちゃだめよ! 死んだら終わりよ!」
歌子が叫んだ。
「ねぇ、生きて。私のために生きてちょうだい」
美並の手を掴み、自分の腹に当てた。
「赤ちゃんが産まれるのよ、もうすぐ。うちは二人きりだから、あなたに助けて欲しいのよ。一緒にこの子を育てて下さい。日本も満州も、この先どうなるか分かったもんじゃないわ。あなたがいてくれないと困るわ。お願い、ここにいて」
そうか、あの手紙はこういうことだったのかと、心にストンと落ち着いた。歌子は美並を気遣って、あの、たった一文をよこしたのだ。二人はそのままその場に崩れ落ち、抱き合って声を上げて泣いた。
夜中、完太の悲鳴のような泣き声で目が覚めた。慌てて飛び起きて枕元へ駆け寄ると、歌子の体がひどい熱気を帯びていた。美並は急いで手拭いを水で濡らし歌子の額に乗せ、時彦を起こしに行き、医者を呼ぶように言った。完太を紐で背にくくりつける。興奮して泣き止まない。獣のようにうめく声が、断続的に口からもれてくる。
「歌子ちゃん、歌子ちゃん、今お医者を呼びに行ったからね」
しばらくして時彦が医者を連れて帰って来た。てきぱきと診察していたが、とても難しい顔をしていた。
「どうなんですか、先生」
時彦が心配そうに訊ねると、年老いた医者は渋るように答えた。
「こりゃ、二、三日が山ですな。覚悟しておいたほうがいい。親族は?満州にいるなら呼びなさい。内地に帰るのは無理だと思いなさい」
「なにか、なにか手を尽くす方法はないんでしょうか」
「残念だが、どうしようもありませんな。熱があるから、冷やしてやって下さい」
医者が帰り、小澤家は静寂に包まれた。蒸し暑いはずなのに、背筋が寒く、ゾクゾクとするようだ。完太は疲れきって眠り、時彦も美並も、一言も言葉を発することがなかった。どうするべきか、誰も分からなかった。ただ、スウスウと歌子の寝息が響いている。熱が少しだけ下がったようで、落ち着いていた。昼間の会話が思い出される。このまま本当に歌子が死んでしまったら、私はとうとう生きる理由を完全に失うことになる。歌子でなくて、私がこうなれば良かったのだ。時彦や完太が、母を喪うことなく生きて行けるのに。どうか私を身代わりにしてほしい、と美並は思った。
「み……なみ……」
細い声が聞こえたので、急いで耳を傾ける。
「……ごめん……ね」
「何を言ってるのよ、謝らないでよ。」
美並は無意識に布団を掴んだ。
「いき……て……かんた……を…おねがい……」
歌子は蚊の鳴くような声を振り絞る。目から一筋の涙が流れ落ちた。水も飲めず、汗も枯れ果てたような皮膚が一生懸命に呼吸しようとしている。
「ありが……とう……ね……。とき……ひこさ……ん……。みなみ……よろ……し……くね……。あい……し……て……」
うっすらと笑みを浮かべ、そのまま歌子は目を閉じ、再び眠りに就いた。時彦はその隣で泣き伏してしまいどうしようもなかったので、美並は完太を自分の隣で寝かせることにした。気になってなかなか眠ることができなかったけれど、夜明けごろにうつらうつらと意識が遠のいた。その間、少しだけ夢を見た。見たこともない景色で、まるで日本でも、満州でもない、遥か未来のような世界で、異人のような服装をした人々が行き交っている。美並は、歌子とテーブルを挟んで談笑している。歌子は言った。
「私はまた、この満州の地へ戻って来るわ。完太も一緒に。だから、何があっても心配しないで。美並ちゃん、きっと、あなたと領一さんをもう一度逢わせてあげるからね。忘れないでね。向日葵がたくさん咲いているこの店で、再会するのよ。その代わりに、時彦さんをよろしくね。不器用だけれど、きっとあなたを何より大切にしてくれるから。あと、ピアノを弾いていてね。ドビュッシーの月の光。あなたの大好きなこの曲が、きっとあなたたちを結んでくれるから」
歌子はにこっと笑った。
「感謝します。ありがとう。あなたみたいな友人と出会えて、本当に幸せだった」
美並は、何か言おうとするのに、言葉が声にならない。歌子は静かに首を横にふった。
「神様と約束したの。私の命と引き換えに、美並ちゃんと領一さんをもう一度巡り合わせることを。でも、期限があるのよ。期限を過ぎたら、全て叶わなくなるわ。だから、決して忘れないでね。……では、ありがとう。またいつか会いましょうね」
歌子は立ち上がり、世界の向こうへ消えていく。待って!行かないで!私の幸せなどいらないから、あなたは生きて、と叫ぶけれど、やっぱり声にならず、歌子には何も届かない。やがて闇の中へ消えてしまい、美並は茫然と、異世界で立ち止まるしかなかった。
目覚めると、夏の陽射しが寝床を照らしていた。鳥のさえずりが聞こえる。完太はまだ眠っている。ふと庭に目をやると、時彦が空を見上げたまま佇んでいた。美並はゆっくりと体を起こし、歌子と完太を起こさないように縁側へと移動した。
「時彦さん、おはようございます」
男の顔が光に照されて、痩けた頬の凹凸を露にしている。低い声で呻くような返事をした。
「ああ……」
この人も、苦労してきたのだなと思う。戦争から命からがら返り、商売を一から始め、満州へ渡って来た。やっと全てが軌道に乗り始めたところで、妻が患ってしまった。ただ酷い人だと思っていた。しかし、少しだけ、悪い人ではないような気もしてきた。
「歌子の様子を観てきます」
時彦は、頷きもしなかった。
そのまま、歌子が目を覚ますことはなかった。
八月六日、広島にピカドンという爆弾が落とされ、町が壊滅したと伝えられた。それがいったいどういうことなのか、はっきり解らなかったが、もうそこまで黒い闇が迫っていることは明らかだった。手紙をくれた渡邊範子のことが気にかかった。あの子は、内地へ引き揚げて、広島で暮らすと言っていたのだ。何とか無事でいてほしい……。
空襲警報に脅えながら、完太を守ることだけを考えて暮らした。歌子が死んでから、しばらく乳を探して泣く姿が辛くて堪らなかったが、幸い物を食べるようになる時期で助かった。必死だった。近所からは良からぬ噂話をされた。美並が歌子を殺して、小澤商事の後添えに納まった、ひどい女だと罵られる事も度々あった。確かにそうかもしれないと自分を責めることもあったけれど、しっかりしなければ赤ん坊を育てられないと自分を戒めた。時彦は、頼りになる人だった。歌子の葬式も、ささやかながら立派に取り仕切り、周りへの気遣いも忘れなかった。こういう所に彼女は惹かれたのかと、少し理解できた。美並が後ろ指指されると、事実は別のところにあるのだからと、励ましてもくれた。
いつソ連兵が攻めいってくるか分からない。美並も町の女たちと同じように、髪を刈り、顔に角を塗って男のような格好をした。いつか始まるだろう満州人や朝鮮人の暴動も恐ろしかった。敗戦色が濃くなるに連れて、彼らの目の色が変わってきた。近所の男たちは、根こそぎ動員で赤紙にひっぱられ、ソ連国境の最前線へ送られ、女子供や老人ばかりが残されていた。果たして、生き残ることができるだろうかと、不安ばかりが募る。恐ろしく、それに比例して日々じりじりと熱さが増して行く。
夜になると、美並は月を見上げた。この地で、この月を何度見上げただろう。数えても思い出せない。こんなに不安定な世の中を、どうしてそんなに穏やかな光で照らしているのかと、月に問う。答えはない。
「完太、お前は大人になれるかな」
この子を、何としてでも育て上げなくてはと、強く思う。どうかお月様。私達を見放さないで下さい。生涯をこの子供と、あの男に捧げます。どうか……
必死に願っても、その光は決して、明るくも、暗くもならなかった。美並は悲しくなり、灯火管制のため薄暗い部屋へと戻った。




